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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

第16話 宿命の王女

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【前回のあらすじ】
 ミヒャエルの死を聞き過去に思いをせるイジドーラは、退位したディートリヒと共に後宮で静かに時を過ごします。
 一方、王となってからのハインリヒの変化に戸惑いを感じるアンネマリー。王妃として支えていくことを誓いつつも、胸の不安は消せなくて。
 東宮での時間がゆっくりと過ぎる中、間もなく終わりを告げる日常にヘッダの心はきしむばかり。そんな中リーゼロッテは、クリスティーナ王女から間もなく公爵家に帰れることを告げられるのでした。






 破鐘われがねのような大勢の話し声が、頭にわんわんと反響する。
 豪奢ごうしゃな椅子に座り片肘かたひじをついたまま、ハインリヒは眉間に指を押し当てていた。

 それとは別に、広い評議場では不毛な討論が続けられている。双方の言い分がぶつかり合い、平行線をたどるのはいつものことだ。
 王太子時代はいちいちそれを吟味ぎんみし、自分なりの意見を述べてみたりもしたが、王となった今ではそんな些事さじに構う余裕もなかった。

 そもそも会話が耳に届かない。聞こえてくるのは頭の中をうるさく響く、歴代の王のしゃべり声だけだ。

 ――議会など中身はない。宰相にすべて任せておけ
 ――わしらの声がつらかろう? ほれ、王妃の元へ行くがいい
 ――何、これもすぐ慣れる
 ――いや、我慢するとろくなことはないぞ。意地を張って倒れた馬鹿が幾人もおる
 ――今度の王妃はなかなかの体じゃな
 ――そうだそうだ、あれに触れぬ手はないぞ

「やかましいっ!」

 突然、怒声を上げたハインリヒに、評議場が静寂に包まれる。エキサイトしていた者も、一気に青ざめその口を貝のように閉ざした。

「いやはや、王を始め、みな様も少々お疲れのご様子。ここらで半時ほど休憩を入れましょう」

 ニコニコ顔のブラル宰相の声に、真っ先にハインリヒが席を立つ。

「時間が来たら先に進めておいてくれ」
「仰せのままに、ハインリヒ王」

 宰相に小声でそう言い残し、ハインリヒは評議場を後にする。その途端に貴族たちが、詰めていた息を一斉に吐き出した。

「王位を継がれてから、ハインリヒ様は随分と変わられた」
「若い王にうれえる者も多かったが、威厳いげんある王になられたな」
「いや、これは青龍の加護と聞く。新王の御代も安泰あんたいだ」

 歴代の王たちはみな一夜にして、人格が入れ代わる。老いた貴族の言うことに半信半疑だった者たちも、それを目の当たりにすれば素直に頷かざるを得ない。
 龍の本質を知らない者すら、畏怖いふの念を抱くほどだ。生き証人たちによって語り継がれ、この国の王は長きに渡り、多くの貴族をべてきた。

 そんな貴族たちを残し、ハインリヒは急ぎアンネマリーの元に向かった。早くそばへと行きたい。ずっとこの手で触れていたい。

 ――そうじゃ、急げ、急げ!
 ――王妃は我らが宝だ、大切にせよ!

 はやし立てるように王たちが騒ぐ。ハインリヒが継いだのは、単にこの国の歴史だけではなかった。経験と叡智えいちがつまった、歴代の王たちの記憶そのものだ。

(何が叡智えいちなものか)

 そう毒づいた瞬間、王たちから愉快そうな笑い声が上がった。ハインリヒは四十五代目の王だ。自分以外の四十四人分の記憶が、縦横無尽じゅうおうむじんに騒ぎまわる異常事態が、この頭の中で今まさに起こっている。

 その中でもよくしゃべる王は決まっているようで、だんだん区別がついてくるのも何だか腹立たしい。

(そういえば、父上とお爺様じいさまの声は聞こえてこないな……)
 ――それは我らが満場一致で決めたこと
 ――親父おやじ爺様じいさまの小言など、お主も聞きたくないであろう?

 思っただけでもすぐ言葉が返ってくる。日常、周囲との会話もままならなくて、議会でも、貴族との謁見えっけんの場でも、ハインリヒはひたすらその場をやり過ごすしかなかった。

 思えばディートリヒも議会の間、じっと瞳を閉じていた。王として怠慢たいまんにもほどがある。その態度にそんないきどおりをずっと感じていたが、こんな状況ではそうするなという方が無理な話だ。

(むしろこれでよく父上は政務を続けられたな)
 ――父は偉大じゃ!
 ――ついでに我らもうやまえ!

 再び爆笑に包まれて、ハインリヒは逃げるようにアンネマリーの待つ自室へと駆け込んだ。

「ハインリヒ」
「いいよ、君はそのまま座っていて」

 その笑顔を見てほっとする。

「調子はどう?」
「変わりはありませんわ」

 王たちのはやし立てる声を聞きながら、その横にじんった。

「わたくしは大丈夫ですから、あまりご無理はなさいませんよう」
「ありがとう。でもわたしが大丈夫ではないんだ」

 アンネマリーに触れているときだけ、王たちの声が嘘のように遠のいた。この苦痛から逃れたくて、日に何度もここへと戻ってしまう。情けない王だと言われても、こればかりはもう自分ではどうしようもなかった。

 遠慮はいらないと助言をしてくる王の声を無視して、アンネマリーをぎゅっと腕に抱きしめる。ふわりといい香りが漂って、途端にすべてが静けさを取り戻した。

「……落ち着くな」

 耳元で言うと、アンネマリーの手がやさしく背を撫でてきた。ずっとこうされていたいと本気で思う。そうすればあのやかましい声は、永遠に聞こえてこないのだから。

「王、そろそろお時間です」
 無慈悲な言葉に、仕方なく立ち上がる。

「また時間ができたら戻ってくるから。アンネマリーはゆっくり休んでいて」

 名残なごり惜しくひたいに口づけて、耳にうるさい声に顔をしかめつつ、ハインリヒは評議場へとしぶしぶ戻っていった。

     ◇
「新しいお役目ですかぁ?」

 去年からずっとブルーメ家でルチアの侍女をしていたベッティは、久しぶりにカイに呼び出されていた。

「うん、ルチアも今の生活に馴染なじんできたみたいだから、しばらくはブルーメ子爵とイグナーツ様に任せといてもいいかなと思って」
「しばらくは……なんですねぇ?」
「うん? 何か問題ある?」
「いぃえぇ、何もございませんよぅ」

 託宣がらみとは言え、カイがここまでひとりの人間に執着を見せるのは初めてのことだ。イグナーツに対してさえ一定の線は引いているようなのに、なぜだかルチアに対してだけは、そういったものを感じさせないでいる。

「最近のルチアはどう? おとなしくしてる?」
「はいぃ、ルチア様もブルーメ子爵様とは波長がお合いになるようでぇ、いつも仲良く土まみれになっておりますねぇ。先日も春に植えるなえの話で盛り上がっておられましてぇ、はたから見ていると本当の父娘おやこのように見えますよぅ」
「そっか、ならよかった」

 カイは今、自分がどんな顔をしているのか、分かっているのだろうか? そのおだやかな表情を前に、ベッティは珍妙なものを見るような目つきになった。

「ん? どうしたの? ベッティ、すごくおかしな顔になってるよ?」
「そのお言葉、そっくりお返しして差し上げますよぅ」

 互いにいぶかしげな顔で目を見合わせたあと、一転してカイの表情が真剣なものとなった。

「それはさておき、今回の任務なんだけど……行く先がちょっと危険を伴うかもしれないんだ」
「かもしれない?」

 カイにしては歯切れの悪い言葉に、ベッティは首をひねった。

「もしかしてグレーデン侯爵家の不正の一件ですかぁ?」
「いや、それは大方おおかた片が付いたから。グレーデン家がうまいこと立ち回ったせいで、こっちのやることは大幅に減ったんだ」
「それはよかったですねぇ。カイ坊ちゃま、グレーデン家相手じゃ動きづらかったでしょう?」
「まあね」

 その割に不服そうな顔でカイは「エルヴィン・グレーデンだけは許すまじ」とつぶやいた。

「ではどちらのお屋敷にぃ?」
「今回の潜入先は貴族の屋敷じゃない――ビエルサール神殿だ」

 さすがのベッティも驚いた。王家ご用達であるビエルサール神殿は、国内最高峰さいこうほうの神殿だ。貴族であっても許可なく敷地内に入ることはできないし、そもそも女であるベッティが行ける場所ではなかった。
 この国の青龍信仰において、神殿で仕える神官は男だけとされている。例外として、女神をまつる神殿に、巫女みこと称するおんな神官しんかんが少数存在するのみだ。

「ですがぁ、本神殿なら王家の配下の者が潜り込んでいるはずですよねぇ?」
「今回行ってほしいのは、もっと奥の組織なんだ。下働きとしてなら、なんとか入り込む道はある。でも情報が限られていて危険度がはかれない」
「うぅむぅ、なるほどですぅ。それは逆に燃えますねぇ」
「はは、ベッティならそう言うと思ったよ」

 難易度が高いほどスリルも満点だ。任務を遂行できた時の爽快感が、病みつきになっているベッティだった。

「そんなわけで、今回は万全に準備をしてからのぞんでほしいんだ。恐らく入り込んだが最後、連絡は取れなくなるだろうから。それに神殿内では、猟奇的りょうきてき残虐ざんぎゃく事件が続いているらしい」
「残虐事件?」
「今のところまだ、家畜の死骸がぶちかれる程度で済んでるみたいだけど」
「……けものの血を欲する者はそれじゃ飽き足らなくなって、やがて人にも手を出しますからねぇ」

 ベッティの危機察知能力は野生動物並みだ。危険はないとんではいるが、自分の手の及ばない未知の領域とあっては、一抹の不安はぬぐえない。

「大体のことは承知いたしましたぁ。ありとあらゆる事態を想定して、万全を期しますねぇ。とりあえず王都の家に行って必要なものをそろえてきますぅ」

 王都の家とはカイが所有する隠れ家だ。普段は老夫婦に管理を任せているが、大きな番犬がいて、カイの集めた資料を保管する倉庫的な役割も果たしている。

「それで、中では何を探ればよろしいのですかぁ?」
「それが分からないんだ……」
「分からない?」

 カイは難しい顔をして口をつぐんだ。この件に関してはなぜか龍が目隠しをしてくる。慎重に言葉を選びながら、カイは必要最低限の情報だけをベッティに話した。

「要するにぃ、ミヒャエル司祭枢機卿が死んだのにリーゼロッテ様がいまだ狙われる理由とぉ、その黒幕が神殿内にいるかもしれないから探ってこい、っていうことですねぇ」
「そういう事」

 いるかどうかも分からない犯人を捜しに行くのだ。あるものを証明するよりも、ないものを証明する方が格段に難しい。

「でもオレの中では犯人の目星はついているんだ」
「一体誰ですかぁ?」
「それが……龍に目隠しされて伝えられない」

 考え込むカイに、ベッティはにやりと口元を片方だけ上げた。

「じゃぁ質問を変えますぅ。そいつはカイ坊ちゃまにとってどんなヤツですかぁ?」

 きょとん、としたあと、カイもにやりと人の悪い笑みを作る。

「神殿の中でも、いちばんいけ好かないタイプかな?」
「承知いたしましたぁ。もしそいつが黒だったらこう、白だったらこういたしますぅ」

 ベッティは順番に、立てた親指と下げた親指を示して、再びにやっと笑った。

「はははっ、ベッティ、サイコーだ!」

 ベッティの頭をいい子いい子と撫でて、カイはしばらく爆笑し続けた。

     ◇
 間もなく新月がやってくる。

 雲ひとつない今宵こよいは、ひときわ星が大きくまたたいて見える。こうしてじっと見上げていると、満点の星空に飲み込まれてしまいそうだ。

 その時、流れ星が夜の空を大きくよぎった。一瞬で消え去った光のすじに、いよいよその時が来たことを知る。

 自分に残された時間はもうほんのわずかだ。
 思うほど感慨は湧かないものだと、クリスティーナは静かに瞳を伏せた。

「クリスティーナ様……」

 明かりもつけずに窓辺にたたずんでいた背に、遠慮がちに声がかけられた。ヘッダを振り返り、クリスティーナは毅然きぜんとした王女の顔となる。

「時が満ちるときが来たわ。今までわたくしにくしてきてくれたこと、心から礼を言います」

 王女の言葉を前に、ヘッダは顔を青ざめさせた。その瞳には、みるみるうちに涙が浮かんでくる。

「ヘッダ・バルテン、わたくしから最後のめいくだします。例えこの先短くとも、あなたは自分の道を必ずまっとうなさい。わたくしの後を追うことだけは絶対に許さない。それだけは覚えておいて」

 嗚咽おえつをもらしたヘッダを、クリスティーナはやさしく抱きしめた。

「ヘッダ、きちんと返事をなさい」
「……クリスティーナ様の、仰せのままに」
「それでいいわ」

 ほほ笑んで、こぼれ落ちる涙をぬぐいとる。

「すべては龍の意思。リーゼロッテのことは恨まないでやって。いちばんに傷つくのはあのだろうから」

 できるでしょう? そう耳元で言われて、ヘッダは小さく頷いた。

 菫色すみれいろの瞳を細め、クリスティーナはやわらかく笑った。次いでいたずらな視線を向けてくる。

「最後にわたくしは自分の願いを叶えてくるわ。夜が明ける前には戻るから、今夜だけは見なかったことにしてちょうだい」
「……準備を整えてお戻りをお待ちしております。うれいなく、どうぞクリスティーナ様のお心のままに」
「ありがとう、ヘッダ」

 見送られて、クリスティーナは夜更けの部屋を後にした。

     ◇
 何もない部屋の中、アルベルトはいつものように剣の手入れをしていた。今までこれが活躍した事などさいわいないが、いざという時に使えぬなまくらでは目も当てられない。
 自分は王女の護衛としてそばにいる。例え、最後に役立たずに終わるとしても。

 王女に初めて目通りしたのは、もう十五年以上も前の話だ。
 まだ五歳の彼女を前にして、聡明そうめいな王女だとアルベルトは思った。それと同時に奔放ほんぽうな王女だとも、あの日思ったことを覚えている。

 アルベルトは王族と貴族の間にできた不義の子だ。あのままいったらおおやけに知られることなく、存在をこの世から抹消されていたに違いない。
 地位もなく、うしだてはおろか、国のせきすら持たなかった。王族の血を引けど、そんな無力な子供の末路は知れたものだ。

『いらない子ならわたくしにちょうだい』

 ちらりとこちらを見ただけで、まるでおもちゃを強請ねだるように王女は言った。その日からアルベルトは王女のものになった。同時に新しい名を与えられ、衣食住と命を保証された。

 はじめの印象通り、王女は自由で何物にもとらわれない少女だった。気まぐれで、思ったが最後、その行動を止めはしない。おとなしく守られるなどしてくれなくて、アルベルトは王女に何度も振り回された。

 だがそれは逃れられない宿命に対する、代償だいしょうのような自由だった。それでもこの鳥かごの中、王女はいつでも美しくさえずり続ける。最後まで気高けだかろうとする、そのほこりを守ることこそが、アルベルトに与えられた最大の使命だ。

 磨き上げた剣を置き、寝台に仰向けになった。高い天井を見上げながら、今日も王女のことだけを思う。

 ふいに扉の前に人の気配を感じた。それが誰のものなのかすぐに分かって、アルベルトは慌てて身を起こした。ノックもなしに開けられた扉に、半ばあきらめのため息を落とす。

「クリスティーナ様……」

 この部屋に鍵がかけられたことはない。いつ何時なんどきも王女の元へ駆けつけられるようにと、そんなものは必要なかった。

「このような夜更けにどうなさったのですか?」

 落ち着き払った王女を前に、たしなめるように言う。有事の際ならともかく、王女が男の部屋に来ていい時間ではなかった。

 見ると王女は夜着にショールを羽織っただけの姿だ。体の線がはっきりと分かる出で立ちに、アルベルトは自らの上着を手に王女へと近寄った。

「時が満ちる」

 それを肩にかける寸前に、王女が言った。

「わたくしの時はもう満ちるわ」

 はっとなり、その目の前で片膝をついた。顔を伏せ、ただ次の王女の言葉を待つ。

「長い間、わたくしのままに付き合ってくれたこと、礼を言います」
有難ありがたきお言葉。なれどわたしのいのちはクリスティーナ様のもの。そのようなお気づかいは不要です」
「そう……ではアルベルト、最後にわたくしのめいくだします」
「なんなりと」
「わたくしがいなくなった後、ヘッダを頼みます。あのもそう長くは生きられないでしょう。残りの日々をうれいなく過ごせるよう、尽力じんりょくなさい」
「王女殿下の仰せのままに」

 アルベルトは深く騎士の礼を取った。王女はヘッダが後を追うことを良しとしない。同時にアルベルトがそうすることも。

「そのあとお前は自由の身よ。地位もうしだてもハインリヒ王に任せてあるから、思うまま好きに生きなさい」
「過分なお言葉です」
「そのくらいの功績はあってしかるべきでしょう? この十六年、本当によく仕えてくれました」
「わたしの主人は今までも、そしてこれからも……クリスティーナ様おひとりでございます」

 震える声をどうにか抑えた。死したあとも見捨てないで欲しかった。永遠に自分の王女で居て欲しい。でないとこの世に未練など、すぐに失くしてしまうから。

「アルベルト・ガウス、今ここに誓いなさい。何があろうと必ず自分の生をまっとうすると。誇り高い貴方あなたの名にかけて、王女であるこのわたくしに誓いなさい」

 見透かしたように王女が言う。自分は死すら選べない。だがそれが彼女の望みなら、命がけで従うだけだ。

「クリスティーナ様に頂いたこの名にかけて誓います。必ずや、そのめいを全うすると」

 王女は満足げに笑った。クリスティーナは最後までアルベルトを振り回す。でもそれでいい。いや、それがいい。そうすれば独りでもずっと生きていける。

「いいわ、顔をお上げなさい」

 焼き付けるようにその姿を見上げた。菫色すみれいろの瞳が、揺らめきながら見つめ返してくる。出会ったあの日からとらわれたままだ。この色を永遠に忘れない。

「アルベルト」

 視線をらさないまま名を呼ばれた。肩にかけられたショールが、前触まえぶれなく床に落とされる。それを目で追いかけて、再びはっと顔を上げた。

 その動きを止めようと、咄嗟とっさに手を伸ばした。その時すでに王女は、はだけた夜着を下へと落としてしまっていた。伸ばした指の先、すぐそこに一糸まとわぬ姿がしげもなくさらされる。

「クリスティーナ様……!」

 動揺で声が上ずった。見てはいけないと思うのに、その姿に目が吸い寄せられる。

 中途半端に伸ばされたこの手を導いて、王女は自身の胸に押しあてた。熱い肌に触れ、アルベルトの口から息が短く漏れる。やわらかで吸い付くような手触りの先に、王女の早すぎる鼓動が伝わってきた。

「アルベルト……わたくしを抱いて。王女ではなく、ひとりの女として」
「クリス、ティーナ様……」

 震える手は、その先に進めない。彼女はけがしてはならない存在だ。いましめのように目の前に線を引き続け、最後までそう言い聞かせたまま、すべては終わるはずだった。

「クリスティーナと呼んで……今だけは立場など忘れて、ただのクリスティーナとして貴方あなたに抱いてほしいの。これは命令ではなく、わたくしの最後の望み。アルベルトにしか叶えられない、たったひとつの本当の願い――」

 クリスティーナはさらに一歩近づいた。この頬に手を添えて、やわらかな唇を寄せてくる。触れた吐息に何もかもがあふれ出て、もう止めることなどできなくなった。

 かき抱き、奪うように口づける。クリスティーナから甘やかな吐息が漏れ、あかい唇がこの名を呼んだ。

「クリスティーナ……」
「アルベルト、もっと……もっと……」

 強請ねだられるまま口づける。われるまま、いとおしい名を幾度も呼んだ。

「お願い……アルベルトのすべてを、わたくしにちょうだい」

 むさぼるように、どこまでも互いに溺れていく。
 共に過ごした時間を。これから訪れる空白を。すべて埋めるため、この刹那せつな、命を燃やすように熱を分け合った。

 今だけは何もかもが満たされて――

 落ちていく中このまま深い眠りにつけることを、ひとつになって、ただ願った。


 夜が明けるその前に、クリスティーナはきしむ体を慎重に起こした。隣で眠るアルベルトの顔を静かに見やる。

「わたくしの願いを、聞き届けてくれてありがとう……」

 汗で張りついた前髪を指でかき分け、その寝顔に口づけた。

 寝台から降り、クリスティーナは王女の顔になる。床に落ちたままだった夜着を身に着け、ショールを羽織り扉へと向かう。

 アルベルトを残し、クリスティーナはひとり部屋を後にした。


 閉められた扉の音を聞きながら、アルベルトは静かに瞳を開いた。天井を見上げながら、目の前に手を広げる。

 この手は何もつかめない。いとしいひとを抱いていた腕の中は、これからもずっと空っぽのままだ。

「――クリスティーナ」

 わずかな名残なごりを閉じ込めるように、アルベルトは手のひらをきつく握りしめた。







【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。ひとり浮かれ気分で王城へと向かうわたし。王前で王女の護衛の任を解かれたアルベルト様は、その衝撃に打ちひしがれて。止まることを知らない宿命の歯車が、クリスティーナ様の時間に終わりを告げる……!
 次回4章第17話「時、満ちて」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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