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第五章 賢者は綻びを愛でる
ヨルガの所有するヴィラは、王都から馬で半日ほど移動したオスヴァイン家の領内にある。
嫡男の誕生と同時に家督を継いだヨルガは、ランジート戦役時に建てられた石造りの砦を買い取り、そこを自分好みのヴィラに建て直した。ヴィラの近くには温泉が湧き出る川があり、川から湯を引いて個人邸宅としては大きなテルマエを造らせてもいる。
緊張を伴う騎士団での任務や貴族間の人間関係に疲れた時、彼は一人馬を駆り、近くに住む老夫婦に管理を任せているヴィラを訪れる。子供がもう少し大きくなったら、家族で滞在して休暇を楽しもうと建てたその場所に、結局一度も妻を呼ぶことはなかった。
心地良い湯に浸かりながら夜空を見上げると、奪われたまま亡くした愛しい人と、かつての婚約者を忘れられない自分に嫁いでくれた優しい妻を思い出す。ヨルガの愛した女性は二人とも、ひどく若い内にこの世を去ってしまった。
もうこの先、愛する人ができることはないだろうと思っていたのに。
「あ、んっ……! っ……!」
モザイクタイルの上で、屈強な肉体の下に組み敷かれた白い肢体は、肌に垂らされた香油の滑りに刺激され、その熱を急速に高めていく。何度も形を教え込んだ太いペニスの先端が雄膣の入り口を掠めただけで、銀色の繁みから勃ち上がったペニスは滴を垂らしてその時を待ち侘びる。漏れる高い声を抑えようと口に当てられた手をすぐに引き剥がして、指を絡めて握った。
色とりどりの花弁が浮かぶ広い浴槽には竜の形をした石像の口が温泉を注ぎ続けている。立ち込めた白い湯気は吹き抜けの天井から青空に広がり、色を薄めて宙に溶けていく。
「……ヨルガ……ヨルガ。あ、あぁ……!」
「……アンドリム」
「ひゅ、あ……あ……」
柔らかい耳朶をわざと奥歯で噛み締めて名前を呼んでやると、男の喉から伝わる振動に、抱かれる愉悦を教え込まれた身体は女のように咽び泣いた。
「も、あ、んっ……」
「……うん?」
「はや、く。早く、ヨルガ……!」
懇願されたヨルガは低く笑い、自由を奪っていたアンドリムの手を解放する。花の香りを纏う湯が浴槽から溢れ出し、仰向けで身悶えるアンドリムの髪をしっとりと濡らす。
ヨルガはアンドリムの両膝の裏に手を押し当て、膝が胸につくほど深く足を折り曲げさせた。自然とアヌスをヨルガの前に突き出す格好となる。アンドリムがその痴態を自覚する前に、ずしりと重みを増したペニスを杭のように胎の中へ打ち込む。
「んぅ、んーー! く、ああ!」
受け入れたアンドリムの喉から漏れでるのは、悲鳴と称するにはあまりにも甘い声だ。
ヨルガはその姿勢のまま精力的にアンドリムの胎を穿ち続け、一度アンドリムが先に果てると、絶頂が齎す雄膣の収斂に耐えた。アンドリムの呼吸が少し整うのを待ってから、萎えないペニスを胎内に差し込んだまま太腿の内側を押しやって、今度は足を大きく開かせる。
「あ……」
「……アンドリム」
正常位で一度トンと軽く胎を突いてやると、アンドリムは頷き、ヨルガの背中に腕を回して先ほどよりも丁寧に快楽を拾い始めた。突き上げてくるヨルガの腰の動きに合わせて小さな尻を浮かせ、自ら腰をくねらせる。ヨルガに教えられた通りに、男を悦ばせる、性交に応える行為だ。
ふと、ヨルガが視線を落とすと、拙く動く細い腰にヨルガが掴んだ指の形をした青痣が、色を薄くしつつも数え切れないほど残されていた。
「……っ」
それは間違いなく、矜恃の高いこの麗人の身体を、ヨルガだけが拓き、男の味を教え込んだ証拠で。王国を護ることのみを考えて生きてきた高潔な人物を、ヨルガの手だけが穢している証だった。
「アンドリム……」
「ひ⁉ あ、なん、で……? あ、大きく、あ、あぁ、ヨルガ……!」
背徳感に満ちた事実に気づき興奮したヨルガのペニスは、安易に体積を増す。繰り返される律動に腸壁の擦れる感覚を味わっていたアンドリムは、いきなり内部を押し上げてきた凶器にあえかな嬌声を上げ、ヨルガの首筋にしがみつく。
二人が初めて情を交わした雷雨の夜から、一月余り。
ヨルガは積極的にアンドリムを閨に誘い、アンドリムも拒否せずそれに応じた。
今日も、テルマエは好きだが新しい屋敷にはなくて不便だと零したアンドリムを、ヨルガは自分のヴィラに誘った。ヨルガの下心は、アンドリムも充分承知の上だ。美しい風呂の外観と温かい湯で存分に疲れを癒した後、アンドリムは大人しくヨルガに身を任せてくれた。
ヨルガ自身は、男を相手にすることに大きな抵抗はない。優れた騎士である彼は、若い内から何度も派遣軍に参加してきた。長く戦場に留まれば、どうしても溜まった欲情を処理する必要が出る。軍の駐屯地が娼婦を呼べるような場所であれば良いが、そうもいかない場合が殆どだ。その時将校クラスの処理相手として夜のテントを訪れるのは、年若く見目も美しい男の兵士達になる。
言わば戦場の嗜みであるし、女のように孕ませる心配はなく処女膜があるものでもなし。悶々としたまま戦に望み、遅れを取るほうが良くないと当時の上官に諭されたヨルガは、戦場で自分に宛てがわれた若い兵士を抱き、言葉通りに『性欲処理』を行なってきた。その中には見目が良いあまりつどつど様々な将校に呼び出され、すっかり男に抱かれ慣れた兵士もいる。彼らは一度抱かれると揃ってヨルガに惚れ込み、専属を願う者までいたが、ヨルガは「性欲処理にそれ以上の意味はない」とその要求を突っぱねていた。
「ヨルガ……あ、うぅ、あ。深い、あ、あぁ、大き、い……!」
ヨルガが夢中になった男は、そんな若い兵士達よりもなお瑞々しく、それでいて無垢な肉体の持ち主だ。初めて抱いた時から相性は悪くないとは思っていたが、身体はヨルガに抱かれ慣れていく一方で耳に囁かれる淫語にはいつまでも弱く、ベッドの中では素直に愛撫を強請る癖に、ことが終われば自分が優勢だったと言い張ったりもする。
憎くて、憎くて、殺してやりたいとまで思っていた感情は今や完全に裏返り、ヨルガの心を愛しさで染め上げていた。そして、同時に生まれたのは――この男を誰にも渡したくないと、自分だけのものにしておきたいと願う、強固な独占欲だ。
「あぁ、ん……き、もち良い。ヨルガ」
「……もっとか?」
「う、ん。も、っと。もっと、突い、て……!」
「……アンドリム……!」
「あ、や。いく、いくから、や、ヨルガ、ヨルガーー!」
背中を反り返させて達したアンドリムの腰を掴みその最奥を何度か力強く突いた後、ヨルガは彼の胎内からペニスを引き抜いた。痙攣するアンドリムの身体を跨ぎ、その先端をぷくりと腫れた乳首に押し当てて射精する。
「んっ、ふうっ……!」
どくどくと吐き出されるヨルガの精液が、アンドリムの乳首と心臓の上を濡らした。
「あ……」
アンドリムはぼんやりと胸の上を撫で摩り、ペニスを押し付けられた乳首の先端をくるりと指先で辿って、纏わり付いたヨルガの精を舐め取る。
「……ん」
ちゅぷちゅぷと自身の指を吸いながらもう片方もと言いたげに突き出されたアンドリムの乳首を、身体を屈めたヨルガは赤子のように吸い上げた。
「ヨルガ……」
「ん……どうした」
「なぁ、もう一回……」
「……良いのか」
「あぁ、気持ち良い……」
声を抑えずに抱かれるのは凄く感じる。そうアンドリムが言い終わらない内に、その身体は軽々とヨルガに抱えられ浴槽の中に運ばれる。湯の中で胡座をかいたヨルガは、開いたアンドリムの足が自分の腰を挟む形に正面から腰を引き寄せ、膝の上を跨がらせた。
「あ、あぁ……!」
先ほどまで男を咥え込んでいた雄膣は、再びねじ込まれた愛しい肉棒に喜び、抵抗なく受け入れる。
「よ、るが……」
「……動くぞ」
「う、ん……あ、良い。……ん、あ、うん。……ヨルガ……ヨルガ、もっと……!」
浴槽を満たす湯に、小刻みに波紋が刻まれる。アンドリムはヨルガに口吸いを強請り、すぐに応えたヨルガと、互いの舌を絡ませて唾液を啜り合う。
けれど、突き上げられる快楽に身を委ねるアンドリムの脳裏には、サーカスの舞台を隠していた緞帳がするすると巻き上がるイメージが浮かびつつあったのだ。
――なぁ、ヨルガ。俺の可愛い、犬っコロ。
上手に、…………て、くれよ?
† † †
竜巫女メリアがドナの刑に処されて数週間が経過した。泣き喚き、眠るメリアの傍に毎日通い詰めていたナーシャの足は、次第に遠のきつつある。
気づけば、竜神祭まで残された時間は二ヶ月あまりとなっていた。この時期、パルセミス王国では十年に一度開催される竜神祭の前座として、【精霊の灯】と呼ばれる祭りが催される。
古代竜カリスの魔力に惹かれて集う精霊達は、竈の火一つにさえも宿り、王国の営み全てに恩恵を与えてくれる存在だ。そんな精霊達に感謝を捧げ健やかにあることを誓う決意を、一通の手紙にしたためる。【精霊の灯】の夜にそれを燃やして炎の精霊に言葉を託し、古代竜カリスと精霊達を敬い、祈りを捧げるのだ。
そんな習慣から始められた【精霊の灯】は、今はその形と意味を変え、精霊に願いを届けることが主な趣旨となっていた。願いをしたためた手紙を燃やし、その言葉が届けば精霊に願いを叶えてもらえる……言い伝えだが、実際に願いを叶えてもらえたという記録もそれなりに残っているのだ。精霊達は基本的に人の世を静観しているが、古代竜カリスと同様に「愉しいこと」を好む気質のものもいる。そんな精霊のもとに届けられた願いは、時として叶えられるらしい。
人々が浮かれれば、祭はさらに盛り上がる。王都の大通りには所狭しと出店が並び、中央の広場は美しいライトアップと楽隊の奏でる音楽が一日中続く。年頃の少女達は髪を結い上げ化粧を施し、憧れの相手にデートに誘ってもらおうと、競って自らを飾り立てた。
そして王都の南門から出てすぐに広がる草原には、ユジンナ大陸でも高名な巡回サーカスの一座が訪れている。彼らは大きな舞台を備えたテントに観客達を迎え入れ、手に汗握る演目を毎夜繰り広げ、訪れた人々を大いに楽しませていた。
「……サーカスの公演中に、ですか」
「そうだ。その時間帯ならば、王太子殿下とナーシャ嬢は確実にテントの中にいる」
「その間に城の宝物殿に侵入し、目当てのサークレットを探しておく……という手筈です」
西の丘に建つ屋敷の応接間で、俺とシグルドとモリノは来る【精霊の灯】の日に備えて計画を練っていた。
シグルド達はこの一月ほどで王城や神殿に保管されていた文献と記録を引っくり返し、宝物殿の中にあるとされている銀のサークレットこそが『竜の玉』であることを突き止めていた。
宝物殿の鍵は宰相のモリノが保管しているが、当然ながら私用で使うことはできない。そして王太子はともかく、ナーシャにシグルド達の探し物を知られれば、取り上げられる可能性が否定できない。故に、あまり表立った捜索を行えなかった。
竜神祭の儀式の前に、贄巫女が『玉選び』を許される時間は長くない。対象が分かっていても時間がなければ意味がないだろう。だから王太子とナーシャが王城を留守にする隙にジュリエッタを宝物殿に連れていく必要があった。サークレットの形とその保管場所を確認させるためだ。
「座長に確かめたが、王族を招く日の公演は通常の夜公演より長い時間をかけるそうだ。短く見積もっても、三時間は余裕がある」
「僕は王城に残っておきます。殿下とナーシャがサーカスに向かったら、シグルドはジュリエッタ様を連れて登城してください。宝物殿に案内いたします」
「……殿下の護衛はどうする?」
「リュトラと王国騎士団がついています。神官長は【精霊の灯】の日に公演される演目に、神殿の孤児達と一緒にサーカス団から招かれているとか」
「……分かった。その計画で行こう」
頷くシグルドの肩を叩き、俺は自分も『準備』のために動き始める。
俺の目的は、その『演目』が終わった後に催される特別なショーに、ヨルガを連れていくことだ。
確実に来てくれるだろうが、ショーを観覧するには、俺にもヨルガにも準備が必要となる。
今回はマラキアだけ『相手』が異なるのだが……それをどう動かすかは、リュトラ次第だった。
† † †
重ねた掌の間に収まる小さな白い封筒は、自分を『共犯者』と呼ぶ父が買い与えてくれたものだ。
便箋に綴った拙い願いを精霊に託し、叶うはずもない淡い夢を今はただ祈りたい。
これまで生きてきた時間の中で一番濃密な日々を過ごしていると、ジュリエッタは感じていた。
我儘を言っても誰も逆らわず、だけど誰も自分を愛さない。神殿で過ごしたのは、そんな毎日。ただ一つの希望は、幼い頃に一目で恋をした王太子に、いずれ嫁ぐ未来のこと。その時を待ち侘びていた彼女の世界は、王太子に手を引かれた美しい少女の出現で、無残にも打ち砕かれた。
絶望に意識をなくしたジュリエッタを救ったのは、他でもない実の父だ。
そして、ジュリエッタは父に受けた教えのままに、無垢な聖女を演じ始める。
演じてみて初めて、人を上から見下ろす態度よりそれがずっと楽であることに気づいた。逃走防止に傷つけられた足首は痛むが、読書も料理も小さな動物達を愛でることも。全てが輝いている。
寡黙な兄が傍にいてくれるようになってから、日々は一段と彩りを増した。
王太子とナーシャのことを思い出すと胸の奥が痛んだが、そんな時は必ずシグルドがジュリエッタに寄り添い、腕の中に抱き締めて傷ついた心を癒してくれる。
血の繋がらない兄の存在こそが、ジュリエッタを支えていた。
「……お兄様」
だからこれは、夢だ。ただの夢だから、精霊に託すことだけは許してもらえるだろう。
【精霊の灯】が開催される夜、ジュリエッタはシグルドと共に王城に行かなければならない。
精霊宛ての手紙は通常、夜ならいつ燃やしても良いが、王城から戻った後でも間に合うだろうか。
考え込むジュリエッタの掌から、するりと白い封筒が引き抜かれる。
「っ!」
弾かれるように上げた顔の先には、兄の姿があった。
「ジュリエッタ、これは? 【精霊の灯】で燃やす、手紙かい?」
「そ、そうですわ。お返しくださいませ、お兄様」
ジュリエッタに白い封筒を戻すことなく、シグルドは榛色の目をゆっくりと眇める。
「……年頃の娘が精霊に頼む事柄は、恋の悩みが多いと聞く」
「えっ!」
「図星か、ジュリエッタ……相手は誰だ」
平坦な声と共に封筒を開かれそうになり、ジュリエッタは目を丸くして兄に飛びついた。しかし片手で手紙を頭上に掲げられ、もうそこに手を届かせる手段は残されていない。
「やめてください、お兄様!」
「何故だ?」
「何故って……それは私の願いです! お兄様には関係ありませんわ!」
「……関係ないはずが、ない」
「やめて!」
ジュリエッタの制止も虚しく、取り出された二つ折りの便箋は、シグルドの手で開かれてしまった。
『来世では、お兄様の妻になれますように』
短く綴られた真摯な願いに、シグルドの身体が凍りつく。
ジュリエッタの足は力をなくし、膝の折れた細い肢体が床の上に座り込む。そのまま両手で顔を覆った彼女は、泣きながら小さく何度も「ごめんなさい」と繰り返した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、お兄様。どうか、どうか見なかったことに、してくださいませ。どうかこのまま、お忘れになって」
懸命の懇願にも、シグルドは何も言葉を発さない。
「お兄様……?」
涙に濡れた翡翠の瞳が恐る恐る見上げると、真剣な表情でジュリエッタを見下ろしていた兄は、静かに頭を振った。手にした便箋を折り曲げ、無惨にも引き裂く。
「……あっ!」
ああ、まただ。また、愛する人に拒絶された。
断罪の日に王太子から向けられた、侮蔑に満ちたあの眼差し。あれをシグルドに向けられているのかと思うと、ジュリエッタは恐怖で顔を上げられない。
せめて、せめて妹として愛してもらうことだけを望んでいれば良かったのだろうか。
愛した王太子に正面から死の宣告をされ、父の愛で立ち直りはしたものの、心は常に哀しみに満ちている。そんなジュリエッタをシグルドは真綿で包むように愛し、大事に大事にしてくれた。お前を傷つけるすべてのものから護ると誓い、額に贈られた口づけ。
勘違いをしてはいけないと、分かっていたけれど。
血の繋がらない兄を慕う想いは、ジュリエッタの心に少しずつ積み重なった。
シグルドに頭を下げたジュリエッタは、這ってでも移動しようと、うまく力の入らない足で床に膝をつく。今はとにかく少しでも、シグルドの傍から離れたい。
しかし彼女の小柄な身体は、数歩も進まないうちに逞しい腕に捕らえられていた。
「お、兄様」
「ジュリエッタ……」
「お願い、お願いお兄様。お放しになって……今は、今はどうか」
「……もう、放さない」
ジュリエッタの返事を聞く前に――シグルドの唇は、ジュリエッタの唇に重ねられていた。
啄むようにしてすぐに離れた唇は、それでもその意味をしっかりと伝えていて……
「おにい、さま……?」
震える声で問いかけるジュリエッタを腕に閉じ込め、シグルドは恍惚とした表情を晒した。
「俺の可愛い、ジュリエッタ。これが夢でない証拠に、もう一度お前の唇に触れさせてくれ」
少しだけ深みを増した口づけは、舌を軽く吸い上げ、優しく距離を置く。戸惑うジュリエッタの手に戻されたのは、破られた白い便箋だ。綴られた短い文面から一つの単語が破り取られている。
『お兄様の妻に、なれますように』
ジュリエッタの肩が驚愕に揺れた。シグルドはそんな妹の眦に、頬に、首筋に、何度も唇で触れては、甘い熱を灯していく。
「ジュリエッタ……俺の可愛い妹。そして、最愛の女。どうか、俺の愛を受け入れてくれ」
「おにい、さま……」
「シグルドだ」
「……で、でも」
「シグルド」
「……し、しぐる、ど……にいさま」
震える唇が告げる名前は、まだたどたどしい。それでも薄桃色の舌に乗せた名前が敬愛する主君のものではなくなった事実は、シグルドの気持ちを昂らせたようだ。
「ジュリエッタ……俺はお前を、心の底から愛している」
「シグルド、兄様……」
「乗り越えよう。『竜の玉』を探し当て、必ずジュリエッタを救ってみせる……だから、竜神祭が終わったら……俺の妻になってくれ」
「……っ!」
「殿下のことは……殿下のことは、もう忘れろ。お前の心を、その優しさを、想い続ける芯の強さを、欠片も見抜けなかった男にジュリエッタを妻にする資格なんてない」
「シグルド兄様……」
説得じみたシグルドの告白。ジュリエッタは彼の腕に身体を預け、銀色の髪を肩に擦り付けた。
「お兄様……あの、ですね。……私」
「ん……?」
「面と向かって『死ね』と言ってきた相手を愛し続けるほど、できた女ではありませんの」
「……ぷはっ」
ぷすと頬を膨らませて見上げたジュリエッタに、シグルドが笑う。
「私、頑張ります……カリス猊下に玉をお返しできるように努めますわ……でも、シグルド兄様」
「……ああ」
「ひとつだけ、ひとつだけ約束してくださいませ。もし、万が一私が『玉選び』を誤り、猊下の糧となっても。ご自分がその先で幸せになることを、決して諦めないと」
「……ジュリエッタ」
「それをお約束いただけるのなら……ジュリエッタは、竜神祭が終わったら……シグルド兄様の妻に、なります……ならせて、ください」
兄の心を、未来を護ろうとする妹の想いは、山よりも高く、海よりも深い。だからシグルドは、その時は共に逝くと定めている決意を隠し、穏やかに笑ってみせた。
「……約束する。でも『玉選び』は必ず成功させる。……俺と共に、生きていこう」
「はい……」
誓いの言葉を交わす二人は、互いの額を押し当てて触れ合う距離で密やかに微笑み合う。
「愛している……俺の、ジュリエッタ」
「愛してます……私の、シグルド……兄様」
兄と呼ぶ妹を、妻にする日を。血の繋がらない兄を、夫とする日を。二人は心待ちにした。
† † †
私達じゃダメなんだよ、と悲しそうに呟く声が、耳から離れない。
竜巫女メリアに唆されて神殿を襲撃した賊達に立ち向かい、敵わず重傷を負った神殿騎士達は、幸いなことに全員、順調な回復を見せていた。不足する神殿騎士達の代わりに神殿の警備を引き受けたのはリュトラの同僚である王国騎士団の仲間達だ。彼らは騎士団長であるヨルガと王太子ウィクルムの許可を得て、交代で神殿に通ってくれている。
本来神殿は、国教である竜神信仰の総本山とは言え基本は秘密主義であり、閉鎖された場所であるとの認識が一般的だ。そんな彼らが王国騎士団の助力を良しとするかどうかは意見が分かれたのだが、神殿に勤める神官達や女官達は、王国騎士団の援助をすんなりと受け入れた。
それには、リュトラの影響が大きい。神殿騎士は言うに及ばず神官や女官達も孤児出身者が多い神殿側から見れば、貴族が殆どを占める王国騎士団は、自分達とは生まれも育ちも違う、他所の国の者に等しい存在だった。
しかしマラキアに紹介されたリュトラは、その印象を覆す青年だ。育ちの良さに反して気さくな気性で面倒見が良く、文句を言いつつも子供達と走り回る姿は、何とも微笑ましい。神殿騎士達の相談にも嫌がらず乗ってくれるし、女性には紳士的で、力仕事には率先して駆けつける。
王国騎士団の騎士。自分達とは違う高い身分。でも彼らも自分達と同じ、笑ったり怒ったり泣いたりする。そう素直に敬い、心からの感謝と称賛を与えてくれる神官達や女官達に、王国騎士団の騎士達も、好意を抱いた。
さらに騎士達の心を揺さぶったのは、これまで危険人物だと王城でも騎士団内でもマークし続けていた、神官長マラキアの生活だった。
かつてその日課に付き合ったリュトラも戸惑った忙しさと、パルセミス王国の国民に、そして神たる古代竜に対して献身的に尽くす毎日。王城に赴く際はダルマティカを身につけて結い上げた白髪をミトラの中に押し込んだ整粛な姿で現れるマラキアだが、今は頭に傷を負ったこともあって正装は省略し、身軽なチュニック姿で過ごすことが多い。視線が合うと微笑み、いつもありがとうございますと美しい所作で捧げられる労いの言葉に、王国騎士団の騎士達は次々と傾倒していった。
反比例して悪くなるのは、【精霊の灯】を前に何かと忙しく、マラキアと一緒にいられないリュトラの機嫌だ。彼は騎士仲間がマラキアを褒めるたびに、「そうだろう」と頷く誇らしさと同時に「知っているのは自分だけで良かったのに」と仄暗い感情を燻らせるようになっていた。
マラキアも最近は慣れてきたのかリュトラに対して無防備で、一日の終わりにリュトラの部屋で話し込んだ末に「帰るのが面倒になった」と同じベッドで遠慮なく眠ったりするのだ。
アルビノ体質であるマラキアの肌と髪は抜けるように白く、夜闇の中でシーツに包まると、まるで肌との境界線を溶いたかのように白い波の間に隠れてしまう。そっと手を伸ばしたリュトラがシーツごと抱き寄せると、布地の下に隠された身体は成人男性のものとは思えないほど柔らかい。
本人には気づいてもらえないのに何故か周りはリュトラの気持ちに敏感で、何かとマラキアとリュトラを二人きりにさせようと画策してくれる。だが、マラキアがざくざくとその計略を踏み抜いてしまうので、一向に良い雰囲気にならないのだ。
そして【精霊の灯】を数日後に控えた、ある日の午後。
リュトラは、治療院に入院しているエイミーから呼び出しを受けた。
既に妹みたいな感覚を抱いているエイミーが、何事だろうと治療院を訪れたリュトラに教えたのは、神殿、そして子供達を護るためにマラキアがずっと前から捧げている、悲愴なまでの献身だ。
「……私達じゃダメなんだよ、リュトラ様」
未だベッドの上から動けない身体で涙の粒を眦に浮かべたエイミーは、悔しそうに呟いた。
「私達は神殿の子だ。マラキア様に護ってもらった立場だ。マラキア様に頼って生き延びた命だ」
自分達がどうやって『生かされていたか』を彼女が知ったのは、その意味を理解できる年齢になってからだったという。
「十年ぐらい前までは、王侯貴族達と神殿の関係はあまり良くなかったんだ。不干渉ならまだ良い。過干渉だったんだ。神殿は王侯貴族から無茶な要求を受け続けていた」
当時のマラキアは十八歳。ちょうど、今のリュトラと同じ歳だ。
子供達にとって、同じ孤児出身でありながら十八歳にして既に神官職に就いていたマラキアは、憧れの存在だった。孤児達に向けられる彼の笑顔は、いつも穏やかで優しい。
「リュトラ様……マラキア様は綺麗だろ?」
エイミーは泣き笑いの顔で、リュトラを見上げる。
「でも、人って、さ……綺麗なものほど、踏みにじりたく、なるんだって」
神殿騎士達にとって、そして孤児達にとって、光のように美しいと仰ぐ人。
「マラキア様は、マラキア様は……私達を、子供達を、その『無茶な要求』の餌食に、しないために」
「……エイミー……」
「いっつも、いつも、一人で。一人で、貴族の集まりに、呼び出されてた。もっと、幼い頃からそうなんだって。私達がその事実を知る、ずっと前から。ジュリエッタ様が竜巫女になられた関係で、元宰相閣下に目をかけていただけるように、なるまで」
そこでエイミーは一つ息をついた。
「リュトラ様。多分マラキア様は、リュトラ様のこと、すごく、気に入っていると、私は思う」
神殿の子供達にとって、マラキアは父で、兄で、恩師だ。長く一緒にいたからこそ、分かるものもある。察することができることもある。
彼がリュトラに見せるわざとらしいまでの気易さは、きっと淡い想いの裏返しなのだ。
「でも、いつか……いつかリュトラ様に、それを、過去を、知られてしまうから。だから、最初から、気づかないようにするって、決めてるんじゃ、ないかな。リュトラ様を……傷つけないように……リュトラ様が、自分を想い続けたり、しないように」
洟を啜りながら瞳を閉じて告げたエイミーの言葉は、リュトラの胸を強く打った。
† † †
「――確かに僕の過去はね、神殿の皆が思ってる通りですよ。幼い僕を売った母親なんて顔も覚えてないし、初体験が誰かなんて分かるもんですか。この無駄に整った顔と生白い身体のせいで、いつも男達は僕の上に乗って足を開かせ、汚いペニスを突っ込みたがる。男性としての機能も潰された。……でもだからこそ、僕は生き残れた」
運命の刻限が迫り、その時を待つ俺の眦から頬にかけて、マラキアの持つ筆が羽を広げた蝶を描き上げる。今宵限りの蜉蝣と消えるか、舞い続ける胡蝶となるか。
「……でもね、アンドリム様。皆が未だに勘違いしていることが一つあります」
マラキアの置いた筆を今度は俺が握り、茜色の目を緩く閉じたマラキアの眉間に、小さな蓮の華のモチーフを描く。花弁を開いた、泥より出でる清らかな華。
蓮の華が示す言葉は、「純粋」「神聖」「沈着」そして、「純潔」。
「僕は、あの行為そのものは別段嫌いじゃない。僕は女を抱ける身体をしていませんし、多少貧弱ですがこれでも男ですから孕むこともない。そんな僕を抱いて興奮する男達は、いかにも哀れで、滑稽だ。感じているフリをしてやるのだって、大得意です」
「……成るほどな」
「誰もが僕の生い立ちを可哀想だと言う。精通も経験せずに男に抱かれ続け、身体を弄られ、貴族達の玩具にされ。僕の幸せ、安らぎは、何処にあるんだって。……余計なお世話だと思いません?」
ねぇと同意を求められても、俺は肩を竦めるしかない。
「それをリュトラに言ってやるなよ? 泣かれるぞ」
「言いませんよ。ただでさえ懐かれすぎだなって、反省してるのに」
「ほう? 結局喰わせてやる気はないのか」
ああ見えてリュトラは、騎士団の中ではかなりの実力者だ。その上名家の出身で、実父は現王国騎士団長。貴族の娘辺りなら、喜んで身体を差し出し既成事実でも作るところだろう。
「どうしようかと、考えたんですけどね。やっぱり、子供の相手はごめんです。……騎士団長殿やシグルド殿を見るに、オスヴァイン一族は執着が強い。束縛されるのは性に合いません」
「ハッ……その強がりがいつまでもつかな」
それこそが『特別扱い』なのだと気づいていない台詞を笑った俺は、蓮を描き終えた筆をテーブルに置く。薄く瞼を開いたマラキアの白髪に指を絡めて頭を引き寄せ、唇を軽く吸ってやった。
間近で見える驚愕の表情に気を良くして、もう一度唇を重ねる。迎え入れるように開かれた唇の間に舌を差し込み初めて味わうマラキアの唾液は、ヨルガとは随分違う味をしていた。しばらく柔らかい唇と温かい口内を堪能した後でマラキアの頭を解放すると、胡乱な瞳で見つめられる。
「……お情けでもいただけるのですか?」
「抜かせ……単なる餞だ。ヨルガの選択しだいでは、俺はもう戻らん」
「……アンドリム様」
「俺がヨルガに殺されても、お前やジュリエッタに影響はないはずだ。ほとぼりが冷めたら、お前は他国に亡命したら良い。ジュリエッタのことは、シグルドが護るだろう」
俺は身につけていた衣服を脱ぎ捨て、予め用意していた衣装を手に取る。
ノースリーブのトップスに、全身を覆えるほど大きいシルクのショール。太腿の付け根にまでスリットの入ったハーレムパンツと、フリンジがちりばめられたヒップスカーフ。パンジャアンクレットを嵌めた足の甲には、まだ傷が赤く引き攣り生々しい、オスヴァイン家の焼印を押した痕。
焼印の痕は、前世で取った杵柄の成果だ。木工用ボンドと絵具で作る傷跡メイクを糊と膠を代用して作ったのだが、思ったより上手くできている。ぱっと見では作り物とは思えない。
それにしても……自分で準備しておいて何だが、このまるっきりラクス・シャルキの衣装で死ぬのは、ちょっと嫌だ。
今日は、【精霊の灯】が催される日。既にシグルドとジュリエッタは王城近くにあるオスヴァイン家の屋敷に身を潜め、王太子とナーシャがサーカス鑑賞に出掛けるのを待っている。
今夜の公演では、メインテントの舞台際に誂えられた貴賓席の一つを押さえてあった。俺とヨルガは薄い天幕の張られたそこで、王太子とナーシャの様子を観察する予定だ。……まぁ、真の目的はメイン公演の後だが、それは始まってからのお楽しみだな。
サーカスに向かう前に、俺はマラキアの手を借り、王侯貴族が好んで侍らせる愛妾の装いを作り上げた。今夜だけは、ヨルガに連れられた俺が元宰相であるアンドリム・ユクト・アスバルだと見抜かれるわけにいかない。マラキアの話では、男女を問わず、この手の装いをさせる貴族は多いとのこと。古今東西、男の好みは変わらないということか。
自分でも鏡を見て確認したが、今の姿の俺をアンドリムだと見抜ける者はほぼいないだろう。我ながら良い化けっぷりだ。
屋敷を訪れたヨルガのほうは如何にも貴族の休日らしい、ダークカラーのジュストコールと丈の長いジレという格好だったのだが、俺はそんなヨルガの髪や衣装に少し手を加えていた。
整えられていた髪型を崩し、額と耳の上に赤みを帯びた黒髪を下ろして乱す。ブラウスはフリルを抑え、光沢があり筋肉の隆起に沿う布地のものに。ジレは腰上の短い丈のものに替えさせた。
それだけで、剣を腰に帯びたヨルガの外見は、これまでになく野性味を帯びる。
元々、騎士団一の美丈夫と謳われていた男だ。有閑マダム達がむしゃぶりつきそうだな。
俺がショールを頭から被ったところで、額に蓮の華を飾ったマラキアは、いつもと変わらぬ聖職者の姿でぽつりと呟く。
「僕にはまだ、理解ができません。何故ここまで来て貴方ほどの人が、騎士団長如きに運命を委ねるのですか」
貴方なら騎士団長殿を思うままに動かすくらい簡単だろうにと、マラキアは言いたげだ。
この四ヶ月ほどの間、マラキアは俺によくついてきてくれた。手足のように動き、求めるものを先読みした行動は、充分に助けてくれている。
そんなマラキアでも、俺のこの行動だけは、理解し難いとみえた……だが俺がヨルガに求めるものは、従属でも強制でもない。だから投げかけられた疑問に、口の端で笑う。
「マラキアよ、覚えておけ。選択とは、な。呪いだ」
恐らくこれが、俺が仕掛ける最後の罠。
この賭けに勝てば、後は勝手に駒が動いて相手を追い詰める。万が一負けたとしても、既に動き出した流れは、もう止められない。ただ俺がこの舞台から退場するだけ。
「俺もヨルガを選択したことで、一つの呪いを受けた。おそらく生涯、覆せない呪いだ。それでも俺の目的には、どうしてもヨルガを手に入れる必要があった。そのためならば、俺の身体なんぞいくらでも抱かせてやるさ」
「……難しい話ですね」
「そうか? 至ってシンプルだ。お前にその答えを教えるのは、あの狗かもしれんぞ」
「まさか……それこそありえない」
今度はマラキアが肩を竦める。そうこうしている内に、トーマスが俺とマラキアが着替えに使っている客間の扉をノックしてきた。どうやら、そろそろ迎えの馬車が来たらしい。
「マラキアは、まずは子供達とサーカス鑑賞だったな?」
「ええ、座長殿に特別招待を受けました。概ね、サーカス団に付き添うあの男の差し金でしょう」
「相変わらずお前を欲しがっているのか。執念だな」
「金払いは良いから、嫌いじゃないですよ。国外に連れ出されるのが嫌なだけです」
「まぁ、久々に【神殿育ち】と会うのもいいだろう……また、後でな」
ヨルガの所有するヴィラは、王都から馬で半日ほど移動したオスヴァイン家の領内にある。
嫡男の誕生と同時に家督を継いだヨルガは、ランジート戦役時に建てられた石造りの砦を買い取り、そこを自分好みのヴィラに建て直した。ヴィラの近くには温泉が湧き出る川があり、川から湯を引いて個人邸宅としては大きなテルマエを造らせてもいる。
緊張を伴う騎士団での任務や貴族間の人間関係に疲れた時、彼は一人馬を駆り、近くに住む老夫婦に管理を任せているヴィラを訪れる。子供がもう少し大きくなったら、家族で滞在して休暇を楽しもうと建てたその場所に、結局一度も妻を呼ぶことはなかった。
心地良い湯に浸かりながら夜空を見上げると、奪われたまま亡くした愛しい人と、かつての婚約者を忘れられない自分に嫁いでくれた優しい妻を思い出す。ヨルガの愛した女性は二人とも、ひどく若い内にこの世を去ってしまった。
もうこの先、愛する人ができることはないだろうと思っていたのに。
「あ、んっ……! っ……!」
モザイクタイルの上で、屈強な肉体の下に組み敷かれた白い肢体は、肌に垂らされた香油の滑りに刺激され、その熱を急速に高めていく。何度も形を教え込んだ太いペニスの先端が雄膣の入り口を掠めただけで、銀色の繁みから勃ち上がったペニスは滴を垂らしてその時を待ち侘びる。漏れる高い声を抑えようと口に当てられた手をすぐに引き剥がして、指を絡めて握った。
色とりどりの花弁が浮かぶ広い浴槽には竜の形をした石像の口が温泉を注ぎ続けている。立ち込めた白い湯気は吹き抜けの天井から青空に広がり、色を薄めて宙に溶けていく。
「……ヨルガ……ヨルガ。あ、あぁ……!」
「……アンドリム」
「ひゅ、あ……あ……」
柔らかい耳朶をわざと奥歯で噛み締めて名前を呼んでやると、男の喉から伝わる振動に、抱かれる愉悦を教え込まれた身体は女のように咽び泣いた。
「も、あ、んっ……」
「……うん?」
「はや、く。早く、ヨルガ……!」
懇願されたヨルガは低く笑い、自由を奪っていたアンドリムの手を解放する。花の香りを纏う湯が浴槽から溢れ出し、仰向けで身悶えるアンドリムの髪をしっとりと濡らす。
ヨルガはアンドリムの両膝の裏に手を押し当て、膝が胸につくほど深く足を折り曲げさせた。自然とアヌスをヨルガの前に突き出す格好となる。アンドリムがその痴態を自覚する前に、ずしりと重みを増したペニスを杭のように胎の中へ打ち込む。
「んぅ、んーー! く、ああ!」
受け入れたアンドリムの喉から漏れでるのは、悲鳴と称するにはあまりにも甘い声だ。
ヨルガはその姿勢のまま精力的にアンドリムの胎を穿ち続け、一度アンドリムが先に果てると、絶頂が齎す雄膣の収斂に耐えた。アンドリムの呼吸が少し整うのを待ってから、萎えないペニスを胎内に差し込んだまま太腿の内側を押しやって、今度は足を大きく開かせる。
「あ……」
「……アンドリム」
正常位で一度トンと軽く胎を突いてやると、アンドリムは頷き、ヨルガの背中に腕を回して先ほどよりも丁寧に快楽を拾い始めた。突き上げてくるヨルガの腰の動きに合わせて小さな尻を浮かせ、自ら腰をくねらせる。ヨルガに教えられた通りに、男を悦ばせる、性交に応える行為だ。
ふと、ヨルガが視線を落とすと、拙く動く細い腰にヨルガが掴んだ指の形をした青痣が、色を薄くしつつも数え切れないほど残されていた。
「……っ」
それは間違いなく、矜恃の高いこの麗人の身体を、ヨルガだけが拓き、男の味を教え込んだ証拠で。王国を護ることのみを考えて生きてきた高潔な人物を、ヨルガの手だけが穢している証だった。
「アンドリム……」
「ひ⁉ あ、なん、で……? あ、大きく、あ、あぁ、ヨルガ……!」
背徳感に満ちた事実に気づき興奮したヨルガのペニスは、安易に体積を増す。繰り返される律動に腸壁の擦れる感覚を味わっていたアンドリムは、いきなり内部を押し上げてきた凶器にあえかな嬌声を上げ、ヨルガの首筋にしがみつく。
二人が初めて情を交わした雷雨の夜から、一月余り。
ヨルガは積極的にアンドリムを閨に誘い、アンドリムも拒否せずそれに応じた。
今日も、テルマエは好きだが新しい屋敷にはなくて不便だと零したアンドリムを、ヨルガは自分のヴィラに誘った。ヨルガの下心は、アンドリムも充分承知の上だ。美しい風呂の外観と温かい湯で存分に疲れを癒した後、アンドリムは大人しくヨルガに身を任せてくれた。
ヨルガ自身は、男を相手にすることに大きな抵抗はない。優れた騎士である彼は、若い内から何度も派遣軍に参加してきた。長く戦場に留まれば、どうしても溜まった欲情を処理する必要が出る。軍の駐屯地が娼婦を呼べるような場所であれば良いが、そうもいかない場合が殆どだ。その時将校クラスの処理相手として夜のテントを訪れるのは、年若く見目も美しい男の兵士達になる。
言わば戦場の嗜みであるし、女のように孕ませる心配はなく処女膜があるものでもなし。悶々としたまま戦に望み、遅れを取るほうが良くないと当時の上官に諭されたヨルガは、戦場で自分に宛てがわれた若い兵士を抱き、言葉通りに『性欲処理』を行なってきた。その中には見目が良いあまりつどつど様々な将校に呼び出され、すっかり男に抱かれ慣れた兵士もいる。彼らは一度抱かれると揃ってヨルガに惚れ込み、専属を願う者までいたが、ヨルガは「性欲処理にそれ以上の意味はない」とその要求を突っぱねていた。
「ヨルガ……あ、うぅ、あ。深い、あ、あぁ、大き、い……!」
ヨルガが夢中になった男は、そんな若い兵士達よりもなお瑞々しく、それでいて無垢な肉体の持ち主だ。初めて抱いた時から相性は悪くないとは思っていたが、身体はヨルガに抱かれ慣れていく一方で耳に囁かれる淫語にはいつまでも弱く、ベッドの中では素直に愛撫を強請る癖に、ことが終われば自分が優勢だったと言い張ったりもする。
憎くて、憎くて、殺してやりたいとまで思っていた感情は今や完全に裏返り、ヨルガの心を愛しさで染め上げていた。そして、同時に生まれたのは――この男を誰にも渡したくないと、自分だけのものにしておきたいと願う、強固な独占欲だ。
「あぁ、ん……き、もち良い。ヨルガ」
「……もっとか?」
「う、ん。も、っと。もっと、突い、て……!」
「……アンドリム……!」
「あ、や。いく、いくから、や、ヨルガ、ヨルガーー!」
背中を反り返させて達したアンドリムの腰を掴みその最奥を何度か力強く突いた後、ヨルガは彼の胎内からペニスを引き抜いた。痙攣するアンドリムの身体を跨ぎ、その先端をぷくりと腫れた乳首に押し当てて射精する。
「んっ、ふうっ……!」
どくどくと吐き出されるヨルガの精液が、アンドリムの乳首と心臓の上を濡らした。
「あ……」
アンドリムはぼんやりと胸の上を撫で摩り、ペニスを押し付けられた乳首の先端をくるりと指先で辿って、纏わり付いたヨルガの精を舐め取る。
「……ん」
ちゅぷちゅぷと自身の指を吸いながらもう片方もと言いたげに突き出されたアンドリムの乳首を、身体を屈めたヨルガは赤子のように吸い上げた。
「ヨルガ……」
「ん……どうした」
「なぁ、もう一回……」
「……良いのか」
「あぁ、気持ち良い……」
声を抑えずに抱かれるのは凄く感じる。そうアンドリムが言い終わらない内に、その身体は軽々とヨルガに抱えられ浴槽の中に運ばれる。湯の中で胡座をかいたヨルガは、開いたアンドリムの足が自分の腰を挟む形に正面から腰を引き寄せ、膝の上を跨がらせた。
「あ、あぁ……!」
先ほどまで男を咥え込んでいた雄膣は、再びねじ込まれた愛しい肉棒に喜び、抵抗なく受け入れる。
「よ、るが……」
「……動くぞ」
「う、ん……あ、良い。……ん、あ、うん。……ヨルガ……ヨルガ、もっと……!」
浴槽を満たす湯に、小刻みに波紋が刻まれる。アンドリムはヨルガに口吸いを強請り、すぐに応えたヨルガと、互いの舌を絡ませて唾液を啜り合う。
けれど、突き上げられる快楽に身を委ねるアンドリムの脳裏には、サーカスの舞台を隠していた緞帳がするすると巻き上がるイメージが浮かびつつあったのだ。
――なぁ、ヨルガ。俺の可愛い、犬っコロ。
上手に、…………て、くれよ?
† † †
竜巫女メリアがドナの刑に処されて数週間が経過した。泣き喚き、眠るメリアの傍に毎日通い詰めていたナーシャの足は、次第に遠のきつつある。
気づけば、竜神祭まで残された時間は二ヶ月あまりとなっていた。この時期、パルセミス王国では十年に一度開催される竜神祭の前座として、【精霊の灯】と呼ばれる祭りが催される。
古代竜カリスの魔力に惹かれて集う精霊達は、竈の火一つにさえも宿り、王国の営み全てに恩恵を与えてくれる存在だ。そんな精霊達に感謝を捧げ健やかにあることを誓う決意を、一通の手紙にしたためる。【精霊の灯】の夜にそれを燃やして炎の精霊に言葉を託し、古代竜カリスと精霊達を敬い、祈りを捧げるのだ。
そんな習慣から始められた【精霊の灯】は、今はその形と意味を変え、精霊に願いを届けることが主な趣旨となっていた。願いをしたためた手紙を燃やし、その言葉が届けば精霊に願いを叶えてもらえる……言い伝えだが、実際に願いを叶えてもらえたという記録もそれなりに残っているのだ。精霊達は基本的に人の世を静観しているが、古代竜カリスと同様に「愉しいこと」を好む気質のものもいる。そんな精霊のもとに届けられた願いは、時として叶えられるらしい。
人々が浮かれれば、祭はさらに盛り上がる。王都の大通りには所狭しと出店が並び、中央の広場は美しいライトアップと楽隊の奏でる音楽が一日中続く。年頃の少女達は髪を結い上げ化粧を施し、憧れの相手にデートに誘ってもらおうと、競って自らを飾り立てた。
そして王都の南門から出てすぐに広がる草原には、ユジンナ大陸でも高名な巡回サーカスの一座が訪れている。彼らは大きな舞台を備えたテントに観客達を迎え入れ、手に汗握る演目を毎夜繰り広げ、訪れた人々を大いに楽しませていた。
「……サーカスの公演中に、ですか」
「そうだ。その時間帯ならば、王太子殿下とナーシャ嬢は確実にテントの中にいる」
「その間に城の宝物殿に侵入し、目当てのサークレットを探しておく……という手筈です」
西の丘に建つ屋敷の応接間で、俺とシグルドとモリノは来る【精霊の灯】の日に備えて計画を練っていた。
シグルド達はこの一月ほどで王城や神殿に保管されていた文献と記録を引っくり返し、宝物殿の中にあるとされている銀のサークレットこそが『竜の玉』であることを突き止めていた。
宝物殿の鍵は宰相のモリノが保管しているが、当然ながら私用で使うことはできない。そして王太子はともかく、ナーシャにシグルド達の探し物を知られれば、取り上げられる可能性が否定できない。故に、あまり表立った捜索を行えなかった。
竜神祭の儀式の前に、贄巫女が『玉選び』を許される時間は長くない。対象が分かっていても時間がなければ意味がないだろう。だから王太子とナーシャが王城を留守にする隙にジュリエッタを宝物殿に連れていく必要があった。サークレットの形とその保管場所を確認させるためだ。
「座長に確かめたが、王族を招く日の公演は通常の夜公演より長い時間をかけるそうだ。短く見積もっても、三時間は余裕がある」
「僕は王城に残っておきます。殿下とナーシャがサーカスに向かったら、シグルドはジュリエッタ様を連れて登城してください。宝物殿に案内いたします」
「……殿下の護衛はどうする?」
「リュトラと王国騎士団がついています。神官長は【精霊の灯】の日に公演される演目に、神殿の孤児達と一緒にサーカス団から招かれているとか」
「……分かった。その計画で行こう」
頷くシグルドの肩を叩き、俺は自分も『準備』のために動き始める。
俺の目的は、その『演目』が終わった後に催される特別なショーに、ヨルガを連れていくことだ。
確実に来てくれるだろうが、ショーを観覧するには、俺にもヨルガにも準備が必要となる。
今回はマラキアだけ『相手』が異なるのだが……それをどう動かすかは、リュトラ次第だった。
† † †
重ねた掌の間に収まる小さな白い封筒は、自分を『共犯者』と呼ぶ父が買い与えてくれたものだ。
便箋に綴った拙い願いを精霊に託し、叶うはずもない淡い夢を今はただ祈りたい。
これまで生きてきた時間の中で一番濃密な日々を過ごしていると、ジュリエッタは感じていた。
我儘を言っても誰も逆らわず、だけど誰も自分を愛さない。神殿で過ごしたのは、そんな毎日。ただ一つの希望は、幼い頃に一目で恋をした王太子に、いずれ嫁ぐ未来のこと。その時を待ち侘びていた彼女の世界は、王太子に手を引かれた美しい少女の出現で、無残にも打ち砕かれた。
絶望に意識をなくしたジュリエッタを救ったのは、他でもない実の父だ。
そして、ジュリエッタは父に受けた教えのままに、無垢な聖女を演じ始める。
演じてみて初めて、人を上から見下ろす態度よりそれがずっと楽であることに気づいた。逃走防止に傷つけられた足首は痛むが、読書も料理も小さな動物達を愛でることも。全てが輝いている。
寡黙な兄が傍にいてくれるようになってから、日々は一段と彩りを増した。
王太子とナーシャのことを思い出すと胸の奥が痛んだが、そんな時は必ずシグルドがジュリエッタに寄り添い、腕の中に抱き締めて傷ついた心を癒してくれる。
血の繋がらない兄の存在こそが、ジュリエッタを支えていた。
「……お兄様」
だからこれは、夢だ。ただの夢だから、精霊に託すことだけは許してもらえるだろう。
【精霊の灯】が開催される夜、ジュリエッタはシグルドと共に王城に行かなければならない。
精霊宛ての手紙は通常、夜ならいつ燃やしても良いが、王城から戻った後でも間に合うだろうか。
考え込むジュリエッタの掌から、するりと白い封筒が引き抜かれる。
「っ!」
弾かれるように上げた顔の先には、兄の姿があった。
「ジュリエッタ、これは? 【精霊の灯】で燃やす、手紙かい?」
「そ、そうですわ。お返しくださいませ、お兄様」
ジュリエッタに白い封筒を戻すことなく、シグルドは榛色の目をゆっくりと眇める。
「……年頃の娘が精霊に頼む事柄は、恋の悩みが多いと聞く」
「えっ!」
「図星か、ジュリエッタ……相手は誰だ」
平坦な声と共に封筒を開かれそうになり、ジュリエッタは目を丸くして兄に飛びついた。しかし片手で手紙を頭上に掲げられ、もうそこに手を届かせる手段は残されていない。
「やめてください、お兄様!」
「何故だ?」
「何故って……それは私の願いです! お兄様には関係ありませんわ!」
「……関係ないはずが、ない」
「やめて!」
ジュリエッタの制止も虚しく、取り出された二つ折りの便箋は、シグルドの手で開かれてしまった。
『来世では、お兄様の妻になれますように』
短く綴られた真摯な願いに、シグルドの身体が凍りつく。
ジュリエッタの足は力をなくし、膝の折れた細い肢体が床の上に座り込む。そのまま両手で顔を覆った彼女は、泣きながら小さく何度も「ごめんなさい」と繰り返した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、お兄様。どうか、どうか見なかったことに、してくださいませ。どうかこのまま、お忘れになって」
懸命の懇願にも、シグルドは何も言葉を発さない。
「お兄様……?」
涙に濡れた翡翠の瞳が恐る恐る見上げると、真剣な表情でジュリエッタを見下ろしていた兄は、静かに頭を振った。手にした便箋を折り曲げ、無惨にも引き裂く。
「……あっ!」
ああ、まただ。また、愛する人に拒絶された。
断罪の日に王太子から向けられた、侮蔑に満ちたあの眼差し。あれをシグルドに向けられているのかと思うと、ジュリエッタは恐怖で顔を上げられない。
せめて、せめて妹として愛してもらうことだけを望んでいれば良かったのだろうか。
愛した王太子に正面から死の宣告をされ、父の愛で立ち直りはしたものの、心は常に哀しみに満ちている。そんなジュリエッタをシグルドは真綿で包むように愛し、大事に大事にしてくれた。お前を傷つけるすべてのものから護ると誓い、額に贈られた口づけ。
勘違いをしてはいけないと、分かっていたけれど。
血の繋がらない兄を慕う想いは、ジュリエッタの心に少しずつ積み重なった。
シグルドに頭を下げたジュリエッタは、這ってでも移動しようと、うまく力の入らない足で床に膝をつく。今はとにかく少しでも、シグルドの傍から離れたい。
しかし彼女の小柄な身体は、数歩も進まないうちに逞しい腕に捕らえられていた。
「お、兄様」
「ジュリエッタ……」
「お願い、お願いお兄様。お放しになって……今は、今はどうか」
「……もう、放さない」
ジュリエッタの返事を聞く前に――シグルドの唇は、ジュリエッタの唇に重ねられていた。
啄むようにしてすぐに離れた唇は、それでもその意味をしっかりと伝えていて……
「おにい、さま……?」
震える声で問いかけるジュリエッタを腕に閉じ込め、シグルドは恍惚とした表情を晒した。
「俺の可愛い、ジュリエッタ。これが夢でない証拠に、もう一度お前の唇に触れさせてくれ」
少しだけ深みを増した口づけは、舌を軽く吸い上げ、優しく距離を置く。戸惑うジュリエッタの手に戻されたのは、破られた白い便箋だ。綴られた短い文面から一つの単語が破り取られている。
『お兄様の妻に、なれますように』
ジュリエッタの肩が驚愕に揺れた。シグルドはそんな妹の眦に、頬に、首筋に、何度も唇で触れては、甘い熱を灯していく。
「ジュリエッタ……俺の可愛い妹。そして、最愛の女。どうか、俺の愛を受け入れてくれ」
「おにい、さま……」
「シグルドだ」
「……で、でも」
「シグルド」
「……し、しぐる、ど……にいさま」
震える唇が告げる名前は、まだたどたどしい。それでも薄桃色の舌に乗せた名前が敬愛する主君のものではなくなった事実は、シグルドの気持ちを昂らせたようだ。
「ジュリエッタ……俺はお前を、心の底から愛している」
「シグルド、兄様……」
「乗り越えよう。『竜の玉』を探し当て、必ずジュリエッタを救ってみせる……だから、竜神祭が終わったら……俺の妻になってくれ」
「……っ!」
「殿下のことは……殿下のことは、もう忘れろ。お前の心を、その優しさを、想い続ける芯の強さを、欠片も見抜けなかった男にジュリエッタを妻にする資格なんてない」
「シグルド兄様……」
説得じみたシグルドの告白。ジュリエッタは彼の腕に身体を預け、銀色の髪を肩に擦り付けた。
「お兄様……あの、ですね。……私」
「ん……?」
「面と向かって『死ね』と言ってきた相手を愛し続けるほど、できた女ではありませんの」
「……ぷはっ」
ぷすと頬を膨らませて見上げたジュリエッタに、シグルドが笑う。
「私、頑張ります……カリス猊下に玉をお返しできるように努めますわ……でも、シグルド兄様」
「……ああ」
「ひとつだけ、ひとつだけ約束してくださいませ。もし、万が一私が『玉選び』を誤り、猊下の糧となっても。ご自分がその先で幸せになることを、決して諦めないと」
「……ジュリエッタ」
「それをお約束いただけるのなら……ジュリエッタは、竜神祭が終わったら……シグルド兄様の妻に、なります……ならせて、ください」
兄の心を、未来を護ろうとする妹の想いは、山よりも高く、海よりも深い。だからシグルドは、その時は共に逝くと定めている決意を隠し、穏やかに笑ってみせた。
「……約束する。でも『玉選び』は必ず成功させる。……俺と共に、生きていこう」
「はい……」
誓いの言葉を交わす二人は、互いの額を押し当てて触れ合う距離で密やかに微笑み合う。
「愛している……俺の、ジュリエッタ」
「愛してます……私の、シグルド……兄様」
兄と呼ぶ妹を、妻にする日を。血の繋がらない兄を、夫とする日を。二人は心待ちにした。
† † †
私達じゃダメなんだよ、と悲しそうに呟く声が、耳から離れない。
竜巫女メリアに唆されて神殿を襲撃した賊達に立ち向かい、敵わず重傷を負った神殿騎士達は、幸いなことに全員、順調な回復を見せていた。不足する神殿騎士達の代わりに神殿の警備を引き受けたのはリュトラの同僚である王国騎士団の仲間達だ。彼らは騎士団長であるヨルガと王太子ウィクルムの許可を得て、交代で神殿に通ってくれている。
本来神殿は、国教である竜神信仰の総本山とは言え基本は秘密主義であり、閉鎖された場所であるとの認識が一般的だ。そんな彼らが王国騎士団の助力を良しとするかどうかは意見が分かれたのだが、神殿に勤める神官達や女官達は、王国騎士団の援助をすんなりと受け入れた。
それには、リュトラの影響が大きい。神殿騎士は言うに及ばず神官や女官達も孤児出身者が多い神殿側から見れば、貴族が殆どを占める王国騎士団は、自分達とは生まれも育ちも違う、他所の国の者に等しい存在だった。
しかしマラキアに紹介されたリュトラは、その印象を覆す青年だ。育ちの良さに反して気さくな気性で面倒見が良く、文句を言いつつも子供達と走り回る姿は、何とも微笑ましい。神殿騎士達の相談にも嫌がらず乗ってくれるし、女性には紳士的で、力仕事には率先して駆けつける。
王国騎士団の騎士。自分達とは違う高い身分。でも彼らも自分達と同じ、笑ったり怒ったり泣いたりする。そう素直に敬い、心からの感謝と称賛を与えてくれる神官達や女官達に、王国騎士団の騎士達も、好意を抱いた。
さらに騎士達の心を揺さぶったのは、これまで危険人物だと王城でも騎士団内でもマークし続けていた、神官長マラキアの生活だった。
かつてその日課に付き合ったリュトラも戸惑った忙しさと、パルセミス王国の国民に、そして神たる古代竜に対して献身的に尽くす毎日。王城に赴く際はダルマティカを身につけて結い上げた白髪をミトラの中に押し込んだ整粛な姿で現れるマラキアだが、今は頭に傷を負ったこともあって正装は省略し、身軽なチュニック姿で過ごすことが多い。視線が合うと微笑み、いつもありがとうございますと美しい所作で捧げられる労いの言葉に、王国騎士団の騎士達は次々と傾倒していった。
反比例して悪くなるのは、【精霊の灯】を前に何かと忙しく、マラキアと一緒にいられないリュトラの機嫌だ。彼は騎士仲間がマラキアを褒めるたびに、「そうだろう」と頷く誇らしさと同時に「知っているのは自分だけで良かったのに」と仄暗い感情を燻らせるようになっていた。
マラキアも最近は慣れてきたのかリュトラに対して無防備で、一日の終わりにリュトラの部屋で話し込んだ末に「帰るのが面倒になった」と同じベッドで遠慮なく眠ったりするのだ。
アルビノ体質であるマラキアの肌と髪は抜けるように白く、夜闇の中でシーツに包まると、まるで肌との境界線を溶いたかのように白い波の間に隠れてしまう。そっと手を伸ばしたリュトラがシーツごと抱き寄せると、布地の下に隠された身体は成人男性のものとは思えないほど柔らかい。
本人には気づいてもらえないのに何故か周りはリュトラの気持ちに敏感で、何かとマラキアとリュトラを二人きりにさせようと画策してくれる。だが、マラキアがざくざくとその計略を踏み抜いてしまうので、一向に良い雰囲気にならないのだ。
そして【精霊の灯】を数日後に控えた、ある日の午後。
リュトラは、治療院に入院しているエイミーから呼び出しを受けた。
既に妹みたいな感覚を抱いているエイミーが、何事だろうと治療院を訪れたリュトラに教えたのは、神殿、そして子供達を護るためにマラキアがずっと前から捧げている、悲愴なまでの献身だ。
「……私達じゃダメなんだよ、リュトラ様」
未だベッドの上から動けない身体で涙の粒を眦に浮かべたエイミーは、悔しそうに呟いた。
「私達は神殿の子だ。マラキア様に護ってもらった立場だ。マラキア様に頼って生き延びた命だ」
自分達がどうやって『生かされていたか』を彼女が知ったのは、その意味を理解できる年齢になってからだったという。
「十年ぐらい前までは、王侯貴族達と神殿の関係はあまり良くなかったんだ。不干渉ならまだ良い。過干渉だったんだ。神殿は王侯貴族から無茶な要求を受け続けていた」
当時のマラキアは十八歳。ちょうど、今のリュトラと同じ歳だ。
子供達にとって、同じ孤児出身でありながら十八歳にして既に神官職に就いていたマラキアは、憧れの存在だった。孤児達に向けられる彼の笑顔は、いつも穏やかで優しい。
「リュトラ様……マラキア様は綺麗だろ?」
エイミーは泣き笑いの顔で、リュトラを見上げる。
「でも、人って、さ……綺麗なものほど、踏みにじりたく、なるんだって」
神殿騎士達にとって、そして孤児達にとって、光のように美しいと仰ぐ人。
「マラキア様は、マラキア様は……私達を、子供達を、その『無茶な要求』の餌食に、しないために」
「……エイミー……」
「いっつも、いつも、一人で。一人で、貴族の集まりに、呼び出されてた。もっと、幼い頃からそうなんだって。私達がその事実を知る、ずっと前から。ジュリエッタ様が竜巫女になられた関係で、元宰相閣下に目をかけていただけるように、なるまで」
そこでエイミーは一つ息をついた。
「リュトラ様。多分マラキア様は、リュトラ様のこと、すごく、気に入っていると、私は思う」
神殿の子供達にとって、マラキアは父で、兄で、恩師だ。長く一緒にいたからこそ、分かるものもある。察することができることもある。
彼がリュトラに見せるわざとらしいまでの気易さは、きっと淡い想いの裏返しなのだ。
「でも、いつか……いつかリュトラ様に、それを、過去を、知られてしまうから。だから、最初から、気づかないようにするって、決めてるんじゃ、ないかな。リュトラ様を……傷つけないように……リュトラ様が、自分を想い続けたり、しないように」
洟を啜りながら瞳を閉じて告げたエイミーの言葉は、リュトラの胸を強く打った。
† † †
「――確かに僕の過去はね、神殿の皆が思ってる通りですよ。幼い僕を売った母親なんて顔も覚えてないし、初体験が誰かなんて分かるもんですか。この無駄に整った顔と生白い身体のせいで、いつも男達は僕の上に乗って足を開かせ、汚いペニスを突っ込みたがる。男性としての機能も潰された。……でもだからこそ、僕は生き残れた」
運命の刻限が迫り、その時を待つ俺の眦から頬にかけて、マラキアの持つ筆が羽を広げた蝶を描き上げる。今宵限りの蜉蝣と消えるか、舞い続ける胡蝶となるか。
「……でもね、アンドリム様。皆が未だに勘違いしていることが一つあります」
マラキアの置いた筆を今度は俺が握り、茜色の目を緩く閉じたマラキアの眉間に、小さな蓮の華のモチーフを描く。花弁を開いた、泥より出でる清らかな華。
蓮の華が示す言葉は、「純粋」「神聖」「沈着」そして、「純潔」。
「僕は、あの行為そのものは別段嫌いじゃない。僕は女を抱ける身体をしていませんし、多少貧弱ですがこれでも男ですから孕むこともない。そんな僕を抱いて興奮する男達は、いかにも哀れで、滑稽だ。感じているフリをしてやるのだって、大得意です」
「……成るほどな」
「誰もが僕の生い立ちを可哀想だと言う。精通も経験せずに男に抱かれ続け、身体を弄られ、貴族達の玩具にされ。僕の幸せ、安らぎは、何処にあるんだって。……余計なお世話だと思いません?」
ねぇと同意を求められても、俺は肩を竦めるしかない。
「それをリュトラに言ってやるなよ? 泣かれるぞ」
「言いませんよ。ただでさえ懐かれすぎだなって、反省してるのに」
「ほう? 結局喰わせてやる気はないのか」
ああ見えてリュトラは、騎士団の中ではかなりの実力者だ。その上名家の出身で、実父は現王国騎士団長。貴族の娘辺りなら、喜んで身体を差し出し既成事実でも作るところだろう。
「どうしようかと、考えたんですけどね。やっぱり、子供の相手はごめんです。……騎士団長殿やシグルド殿を見るに、オスヴァイン一族は執着が強い。束縛されるのは性に合いません」
「ハッ……その強がりがいつまでもつかな」
それこそが『特別扱い』なのだと気づいていない台詞を笑った俺は、蓮を描き終えた筆をテーブルに置く。薄く瞼を開いたマラキアの白髪に指を絡めて頭を引き寄せ、唇を軽く吸ってやった。
間近で見える驚愕の表情に気を良くして、もう一度唇を重ねる。迎え入れるように開かれた唇の間に舌を差し込み初めて味わうマラキアの唾液は、ヨルガとは随分違う味をしていた。しばらく柔らかい唇と温かい口内を堪能した後でマラキアの頭を解放すると、胡乱な瞳で見つめられる。
「……お情けでもいただけるのですか?」
「抜かせ……単なる餞だ。ヨルガの選択しだいでは、俺はもう戻らん」
「……アンドリム様」
「俺がヨルガに殺されても、お前やジュリエッタに影響はないはずだ。ほとぼりが冷めたら、お前は他国に亡命したら良い。ジュリエッタのことは、シグルドが護るだろう」
俺は身につけていた衣服を脱ぎ捨て、予め用意していた衣装を手に取る。
ノースリーブのトップスに、全身を覆えるほど大きいシルクのショール。太腿の付け根にまでスリットの入ったハーレムパンツと、フリンジがちりばめられたヒップスカーフ。パンジャアンクレットを嵌めた足の甲には、まだ傷が赤く引き攣り生々しい、オスヴァイン家の焼印を押した痕。
焼印の痕は、前世で取った杵柄の成果だ。木工用ボンドと絵具で作る傷跡メイクを糊と膠を代用して作ったのだが、思ったより上手くできている。ぱっと見では作り物とは思えない。
それにしても……自分で準備しておいて何だが、このまるっきりラクス・シャルキの衣装で死ぬのは、ちょっと嫌だ。
今日は、【精霊の灯】が催される日。既にシグルドとジュリエッタは王城近くにあるオスヴァイン家の屋敷に身を潜め、王太子とナーシャがサーカス鑑賞に出掛けるのを待っている。
今夜の公演では、メインテントの舞台際に誂えられた貴賓席の一つを押さえてあった。俺とヨルガは薄い天幕の張られたそこで、王太子とナーシャの様子を観察する予定だ。……まぁ、真の目的はメイン公演の後だが、それは始まってからのお楽しみだな。
サーカスに向かう前に、俺はマラキアの手を借り、王侯貴族が好んで侍らせる愛妾の装いを作り上げた。今夜だけは、ヨルガに連れられた俺が元宰相であるアンドリム・ユクト・アスバルだと見抜かれるわけにいかない。マラキアの話では、男女を問わず、この手の装いをさせる貴族は多いとのこと。古今東西、男の好みは変わらないということか。
自分でも鏡を見て確認したが、今の姿の俺をアンドリムだと見抜ける者はほぼいないだろう。我ながら良い化けっぷりだ。
屋敷を訪れたヨルガのほうは如何にも貴族の休日らしい、ダークカラーのジュストコールと丈の長いジレという格好だったのだが、俺はそんなヨルガの髪や衣装に少し手を加えていた。
整えられていた髪型を崩し、額と耳の上に赤みを帯びた黒髪を下ろして乱す。ブラウスはフリルを抑え、光沢があり筋肉の隆起に沿う布地のものに。ジレは腰上の短い丈のものに替えさせた。
それだけで、剣を腰に帯びたヨルガの外見は、これまでになく野性味を帯びる。
元々、騎士団一の美丈夫と謳われていた男だ。有閑マダム達がむしゃぶりつきそうだな。
俺がショールを頭から被ったところで、額に蓮の華を飾ったマラキアは、いつもと変わらぬ聖職者の姿でぽつりと呟く。
「僕にはまだ、理解ができません。何故ここまで来て貴方ほどの人が、騎士団長如きに運命を委ねるのですか」
貴方なら騎士団長殿を思うままに動かすくらい簡単だろうにと、マラキアは言いたげだ。
この四ヶ月ほどの間、マラキアは俺によくついてきてくれた。手足のように動き、求めるものを先読みした行動は、充分に助けてくれている。
そんなマラキアでも、俺のこの行動だけは、理解し難いとみえた……だが俺がヨルガに求めるものは、従属でも強制でもない。だから投げかけられた疑問に、口の端で笑う。
「マラキアよ、覚えておけ。選択とは、な。呪いだ」
恐らくこれが、俺が仕掛ける最後の罠。
この賭けに勝てば、後は勝手に駒が動いて相手を追い詰める。万が一負けたとしても、既に動き出した流れは、もう止められない。ただ俺がこの舞台から退場するだけ。
「俺もヨルガを選択したことで、一つの呪いを受けた。おそらく生涯、覆せない呪いだ。それでも俺の目的には、どうしてもヨルガを手に入れる必要があった。そのためならば、俺の身体なんぞいくらでも抱かせてやるさ」
「……難しい話ですね」
「そうか? 至ってシンプルだ。お前にその答えを教えるのは、あの狗かもしれんぞ」
「まさか……それこそありえない」
今度はマラキアが肩を竦める。そうこうしている内に、トーマスが俺とマラキアが着替えに使っている客間の扉をノックしてきた。どうやら、そろそろ迎えの馬車が来たらしい。
「マラキアは、まずは子供達とサーカス鑑賞だったな?」
「ええ、座長殿に特別招待を受けました。概ね、サーカス団に付き添うあの男の差し金でしょう」
「相変わらずお前を欲しがっているのか。執念だな」
「金払いは良いから、嫌いじゃないですよ。国外に連れ出されるのが嫌なだけです」
「まぁ、久々に【神殿育ち】と会うのもいいだろう……また、後でな」
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