刃先に触れる恋 —君が短くなるたび、僕は惹かれていく—

S.H.L

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第1部

第10章:休日の街で、名前を呼ぶ声

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第10章:休日の街で、名前を呼ぶ声

1|休日の朝、“気分転換の服”を選ぶ理由

 土曜日の朝。
 澪はクローゼットの前で腕を組んでいた。

 (今日は……どんな服を着ようかな)

 これまでは
 “無難”“大人しめ”“落ち着いた色”
 そんな服ばかり選んでいた。

 でも、今日は違う。

 三日前、巴理髪店で泣いてしまった夜から、
 澪の中の何かが変わっていた。

 (黒いパンツに……短めのカーディガン……
  スポーツ刈りに合う、ラインの出る服がいいかも)

 鏡の前に立ち、
 首筋が見える服を合わせる。

 スポーツ刈りの剃り上がりが、
 服のシルエットを引き締めて見せた。

 (……こういうのも似合うんだ)

 胸が少し明るくなる。



2|街に出て、風と太陽に“肯定”される感覚

 外に出ると、
 春の風が短い側頭部をなでていく。

 スポーツ刈りの3mmの部分が
 ざわっと揺れる。

 (この感覚が……好き)

 スキンヘッドでもなく、
 ロングでもなく、
 ショートとも違う。

 “刈り上げた私”の世界。

 澪は商店街を歩きながら、
 無意識に笑っていた。



3|交差点で聞こえた声

 そして、
 交差点で信号待ちをしているときだった。

 「――澪?」

 心臓が跳ねた。

 振り向く。

 そこには、
 巴圭介 がいた。

 私服姿で。

 (……え)

 思考が一瞬で停止した。

 圭介は休日用の黒いシャツに、
 細身のカーキのパンツ。
 店で見るより少しラフなのに、
 どこかシャープで整っている。

 「あ……」

 声が漏れた。



4|“店の圭介”ではない彼が、そこにいた

 圭介は片手に紙袋を持っていた。
 仕事帰りの雰囲気ではない。
 完全に“オフ”の空気だ。

 「奇遇だな。出かけてた?」

 その言い方が自然で、
 いつもの圭介の落ち着きそのままだった。

 澪は、急に恥ずかしくなった。
 今朝選んだ服――
 “スポーツ刈りに合う服”を着ていることを
 圭介に見られるのが妙に意識される。

 「あ……はい。ちょっと買い物に」

 圭介は澪の髪を見て、
 ふっと優しく笑った。

 「仕上がってるな。
  三日前より、もっと似合ってる」

 (……もうダメ……)

 心臓が跳ねる。

 店の中で褒められるのとは、
 まったく違う。

 外で。
 私服同士で。
 ただの“男と女”として。



5|小さな沈黙が、ほんの少しだけ甘い

 信号が変わるまで、
 二人は横に並んで立った。

 人通りの音。
 商店街のざわめき。
 遠くで楽器の練習をする音。

 そんな喧騒の中で、
 澪の耳は圭介の声だけを拾ってしまう。

 圭介は澪の横顔を一度見て、
 言った。

 「顔色、良くなったな」

 「……そんなに、悪く見えてましたか?」

 「悪かったよ。
  あの日は特に」

 (三日前……泣いた日……)

 顔が熱くなる。

 「……すみません。
  店で泣いてしまって」

 圭介は、首を横に振った。

 「謝らなくていい。
  泣きたいときに泣けるのは、強い人間だ」

 澪は思わず目をそらす。

 なんでこんなにまっすぐ言うんだろう。
 店の時より、
 距離がほんの少し近い。



6|信号が青に変わっても、離れがたい時間

 カチ、という音で
 信号が青に変わる。

 本来なら、
 ここで「じゃあ」と別れる場面だ。

 でも圭介は、
 歩き出す澪に自然についてきた。

 「あっ、圭介さん……行く方向、大丈夫ですか?」

 「ああ。買い物ついでに歩くよ」

 その“ついで”が、
 本当なのかどうかはわからない。

 でも――

 澪は、
 ほんの少しだけ、嬉しかった。



7|カフェの前で足を止める

 商店街の角にあるカフェの前で、
 圭介が立ち止まった。

 「コーヒーでも飲んでいくか?」

 (え……)

 一瞬、頭が真っ白になる。

 店の外で。
 昼間に。
 私服で。
 理容師と客がふたりきりで。

 まるで――
 デートみたいで。

 澪の胸がまた跳ねた。

 「……いいんですか?」

 問いかけのつもりだったのに、
 声が少し震えていた。

 圭介は、肩をすくめて笑った。

 「行きたいと思ったから、声かけただけだよ」

 (この人は……どうしてこんなに自然なんだろう)



8|カフェの窓際、向かい合う席

 二人は、窓際の席に座った。

 店内の柔らかい光が、
 澪のスポーツ刈りをやさしく照らす。

 圭介はコーヒー、
 澪はカフェラテを頼んだ。

 飲み物が来るまでの間、
 圭介が尋ねた。

 「仕事、もう少し大変そうか?」

 「はい……でも……」

 「でも?」

 「この髪にすると、
  前より気が強くなった気がするんです。
  気のせいかもしれないですけど」

 圭介は少し笑った。

 「気のせいじゃないよ。
  髪型は人間の輪郭を変える。
  自分をどう扱うかで、
  世界の扱い方も変わる」

 (あ……)

 心に落ちる音がした。



9|圭介の“無意識の視線”に気づいてしまう

 店員がコーヒーを置いて去ったあと、
 会話が一瞬途切れた。

 そのとき、
 ふと顔を上げると――

 圭介は澪の“耳周りの刈り上げ”を見ていた。

 (……見てる)

 澪が見返すと、
 圭介はすぐに視線をそらした。

 「……前より綺麗に伸びてきてるなと思って」

 その言い訳が、
 少しだけ不器用で、
 胸に刺さった。



10|別れ際、ほんのわずかな“指先の距離”

 カフェを出ると、
 夕方の光が街を黄金色に染めていた。

 角を曲がるところで、
 圭介が言った。

 「澪」

 呼ばれて振り返る。

 圭介の手が、澪の頭に伸びた。

 触れる寸前。
 本当に“寸前”で止まった。

 その距離は、
 髪一本分より短かった。

 圭介は、指先を引っ込めながら言った。

 「……次来るときは、
  また短めで整えてやるよ」

 (触れないんだ……
  でも、触れそうだった)

 胸が、熱くなった。

 澪は小さく微笑んだ。

 「はい。お願いします」

 その返事は、
 まるでなにかの合図のようだった。
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