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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

第7話 夢見の少年

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【前回のあらすじ】
 東宮へといきなり連れていかれたリーゼロッテ。そこで待っていたのはクリスティーナ王女で。新たに降りた神託は、リーゼロッテを危険から守るものだと聞かされます。
 離れゆく距離と反比例するように、ジークヴァルトへの思いは募っていくばかり。会いに来たジークヴァルトと逢瀬を楽しむも、帰る直前に深く口づけられて。
 その場面を王女たちに見られてしまい、穴があったら入りたいリーゼロッテなのでした。






 朝食を終え、何もすることがなくなったリーゼロッテは、小さくため息をついた。
 気ままにひとりで食べる食事も、続くとやはり味気ない。ここ数日顔を合わせているのは、アルベルトとヘッダだけだ。だがヘッダは食事を届けに来るだけで、ろくに会話もせずにすぐ行ってしまう。

 東宮には本当に異形の者はいないようだった。部屋も廊下もテラスから見える外も、空気が澄みきっていてとても気持ちがいい。

(でも小鬼の一匹でもいれば、話を聞くこともできるのに……)
 あのきゅるんなお目目が懐かしく思えて、リーゼロッテは再びため息をついた。

 そのとき扉が叩かれた。この時間、いつも決まってアルベルトがやってくる。リーゼロッテはぱっと瞳を輝かせた。

「本日の分です」

 手渡されたのはジークヴァルトからの手紙だ。毎日のように届くそれだけが、リーゼロッテの唯一の心の支えだ。

「わたくしはこちらを……」

 夕べ書いたふみをアルベルトへと差し出した。お預かりしますと笑顔で受け取られ、リーゼロッテはすまなそうな顔になる。

「アルベルト様、あの、毎日お手数をおかけして申し訳ございません」
「なぜお謝りに? クリスティーナ様も許可なさっていることです。お気になどなさらずに」
「はい……ありがとうございます」

 毎日手紙を出さないと、どうした何があったとジークヴァルトはしつこいくらいに手紙をよこしてくる。家の者に配達を頼むなら「よろしくね」で済む話だが、王女付きのアルベルトたちの手を煩わせるのもためらわれるというものだ。

「あと、クリスティーナ様からのご伝言が。東宮の敷地内でしたら好きに過ごされていいとのことです」
「お庭に出ても大丈夫なのですか?」
「はい、塀を越えて外に出たりしなければ問題はありません。もしご不安なようでしたらヘッダ様をお呼びになってください。ここはそれほど広くはありませんが、慣れるまでは案内がいた方がリーゼロッテ様もご安心でしょう」

 ヘッダの名に顔が曇った。頼んだことはきちんとこなしてくれるし、直接的な嫌がらせをされることもない。だが彼女に嫌われていることは明らかだ。

(神託で呼ばれたとはいえ、わたしは平穏な生活を乱す存在なんだわ……)

 そうは言ってもリーゼロッテ自身、いたくてここにいるわけではない。お互い、接触をできるだけ避けるような毎日が、ここずっと続いていた。

「ただ神官がやってくることが度々あるので、その時はお部屋にいていただけると助かります」
「神官様が来られるのですか?」
「クリスティーナ様は夢見の力をお持ちです。その関係でよく顔を出すのですよ」
「夢見の力……」

 貴族街での神がかった王女の姿を思い出す。それは聖女のように清らかで、とても神聖なものだった。

「あの占いも夢見だったのでしょうか……?」

 なんとはなしに問うが、待てども返事は返ってこない。顔を上げると、苦い笑みを浮かべたアルベルトが、黙ってこちらを見つめていた。

「わたくし、不躾ぶしつけな詮索を!」
「いえ、ただの目隠しですよ。龍がお考えになることは、わたしなどには到底理解が及びません」

 諦めを含んだような静かな笑みに、返す言葉が見つからなかった。

「では、これで失礼いたします」
 一礼してアルベルトは扉を閉めた。

 ひとりきりになった部屋で封筒を開く。ジークヴァルトの手紙はいつもそっけない内容だ。だがちょっとくせのある文字すら愛おしい。会いたいと、何度手紙に書こうと思ったことか。

(駄目よ、我慢しないと。ヴァルト様はお忙しいんだもの)

 自分が会いに行くならまだしも、何時間もかけてやってくるジークヴァルトを思うと、さびしいからとわがままばかりも言っていられない。

 もらった手紙を数えるように、順番に目を通していく。短い手紙はあっという間に一巡して、リーゼロッテは何度かそれを繰り返した。

(やっぱり会いたい……)

 青い瞳を覗き込んで、大きな手に触れてもらって、その広い胸に身を預けて――

 開け放したままのテラスから外を眺めた。遠くに見える王都の街を見るたびに、余計にさびしくなってくる。だがその向こうにジークヴァルトがいるのかと思うと、思いをせずにいられなかった。

 コッコッコ、と鶏の声がして、視線を庭へと向ける。そこにはのんびりと石畳を歩くクリスティーナがいた。少し距離を開けて、その後ろをアルベルトがついていく。
 王女が手にした何かをくと、鶏が一斉に地面をついばみ始める。見上げた王女と目が合った。次いでリーゼロッテに向けて手招きをしてくる。

(のぞき見していたこと、何か言われるのかしら……)

 戸惑いつつも部屋を出て、リーゼロッテは王女がいる庭へと急いで向かった。王女の呼び出しなら、怒られると分かっていても行くしかない。

「王女殿下、お呼びでしょうか」
「堅苦しいわね。クリスティーナでいいわ」

 そう言いながら小さな穀物を庭に撒く。王女の機嫌は悪くなさそうだ。

(クリスティーナ様は随分と気さくな方ね)

 ハインリヒ王子も思ったよりフレンドリーだったが、あの張り詰めた雰囲気に近寄りがたいものを感じてしまう。

「リーゼロッテ、あなたアルベルトが行くと、確認もせずに扉を開けるそうね?」
「あ、はい、アルベルト様はいつも決まった時間に来てくださいますから」
「公爵が心配するのもよく分かるわ」

 たのしそうに笑われて、リーゼロッテは困惑顔で曖昧な笑みを返した。この東宮には限られた人間しかいない。それも入ることを許された厳選された者たちだ。

「あなたのここでの生活を、根掘り葉掘り聞いていったそうよ? ねぇ、アルベルト」
「否定はいたしません」

 事務的に返したアルベルトを思わず見やる。視線が合うと、目だけで笑みを返された。

「も、申し訳ございません……ジークヴァルト様は少し心配性なところがあって」
「いいのよ。大事にされている。そういうことでしょう?」
「はい……」

 ここ最近、ジークヴァルトのせいで、穴があったら入りたい事態に陥ってばかりだ。

「ほら、マンボウ。遠慮しないであなたもお食べなさい」
「マンボウ?」

 突然出てきた海の生物に、リーゼロッテはこてんと首を傾けた。王女の視線の先にいたのは、毎朝耳に痛い雄叫おたけびを上げる、あの大きな鶏だった。近くで見るとものすごくたくましい。ほかの鶏に比べると、ひと回りもふた回りも大きく見えた。 

「オッオッオッ、オエーッ!」

 王女がえさをばら撒くと、うれしそうに地面を啄み始める。

「この鶏の名はマンボウというのですか?」
「ええ、そうよ。可愛らしいでしょう?」

 この国の言葉基準では可愛いのだろうか? いまいち判断がつかなかったが、リーゼロッテは素直に頷いた。マンボウはゆったりと海をただようイメージだ。可愛いと言えば可愛い気がしてきた。

 しかし見た目はめちゃくちゃ強そうだ。模様なのだろうが、目の上にキリリとしたと太眉ふとまゆが描かれていて、それがまた精悍せいかんさに拍車をかけている。

(マンボウというよりケンシ〇ウね……)

 そんな脳内突っ込みに、ひとり口をほころばせた。

「公爵はマンボウにあっさり通されたようね」
「はい、公爵様の一瞥いちべつで、マンボウは震え上がっていましたから。勝負にもならなかったようです」
「あらそう、つまらないわ」

 王女とアルベルトの会話に目を見開く。

「もしかして……東宮の恐ろしい門番とは、このマンボウのことなのですか?」
「ええ、そうよ。せっかく血みどろの戦いが見られると思ったのに」
「クリスティーナ様……」

 非難めいた声に王女は涼やかな笑い声をあげた。

「冗談に決まっているでしょう? ね、マンボウ」

 王女の呼びかけにマンボウは「オエっ」と鳴き返す。

「マンボウはそんなに凶暴なのですか?」
「男相手にはね。あなたに危害を加えることはないわ」
「わたしも初対面からひと月、コレとは死闘を繰り返しました」

 アルベルトがしみじみと頷いた。真面目そうな彼が冗談を言うとは思えない。きっと嘘ではないのだろう。

「マンボウはおじい様に頂いた鶏なのよ」

 クリスティーナが懐かしそうに目を細めた。王女の祖父と言えば前王のフリードリヒだ。たみ思いの王だったと、リーゼロッテは教えられていた。

「ねえ、リーゼロッテ。あなたはシネヴァの森についてどれだけ知っていて?」
「シネヴァの森……」

 クリスティーナはいつも話が唐突だ。少し考えてからリーゼロッテは口を開いた。

「以前、ハインリヒ王子殿下にお伺いしたことがございます。森には巫女様がいらっしゃると。ですが子供のころには、森には魔女が住むと聞かされておりました」
「魔女……そうね、ほんとその通りだわ」
「ですが、巫女様は殿下のご血縁の方だと……」

 困ったように返すと王女はくすりと笑う。

「森の巫女はね、わたくしの大おばあ様よ。高祖こうそ伯母はくぼなの」
「高祖伯母……」

 祖母そぼ曾祖母そうそぼ高祖母こうそぼ、と数えていって、リーゼロッテはそれがどんな関係かを考えてみた。しかしさっぱり分からない。

「高祖母の姉よ。祖父の祖母の姉ね」

(ひいおばあさまのお姉様ということかしら……? ん? ひいひいおばあさまのお姉様?)

 考えるほどに何が何だか分からなくなる。とにかくものすごく高齢なことだけは理解した。

「婚姻の託宣を受けた者は、必ずシネヴァの森に向かうことになる。あなたたちもいずれ行くことになるでしょうから、今からたのしみにしておくといいわ。どうして大おばあ様が『魔女』と呼ばれるのか、それが分かると思うから」

 しわくちゃで鼻曲がりの老婆をイメージしながら、リーゼロッテは神妙に頷いた。

      ◇
 雨上がりの空気はことさら寒い。こんな日に庭に出ると足元が汚れてしまうため、リーゼロッテはおとなしく部屋の中に引きこもっていた。

「それに今日は神官様がやってくるって、アルベルト様が言ってたものね」

 そういう時はあまりうろつくなとくぎを刺されている。お世話になっている以上、従う方がいいだろう。

 自分でれた紅茶を飲みながら、もくもくと焼き菓子を頬張った。三食に加えて、午前、午後とおいしい菓子が毎日欠かさず配給される。食べつつも、太ってしまわないか心配になってきた。

「その分、運動すればいいかしら?」

 東宮は五階建てだ。階段の昇り降りだけでも重労働だった。王女の呼び出しにへばらないためにも、普段から足腰をきたえておくのが得策だろう。ここは健脚けんきゃくを目指すしかない。

「それにしてもおいしくないわね」

 紅茶を含んで口をすぼめる。自分が淹れると渋さばかりが際立きわだって、まずいとしか言いようがない。淑女教育の一環で紅茶の淹れ方はきちんと習っている。それなのにどうやってもおいしくならないのはなぜなのか。

「今度エラにコツを聞いてみなくちゃ」

 先ほどから独り言ばかりつぶやいている自分に気づく。

「話し相手がいないって、こんなにつらいのね……」

 ため息をつきながら口直しの菓子に手を伸ばす。こんな生活ではやはり確実に太りそうだ。そう思って手を引っ込めた。

「食べきると、次の日ちょこっと量が増えているのよね」

 日本人のもったいない精神で、なかなか残すことができないリーゼロッテだ。しかし残さず食べると料理人が足りなかったのだと判断するのか、少しずつ菓子の数や種類が増えていく。
 それが分かると無理には食べずに、あきらめて残すことにした。自分で節制しないと、そのうちとんでもないことになる。

「厨房の人にも一度会えるといいけれど……」

 おいしい料理のお礼も言いたい。とにかく人恋しくて仕方がなかった。

 ため息交じりに知恵の輪をかちゃかちゃいじる。夜会の合間に暇な時間ができたらと、なんとなくポケットに忍ばせておいたものだ。暇つぶしになるものがこれしかなくて、リーゼロッテは心を無にして知恵の輪を動かした。

 しかし動かせどまったく外れる様子はない。マテアスもエラも、あんなにすんなり外していたのに、どれだけやっても絡まったままだ。

「いいのよ。この知恵の輪もこんなに長い時間いじってもらえて、暇つぶし冥利みょうりきるというものだわ」

 自分を納得させるように大きく頷く。その時、つんざくような鶏の鳴き声が庭に響いた。

「マンボウ?」

 マンボウが雄叫びを上げるのは、基本早朝だけだ。日が昇ってしばらくしたこんな時間に、鳴きだすのはめずらしいことだった。

「オエーッオッオッオッ! オエーーーーッ!!」

 朝と比べものにならないくらいのけたたましい鳴き声だ。驚いてテラスから外を見下ろした。姿は見えないが、雄叫びは庭を右に左に不規則に移動していく。植木が不自然に揺れるので、恐らくその辺りを駆けまわっているのだろう。

「うわっ! いたっ! も、やめ、やめてっ」
「オエーーーーッ!!  オッオッオッ!」
「ぎゃっ!」

 マンボウの叫びの中に、誰かの悲鳴が混じる。茂みの合間でマンボウの羽がばたついた。それに追われるように、白い長衣を着た少年が、頭をかばいながら庭の中を走りまわっている。

「オッオェーーーーッ!!」
「ぎゃーーーーっ!」

 鶏ってこんなに高く飛ぶんだ、というほどの華麗な飛翔を見せ、マンボウは少年の頭上に躍り出た。大きく羽ばたきながら滞空時間を稼ぎつつ、あしの爪で、くちばしで、鬼のような攻撃を繰り出していく。

「いたっいたいっいたいっ」
「駄目よ! マンボウ、やめなさい!」

 リーゼロッテは慌てて大声で叫んだ。テラスの手すりから身を乗り出して、マンボウに届くように声を張り上げる。

「その方は神官様よ、つついては駄目!」

 少年が身にまとう長衣は神官服だ。雨に濡れた庭を走り回って、泥だらけになっている。リーゼロッテと目が合うと、少年は一目散に駆け寄ってきた。
 建物近くの大木に、少年は飛びつくようにしがみつく。マンボウに追い立てられて、少年はするすると木の上まで昇っていった。

 先ほどより近くで少年と目が合った。二階にいるリーゼロッテより少しだけ低い位置で、だがこちらに飛び移ることはできない。そんな微妙に遠い距離だ。

 マンボウは跳躍ちょうやくしながら何度も何度も、木につかまる少年に猛攻を仕掛けに行く。届きそうで届かない。鋭い嘴に、少年は震えながら太めの枝に移動した。

「駄目ったら! マンボウ、いいからやめなさい!」

 リーゼロッテが庭下に向かって叫ぶ。覗きこんだ拍子に、ゆるく編まれた三つ編みがぷらりと揺れた。

「オエーーーーッ!!」

 渾身こんしんの叫びとともに、マンボウがいきなりリーゼロッテに向かって羽ばたいてくる。驚いて半歩下がるも、マンボウは手すりに停まっておとなしく翼をしまった。ご機嫌そうに「オェ」っとひと声鳴いてくる。

「あ……マンボウは門番だったわね」

 それも男には容赦しない恐ろしい門番だ。先ほどのバーサーカーのような姿を目にして、王女の言っていたことにリーゼロッテはようやく納得できた。

「あの……助けてくださってありがとうございます」
 木の枝からか細い声が聞こえる。

「オェーッ!」

 鋭い羽音と共に、強めの風が生まれた。手すりにつかまったまま翼を広げて、少年に向けて再び威嚇いかくする。

「マンボウ、めっ!」

 慌てて止めるとマンボウは、太眉をきりっとさせたまま「オエッ?」とくびを傾けた。その愛嬌のある姿に胸をなでおろす。

「たいへんな目に合われましたね。お怪我はございませんか?」

 まだ幼さの残るそばかすの少年は、あちこち擦り傷だらけだ。幸い血が流れている様子はないが、痛々しいことには変わりはなかった。

「はい、ありがとうございます。おかげで今日はまだましな方です。いつもは待っている間中、ずっと追いかけ回されてますから……」
「まあ、ずっと? 神官様は王女殿下に会いに来られたのですよね。それをずっと庭でお待たせするだなんて……」
「あ、いえ、ボクはまだ見習いで! もっと偉い方のお供でついてきているんです」

 ぶんぶんと大きく首を振る。その拍子に落ちそうになり、少年は慌てて枝にしがみついた。その落ち着きのない動きは、確かに神官と言うにはなんとも頼りない。

「わたくしはリーゼロッテ。神官様のお名前も教えていただけるとうれしいですわ」
「ぼ、ボクはマルコです! まだ見習いなので、神官様だなんて呼ばれると何だか恥ずかしいや……」
「ではマルコ様とお呼びしてもよろしいですか? わたくしはリーゼロッテで構いませんから」
「リーゼロッテ様……」

 ぽっと頬を染めたマルコに、リーゼロッテはにこっと笑顔を返した。ようやく見つけた話し相手だ。うれしくて仕方がない。

「ああっでもボクのことは呼び捨てでもっ」
「いいえ、今は見習いでも、マルコ様は将来立派な神官様になられるんですもの。そういう訳には参りませんわ」

 マンボウが「オエッ」と合いの手のように返す。警戒はしているが、リーゼロッテが背をやさしくなでているせいか、マルコに襲い掛かることはしなくなった。

「マルコ様はどうして神官になろうと思われたのですか……?」

 王女のいる東宮に、そうそう入れるものではない。見習いと言えど、選ばれた人間しか連れてこないだろう。しかしマルコはやはり神官に向いていないような気もして、リーゼロッテは思わず不躾ぶしつけな質問をしてしまった。

「……ボクには夢見の力があって、それで」
「まあ、夢見の! クリスティーナ様と同じ力をお持ちなのですね!」

 瞳を輝かせて称賛の声を贈る。
 しかしマルコは裏腹に泣きそうな顔でうつむいた。枝を握る手に力が入って、唇を噛みしめる。

「こんな力あったって、なんの役にも立たないんだ」

 絞り出すような声に、リーゼロッテの顔から笑顔が消える。横の手すりでマンボウも、悲しそうに頚を傾けた。

「ボクの両親はクマに襲われて殺されたんです。夢見でそれが分かっていたのに、ボクはふたりを助けられなかった」
「マルコ様……」
「あっ! すみません、初対面の人にいきなりこんな話してっ」
「いいえ……そんなおつらい目に……」

 はらはらとリーゼロッテの瞳から涙がこぼれ落ちた。それを見たマルコの頬が、熟れたビョウのように真っ赤に染まる。

「あっ、いえっ、そのっ、そんなっ、ああっっ!」
「マルコ様!」

 慌てた拍子にマルコは見事に枝から落下した。恐る恐る下を覗き込むと、猿のように逆さになってなんとか枝にぶら下がっている。

「あ! 用事が終わったようです。ボク、もう行かないと!」

 遠くの庭に視線を送り、マルコはするすると器用に木を降りていく。そのまま駆けだして、途中で急ブレーキをかけるように足を止めた。振り返ったかと思うと、リーゼロッテに向けてぺこりと大きくお辞儀する。

「今日は助かりました!」

 返事をする前に走り出し、マルコはあっという間に行ってしまった。

「またお話しできるかしら……?」
 リーゼロッテの疑問符に、マンボウが「オエッ」と返事した。

 急に静寂が舞い戻り、風が頬をすり抜けていく。余計に寂しい気持ちになってしまった。

(……いつまでここにいないといけないんだろう)

 ジークヴァルトも忙しいようで、あれ以来は手紙のやり取りだけだ。帰るめどは立たないものか、一度王女に聞いてみたかった。
 だが狭い東宮でもなかなか会う機会はない。それにヘッダから、王女の目につくような場所には行くなと、何度もきつく言われていた。

(クリスティーナ様はご病弱らしいから、ヘッダ様は負担をかけたくないのね)

 厄介者は自分のほうなのだ。そう思うとおとなしくしておくほかないだろう。

「マンボウとおしゃべりできたらよかったのに」
「オエッ?」

 分かっているのかいないのか、マンボウは不思議そうに小首をかしげた。

      ◇
 東宮での生活も随分と慣れてきた。朝早くにマンボウの鳴き声に起こされ、朝食前に庭を散歩する。これはリーゼロッテの日課となっていた。
 秋とはいえ、早朝は冷え込んでかなり寒い。だがこの時間はことさら空気が澄んでいて、とても気持ちがよかった。厚手のショールを羽織り、マンボウの姿を探して石畳を進んでいく。

「おはよう、マンボウ。今日も赤い鶏冠とさかがとてもステキよ」
「オエっ」

 うれしそうな返事が返ってくる。マンボウはとてもやさしい鶏だ。餌を撒かれてもほかの鶏たちに譲って、自分はあとから遠慮がちに食べ始める。そんな様子を何度も見た。

(この前の豹変ぶりは驚きだったわ……)

 先日のマルコへの猛攻は、もう人が、いや、鶏が変わったとしか思えなかった。猛々たけだけしいあの姿は、東宮の門番と呼ばれるに相応ふさわしい。そんな妙な感心の仕方を、リーゼロッテはしてしまった。

「おはよう、早いのね」
「おはようございます、クリスティーナ様」

 ヘッダを連れてやってきた王女に、慌てて礼を取る。庭で散歩をしていると、ごくまれに王女と鉢合わせすることがあった。なるべく邪魔をしないようにと時間をずらしているが、王女の散策の時間はまちまちだ。

(きっと体調が良い時をみて散歩しているのね)

「どう? ここでの生活も慣れてきたかしら?」
「はい、みな様がよくしてくださいますから、とても快適に過ごさせていただいております。それにマンボウに朝起こされるのにも慣れました」
「リーゼロッテが来てから、マンボウはいつも以上に張り切っているわね」

 その言葉にマンボウが、キリっとした顔を王女に向ける。時々人の言葉を理解しているように見えるから、マンボウは不思議な鶏だ。
 リーゼロッテに懐いてはいるものの、王女がいるとき、マンボウはこちらに目もくれない。ずっと可愛がっている人には敵わないのだろうが、それがちょっぴり悔しくもあった。

「マンボウはクリスティーナ様のことが本当に好きですね」
「そうね。もう十年は一緒に過ごしているわ」
「まあ、十年も! マンボウは結構なお年なのですね……」
「そう? 鶏などいくつまで生きるかなんて分からないわね。どう? ヘッダには分かる?」
「いえ、わたくしにもよくは……」

 王女はころころと笑った。彼女の笑い声はいつも涼やかだ。聞いていて耳に心地よい。

「そうよね、わたくしも鶏の寿命など考えたこともなかったわ。リーゼロッテ、あなた本当におもしろいわね。まあ、言っても人の寿命もあってないようなものだけれど」

 鶏たちに餌を撒く王女の後ろで、ヘッダが悲しそうな顔をした。次いでリーゼロッテを睨みつけてくる。

 コッコッコ、とたのしげな声だけが辺りに響く。リーゼロッテは何も言えずに、鶏たちが地面を啄む様子を黙って見続けた。

「ほら、マンボウもお食べなさい」

 遠巻きに見守っていたマンボウの地面に、小さな穀物が散らばっていく。そこでようやくマンボウも啄み始めた。お腹が空いていたのか、その姿は一心不乱だ。
 王女と会話ができる時間は滅多にない。いまだ鬼の形相のヘッダに委縮しつつも、リーゼロッテはやっとの思いで口を開いた。

「あの、クリスティーナ様……わたくしはいつまでここにいる事になるのでしょうか」
「……まだなんとも答えられないわ。でもきっと、そう長くは続かない」

 たのしげに餌を撒いていた王女の顔に、ふと影が降りる。歩き回る鶏たちを見ているのに、心はどこか遠くにいっているかのようだ。

 リーゼロッテの不安げな視線に気づいたのか、王女はやわらかい笑みを返してきた。

「でもその前に一度、公爵の元に帰してあげられるわ。白の夜会に出るのでしょう? それが終わったらまたすぐこちらに来てもらうけれど」
「夜会に参加してもよろしいのですか?」

 頷き返されて、リーゼロッテは瞳を輝かせた。ひと時でもジークヴァルトと一緒にいられる。それだけでふさぎ込む気持ちも吹き飛んだ。

「人の気も知らないで……」

 刺すような視線にはっと表情を改める。憎々し気な顔のまま、ヘッダがわなわなと唇を震わせていた。

「いいのよ、ヘッダ。大丈夫、まだ時は満ちていないわ」
「……はい、クリスティーナ様」

 泣きそうな声で答えると、ヘッダは唇をかんで押し黙ってしまった。

(時は満ちていない……?)

 王女は重大な何かを抱えている。それは伝わってくるのに、クリスティーナは自分にそれを教えるつもりはないように思えた。

(きっとわたしが口をはさむことではないのよね……)
 言い聞かせるように瞳を伏せる。

 数日後、リーゼロッテは王女の言葉通りに、フーゲンベルク家へと一度帰されたのだった。







【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。白の夜会に出るために、一度公爵家に戻ったわたし。久しぶりにジークヴァルト様と会えて、よろこびもひとしおです! でも限られた短い時間に、お互いうまく時間が取れなくて……?
 次回4章第8話「いたずらな吐息」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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