73 / 75
第七章 帝国の象徴〈転〉
13 遠き安らぎ
しおりを挟む
── 帝城・王女の居室 昼 ──
格子窓の向こうで、薄曇りの光が揺れていた。
石畳を撫でる風の音だけが、遠くにかすかに届く。
王女は窓辺の椅子に腰かけ、頬杖をついたまま外を眺めていた。
指先の上を、冷えた光がゆっくりと滑る。
眠れば、また夢を見る。
けれど、それが悪夢でも――もう、胸はさざめかない。
幾度も繰り返されるうちに、心の方が夢に馴染んでしまったのだ。
というより――あれは、夢ではないのだ。
血の色も、炎の熱も、誰かの叫びも。
すべてが現実であり、繰り返されるのは「忘れるな」と告げる刻印にすぎない。
(……夢じゃない。忘れてはいけない記憶)
まぶたを閉じると、数日前のミレイユとのやり取りが浮かんだ。
――自分のために亡くなった民の遺族の元に、弔問に訪れたい。
そう告げたとき、ミレイユはほんの一瞬だけ、沈黙した。
「姫様は今は城の中で静養することが厳命されています。遺族への対応は、すべて陛下の方で行われております」
淡々とした声。その一点張りだった。
だが、彼女が言わなかった言葉の先を、王女は察していた。
――おそらく、弔問など望まれていないのだ。
災いをもたらした姫に、どんな顔で祈られるというのか。
膝の上で組む手の力が思わず強くなる。
その次に施療院のことを尋ねようとして、言葉が喉で止まった。
ユリオたちの笑顔が浮かぶ。
あの日、彼らにとって誇らしいはずだった場を、自分は――血と恐怖で汚してしまった。
その思いが胸に沈み、呼吸が浅くなる。
結局、為すこともなく、昼も夜も、王女はこうして窓辺に座り、ただぼんやりと光と影の移ろいを見送っていた。
書を読むでもなく、糸を手に取るでもなく、一日が、音もなく過ぎていく。
(また、籠の中にいる……)
ふと、そんな言葉が胸をかすめる。
けれど、すぐに首を横に振った。
――違う。
きっと、籠の扉はもう開いているのだ。
ただ、自分が怖くて、
その外へ出られないだけ。
光がゆるやかに傾き、格子の影が王女の頬を横切った。
その線の向こうで、遠く鐘の音が鳴っていた。
扉が静かに開く音がした。
振り向かずとも、足音でわかる。
重く、ためらいのない、城でただ一人の男の足取り。
「……まだ、すぐれぬらしいな」
低く落ち着いた声が、背後から届いた。
王女は返事をせず、ただまぶたを伏せたまま微かに首を傾ける。
光はもう傾き、格子の影が床に長く伸びている。
ダリオスは窓辺へと歩み寄り、王女の横に立った。
その影がわずかに重なり、室内の空気がひとつ深まる。
しばし沈黙。
そののち、静かな声が落ちた。
「……あれは、お前の責ではない」
王女のまつげが、かすかに震えた。
「全て、俺の判断が招いたことだ」
その声は、ただ淡々と、事実を述べるように告げられた。
王女はゆっくりと顔を上げ、隣りに立つ男の顔を見つめた。秋の光が細く差し込むその中で、彼の瞳は揺るがなかった。
ダリオスの言葉は静かで、何の飾りもない。
けれど――胸の奥の重さは、少しも軽くならなかった。
(……なぜ、だろう)
彼のせいだと、そう思えば楽になれるはずなのに。
実際、彼の言葉に嘘はない。
暗殺者をおびき出すために自分を囮にしたのは彼であり、その策が民の血を呼んだのだ。
あの日、大円堂の回廊で問うたとき――
『お前が知るべきことは、すべて伝えてある。それ以外は、知る必要がない』
そう、彼は言い放った。
結局、自分はこの男の掌の内で駒の一つとして置かれ、何も知らされずに舞台に立った。
(それなら、私は何も悪くない……はずなのに)
けれど――心は、うなずかなかった。
ふと、かつての言葉が蘇る。
──『だから支配者として命じる。お前はお前の持つもの――立場も、資質も、能力も、すべてこの帝国のために差し出せ。それを裏切りだと感じるならば、俺の命令を拒めない己の無力をこそ嘆け』
あの言葉が、王女の心の免罪符となったはずだった。
だからこそ、自らの“裏切り”の痛みに向き合いながらも、施療院の仕事へと再び歩き出すことができた。
けれど今、同じように“お前の責ではない”と告げられても――
その言葉は、不思議と、何も癒やしてはくれなかった。
窓の外では、雲がゆっくりと流れていた。薄い光が、床の石目を静かに撫でていく。
二人の間に、言葉のない時が流れる。
互いの視線は、同じ一点で交わりながら、どこか別のものを見ていた。
ダリオスは、その瞳の奥に沈む何かを測るように、
王女は、その黒の奥に揺れる自分の影を確かめるように。
見つめ合いながらも、互いに届かぬ沈黙だけが、間を満たしていた。
やがて、ダリオスが低く息を吐いた。
その吐息が、静まり返った部屋に溶ける。
「とにかく――お前は、しばらく静養していろ」
それだけを残し、背を向ける。
靴音が石床に吸い込まれていく。
扉が静かに閉じられ、空気がひときわ重く沈んだ。
残された王女は、ただその背の残響を見送っていた。
外では風が格子を鳴らし、開かれぬ籠の中に、微かな冷気だけが流れ込んでいた。
── 執務室 夕刻 ──
日の光が傾き、硝子窓の縁に淡い黄金が滲んでいた。
机上の文書に影が伸び、静けさの中に羽根筆の音だけが残る。
ダリオスは筆を置き、短く告げた。
「――王女を、しばらく旧都で静養させる」
脇机で書面を綴っていたセヴランがわずかに眉を上げる。
「旧都に、ですか」
「ここでは目も耳も多すぎる。空気を変えた方がいい」
ダリオスは机の上の地図に視線を落としながら続けた。
「それに――旧都の方が、あの女には合っているだろう。あの街はまだ、古い王国の風を少しだけ残している。ああいう空気の方が、あいつも落ち着くはずだ」
セヴランは一瞬まぶたを伏せ、静かに頷いた。
「確かに、旧都は彼女の故国に近しい雰囲気がありますね」
「そういうことだ」
ダリオスは軽く顎を引き、声を低める。
「ルガード元帥にその旨を伝えろ。護衛と滞在の準備を整えさせる」
セヴランは静かにうなずき、筆記台に手を伸ばす。
「承知しました。旧都の邸はまだ維持されております。療養地としても申し分ないでしょう」
「……あの場所なら、風も静かだ」
ダリオスは窓の外に目を向けた。
帝都の尖塔が淡く霞み、遠くに沈む光を受けて灰色に輝いている。
「報せを急げ。出立は早くて三日後だ」
「御意」
セヴランの筆が走る音だけが、しばらく執務室に響いた。
その音を聞きながら、ダリオスは腕を組み、静かに、遠い旧都の景色を思い描いていた。
格子窓の向こうで、薄曇りの光が揺れていた。
石畳を撫でる風の音だけが、遠くにかすかに届く。
王女は窓辺の椅子に腰かけ、頬杖をついたまま外を眺めていた。
指先の上を、冷えた光がゆっくりと滑る。
眠れば、また夢を見る。
けれど、それが悪夢でも――もう、胸はさざめかない。
幾度も繰り返されるうちに、心の方が夢に馴染んでしまったのだ。
というより――あれは、夢ではないのだ。
血の色も、炎の熱も、誰かの叫びも。
すべてが現実であり、繰り返されるのは「忘れるな」と告げる刻印にすぎない。
(……夢じゃない。忘れてはいけない記憶)
まぶたを閉じると、数日前のミレイユとのやり取りが浮かんだ。
――自分のために亡くなった民の遺族の元に、弔問に訪れたい。
そう告げたとき、ミレイユはほんの一瞬だけ、沈黙した。
「姫様は今は城の中で静養することが厳命されています。遺族への対応は、すべて陛下の方で行われております」
淡々とした声。その一点張りだった。
だが、彼女が言わなかった言葉の先を、王女は察していた。
――おそらく、弔問など望まれていないのだ。
災いをもたらした姫に、どんな顔で祈られるというのか。
膝の上で組む手の力が思わず強くなる。
その次に施療院のことを尋ねようとして、言葉が喉で止まった。
ユリオたちの笑顔が浮かぶ。
あの日、彼らにとって誇らしいはずだった場を、自分は――血と恐怖で汚してしまった。
その思いが胸に沈み、呼吸が浅くなる。
結局、為すこともなく、昼も夜も、王女はこうして窓辺に座り、ただぼんやりと光と影の移ろいを見送っていた。
書を読むでもなく、糸を手に取るでもなく、一日が、音もなく過ぎていく。
(また、籠の中にいる……)
ふと、そんな言葉が胸をかすめる。
けれど、すぐに首を横に振った。
――違う。
きっと、籠の扉はもう開いているのだ。
ただ、自分が怖くて、
その外へ出られないだけ。
光がゆるやかに傾き、格子の影が王女の頬を横切った。
その線の向こうで、遠く鐘の音が鳴っていた。
扉が静かに開く音がした。
振り向かずとも、足音でわかる。
重く、ためらいのない、城でただ一人の男の足取り。
「……まだ、すぐれぬらしいな」
低く落ち着いた声が、背後から届いた。
王女は返事をせず、ただまぶたを伏せたまま微かに首を傾ける。
光はもう傾き、格子の影が床に長く伸びている。
ダリオスは窓辺へと歩み寄り、王女の横に立った。
その影がわずかに重なり、室内の空気がひとつ深まる。
しばし沈黙。
そののち、静かな声が落ちた。
「……あれは、お前の責ではない」
王女のまつげが、かすかに震えた。
「全て、俺の判断が招いたことだ」
その声は、ただ淡々と、事実を述べるように告げられた。
王女はゆっくりと顔を上げ、隣りに立つ男の顔を見つめた。秋の光が細く差し込むその中で、彼の瞳は揺るがなかった。
ダリオスの言葉は静かで、何の飾りもない。
けれど――胸の奥の重さは、少しも軽くならなかった。
(……なぜ、だろう)
彼のせいだと、そう思えば楽になれるはずなのに。
実際、彼の言葉に嘘はない。
暗殺者をおびき出すために自分を囮にしたのは彼であり、その策が民の血を呼んだのだ。
あの日、大円堂の回廊で問うたとき――
『お前が知るべきことは、すべて伝えてある。それ以外は、知る必要がない』
そう、彼は言い放った。
結局、自分はこの男の掌の内で駒の一つとして置かれ、何も知らされずに舞台に立った。
(それなら、私は何も悪くない……はずなのに)
けれど――心は、うなずかなかった。
ふと、かつての言葉が蘇る。
──『だから支配者として命じる。お前はお前の持つもの――立場も、資質も、能力も、すべてこの帝国のために差し出せ。それを裏切りだと感じるならば、俺の命令を拒めない己の無力をこそ嘆け』
あの言葉が、王女の心の免罪符となったはずだった。
だからこそ、自らの“裏切り”の痛みに向き合いながらも、施療院の仕事へと再び歩き出すことができた。
けれど今、同じように“お前の責ではない”と告げられても――
その言葉は、不思議と、何も癒やしてはくれなかった。
窓の外では、雲がゆっくりと流れていた。薄い光が、床の石目を静かに撫でていく。
二人の間に、言葉のない時が流れる。
互いの視線は、同じ一点で交わりながら、どこか別のものを見ていた。
ダリオスは、その瞳の奥に沈む何かを測るように、
王女は、その黒の奥に揺れる自分の影を確かめるように。
見つめ合いながらも、互いに届かぬ沈黙だけが、間を満たしていた。
やがて、ダリオスが低く息を吐いた。
その吐息が、静まり返った部屋に溶ける。
「とにかく――お前は、しばらく静養していろ」
それだけを残し、背を向ける。
靴音が石床に吸い込まれていく。
扉が静かに閉じられ、空気がひときわ重く沈んだ。
残された王女は、ただその背の残響を見送っていた。
外では風が格子を鳴らし、開かれぬ籠の中に、微かな冷気だけが流れ込んでいた。
── 執務室 夕刻 ──
日の光が傾き、硝子窓の縁に淡い黄金が滲んでいた。
机上の文書に影が伸び、静けさの中に羽根筆の音だけが残る。
ダリオスは筆を置き、短く告げた。
「――王女を、しばらく旧都で静養させる」
脇机で書面を綴っていたセヴランがわずかに眉を上げる。
「旧都に、ですか」
「ここでは目も耳も多すぎる。空気を変えた方がいい」
ダリオスは机の上の地図に視線を落としながら続けた。
「それに――旧都の方が、あの女には合っているだろう。あの街はまだ、古い王国の風を少しだけ残している。ああいう空気の方が、あいつも落ち着くはずだ」
セヴランは一瞬まぶたを伏せ、静かに頷いた。
「確かに、旧都は彼女の故国に近しい雰囲気がありますね」
「そういうことだ」
ダリオスは軽く顎を引き、声を低める。
「ルガード元帥にその旨を伝えろ。護衛と滞在の準備を整えさせる」
セヴランは静かにうなずき、筆記台に手を伸ばす。
「承知しました。旧都の邸はまだ維持されております。療養地としても申し分ないでしょう」
「……あの場所なら、風も静かだ」
ダリオスは窓の外に目を向けた。
帝都の尖塔が淡く霞み、遠くに沈む光を受けて灰色に輝いている。
「報せを急げ。出立は早くて三日後だ」
「御意」
セヴランの筆が走る音だけが、しばらく執務室に響いた。
その音を聞きながら、ダリオスは腕を組み、静かに、遠い旧都の景色を思い描いていた。
0
あなたにおすすめの小説
転生後はゆっくりと
衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。
日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。
そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。
でも、リリは悲観しない。
前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。
目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。
全25話(予定)
モブ転生とはこんなもの
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
あたしはナナ。貧乏伯爵令嬢で転生者です。
乙女ゲームのプロローグで死んじゃうモブに転生したけど、奇跡的に助かったおかげで現在元気で幸せです。
今ゲームのラスト近くの婚約破棄の現場にいるんだけど、なんだか様子がおかしいの。
いったいどうしたらいいのかしら……。
現在筆者の時間的かつ体力的に感想などを受け付けない設定にしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
他サイトでも公開しています。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
生きるために逃げだした。幸せになりたい。
白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。
2020/9/19 第一章終了
続きが書け次第また連載再開します。
2021/2/14 第二章開幕
2021/2/28 完結
走馬灯に君はいない
優未
恋愛
リーンには前世の記憶がある。それは、愛を誓い合ったはずの恋人の真実を知り、命を落とすというもの。今世は1人で生きていくのもいいと思っていたところ、急に婚約話が浮上する。その相手は前世の恋人で―――。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる