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序章 (青年期編)
別れ話
しおりを挟むソロリサイタルが無事に終わった数日後、私はパウロス先輩と二人でお洒落な個室のレストランで最後の夕食をとっていた。
ヤケになっているかのように酒を多量に口にし無理に明るく振る舞う私と、それを苦笑いで見つめるパウロス先輩。
彼はきっと今日、私が別れ話とまではいかなくとも、良くない何かを言いに来たことは分かっているだろう。
「あの、話があるの」
手に持っていたフォークを置き、テーブル下に隠れている自身の服の裾をぎゅっと握りしめる。
しかしパウロス先輩はいつも通りに微笑んで「俺も話がある」と私の頬にかかる髪を優しく撫でた。
「えっ。そ、そうなの?」
「うん、俺から言ってもいい?」
その甘くも真剣な雰囲気にプロポーズかもしれない――という考えが一瞬よぎった時、不快な感覚が胸をよぎる。
パウロス先輩の瞳にかかる影が切なさを予感させて、私は恐る恐る「うん」と答えた。
目の前に座るパウロス先輩は目を閉じゆっくりと深呼吸をし、静かに目を開けた。
そして一瞬だけ私と視線が外れ、また視線は私へと注がれる。
一体何を言われるのだろうかと、胃が焼けるような緊張と不安とで呼吸さえも忘れていく。
「あの……」
「――別れようか」
パウロス先輩は一言、ただ一言そう言った。
「え――――?」
パウロス先輩から発された言葉は、予想していなかったものだった。
私が今日別れ話をすることは誰にも言っていないから、彼に伝わることは有り得ない。
それに、傍から見れば上手くいっている二人に見えただろう。
私だってできる限り彼に尽くしてきたし、彼も私に本当によくしてくれていた。
――いや、良かったといえば良かったのかもしれないその言葉。
しかしパウロス先輩の張り詰めた甘い視線に、なぜ――という疑問が胸に残り消えてくれない。
「ラミエルの事は、今でも普通に好きだけど」
悲しい話なんて何も無いかのように、彼は優しく微笑みながら言葉を紡いでいく。
「別れたい」
静かな空間に響く一言。胸を殴られるような感覚。
聞き間違いではない。
はっきりと彼の、パウロス先輩の口からその言葉を聞いた時、私はその言葉の重さを知った。
カナタに気持ちが傾いていること。
それを持ったままパウロス先輩と一緒にいることは出来ないということ。
もうパウロス先輩への気持ちは一切残されていないのに、その言葉が鼓膜を通った時、私は確かに胸を叩かれるような悲しさを感じた。
そして、まだ好きという彼の別れの言葉――。
私にはその真意が分からなかった。
「あの……えっと」
戸惑って言葉が出てこない私にパウロス先輩は軽く笑った。
「ラミエルから別れを告げさせる訳にはいかないからね」
「……え」
その言葉に衝撃が走った。
気付いていたのだ。パウロス先輩は。
彼を傷つけるようなことをしていたという事実が、罪悪感となって心に侵食していく。
パウロス先輩は微笑みを崩すことなく、静かに語り出す。
「正直あのカフェの時? から、ラミエルがセターレくんを見る度に本当に嫉妬に狂ってたよ。でも、ラミエル……にその事を伝えたところでどうにもならない事も分かってたし。セターレくんと昔から仲良かったのは知ってたし。…………学生の頃、ラミエルは色んな子と一緒に居たけど、でもセターレくんがいつも一緒にいたのは、あの琥珀色の瞳の子か、ラミエルだけだったなってなんか、嫌なこと思い出しちゃって」
「先輩」
「俺、おかしいよね。ラミエルの事は信じてるよ。でも、俺は誰かを憎みたくないし、嫉妬に苛まれるのも嫌だから。それに、ラミエル、自分を責めるでしょ?」
彼の言葉一つ一つに詰められた優しさが柔くなった胸を突き刺していく。
そのすべてに応えることが出来なくなってしまった事が、こんなにも辛いとは知らなかった。
「だから、別れよう。俺から振ったんだから、ラミエルが罪悪感なんて感じることない」
「…………はい」
涙が頬を伝うことは許さなかった。
彼の優しさを受け止めることがこの時の私に出来る精一杯だった。
まだ憧れているとか、あの頃から本気でかっこいいと思っていたとか、ごめんなさいなんて、そんな未練じみた言葉はパウロス先輩を苦しめるだけだと分かっていた。
それでも――感謝だけは伝えたかった。
「ありがとう。先輩の行く先が幸せであることを、祈ってます」
「うん、ありがとう」
星が浮かぶ寒空。
最後別れる時、最初に背を向けたのはパウロス先輩の方だった。
そうして私はお酒に酔ってふらつく足で家路に着いた。
理性が失われていく感情のせいで、一筋、一筋と涙がこぼれ落ちていく。
部屋に戻れば、孤児院の子供達から貰った工作や手紙などを差し置いて、この時ばかりは過去カナタから貰った小説や帽子や、手紙が目に付いた。
――会いたかった。
会いたい人に会えないことがこんなにも辛いだなんて知らなかった。
別にパウロス先輩と別れなくてもよかったはずだ。
だって私が別れたところで、カナタには相手がいる。
別れたところでカナタに会える保証も、権利も何も生まれない。
きっと孤独だけが残るはずだと私は知っていた――。
それでも、私は一人を選んででも孤独を選んででも、一縷の希望を抱くことを望んだ。
だって悲しい時、嬉しい時、苦しい時、そばにいて欲しいのはカナタだったと気付いたのだ。
そして、カナタが悲しい時、嬉しい時、苦しい時、寄り添いたいと強く思うことも。
ソロリサイタルの時、拍手をくれたカナタの笑顔が胸の傷を癒していたこと。
例えカナタの想う人が別にいて、私だけに笑顔が貰えないとしても、それでも私はカナタへの気持ちが変わることはないと。
一生叶わなくても構わない。
私はただ望みたかった。
彼を好きでいる事を。
――私はずっとカナタが好きだったんだって。
それは罪悪感と共に溢れだしてきた思いだった。
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