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序章
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踏み締めた足元の瓦礫が、ガラリと音を立てる。
周囲に広がるのは、炎に焼かれ、黒一色に塗りつぶされた村の残骸。
桃園に囲まれた麗しい村の名残は、欠片も残されていない。
「……愚かなことだ」
村を焼き払った当人である赦鶯は、深く息を吐く。
長安の都より遥か遠く、崑崙山脈に連なる緑濃い山々の谷間。
人も獣も往来に難儀するであろう、そんな深い森の奥に、小さな村は静かに隠され続けていた。
桃仁村。
その名が示す通りに桃の樹木を数多く有する山間の村は四方を標高の高い山に囲まれ、一番近い近隣の村であっても馬を使って半日の時間を要する場所に存在する。
しかしそんな辺鄙な場所にあるにも拘らず、村人の数は途絶えず、生業の殆どを桃の生産のみに頼っている割には、暮らしぶりは然程貧しくもない。
村人達はとくに余所者を嫌い、定期的に訪れる商人と、休養の名目で村を訪う豪族達としか交流を持たない。そんな桃仁村であったから、黄河を赤く染めるほどの過酷な戦を制し、ついに覇権を手にした新たな皇帝の噂も、はっきりとは届いていなかった可能性はそれなりにある。それでも再三村に出向いた使者の説得も皇帝の勅印が押された長安への召喚命令も悉く無視した上に、最終通告すら本気にせず鼻で笑い飛ばしたというのだから、村側にそれなりの非があるだろう。
「そうとは言っても、良い気分にはならぬな」
黒く崩れ落ち、瓦礫と化した家屋の間を一つ一つ確認に回っていた赦鶯は独りごちる。
自衛の術を持たぬ村をまるまる一つ焼き払うという行為は、彼の概念から言えば至極非道で残虐な行いだ。たとえそれが、心から敬い、終生尽くすと誓った親友――今では皇帝の座に就いた、幼馴染の頼みであろうとも。
赦鶯は今年で二十八を迎えた青年武官だ。十年ほど前に圧政を憂いて兵を挙げた親友を助け、自らも戦場に身を置き、数々の武勲を挙げてきた。
高い身長と逞しい身体は如何にも無骨な武人然としていて、傷だらけの顔も眉目秀麗とはかけ離れているが、不思議なことに女性関係に不自由した試しはない。二十歳を迎えて少しの頃に、一度は知人の紹介で妻を得たが、戦場を転々として年に片手で数えられる数も家に帰らぬ夫は早々に愛想を尽かされ、子供が出来ないうちにと数年のうちに離縁を申し入れられた。赦鶯も義理で娶った妻に愛情があった訳ではなかったので、諾々とそれを受け入れて以降、未婚のまま今に至る。
赦鶯の幼馴染である子墨は覇権戦争を制した後すぐに、圧政と重税で疲弊した上に、度重なる戦火で更に傷ついた国民の救援政策を打ち出した。生地が擦れた帯にも繕い跡のある玄端にも文句一つこぼさず、国を立て直そうと日夜尽力する彼の周りには、いつしか臥竜鳳雛の若者達が集うようになっている。赦鶯は政に疎かったが武技の才には恵まれたので、これまではそれこそ子墨の持つ無二の剣として、戦場で屍を積み上げ将軍の地位に登りつめのだ。
そんな赦鶯に子墨が「気乗りはしないと思うが」と断りを入れつつ下した命が、桃仁村を焼き払い、村を滅ぼせと言う、謂わば粛清の任務になる。
子墨の治世が少しずつ軌道に乗り始めてくると、高官に媚を売り、甘い汁を啜っていた商人達や、不正が見つかり領地を没収された腐敗貴族達からの反発は、日増しに高まった。中でも羌と隣接した領地を持つ貴族の一部は南部の蛮族と結託し、子墨に反旗を翻そうと密かな計画を立てていた。叛乱そのものは赦鶯等の活躍で小競り合いにすらならない段階で鎮圧されたのだが、そこで得た情報の中に、桃仁村に関わるものがあったのだ。
桃仁村では特産品の桃以外にも、非常に高値で取引される、ある【宝】を作っているらしい。
それは世間から隔絶された村だからこそ時間をかけて作り上げることが出来るもので、誰もがこぞって手に入れたがる、至高の逸品だ。本来ならば皇帝かその近臣の誰かに贈られる筈だった【宝】は行く宛を無くしたが、どうやら近々国外に持ち出され、叛乱分子の新たな資金に換えられようとしているらしい――。
それがどんな【宝】であるかは判明していなかったが、桃仁村に何度使者をやっても回答は得られず、村長だけでも都に来て釈明するよう召喚を命じても、まったく応じようとしない。仕方なく期限をひと月と設け、この日までに何らかの返事なくば叛乱の意思ありとみなし、村を滅ぼすと通告を入れたのがひと月と少し前のことだ。
しかし桃仁村は、それにすら応えなかった。
こうなってしまえば、いくら穏健な子墨でも、放置は出来ない。辺境の小さな村から馬鹿にされても黙って見逃しているようでは、他の全てから軽んじられてしまうからだ。
かくして桃仁村は、皇帝子墨の右腕である赦鶯将軍と、彼が率いた僅か五十名で編成された小隊によって、一晩のうちに滅ぼされた。投降者は捕縛されたが、逃げ出そうとしたり、刃向かおうとしたりした村人は、容赦なく斬り捨てられている。無人となった家屋には火が放たれ、万が一にも村人の誰かが戻ってきたとしてもここでは暮らせないようにと、桃園の木も全て焼き払われた。
そんな惨劇から一夜が明け、全てが燃え尽きた桃仁村は、ひどく甘い香りに包まれていた。
赦鶯は捕縛した村人達を先に都に送り、残った部隊と共に引き上げる前の最後の確認として、崩れた家屋の間を一つ一つ歩いて回る。情報に挙げられていた【宝】がどんなものかは結局分からないままだが、この有様では何処かに保管されていたとしても、建物と共に燃えてしまっているだろう。皇帝の子墨も、ともすれば諍いを生む可能性のあるその【宝】を手に入れることにはどちらかというと消極的で、燃えてしまっても構わないと予め許可を与えてくれていたから、赦鶯が咎められることもない。
最後に桃仁村で一番大きな家屋を有していた村長の屋敷跡を確認してしまえば、この任務も終了だ。あとはついでに河沿いの村を周り、復興状況の情報を集めながら都に戻れば良い。さして危険も少ない道程となるであろうから、ここは若い部下達に先導を任せてみようか。
そんな算段を巡らせつつ辿り着いた一際大きな区画の焼け跡を見回した赦鶯は、ふと感じた違和感に足を止める。敷地内にかなりの高さで積み上がった木材に混じって、焦げた煉瓦の瓦礫がやけに多く目についたのだ。確か村長の屋敷は、二階建てではあるが、見た目は普通の木造住宅だった筈だ。
赦鶯はまだ煙が燻る焼け跡に足を踏み入れ、瓦礫の中から、黒く焦げた煉瓦を一つ持ち上げた。炎に炙られた煉瓦の角が崩れ落ち、地面の瓦礫に当たり、かつんと硬質の音を立てる。
「……だぁれ」
「っ!」
不意に聞こえた、か細い声。
赦鶯はすぐに煉瓦を投げ捨て飛び退り、腰に帯びた剣の柄に手をかける。しかし周囲を素早く見回してみても、燃え尽きた村の中には、人はおろか猫の子一匹の気配すら感じない。
「誰か居るのか!」
気のせいかと思いなおしつつも張り上げた問いかけへの応えは、思いも依らぬ場所から返って来る。
「……ここ、に、いるよ」
何処か足元の方から、聞こえてきた声。今度は確実に、気のせいではない。
剣の柄から手を離し、木材や瓦礫を除けて手を真っ黒にしながら声の出所を探した赦鶯は、やがて無事にそれを探し当てたのだが。
「なんという、ことだ」
百戦錬磨の将軍も、この状況には、さすがに絶句してしまう。
「あなた、は。だぁれ……」
幼い少年の声色で、繰り返される言葉。
煉瓦と木材が堆く積もった瓦礫の下敷きとなった地面に、ほんの僅かに、指一本分程しかない大きさに空いた、小さな穴。
声は間違いなく、その中から聞こえて来ていた。
周囲に広がるのは、炎に焼かれ、黒一色に塗りつぶされた村の残骸。
桃園に囲まれた麗しい村の名残は、欠片も残されていない。
「……愚かなことだ」
村を焼き払った当人である赦鶯は、深く息を吐く。
長安の都より遥か遠く、崑崙山脈に連なる緑濃い山々の谷間。
人も獣も往来に難儀するであろう、そんな深い森の奥に、小さな村は静かに隠され続けていた。
桃仁村。
その名が示す通りに桃の樹木を数多く有する山間の村は四方を標高の高い山に囲まれ、一番近い近隣の村であっても馬を使って半日の時間を要する場所に存在する。
しかしそんな辺鄙な場所にあるにも拘らず、村人の数は途絶えず、生業の殆どを桃の生産のみに頼っている割には、暮らしぶりは然程貧しくもない。
村人達はとくに余所者を嫌い、定期的に訪れる商人と、休養の名目で村を訪う豪族達としか交流を持たない。そんな桃仁村であったから、黄河を赤く染めるほどの過酷な戦を制し、ついに覇権を手にした新たな皇帝の噂も、はっきりとは届いていなかった可能性はそれなりにある。それでも再三村に出向いた使者の説得も皇帝の勅印が押された長安への召喚命令も悉く無視した上に、最終通告すら本気にせず鼻で笑い飛ばしたというのだから、村側にそれなりの非があるだろう。
「そうとは言っても、良い気分にはならぬな」
黒く崩れ落ち、瓦礫と化した家屋の間を一つ一つ確認に回っていた赦鶯は独りごちる。
自衛の術を持たぬ村をまるまる一つ焼き払うという行為は、彼の概念から言えば至極非道で残虐な行いだ。たとえそれが、心から敬い、終生尽くすと誓った親友――今では皇帝の座に就いた、幼馴染の頼みであろうとも。
赦鶯は今年で二十八を迎えた青年武官だ。十年ほど前に圧政を憂いて兵を挙げた親友を助け、自らも戦場に身を置き、数々の武勲を挙げてきた。
高い身長と逞しい身体は如何にも無骨な武人然としていて、傷だらけの顔も眉目秀麗とはかけ離れているが、不思議なことに女性関係に不自由した試しはない。二十歳を迎えて少しの頃に、一度は知人の紹介で妻を得たが、戦場を転々として年に片手で数えられる数も家に帰らぬ夫は早々に愛想を尽かされ、子供が出来ないうちにと数年のうちに離縁を申し入れられた。赦鶯も義理で娶った妻に愛情があった訳ではなかったので、諾々とそれを受け入れて以降、未婚のまま今に至る。
赦鶯の幼馴染である子墨は覇権戦争を制した後すぐに、圧政と重税で疲弊した上に、度重なる戦火で更に傷ついた国民の救援政策を打ち出した。生地が擦れた帯にも繕い跡のある玄端にも文句一つこぼさず、国を立て直そうと日夜尽力する彼の周りには、いつしか臥竜鳳雛の若者達が集うようになっている。赦鶯は政に疎かったが武技の才には恵まれたので、これまではそれこそ子墨の持つ無二の剣として、戦場で屍を積み上げ将軍の地位に登りつめのだ。
そんな赦鶯に子墨が「気乗りはしないと思うが」と断りを入れつつ下した命が、桃仁村を焼き払い、村を滅ぼせと言う、謂わば粛清の任務になる。
子墨の治世が少しずつ軌道に乗り始めてくると、高官に媚を売り、甘い汁を啜っていた商人達や、不正が見つかり領地を没収された腐敗貴族達からの反発は、日増しに高まった。中でも羌と隣接した領地を持つ貴族の一部は南部の蛮族と結託し、子墨に反旗を翻そうと密かな計画を立てていた。叛乱そのものは赦鶯等の活躍で小競り合いにすらならない段階で鎮圧されたのだが、そこで得た情報の中に、桃仁村に関わるものがあったのだ。
桃仁村では特産品の桃以外にも、非常に高値で取引される、ある【宝】を作っているらしい。
それは世間から隔絶された村だからこそ時間をかけて作り上げることが出来るもので、誰もがこぞって手に入れたがる、至高の逸品だ。本来ならば皇帝かその近臣の誰かに贈られる筈だった【宝】は行く宛を無くしたが、どうやら近々国外に持ち出され、叛乱分子の新たな資金に換えられようとしているらしい――。
それがどんな【宝】であるかは判明していなかったが、桃仁村に何度使者をやっても回答は得られず、村長だけでも都に来て釈明するよう召喚を命じても、まったく応じようとしない。仕方なく期限をひと月と設け、この日までに何らかの返事なくば叛乱の意思ありとみなし、村を滅ぼすと通告を入れたのがひと月と少し前のことだ。
しかし桃仁村は、それにすら応えなかった。
こうなってしまえば、いくら穏健な子墨でも、放置は出来ない。辺境の小さな村から馬鹿にされても黙って見逃しているようでは、他の全てから軽んじられてしまうからだ。
かくして桃仁村は、皇帝子墨の右腕である赦鶯将軍と、彼が率いた僅か五十名で編成された小隊によって、一晩のうちに滅ぼされた。投降者は捕縛されたが、逃げ出そうとしたり、刃向かおうとしたりした村人は、容赦なく斬り捨てられている。無人となった家屋には火が放たれ、万が一にも村人の誰かが戻ってきたとしてもここでは暮らせないようにと、桃園の木も全て焼き払われた。
そんな惨劇から一夜が明け、全てが燃え尽きた桃仁村は、ひどく甘い香りに包まれていた。
赦鶯は捕縛した村人達を先に都に送り、残った部隊と共に引き上げる前の最後の確認として、崩れた家屋の間を一つ一つ歩いて回る。情報に挙げられていた【宝】がどんなものかは結局分からないままだが、この有様では何処かに保管されていたとしても、建物と共に燃えてしまっているだろう。皇帝の子墨も、ともすれば諍いを生む可能性のあるその【宝】を手に入れることにはどちらかというと消極的で、燃えてしまっても構わないと予め許可を与えてくれていたから、赦鶯が咎められることもない。
最後に桃仁村で一番大きな家屋を有していた村長の屋敷跡を確認してしまえば、この任務も終了だ。あとはついでに河沿いの村を周り、復興状況の情報を集めながら都に戻れば良い。さして危険も少ない道程となるであろうから、ここは若い部下達に先導を任せてみようか。
そんな算段を巡らせつつ辿り着いた一際大きな区画の焼け跡を見回した赦鶯は、ふと感じた違和感に足を止める。敷地内にかなりの高さで積み上がった木材に混じって、焦げた煉瓦の瓦礫がやけに多く目についたのだ。確か村長の屋敷は、二階建てではあるが、見た目は普通の木造住宅だった筈だ。
赦鶯はまだ煙が燻る焼け跡に足を踏み入れ、瓦礫の中から、黒く焦げた煉瓦を一つ持ち上げた。炎に炙られた煉瓦の角が崩れ落ち、地面の瓦礫に当たり、かつんと硬質の音を立てる。
「……だぁれ」
「っ!」
不意に聞こえた、か細い声。
赦鶯はすぐに煉瓦を投げ捨て飛び退り、腰に帯びた剣の柄に手をかける。しかし周囲を素早く見回してみても、燃え尽きた村の中には、人はおろか猫の子一匹の気配すら感じない。
「誰か居るのか!」
気のせいかと思いなおしつつも張り上げた問いかけへの応えは、思いも依らぬ場所から返って来る。
「……ここ、に、いるよ」
何処か足元の方から、聞こえてきた声。今度は確実に、気のせいではない。
剣の柄から手を離し、木材や瓦礫を除けて手を真っ黒にしながら声の出所を探した赦鶯は、やがて無事にそれを探し当てたのだが。
「なんという、ことだ」
百戦錬磨の将軍も、この状況には、さすがに絶句してしまう。
「あなた、は。だぁれ……」
幼い少年の声色で、繰り返される言葉。
煉瓦と木材が堆く積もった瓦礫の下敷きとなった地面に、ほんの僅かに、指一本分程しかない大きさに空いた、小さな穴。
声は間違いなく、その中から聞こえて来ていた。
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