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髪を失った世界
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### 第1章:パンデミックの始まり
野々香(ののか)は、その日もいつものようにテレビのニュースを眺めていた。リビングの窓から射し込む午後の柔らかな日差しが、彼女の肩まで伸びた黒髪に反射して、わずかに光を帯びている。カーテンが風に揺れ、微かな外の空気が部屋に入り込む中で、ただひとつ変わらないのは、ニュースから流れてくる重苦しいアナウンサーの声だけだった。
「……全国で感染者数は急増し、ついに政府は緊急事態宣言を発令しました。これに伴い、新たな防疫対策として、国民総坊主宣言が発表されました。感染を防ぐため、すべての国民は髪を剃り落とし、坊主頭にする義務が課せられることになります……」
その言葉を聞いた瞬間、野々香の手が思わず止まった。持っていたリモコンを落とし、反射的に頭に触れる。自分の髪を確認するように、ゆっくりと指を滑らせながら、彼女は言葉を失った。
「坊主?みんな、坊主にしなきゃいけないって……」
信じられない。そのニュースが本当であることを脳が理解するまでに、しばらく時間がかかった。これまでも政府の発表には驚かされることが多かったが、まさか髪を剃らなければならない日が来るなんて、誰が予想しただろうか。
野々香はリビングのテーブルに肘をつき、もう一度自分の髪を見つめた。肩まで伸びた黒髪は、彼女にとってただの装飾品ではない。それは彼女のアイデンティティの一部であり、日々の手入れやスタイリングに込めた思いが詰まっていた。特に彼女の髪は、幼少期から大切にしてきたものであり、切ることなど考えられない存在だった。
「こんなの、冗談でしょ……?みんな本当に坊主になるの?」
半ば呆然としたまま、再びニュースに目を向けた。テレビ画面には、すでに坊主になった人々の映像が流れている。多くの男性たちはもちろん、女性も次々に髪を剃り始めていた。理容室の前に列を作り、順番にバリカンで髪を刈られていく人々。その表情には安堵や恐怖、戸惑いが混じり、どこか現実離れした光景に見えた。
「信じられない……なんでこんなことが起きてるの?」
野々香はスマートフォンを手に取り、SNSをチェックする。タイムラインには、「坊主にしました!」という投稿が次々に流れ、友人たちの笑顔や剃られた頭が映し出されている。「これで安心」「感染予防のためにみんなで頑張ろう」といったコメントが溢れていたが、野々香の心はそれを見ても軽くならなかった。
「どうしてこんなに簡単にみんな従ってるの?髪を剃ることがそんなに重要なことなの?」
焦燥感が彼女の胸を締め付ける。周りの人々が次々と決断を下す中で、野々香は孤立感を覚えていた。今まで何があっても、自分の髪を守り続けてきた。流行りのショートカットにする友人を横目に、彼女は常に自分のスタイルを大切にしてきた。長く伸ばし続けることに意味を感じていたし、それが彼女自身を象徴するものだった。
「私にとって、髪はただの髪じゃない……」
野々香は手でそっと髪を撫で、目を閉じる。幼い頃、母親が髪を結んでくれたことを思い出した。髪を梳く感触、風になびく時の軽さ、そして鏡に映る自分の姿――すべてが、彼女にとっては大切な記憶と結びついていた。
だが、今、その全てを手放さなければならないのかという現実が、重くのしかかってくる。
「みんなが坊主になれば、私も坊主にならなきゃいけないの?いや、そんなの絶対に嫌……!」
野々香は心の中で強く抵抗した。だが、同時に、自分だけがこの状況に逆らうことの難しさを感じていた。社会全体が一つの方向に進んでいる中で、自分だけが逆らい続けることは、容易ではない。周りの目、家族や職場の反応、そして感染への恐怖。全てが彼女に坊主になることを強要しているように思えた。
「でも……私は私の髪を守りたい。何があっても。」
彼女はそう決意したものの、その決断がこれからの人生にどれほどの影響を与えるのか、まだ知る由もなかった。
ニュースの映像は、政府の公式会見に切り替わり、坊主政策を支持する声がますます強まっていく。
「これからどうなるんだろう……?」
野々香はその場に立ち尽くし、外の世界から閉ざされたような静けさの中で、自分の心と葛藤を続けた。
### 第2章:周囲の変化
野々香は会社に着くと、いつもと違う雰囲気に気づいた。オフィスの空気がどこか冷たく感じられ、会話も少なく、みんなが同じ方向に流されているように見える。普段は活気に溢れた職場が、今や恐怖と疑念の空気で満たされているのだ。
彼女は自分のデスクに向かい、他の社員たちの様子を横目でうかがった。男性社員はすでに全員坊主になっており、無表情で仕事をしている。女性たちの中には、すでに髪を剃り落とした者もいれば、まだ迷いが残る者もいた。しかし、そんな彼女たちも次第に坊主にする決断を迫られているのが明らかだった。
「野々香さん、まだ坊主にしてないの?」
突然、隣のデスクに座る同僚の綾子が声をかけてきた。綾子はすでに髪を剃り、つるりとした頭を堂々と見せている。彼女の顔はいつも通り明るいが、その笑顔の裏には、どこか押し殺された感情が見え隠れしていた。
「うん、まだ……」
野々香は曖昧に返事をした。自分の意思が揺れていることを悟られたくなかったのだ。
「みんな、もう坊主にしてるわよ。早くしないと、変な目で見られるわよ?」
綾子は軽く笑ってみせたが、その言葉は野々香の胸に鋭く刺さる。彼女はわかっていた。周囲の目がどんどん自分に向かっていること、坊主になっていないというだけで疎外され始めていることを。
「大丈夫だよ。私は……まだ考えてるだけ。」
無理に微笑んでみせる野々香。しかしその微笑みは、綾子の前では通じなかった。
「そう……でも、みんなも最初は抵抗してたけど、結局やらざるを得ないのよね。感染のリスクを考えたら、坊主にするしかないんだから。」
その言葉が野々香の心に重く響く。どこかで理解している。自分が最後の一人になれば、さらに強いプレッシャーを感じることになるのは明白だ。だが、今はまだ、その一歩を踏み出すことができなかった。
その時、オフィスの一角で大きな声が響いた。
「お願いだから……もう少し考えさせて!」
声の主は、まだ坊主にしていない数少ない女性社員の一人、恵(めぐみ)だった。彼女はパニックに陥ったように涙を浮かべ、数人の上司や同僚たちに囲まれていた。
「恵さん、もうそんなこと言ってられないわよ。」
「これ以上逆らったら、罰金だって課されるんだから!政府の決定なんだから、仕方ないじゃない!」
彼女を説得しようとする声が次々と飛び交う。
「でも……でも、どうして私たちが坊主にならなきゃいけないの?本当にこれが必要なの?」
恵の声は震えていた。彼女は肩まで伸びた美しい髪を両手で必死に押さえつけ、守るようにしていた。その姿が痛々しく、野々香の心に重くのしかかる。自分も同じ立場ならどうするだろう、と考えずにはいられなかった。
「必要だからこそ、みんながやってるのよ。私だって最初は嫌だったわ。でも、感染したくないでしょ?大切なのは健康よ。髪のことなんて、一時的なものじゃない!」
上司の一人が冷静に、だが強い口調で言った。彼の言葉には一理あるのだろう。だが、恵にとっては、それでも大きな障害だった。髪を失うということは、単に外見が変わるだけではなく、自分自身の一部を奪われるような感覚だったのだ。
「お願い、やめて……まだ、心の準備が……」
泣き崩れる恵を見た野々香は、思わず目を背けたくなった。だが、彼女はその場に立ち尽くし、動けなかった。
その瞬間、理容師が呼ばれ、職場の会議室に椅子とバリカンが準備された。恵は抵抗しようとしたが、周りの説得に押し切られ、やがて椅子に座らされた。バリカンの音が静かに鳴り響く中、彼女の涙は止まらなかった。
「どうして……どうしてこんなことに……」
恵の声はかすれ、髪が次々と削がれていく音が部屋に響く。バリカンが彼女の頭皮に触れるたび、恵は身体を小さく震わせ、唇を噛んで耐えていた。長い髪が次々に床に落ち、部屋の中には緊張と悲しみが交錯していた。
「これで、もう大丈夫だから……」
バリカンを握る理容師が静かに言う。恵の頭は完全に剃り落とされ、つるつるの坊主頭が露わになった。
恵はぼんやりと鏡を見つめ、剃り落とされた自分の姿を見て、再び涙をこぼした。
「これが……私の姿なんて……」
野々香はその様子を見ながら、自分の心臓が早鐘のように鳴り響いているのを感じた。恵の姿は、まるで自分の未来を映し出しているようだった。そして、自分もいずれは同じ運命を辿るのではないかという恐怖が、彼女の心を覆っていく。
その日の午後、職場は再び静けさを取り戻したが、野々香の中では決して静まることのない葛藤が渦巻いていた。
### 第3章:決断の時
その週末、野々香は自分の部屋で静かに過ごしていた。窓の外から差し込む秋の柔らかな陽光がカーテン越しに揺れ、部屋の空気にかすかに冷たい風が流れ込んでくる。だが、彼女の心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
オフィスでの恵の涙が、いまだに頭から離れない。坊主にされる彼女の姿、抵抗しながらも押し切られるその様子が、まるで悪夢のように野々香の脳裏に焼き付いていた。自分もいずれは同じ運命を辿るのではないかという恐怖が、じわじわと彼女を追い詰めていた。
テレビをつけると、ニュースでは政府の「坊主義務化」法案が成立したことが報じられていた。男性も女性も関係なく、髪の長さを規制し、違反者には罰金や公共の場で強制的に坊主にする罰則が設けられるという内容だった。
「ついに、義務になっちゃった……」
野々香は呆然と画面を見つめながら、深いため息をついた。政府は本気だった。そして、今や坊主にしないことは、単なる個人の選択ではなく、社会に逆らう行為となっていた。
部屋の隅に置かれた鏡が彼女の視界に入る。肩まである美しい黒髪が光を受けてわずかに輝いていた。野々香はその鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。
「この髪を、剃るの……?」
彼女はそっと手で髪を撫でた。幼い頃から大切にしてきた髪だった。学校時代、友達に褒められることも多かったし、何度も自分のスタイルとして守ってきたものだ。そんな髪を、自分の意志ではなく、他人の決定によって失うというのは、耐えがたい屈辱だった。
「私の髪が、私の人生なのに……」
その瞬間、スマートフォンが鳴り響いた。画面に表示されたのは母親の名前だった。野々香は一瞬躊躇したが、深呼吸をして電話に出た。
「野々香、元気?」
母の穏やかな声が耳に届く。しかし、すぐにその声は不安と焦りを帯びたものに変わった。「あのニュース、見た?あなた、まだ坊主にしてないんでしょ?」
「うん……まだ。」
野々香は短く答えた。
「どうして?もう義務なんだから、早くしなさいよ。捕まる前に坊主にした方がいいわ。私もそろそろ行こうと思ってるの。」
「お母さん……どうしてそんなに簡単に従うの?」
彼女は思わず声を荒げてしまった。「これはおかしいよ!どうして髪を剃らなきゃいけないの?そんなの、何の意味もないじゃない!」
「意味があるかどうかは問題じゃないわ。これは決まったことなのよ、野々香。周りを見てごらんなさい。みんなやってるのよ。今は私たち一人ひとりが協力しなきゃいけないの。あなたもわかってるでしょ?」
母親の言葉は、野々香にとって重く響いた。協力しなきゃいけない――その言葉が何度も頭の中で繰り返された。確かに、今の状況は一人で逆らえるものではない。自分が坊主にしなければ、ますます孤立していくことはわかっていた。
「でも、私は……私は自分の髪を失いたくない。こんな形で、髪を手放したくないの……」
野々香の声はかすれていた。胸の奥から湧き上がる葛藤が、言葉に詰まらせた。母親はしばらく黙った後、優しい声で言った。
「野々香、髪はまた伸びるわ。でも健康や命は取り戻せないのよ。あなたが坊主になっても、変わらないものはたくさんあるわ。」
その言葉に、野々香は少しだけ心が揺れた。確かに、髪はまた生えてくる。しかし、今この瞬間の彼女にとって、髪を失うことは自分を失うような感覚だった。切ってしまえば、それまでの自分が無かったことにされる気がしてならなかった。
電話を切った後、野々香は再び鏡の前に立った。自分の姿を見つめながら、心の中で何度も問いかけた。
「本当に、これが必要なの?本当に坊主にならなきゃいけないの?」
その時、玄関のインターホンが鳴った。野々香はゆっくりと立ち上がり、玄関に向かった。ドアを開けると、そこには会社の同僚たちが立っていた。綾子を含めた数人の女性たちが、坊主になった頭を堂々と晒し、野々香に微笑んでいる。
「野々香、どうしてまだ坊主にしないの?」
綾子が言った。彼女の目には、どこか優しさと強制が同時に宿っているように見えた。
「みんなもうやってるし、感染が怖いじゃない。野々香だけ取り残されるのは嫌でしょ?」
周囲からの圧力を感じた野々香は、無言で彼女たちを見つめた。彼女たちは自分のために来たのだろう。しかし、その優しさが逆に、彼女にとっては苦痛だった。
「どうしたの?一緒に坊主にして、もうこれで終わりにしようよ。」
綾子はそう言いながら、野々香の肩に手を置いた。その瞬間、彼女の中で何かが崩れた。
「わかった……私もやる。」
野々香はついにそう答えた。
### 第4章:嘘と逃避
野々香は、心の中で混乱と葛藤が渦巻く中、綾子の視線を受け止めていた。会社の同僚たちが自分を見つめ、期待と少しの不安を込めているのがわかる。彼女たちは野々香がついに決断する瞬間を待っていた。
「野々香、どうする?」
綾子がもう一度問いかけた。その声は優しいが、同時に、決断を迫るような圧力が感じられた。
野々香は一瞬、言葉を詰まらせた。彼女の頭の中には、「坊主になるべきか?」という問いが何度も響いている。自分がこの状況にどう立ち向かうのか、まだ答えが出せていないのだ。しかし、ここで答えを出さなければ、もっと深刻な事態を招くのは目に見えていた。
「わかった……私も坊主にする。明日、自分で髪を剃るよ。」
野々香は、冷静を装いながらそう告げた。
一瞬、部屋の空気が和らいだ。綾子たちはほっとした表情を見せ、笑顔で野々香に頷いた。彼女たちは自分の説得が成功したと思っていたのだろう。
「そう、よかった!明日やるなら安心だね。私たち、応援してるから。」
綾子が肩に軽く手を置き、笑顔を見せた。その姿に、野々香は一瞬だけ胸が痛んだ。嘘をついた罪悪感が、胸の奥にわずかに芽生えたからだ。
「ありがとう……でも大丈夫、明日自分でやるから。」
野々香はさらに自分に言い聞かせるように言った。綾子たちはその言葉を信じ、その場を去っていった。玄関が閉まる音が静かに響いた瞬間、野々香は深くため息をついた。
彼女は嘘をついてその場をしのいだが、胸の中に不安が押し寄せてくる。綾子たちに嘘をついたことが苦しい。だが、それ以上に、髪を失うことへの恐怖が彼女を支配していた。明日自分で髪を剃ると言ったが、実際にはその決断をする気は全くなかった。
「本当に坊主にするなんて……できるわけない。」
彼女は再び鏡の前に立った。肩まで伸びた美しい黒髪が、柔らかく光を反射している。その髪を自分で剃ることを想像するだけで、全身が震えた。バリカンを持ち、冷たい刃が頭皮をなぞる感覚を考えると、どうしても耐えられなかった。
「こんな髪を失うなんて……私は私じゃなくなってしまう……」
野々香は鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。剃り落とされる前の自分の姿を、これが最後かもしれないという思いで焼き付けるように。彼女は自分の髪を守るために、どうすればいいのかを考えていたが、答えは見つからなかった。
その夜、彼女はなかなか眠れず、ベッドの中で何度も寝返りを打った。周囲の圧力と自分の意思の間で引き裂かれるような感覚が、彼女の心を不安定にしていた。
「どうしてこんなに追い詰められてるんだろう……」
野々香は天井を見上げながら、静かに呟いた。答えは見つからないまま、時間だけが過ぎていく。
翌朝、野々香はぼんやりと目を覚ました。外は快晴で、まるで何事もなかったかのような穏やかな日差しが差し込んでいた。彼女は昨日の約束を思い出し、急に胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「今日、私は……髪を剃るんだった……」
だが、彼女は立ち上がり、髪を剃ることはしなかった。バリカンに手を伸ばすこともなく、ただそのままの自分でいようと決めたのだ。野々香は自分の意思に従い、髪を守ることを選んだ。それがどれほどの代償を伴うか、彼女は覚悟していた。
その午後、野々香が外出しようと玄関を出た瞬間、突然警官に囲まれた。彼らは冷静だが確実な手つきで彼女に近づき、話しかけた。
「野々香さんですね?あなたは昨日、髪を剃ると約束しましたが、まだ坊主になっていないことが確認されました。法令違反です。」
彼女の心臓が一瞬止まったように感じた。逃げられない。もう、この状況から逃れる術はなかった。
「ま、待って……私は……ただ……」
言葉が詰まり、何も言えなくなった。彼女は自分が何をすべきか分かっていたが、もう時間は残されていなかった。
「すみませんが、強制的に髪を剃らせていただきます。」
警官たちは淡々とした口調でそう言い、彼女を連行し始めた。野々香は抵抗する気力もなく、ただ静かにその場を従った。
### 第5章:失われた髪
留置場の冷たい床に響く足音。野々香はその音が遠く、そして次第に近づいてくるのを感じた。無機質な白い壁に囲まれた狭い部屋の中で、彼女は無力感に包まれていた。手首には手錠はついていないが、その状況はまるで身体全体が拘束されているかのようだった。窓の外からは薄暗い光が差し込み、まるで彼女の心情を映し出しているかのように鈍く輝いていた。
目の前には、冷たく光るバリカンが置かれた。重苦しい静寂の中、その音がこれから響き渡ることを野々香は理解していた。
「野々香さん、準備ができました。こちらへどうぞ。」
警官の声が無感情に響く。彼女は、動きたくないという心の奥底からの叫びを感じながらも、無言のまま立ち上がり、椅子へと誘導された。重々しい空気が全身にまとわりつき、足取りは重かった。鏡の前に座ると、目の前には自分の姿が映っている。そこにあるのは、まだ肩まで伸びた黒髪を持つ自分だ。
「これが最後の瞬間なんだ……」
心の中でそうつぶやく。もう逃れられないことを、彼女は痛感していた。ずっと守り続けた髪、それが今から無情にも剃り落とされる。自分の意志ではなく、強制的に。
「始めますね。」
バリカンを持った理容師が、野々香に声をかけた。彼女は無言のまま頷いた。言葉を発する余裕などなかった。心の中で叫びたかったが、その叫びは喉の奥に詰まって出てこない。まるで声を失ったかのようだった。
バリカンのスイッチが入れられると、低い音が部屋の中に響いた。刃の音が近づくたびに、野々香は身体が強張るのを感じた。恐怖が彼女の全身を包み込み、冷たい汗が額にじわりと浮かんできた。
「やっぱり、やめて……」
一瞬、そう言いかけたが、その言葉は空気の中に溶けていった。もう後戻りはできない。理容師がゆっくりと彼女の髪にバリカンを当てた瞬間、冷たい刃が頭皮に触れる感触がした。
「これが、坊主になる感覚なんだ……」
バリカンが頭皮に沿って動くたび、髪が次々と剃られていく。刈り取られた黒髪が無情にも床に落ち、次第に散らばっていく光景が、彼女の視界の端でぼやけて見えた。野々香はじっと前を見つめていたが、心の中では言葉にできない感情が渦巻いていた。
「これで、私は……私じゃなくなるの?」
刃が頭皮を撫でるたびに、自分の一部が失われていくような感覚が彼女を襲った。髪は単なる外見の一部でしかないと何度も自分に言い聞かせたが、そう簡単に割り切れるものではなかった。髪は彼女のアイデンティティであり、誇りであり、過去の思い出の全てが詰まっていた。それが今、無慈悲に刈り取られている。
「どうしてこんなことに……どうして髪を失わなきゃいけないの……」
彼女は耐えきれず、目を閉じた。涙が自然と溢れ出してきたが、誰もその涙を止めることはできなかった。涙は静かに頬を伝い、床に落ちていった。理容師は何も言わず、ただ淡々とバリカンを動かし続ける。
時間が経つにつれて、髪はすっかりなくなり、頭皮が露わになった。冷たい空気が直接頭に触れる感覚が、彼女に現実を突きつけた。もう後戻りはできない。
「終わりました。」
理容師がそう告げると、野々香はゆっくりと目を開けた。目の前の鏡には、今までの自分とは全く異なる姿が映っていた。そこには、つるりとした坊主頭の自分がいた。まるで別人のように感じられた。
「これが……私なの?」
自分の頭をそっと触ってみた。滑らかな頭皮が指先に触れるたび、心の中で何かが崩れていくような感覚があった。これまでの自分の髪、これまでの自分の姿は、もうどこにもない。失ったものの大きさが、彼女の胸に深く突き刺さった。
「髪なんて、また生えてくる……そう思わなきゃ……」
野々香は自分にそう言い聞かせたが、その言葉は虚しく響くだけだった。失ったのは髪だけではない。彼女の心には、深い傷が残った。それは髪が生えても癒えることのない、見えない傷だった。
彼女は静かに椅子から立ち上がり、留置場の外へと歩き出した。外の光はまぶしく、そして現実を突きつけるかのように厳しかった。新しい自分の姿で、これからの世界に向き合わなければならない。
だが、彼女の心はまだ、その現実を受け入れる準備ができていなかった。
### エピローグ:終わらない痛み
それから3ヶ月が過ぎた。野々香は、あの留置場で坊主にされた日々を思い出すたびに、心の奥に鈍い痛みを感じていた。毎朝、鏡に映る自分の姿を見るたびに、未だにその違和感を拭えないでいた。以前の自分とは全く違う姿。短く伸び始めた髪はまだ彼女の昔の姿に程遠いものであり、その変化にどうしても馴染めないままだった。
「これが、私なんだよね……」
彼女は何度も自分にそう言い聞かせるが、その言葉はどこか空虚に響いていた。自分の心は、髪が少しずつ戻りつつある今でも、まだ完全に癒えることはなかった。街を歩くたび、誰かの視線を感じると、自分が「坊主にされた人」というレッテルを貼られているような気がしてならない。
その日も、野々香は仕事から帰宅し、郵便受けを確認していた。いつものように請求書や広告の中に混じって、一枚の白い封筒が目に入った。表には、裁判所からの文字が大きく記載されていた。
「……これが、あの件の審判書か。」
彼女はその封筒を見つめながら、深く息を吐き出した。坊主にされただけではなく、罰金も課されると聞いていた。しかし、その時はあまりにも衝撃的な出来事が多すぎて、罰金のことは一瞬、頭の中から消えていた。
リビングに戻り、静かに封を開けると、審判書の中にはシンプルに罰金の額が記載されていた。
「……1000円?」
野々香は一瞬、自分の目を疑った。再びその紙を見つめ、確かめたが、金額は確かに「1000円」と書かれていた。
「嘘……これだけ?」
彼女は呆然とした表情で、その書面をテーブルに置いた。罰金という言葉に恐怖を感じていたが、その額は彼女の想像を遥かに下回っていた。1000円。それだけで、自分の髪と誇りが奪われたのかと考えると、虚しさが一気に押し寄せてきた。
野々香はしばらく無言のまま椅子に座っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「1000円カットで、坊主にされたようなもんじゃない……」
その言葉は、自嘲的な笑いと共に口から漏れた。1000円――それは美容院で格安カットを受ける程度の金額だ。だが、実際に彼女が経験したのは、金額では測れないほどの精神的な痛みだった。髪が剃られると同時に、彼女の一部が切り取られたように感じたあの瞬間。その苦しみがたった1000円で片付けられてしまうことに、言いようのない虚無感を覚えた。
「髪を失うって……こんな簡単なことじゃなかったのに……」
彼女はふと、自分の手で短くなった髪を撫でた。その感触は以前と全く違うものだが、それでも少しずつ自分を取り戻そうとしている気がした。
1000円という安価な罰金。それを支払って終わりにするのは、確かに簡単かもしれない。しかし、その代償は、彼女にとってもっと深い意味を持っていた。
「まあ……終わったんだよね、これで。」
野々香は深いため息をつき、審判書をテーブルに置いた。1000円の罰金を支払うことで、法的にはすべてが解決したかもしれない。しかし、彼女の心にはまだ、完全には解決できない何かが残っていることを、野々香は感じていた。
外の夕暮れの光が部屋に差し込み、彼女の髪を薄く照らしていた。短くなった髪が、また少しずつ伸びていく。それが元に戻る頃には、彼女の心も少しは癒えているのだろうか。
「髪なんてまた生える……でも、心はそう簡単には戻らないよね。」
野々香はそう呟きながら、静かに自分を受け入れるための新しい一歩を踏み出そうとしていた。それが、髪だけでなく、失った自分を取り戻すための道でもあると信じて。
野々香(ののか)は、その日もいつものようにテレビのニュースを眺めていた。リビングの窓から射し込む午後の柔らかな日差しが、彼女の肩まで伸びた黒髪に反射して、わずかに光を帯びている。カーテンが風に揺れ、微かな外の空気が部屋に入り込む中で、ただひとつ変わらないのは、ニュースから流れてくる重苦しいアナウンサーの声だけだった。
「……全国で感染者数は急増し、ついに政府は緊急事態宣言を発令しました。これに伴い、新たな防疫対策として、国民総坊主宣言が発表されました。感染を防ぐため、すべての国民は髪を剃り落とし、坊主頭にする義務が課せられることになります……」
その言葉を聞いた瞬間、野々香の手が思わず止まった。持っていたリモコンを落とし、反射的に頭に触れる。自分の髪を確認するように、ゆっくりと指を滑らせながら、彼女は言葉を失った。
「坊主?みんな、坊主にしなきゃいけないって……」
信じられない。そのニュースが本当であることを脳が理解するまでに、しばらく時間がかかった。これまでも政府の発表には驚かされることが多かったが、まさか髪を剃らなければならない日が来るなんて、誰が予想しただろうか。
野々香はリビングのテーブルに肘をつき、もう一度自分の髪を見つめた。肩まで伸びた黒髪は、彼女にとってただの装飾品ではない。それは彼女のアイデンティティの一部であり、日々の手入れやスタイリングに込めた思いが詰まっていた。特に彼女の髪は、幼少期から大切にしてきたものであり、切ることなど考えられない存在だった。
「こんなの、冗談でしょ……?みんな本当に坊主になるの?」
半ば呆然としたまま、再びニュースに目を向けた。テレビ画面には、すでに坊主になった人々の映像が流れている。多くの男性たちはもちろん、女性も次々に髪を剃り始めていた。理容室の前に列を作り、順番にバリカンで髪を刈られていく人々。その表情には安堵や恐怖、戸惑いが混じり、どこか現実離れした光景に見えた。
「信じられない……なんでこんなことが起きてるの?」
野々香はスマートフォンを手に取り、SNSをチェックする。タイムラインには、「坊主にしました!」という投稿が次々に流れ、友人たちの笑顔や剃られた頭が映し出されている。「これで安心」「感染予防のためにみんなで頑張ろう」といったコメントが溢れていたが、野々香の心はそれを見ても軽くならなかった。
「どうしてこんなに簡単にみんな従ってるの?髪を剃ることがそんなに重要なことなの?」
焦燥感が彼女の胸を締め付ける。周りの人々が次々と決断を下す中で、野々香は孤立感を覚えていた。今まで何があっても、自分の髪を守り続けてきた。流行りのショートカットにする友人を横目に、彼女は常に自分のスタイルを大切にしてきた。長く伸ばし続けることに意味を感じていたし、それが彼女自身を象徴するものだった。
「私にとって、髪はただの髪じゃない……」
野々香は手でそっと髪を撫で、目を閉じる。幼い頃、母親が髪を結んでくれたことを思い出した。髪を梳く感触、風になびく時の軽さ、そして鏡に映る自分の姿――すべてが、彼女にとっては大切な記憶と結びついていた。
だが、今、その全てを手放さなければならないのかという現実が、重くのしかかってくる。
「みんなが坊主になれば、私も坊主にならなきゃいけないの?いや、そんなの絶対に嫌……!」
野々香は心の中で強く抵抗した。だが、同時に、自分だけがこの状況に逆らうことの難しさを感じていた。社会全体が一つの方向に進んでいる中で、自分だけが逆らい続けることは、容易ではない。周りの目、家族や職場の反応、そして感染への恐怖。全てが彼女に坊主になることを強要しているように思えた。
「でも……私は私の髪を守りたい。何があっても。」
彼女はそう決意したものの、その決断がこれからの人生にどれほどの影響を与えるのか、まだ知る由もなかった。
ニュースの映像は、政府の公式会見に切り替わり、坊主政策を支持する声がますます強まっていく。
「これからどうなるんだろう……?」
野々香はその場に立ち尽くし、外の世界から閉ざされたような静けさの中で、自分の心と葛藤を続けた。
### 第2章:周囲の変化
野々香は会社に着くと、いつもと違う雰囲気に気づいた。オフィスの空気がどこか冷たく感じられ、会話も少なく、みんなが同じ方向に流されているように見える。普段は活気に溢れた職場が、今や恐怖と疑念の空気で満たされているのだ。
彼女は自分のデスクに向かい、他の社員たちの様子を横目でうかがった。男性社員はすでに全員坊主になっており、無表情で仕事をしている。女性たちの中には、すでに髪を剃り落とした者もいれば、まだ迷いが残る者もいた。しかし、そんな彼女たちも次第に坊主にする決断を迫られているのが明らかだった。
「野々香さん、まだ坊主にしてないの?」
突然、隣のデスクに座る同僚の綾子が声をかけてきた。綾子はすでに髪を剃り、つるりとした頭を堂々と見せている。彼女の顔はいつも通り明るいが、その笑顔の裏には、どこか押し殺された感情が見え隠れしていた。
「うん、まだ……」
野々香は曖昧に返事をした。自分の意思が揺れていることを悟られたくなかったのだ。
「みんな、もう坊主にしてるわよ。早くしないと、変な目で見られるわよ?」
綾子は軽く笑ってみせたが、その言葉は野々香の胸に鋭く刺さる。彼女はわかっていた。周囲の目がどんどん自分に向かっていること、坊主になっていないというだけで疎外され始めていることを。
「大丈夫だよ。私は……まだ考えてるだけ。」
無理に微笑んでみせる野々香。しかしその微笑みは、綾子の前では通じなかった。
「そう……でも、みんなも最初は抵抗してたけど、結局やらざるを得ないのよね。感染のリスクを考えたら、坊主にするしかないんだから。」
その言葉が野々香の心に重く響く。どこかで理解している。自分が最後の一人になれば、さらに強いプレッシャーを感じることになるのは明白だ。だが、今はまだ、その一歩を踏み出すことができなかった。
その時、オフィスの一角で大きな声が響いた。
「お願いだから……もう少し考えさせて!」
声の主は、まだ坊主にしていない数少ない女性社員の一人、恵(めぐみ)だった。彼女はパニックに陥ったように涙を浮かべ、数人の上司や同僚たちに囲まれていた。
「恵さん、もうそんなこと言ってられないわよ。」
「これ以上逆らったら、罰金だって課されるんだから!政府の決定なんだから、仕方ないじゃない!」
彼女を説得しようとする声が次々と飛び交う。
「でも……でも、どうして私たちが坊主にならなきゃいけないの?本当にこれが必要なの?」
恵の声は震えていた。彼女は肩まで伸びた美しい髪を両手で必死に押さえつけ、守るようにしていた。その姿が痛々しく、野々香の心に重くのしかかる。自分も同じ立場ならどうするだろう、と考えずにはいられなかった。
「必要だからこそ、みんながやってるのよ。私だって最初は嫌だったわ。でも、感染したくないでしょ?大切なのは健康よ。髪のことなんて、一時的なものじゃない!」
上司の一人が冷静に、だが強い口調で言った。彼の言葉には一理あるのだろう。だが、恵にとっては、それでも大きな障害だった。髪を失うということは、単に外見が変わるだけではなく、自分自身の一部を奪われるような感覚だったのだ。
「お願い、やめて……まだ、心の準備が……」
泣き崩れる恵を見た野々香は、思わず目を背けたくなった。だが、彼女はその場に立ち尽くし、動けなかった。
その瞬間、理容師が呼ばれ、職場の会議室に椅子とバリカンが準備された。恵は抵抗しようとしたが、周りの説得に押し切られ、やがて椅子に座らされた。バリカンの音が静かに鳴り響く中、彼女の涙は止まらなかった。
「どうして……どうしてこんなことに……」
恵の声はかすれ、髪が次々と削がれていく音が部屋に響く。バリカンが彼女の頭皮に触れるたび、恵は身体を小さく震わせ、唇を噛んで耐えていた。長い髪が次々に床に落ち、部屋の中には緊張と悲しみが交錯していた。
「これで、もう大丈夫だから……」
バリカンを握る理容師が静かに言う。恵の頭は完全に剃り落とされ、つるつるの坊主頭が露わになった。
恵はぼんやりと鏡を見つめ、剃り落とされた自分の姿を見て、再び涙をこぼした。
「これが……私の姿なんて……」
野々香はその様子を見ながら、自分の心臓が早鐘のように鳴り響いているのを感じた。恵の姿は、まるで自分の未来を映し出しているようだった。そして、自分もいずれは同じ運命を辿るのではないかという恐怖が、彼女の心を覆っていく。
その日の午後、職場は再び静けさを取り戻したが、野々香の中では決して静まることのない葛藤が渦巻いていた。
### 第3章:決断の時
その週末、野々香は自分の部屋で静かに過ごしていた。窓の外から差し込む秋の柔らかな陽光がカーテン越しに揺れ、部屋の空気にかすかに冷たい風が流れ込んでくる。だが、彼女の心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
オフィスでの恵の涙が、いまだに頭から離れない。坊主にされる彼女の姿、抵抗しながらも押し切られるその様子が、まるで悪夢のように野々香の脳裏に焼き付いていた。自分もいずれは同じ運命を辿るのではないかという恐怖が、じわじわと彼女を追い詰めていた。
テレビをつけると、ニュースでは政府の「坊主義務化」法案が成立したことが報じられていた。男性も女性も関係なく、髪の長さを規制し、違反者には罰金や公共の場で強制的に坊主にする罰則が設けられるという内容だった。
「ついに、義務になっちゃった……」
野々香は呆然と画面を見つめながら、深いため息をついた。政府は本気だった。そして、今や坊主にしないことは、単なる個人の選択ではなく、社会に逆らう行為となっていた。
部屋の隅に置かれた鏡が彼女の視界に入る。肩まである美しい黒髪が光を受けてわずかに輝いていた。野々香はその鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。
「この髪を、剃るの……?」
彼女はそっと手で髪を撫でた。幼い頃から大切にしてきた髪だった。学校時代、友達に褒められることも多かったし、何度も自分のスタイルとして守ってきたものだ。そんな髪を、自分の意志ではなく、他人の決定によって失うというのは、耐えがたい屈辱だった。
「私の髪が、私の人生なのに……」
その瞬間、スマートフォンが鳴り響いた。画面に表示されたのは母親の名前だった。野々香は一瞬躊躇したが、深呼吸をして電話に出た。
「野々香、元気?」
母の穏やかな声が耳に届く。しかし、すぐにその声は不安と焦りを帯びたものに変わった。「あのニュース、見た?あなた、まだ坊主にしてないんでしょ?」
「うん……まだ。」
野々香は短く答えた。
「どうして?もう義務なんだから、早くしなさいよ。捕まる前に坊主にした方がいいわ。私もそろそろ行こうと思ってるの。」
「お母さん……どうしてそんなに簡単に従うの?」
彼女は思わず声を荒げてしまった。「これはおかしいよ!どうして髪を剃らなきゃいけないの?そんなの、何の意味もないじゃない!」
「意味があるかどうかは問題じゃないわ。これは決まったことなのよ、野々香。周りを見てごらんなさい。みんなやってるのよ。今は私たち一人ひとりが協力しなきゃいけないの。あなたもわかってるでしょ?」
母親の言葉は、野々香にとって重く響いた。協力しなきゃいけない――その言葉が何度も頭の中で繰り返された。確かに、今の状況は一人で逆らえるものではない。自分が坊主にしなければ、ますます孤立していくことはわかっていた。
「でも、私は……私は自分の髪を失いたくない。こんな形で、髪を手放したくないの……」
野々香の声はかすれていた。胸の奥から湧き上がる葛藤が、言葉に詰まらせた。母親はしばらく黙った後、優しい声で言った。
「野々香、髪はまた伸びるわ。でも健康や命は取り戻せないのよ。あなたが坊主になっても、変わらないものはたくさんあるわ。」
その言葉に、野々香は少しだけ心が揺れた。確かに、髪はまた生えてくる。しかし、今この瞬間の彼女にとって、髪を失うことは自分を失うような感覚だった。切ってしまえば、それまでの自分が無かったことにされる気がしてならなかった。
電話を切った後、野々香は再び鏡の前に立った。自分の姿を見つめながら、心の中で何度も問いかけた。
「本当に、これが必要なの?本当に坊主にならなきゃいけないの?」
その時、玄関のインターホンが鳴った。野々香はゆっくりと立ち上がり、玄関に向かった。ドアを開けると、そこには会社の同僚たちが立っていた。綾子を含めた数人の女性たちが、坊主になった頭を堂々と晒し、野々香に微笑んでいる。
「野々香、どうしてまだ坊主にしないの?」
綾子が言った。彼女の目には、どこか優しさと強制が同時に宿っているように見えた。
「みんなもうやってるし、感染が怖いじゃない。野々香だけ取り残されるのは嫌でしょ?」
周囲からの圧力を感じた野々香は、無言で彼女たちを見つめた。彼女たちは自分のために来たのだろう。しかし、その優しさが逆に、彼女にとっては苦痛だった。
「どうしたの?一緒に坊主にして、もうこれで終わりにしようよ。」
綾子はそう言いながら、野々香の肩に手を置いた。その瞬間、彼女の中で何かが崩れた。
「わかった……私もやる。」
野々香はついにそう答えた。
### 第4章:嘘と逃避
野々香は、心の中で混乱と葛藤が渦巻く中、綾子の視線を受け止めていた。会社の同僚たちが自分を見つめ、期待と少しの不安を込めているのがわかる。彼女たちは野々香がついに決断する瞬間を待っていた。
「野々香、どうする?」
綾子がもう一度問いかけた。その声は優しいが、同時に、決断を迫るような圧力が感じられた。
野々香は一瞬、言葉を詰まらせた。彼女の頭の中には、「坊主になるべきか?」という問いが何度も響いている。自分がこの状況にどう立ち向かうのか、まだ答えが出せていないのだ。しかし、ここで答えを出さなければ、もっと深刻な事態を招くのは目に見えていた。
「わかった……私も坊主にする。明日、自分で髪を剃るよ。」
野々香は、冷静を装いながらそう告げた。
一瞬、部屋の空気が和らいだ。綾子たちはほっとした表情を見せ、笑顔で野々香に頷いた。彼女たちは自分の説得が成功したと思っていたのだろう。
「そう、よかった!明日やるなら安心だね。私たち、応援してるから。」
綾子が肩に軽く手を置き、笑顔を見せた。その姿に、野々香は一瞬だけ胸が痛んだ。嘘をついた罪悪感が、胸の奥にわずかに芽生えたからだ。
「ありがとう……でも大丈夫、明日自分でやるから。」
野々香はさらに自分に言い聞かせるように言った。綾子たちはその言葉を信じ、その場を去っていった。玄関が閉まる音が静かに響いた瞬間、野々香は深くため息をついた。
彼女は嘘をついてその場をしのいだが、胸の中に不安が押し寄せてくる。綾子たちに嘘をついたことが苦しい。だが、それ以上に、髪を失うことへの恐怖が彼女を支配していた。明日自分で髪を剃ると言ったが、実際にはその決断をする気は全くなかった。
「本当に坊主にするなんて……できるわけない。」
彼女は再び鏡の前に立った。肩まで伸びた美しい黒髪が、柔らかく光を反射している。その髪を自分で剃ることを想像するだけで、全身が震えた。バリカンを持ち、冷たい刃が頭皮をなぞる感覚を考えると、どうしても耐えられなかった。
「こんな髪を失うなんて……私は私じゃなくなってしまう……」
野々香は鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。剃り落とされる前の自分の姿を、これが最後かもしれないという思いで焼き付けるように。彼女は自分の髪を守るために、どうすればいいのかを考えていたが、答えは見つからなかった。
その夜、彼女はなかなか眠れず、ベッドの中で何度も寝返りを打った。周囲の圧力と自分の意思の間で引き裂かれるような感覚が、彼女の心を不安定にしていた。
「どうしてこんなに追い詰められてるんだろう……」
野々香は天井を見上げながら、静かに呟いた。答えは見つからないまま、時間だけが過ぎていく。
翌朝、野々香はぼんやりと目を覚ました。外は快晴で、まるで何事もなかったかのような穏やかな日差しが差し込んでいた。彼女は昨日の約束を思い出し、急に胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「今日、私は……髪を剃るんだった……」
だが、彼女は立ち上がり、髪を剃ることはしなかった。バリカンに手を伸ばすこともなく、ただそのままの自分でいようと決めたのだ。野々香は自分の意思に従い、髪を守ることを選んだ。それがどれほどの代償を伴うか、彼女は覚悟していた。
その午後、野々香が外出しようと玄関を出た瞬間、突然警官に囲まれた。彼らは冷静だが確実な手つきで彼女に近づき、話しかけた。
「野々香さんですね?あなたは昨日、髪を剃ると約束しましたが、まだ坊主になっていないことが確認されました。法令違反です。」
彼女の心臓が一瞬止まったように感じた。逃げられない。もう、この状況から逃れる術はなかった。
「ま、待って……私は……ただ……」
言葉が詰まり、何も言えなくなった。彼女は自分が何をすべきか分かっていたが、もう時間は残されていなかった。
「すみませんが、強制的に髪を剃らせていただきます。」
警官たちは淡々とした口調でそう言い、彼女を連行し始めた。野々香は抵抗する気力もなく、ただ静かにその場を従った。
### 第5章:失われた髪
留置場の冷たい床に響く足音。野々香はその音が遠く、そして次第に近づいてくるのを感じた。無機質な白い壁に囲まれた狭い部屋の中で、彼女は無力感に包まれていた。手首には手錠はついていないが、その状況はまるで身体全体が拘束されているかのようだった。窓の外からは薄暗い光が差し込み、まるで彼女の心情を映し出しているかのように鈍く輝いていた。
目の前には、冷たく光るバリカンが置かれた。重苦しい静寂の中、その音がこれから響き渡ることを野々香は理解していた。
「野々香さん、準備ができました。こちらへどうぞ。」
警官の声が無感情に響く。彼女は、動きたくないという心の奥底からの叫びを感じながらも、無言のまま立ち上がり、椅子へと誘導された。重々しい空気が全身にまとわりつき、足取りは重かった。鏡の前に座ると、目の前には自分の姿が映っている。そこにあるのは、まだ肩まで伸びた黒髪を持つ自分だ。
「これが最後の瞬間なんだ……」
心の中でそうつぶやく。もう逃れられないことを、彼女は痛感していた。ずっと守り続けた髪、それが今から無情にも剃り落とされる。自分の意志ではなく、強制的に。
「始めますね。」
バリカンを持った理容師が、野々香に声をかけた。彼女は無言のまま頷いた。言葉を発する余裕などなかった。心の中で叫びたかったが、その叫びは喉の奥に詰まって出てこない。まるで声を失ったかのようだった。
バリカンのスイッチが入れられると、低い音が部屋の中に響いた。刃の音が近づくたびに、野々香は身体が強張るのを感じた。恐怖が彼女の全身を包み込み、冷たい汗が額にじわりと浮かんできた。
「やっぱり、やめて……」
一瞬、そう言いかけたが、その言葉は空気の中に溶けていった。もう後戻りはできない。理容師がゆっくりと彼女の髪にバリカンを当てた瞬間、冷たい刃が頭皮に触れる感触がした。
「これが、坊主になる感覚なんだ……」
バリカンが頭皮に沿って動くたび、髪が次々と剃られていく。刈り取られた黒髪が無情にも床に落ち、次第に散らばっていく光景が、彼女の視界の端でぼやけて見えた。野々香はじっと前を見つめていたが、心の中では言葉にできない感情が渦巻いていた。
「これで、私は……私じゃなくなるの?」
刃が頭皮を撫でるたびに、自分の一部が失われていくような感覚が彼女を襲った。髪は単なる外見の一部でしかないと何度も自分に言い聞かせたが、そう簡単に割り切れるものではなかった。髪は彼女のアイデンティティであり、誇りであり、過去の思い出の全てが詰まっていた。それが今、無慈悲に刈り取られている。
「どうしてこんなことに……どうして髪を失わなきゃいけないの……」
彼女は耐えきれず、目を閉じた。涙が自然と溢れ出してきたが、誰もその涙を止めることはできなかった。涙は静かに頬を伝い、床に落ちていった。理容師は何も言わず、ただ淡々とバリカンを動かし続ける。
時間が経つにつれて、髪はすっかりなくなり、頭皮が露わになった。冷たい空気が直接頭に触れる感覚が、彼女に現実を突きつけた。もう後戻りはできない。
「終わりました。」
理容師がそう告げると、野々香はゆっくりと目を開けた。目の前の鏡には、今までの自分とは全く異なる姿が映っていた。そこには、つるりとした坊主頭の自分がいた。まるで別人のように感じられた。
「これが……私なの?」
自分の頭をそっと触ってみた。滑らかな頭皮が指先に触れるたび、心の中で何かが崩れていくような感覚があった。これまでの自分の髪、これまでの自分の姿は、もうどこにもない。失ったものの大きさが、彼女の胸に深く突き刺さった。
「髪なんて、また生えてくる……そう思わなきゃ……」
野々香は自分にそう言い聞かせたが、その言葉は虚しく響くだけだった。失ったのは髪だけではない。彼女の心には、深い傷が残った。それは髪が生えても癒えることのない、見えない傷だった。
彼女は静かに椅子から立ち上がり、留置場の外へと歩き出した。外の光はまぶしく、そして現実を突きつけるかのように厳しかった。新しい自分の姿で、これからの世界に向き合わなければならない。
だが、彼女の心はまだ、その現実を受け入れる準備ができていなかった。
### エピローグ:終わらない痛み
それから3ヶ月が過ぎた。野々香は、あの留置場で坊主にされた日々を思い出すたびに、心の奥に鈍い痛みを感じていた。毎朝、鏡に映る自分の姿を見るたびに、未だにその違和感を拭えないでいた。以前の自分とは全く違う姿。短く伸び始めた髪はまだ彼女の昔の姿に程遠いものであり、その変化にどうしても馴染めないままだった。
「これが、私なんだよね……」
彼女は何度も自分にそう言い聞かせるが、その言葉はどこか空虚に響いていた。自分の心は、髪が少しずつ戻りつつある今でも、まだ完全に癒えることはなかった。街を歩くたび、誰かの視線を感じると、自分が「坊主にされた人」というレッテルを貼られているような気がしてならない。
その日も、野々香は仕事から帰宅し、郵便受けを確認していた。いつものように請求書や広告の中に混じって、一枚の白い封筒が目に入った。表には、裁判所からの文字が大きく記載されていた。
「……これが、あの件の審判書か。」
彼女はその封筒を見つめながら、深く息を吐き出した。坊主にされただけではなく、罰金も課されると聞いていた。しかし、その時はあまりにも衝撃的な出来事が多すぎて、罰金のことは一瞬、頭の中から消えていた。
リビングに戻り、静かに封を開けると、審判書の中にはシンプルに罰金の額が記載されていた。
「……1000円?」
野々香は一瞬、自分の目を疑った。再びその紙を見つめ、確かめたが、金額は確かに「1000円」と書かれていた。
「嘘……これだけ?」
彼女は呆然とした表情で、その書面をテーブルに置いた。罰金という言葉に恐怖を感じていたが、その額は彼女の想像を遥かに下回っていた。1000円。それだけで、自分の髪と誇りが奪われたのかと考えると、虚しさが一気に押し寄せてきた。
野々香はしばらく無言のまま椅子に座っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「1000円カットで、坊主にされたようなもんじゃない……」
その言葉は、自嘲的な笑いと共に口から漏れた。1000円――それは美容院で格安カットを受ける程度の金額だ。だが、実際に彼女が経験したのは、金額では測れないほどの精神的な痛みだった。髪が剃られると同時に、彼女の一部が切り取られたように感じたあの瞬間。その苦しみがたった1000円で片付けられてしまうことに、言いようのない虚無感を覚えた。
「髪を失うって……こんな簡単なことじゃなかったのに……」
彼女はふと、自分の手で短くなった髪を撫でた。その感触は以前と全く違うものだが、それでも少しずつ自分を取り戻そうとしている気がした。
1000円という安価な罰金。それを支払って終わりにするのは、確かに簡単かもしれない。しかし、その代償は、彼女にとってもっと深い意味を持っていた。
「まあ……終わったんだよね、これで。」
野々香は深いため息をつき、審判書をテーブルに置いた。1000円の罰金を支払うことで、法的にはすべてが解決したかもしれない。しかし、彼女の心にはまだ、完全には解決できない何かが残っていることを、野々香は感じていた。
外の夕暮れの光が部屋に差し込み、彼女の髪を薄く照らしていた。短くなった髪が、また少しずつ伸びていく。それが元に戻る頃には、彼女の心も少しは癒えているのだろうか。
「髪なんてまた生える……でも、心はそう簡単には戻らないよね。」
野々香はそう呟きながら、静かに自分を受け入れるための新しい一歩を踏み出そうとしていた。それが、髪だけでなく、失った自分を取り戻すための道でもあると信じて。
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