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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

第15話 愛おしい日々

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【前回のあらすじ】
 祈りの間で王位継承の儀にのぞむハインリヒ王子は、深く入った瞑想の先で、王家は記憶継承のためにるとディートリヒ王から告げられます。青龍の御許みもとへとたどり着き、いにしえの契約を再び龍に約束するハインリヒ。
 その裏で、豹変したマルコによって殺害されるミヒャエル司祭枢機卿。それを遠く感じたクリスティーナ王女には、うれいだけが残されて。
 真実を知ったハインリヒの瞳は、はるか遠くを見据え……。新王誕生に国中が沸き立ち、新たな御代が始まるのでした。







「ミヒャエル司祭しさい枢機卿すうきけいが?」
「はい、王位継承の儀が行われた日に、牢の中で自害したそうです。表向きは病死ということで処理されましたが」
「……そう」

 カイの報告を受けて、イジドーラは言葉少なく窓の外を眺めた。

 王妃の座を退いて、今はディートリヒと共にこの後宮で過ごしている。肩の荷が下りたと言うのが正直なところだ。
 だが不慣れなアンネマリーをサポートする役目はしばらく必要だ。身ごもっている彼女の代わりに、公務におもむくことも出てくるだろう。

 まだここに自分の居場所はある。この胸にハインリヒの子を抱くまでは――。

「イジドーラ様はどうしてあの時、司祭枢機卿をかばったんですか?」

 思考をさえぎるようにカイが問うてくる。イジドーラがあそこまでして助けた命だ。しかもミヒャエルの死は、恩赦おんしゃで罪が軽減されることが決まった矢先の出来事だった。不満を含ませたその言葉に、イジドーラは静かにカイを振り返った。

「言ったでしょう? わたくしはあの者の吹く笛に救われたことがあると」

 カイもあのを一緒に聞いていたはずだ。もっとも当時のカイはまだ幼かった。覚えていなかったとしても無理ないことだろう。

 生家ザイデル公爵家の謀反むほん。セレスティーヌの死。先の見えない幽閉の日々の中、次々と起こる悲劇を前に、イジドーラはなすすべもなかった。

 ――もういっそ自ら命を断ち切ろう

 反逆者として死刑を迫られて、短剣をこの手に握りしめた。生きることすべてを諦めようとした時、ふいに三日月の空に響いてきたのがあの笛だった。セレスティーヌと過ごしたしあわせな日々が、瞬時にイジドーラの内に蘇る。

 はじめて彼女に目通りした日、なんと美しく気高いひとかと衝撃を受けた。セレスティーヌが亡くなるその日まで、何度もかよった王妃の離宮。王城から続く長い廊下の庭からも、よくあの笛の音が聞こえてきた。

 離宮の奥庭のガゼボで本を読みふけっているときも、時折その旋律はこの耳に届けられていた。その笛は若い神官が奏でていることを、イジドーラはそのガゼボで盗み見た。その時の神官がミヒャエルなのだと気づいたのは、王妃となって随分と経ってからのことだ。

 あの笛は満たされていた日々の象徴だった。胸を締めつける旋律は、イジドーラの記憶ときをたやすく巻き戻す。

 細い月を見上げ、セレスティーヌがのこした言葉を思い出した。最期さいごに交わした大切な約束だ。それをどうして忘れてしまっていたのだろうか。
 自分にはまだやらねばならないことがある。それはイジドーラが生きる理由を思い出した瞬間だった。

 思えば、幼かったカイをも見捨てようとしていた。狂った姉に傷つけられ、味方すらなくどこにも行き場のなかったおいだ。
 そのカイを置いて自死を選ぼうものなら、血を流し続ける傷がさらに深まるのは当然のこと。己のしようとしていたことの愚かさに、今さらながらイジドーラは気づかされた。

「カイ、こちらにいらっしゃい」

 あの頃は、なぜ姉があんなにもカイを拒絶するのか、イジドーラにはまるで理解できなかった。その理由を王妃になった時に知り、同時に自分の無力さも知った。

 素直に近づいてきたカイを抱きしめる。姉ゆずりの灰色の髪を、幼子にするようにやさしく撫でていく。

「今までハインリヒのため、よく尽くしてくれたわね。これからはカイ、あなた自身のために生きるといいわ。わたくしができることはなんでもしてあげるから」
「……うれしいお言葉ですが、今イジドーラ様にしていただきたいことと言えば、すぐにでもこの手を離してほしいということなんですが……」

 なぜか身を強張こわばらせているカイの視線の先を見やると、そこにはディートリヒがいた。かなり不機嫌そうにカイを睨んでいる。

「ディートリヒ様。お戻りになられていたのですね」
「イジィに会いたくてすぐに済ませてきた」
「まぁ、おたわむれを」

 カイから離れると、ディートリヒが即座に手を引いてくる。それを呆れたように見やり、カイはさらに一歩下がって大げさに礼を取った。

「では邪魔者は退散させていただきます」
「またいつでも顔を見せに来るといいわ」
「いや、用がなければ来なくていい」

 イジドーラを強く抱き込んで、ディートリヒが間髪入れずに言う。ますます呆れたような顔をして、カイは深々とこうべれた。

「もうひとり、見つかっていない託宣者がおりますので、その手掛かりを見つけた時にでもまた参ります」
「あら、それではいつになるか分からないじゃない。いいわ、今まで通り定期報告なさい」
「仰せのままに、イジドーラ様」
「報告は書類にまとめて来い。そして最短で帰れ」
「まぁ、ディートリヒ様、随分とおもしろいことを」
「いや、それ絶対に本気マジですって」

 カイが小声で突っ込むと、すかさずディートリヒが睨みつけてくる。

「ああ、もう……今すぐ御前失礼いたしますから、そんなに怒らないでくださいよ」

 やれやれといったふうにカイが部屋を辞していく。その背を見送るやいなやディートリヒが口づけてきた。

「イジィはオレのものだ。誰にも渡さん」
「どうなさったのです? 先ほどからお戯ればかり。それにあの大仰おおぎょうなしゃべり方は、もうおやめになったのですか?」
「ああ。威厳ある王らしくて、オレもなかなかさまになっていただろう? だがもう必要ない。それともイジィはあの方がお気に入りか?」
「いえ、王太子でいらした頃のディートリヒ様に戻ったようで、とても懐かしいですわ」

 王位を継ぐ前の奔放なディートリヒを思い出し、イジドーラは遠くを思うように目を細めた。

     ◇
 王妃となったものの、アンネマリーの公務は必要最低限に減らされている。王の子を身ごもっているのだ。周囲の腫物はれものを扱うような態度も、おとなしく受け入れなければならなかった。

(それにしてもお腹がすくわね……)

 常に何かを口にしていないと胃がむかむかして、気持ちが悪くなってしまう。だからと言って食べ物なら何でもいいわけではなく、やたらとにおいに敏感になっていた。今まで好物だった物がまるで受けつけなくなったりもしている。

 口の中がさっぱりする果物を口に含みながら、日増しに張ってくる胸が重くてアンネマリーは小さくため息をついた。このままではどんどん太ってしまいそうだ。隣国では妊婦の適度な運動が推奨されていたが、この国はアンネマリーがひとりで歩くだけでも、周りから悲鳴が聞こえてくるありさまだ。

「王妃殿下、王がお戻りでございます」

 女官のルイーズの声掛けに、アンネマリーは出迎えようと立ち上がった。ハインリヒは王となってから、公務中でも頻繁に自分の元に帰ってくる。それこそちょっと時間ができただけでも、必要以上に何度も姿を現した。

「いいよ、君はそのまま座っていて」

 足早にハインリヒが入ってくる。女官たちが一斉に膝をつき、さっと部屋から出ていった。

「調子はどう?」
「変わりはありませんわ」
「そうか」

 ほっとした顔をされ、アンネマリーから苦笑いがもれる。このやりとりは今日でもう五回目だ。

 アンネマリーは隣に座ったハインリヒを覗き込んだ。ふたりきりのとき、ハインリヒの口調も態度も以前とさほど変わらない。だが王位を継いでからというもの、ハインリヒはどこか遠い目をするようになった。

(まるでディートリヒ様のようだわ……)

 裏腹に退位したディートリヒからは、あのまなざしが消えてなくなった。

 ――この国の王はそのかんむりを降ろすまで人たり得なくなる

 いつかイジドーラに言われた言葉が頭をよぎる。その重圧を支え孤独を癒していくのが、王妃である自分の役目だ。

「わたくしは大丈夫ですから、あまりご無理はなさいませんよう」
「ありがとう。でもわたしが大丈夫ではないんだ」

 ふっと笑った瞳も、アンネマリーを映しているようで映していない。不安になる気持ちを悟られたくなくて、アンネマリーはハインリヒの肩に顔をうずめた。

「ああ……アンネマリーのにおいがする」

 落ち着くな。耳元で言ってハインリヒは小さく息をつく。あやすように背をさすると、ぎゅっと抱きしめ返された。

「王、そろそろお時間です」
 遠慮がちな声掛けに、ハインリヒはすぐさま立ち上がった。

「また時間ができたら戻ってくるから。アンネマリーはゆっくり休んでいて」

 見上げたひたいに口づけを落としてから、ハインリヒは戻ってきた時と同様、足早に部屋を出ていった。
 身重みおものアンネマリーを心配してというより、本当に自分自身が落ち着きたくて、ハインリヒはここへと何度も通っているように思えてならなかった。

(ずっとおそばにいられたらいいのに……)

 ため息をつきつつアンネマリーは、果物を口に頬張った。

     ◇
 その日の朝はひとりきりで目覚めた。エラはお使いで東宮を離れているため、今日は自分で身支度を整えなくてはならない。

 マンボウの雄叫おたけびをBGMにストレッチを始める。早寝早起きの生活は健康的で、すこぶる体が軽く快調な毎日だ。ここでの階段生活に、足腰も随分きたえられていた。

 体を右に左にひねっては、満足げに姿見すがたみに全身を映す。伸びた背筋にくびれた腰、そして何よりも盛り上がる胸の曲線の美しさ。

(自分史上最高のプロポーションだわ)

 Cカップにはまだまだ及ばないが、これならBカップは間違いなしだ。山もくびれも皆無かいむだったこれまでの寸胴ずんどう体型を思うと、目を見張るほどの成長ぶりだ。

(バストアップに励んできた甲斐があったわ)

 暇を持て余す毎日は、気づけば肉体改造集中合宿となっていた。脇の脂肪を必死の形相ぎょうそうで胸にかき集め、大胸筋だいきょうきんを鍛えるために、合掌がっしょうのポーズにダンベル運動、腕立て伏せも欠かすことなく頑張った。

 汗水流して筋トレに励むなど、およそ深窓しんそうの令嬢のやることではない。人目もはばからず集中できたのも、結果を出すのに役立った。

(この勢いならCカップも夢じゃないかも)

 両手で胸をすくい上げ真ん中に寄せてみると、そこには立派な谷間ができあがる。

(今なら女の色気でヴァルト様をメロメロにできるんじゃ……)

 腰に手を当て髪をかき上げながら、リーゼロッテはあはんとポーズをとった。鏡の向こうで口を半開きにした自分が、ばちりとウィンクを返してくる。

 数秒そのまま動かずにいたが、我に返った途端、むちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。
 こんなアホな格好をしたとしても、ジークヴァルトの眉間にしわが寄るだけだ。ひとり顔を赤らめて、そそくさとリーゼロッテは着替えを済ませた。

「今日はエラがいないから、自分で食事を取りにいかないとだわ」

 東宮に住みだしてから三か月は経つ。いつまでも客人気分でいるのは申し訳なかったので、ヘッダにはもう世話は必要ないと伝えてある。
 厨房の使用人たちとも顔見知りになった。自分が直接顔を出しても驚かれることはないだろう。

 ショールを羽織り一階の厨房へと向かう。バターたっぷりのパンが焼けたにおいが漂って、リーゼロッテのお腹がきゅるると鳴った。

(この不随意筋ふずいいきん運動だけはどうにもならないわね)
 お腹を押さえながら、誰にも聞かれていないことを確かめた。

 こんな寒い日でも厨房ちゅうぼうは熱気に包まれている。伺うように入り口から顔をのぞかせると、ちょうどオーブンの扉を開けた料理人と目が合った。

「おはようございます、ダーミッシュ伯爵令嬢様」
「おはよう、今日はエラがいないから自分で取りに来たの」
「ああ、今朝はエデラー男爵令嬢様がいらっしゃらないんでしたね。今すぐご用意いたします」

 手早く皿に盛りつけ、ワゴンに乗せていく。朝食と言えど少量ずつで品数も多く、手間がかかっているのがよく分かる。

「いつも美味しいお食事をありがとう。たいへんだったら品数を減らしてもいいのよ?」
「とんでもございません。伯爵令嬢様がいらしてからいろんなメニューに挑戦できて、こちらもかえってよろこんでおります。王女殿下は葉物野菜しか口になさいませんし、バルテン子爵令嬢様も小食で……。従者の方に至っては、肉のかたまりさえあればいいとおっしゃる始末でして」
「まあ、そうだったの」

 それを聞いて頬が赤くなった。三食に加えて、午前午後のおやつまでぺろりとたいらげている自分が、令嬢としてなんだか恥ずかしく思えてくる。

「特に子爵令嬢様は最近ほとんどお食べになられなくて……。ご体調も悪そうで、何か食べやすそうなものを探しているのです」
「ヘッダ様が?」

 ヘッダが調子を崩しているとは知らなかった。エラが来てからというもの、この狭い東宮で彼女とはまるで顔を合わせていない。

(病気の時と言えば、桃缶かしら? おかゆとかも消化がよさそうだけど……)

 わりと健康優良児のリーゼロッテは、この世界の病人食などお目にかかったことがない。ヘッダのことで胸を痛めている料理人を前に、リーゼロッテはあることを思い出した。

「わたくしこの前の夜会でバルテン領の香草を頂いたの。ちょっと変わった風味の……なんて名前だったかしら……?」
「ビンゲンのことでしょうか?」
「そう! それよ。領地の特産なら、ヘッダ様も小さいころからお食べになっているだろうから、慣れた味にしょくもそそられるんじゃないかしら?」
「それはいい案ですね! さっそくビンゲンを使った料理を作ってみます」

 笑顔になった料理人は、リーゼロッテ用の朝食を並べていく。最後に銀の蓋クローシュかぶせてもらい、リーゼロッテはワゴンを押して、来た廊下を戻っていった。

 途中まで来て、ふと足が止まった。螺旋状に続く階段を見上げなら、呆然と立ち尽くす。

(この先はどうやって運べばいいの……!?)

 自分が過ごす部屋は二階にある。今まで特に何も考えていなかったが、ヘッダもエラも、このワゴンをどうやって二階へと持ち上げていたのだろうか。

(お皿を一枚一枚上へ運んで、それからワゴンを?)

 しかしそんなことをしたら料理が冷めてしまう。東宮で出てくる食事は熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、いつも適温に保たれていた。
 それに運んだ皿を廊下に放置するなどできないだろう。そもそもこんな重量のあるワゴンを抱えて階段を昇るなど、この鍛え上げた大胸筋をもってしても絶対無理に決まっている。

「やっぱり……こんなことになっていると思いましたわ」

 冷ややかな声に振り向くと、暗がりの廊下にクリスティーナ王女がいた。腰まで伸びた長い髪ごとショールで身を包み、気だるそうに壁に背を預けている。

「クリスティーナ様……!」

 一瞬だけ礼を取り、不敬かとも思ったがそのそばに駆け寄った。王女は病弱と聞いている。廊下で気分が悪くなったのかもしれない。

「……ヘッダ様?」

 近寄ってみて、王女だと思っていたのはヘッダだった。ヘッダは色素の薄い茶色の髪で、光加減によってはクリスティーナと同じプラチナブロンドにも見えた。明かりの少ない場所で見るブルーグレーの瞳は、やはり王女の菫色すみれいろの瞳と見間違う。

「申し訳ございません、わたくしクリスティーナ様とばかり……」
「当然ですわ。いざという時の替え玉となるために、わたくしはクリスティーナ様のおそばにいるのだから」
「え……?」

 一国の王女という立場で、命を狙われることがあるのかもしれない。不穏ふおんな言葉を残したまま、ヘッダはひとり壁伝いに歩き出した。その途中で苛立つように振り返る。

「何をなさっているの? それを持ってついていらして」
「あ、はいっ」

 慌ててワゴンを押しつつその背を追った。しばらく廊下を進むと、壁が大きくかれた場所でヘッダは立ち止まった。その壁の中を覗き込むと、ゴンドラのような箱が太いロープで吊り下げられている。

「この箱に乗れば上まで昇れます。日に何度も動かせないから、普段は階段をお使いになって」

 簡単に使い方を説明してから、ヘッダは不機嫌そうに背を向けた。

「ヘッダ様、教えてくださってありがとうございます」
「……気にかけるのはあなたのためではないわ。クリスティーナ様のご命令だからよ」
「それでも、本当に助かりました」

 突き放すような口調のヘッダに、リーゼロッテは淑女の礼を取った。振り返りもせずに、ヘッダはこの場を離れていく。その緩慢かんまんな足取りに、体調が悪そうなのが見て取れた。

(具合が悪いのに、わざわざ来てくれたんだわ)

 ヘッダは誠心誠意をもって、王女に仕えているのだろう。厄介者の自分が申し訳なく思えてくる。

「わたくしだって早く帰りたいもの……」

 あたたかなフーゲンベルクの屋敷を思って、リーゼロッテはしょんぼりとワゴンをゴンドラへと乗せた。

    ◇
 ここ東宮での毎日は、何年も変わらずおだやかに繰り返されていた。王女と自分、それにアルベルト、今日も三人で朝食を囲む。同じ食卓につくのはクリスティーナの望みだった。でなければ王族と共に食事をするなどあり得ない。

「あら? これはビンゲンではなくて?」

 クリスティーナがふいに言った。サラダから器用にそれだけをすくい上げ、ヘッダに見せてくる。

「確かにビンゲンですわね……」

 ヘッダの目の前には野菜のスープだけが置かれていた。王女はサラダ、アルベルトは肉料理とそれぞれ用意されるメニューは違っている。

 さじにひとすくい、ヘッダはそのスープを口にした。これは生まれ育った領地でとれる香草だ。懐かしい香りがいっぱいに広がった。

「わたくしの皿にも入っていますわ」
「そう。ヘッダがあまりにも食べないものだから、料理長が気を利かせたのね」
「はい……あとで礼を言っておきます」

 食欲がない日が続いたが、久々にスープを完食できた。温まった体にほっと息をつく。

「ビンゲンはわたくしも好きね。毎日だと飽きそうだけれど。アルベルトは嫌いでしょう?」
「確かに鼻に抜けるあの香りは苦手ですね。ですが食べられないというわけではありません」
「アルベルトは強がりばかりね。素直に負けを認めたらどう?」
「食材に対して勝ちも負けもないでしょう……」

 呆れたようなアルベルトは、朝からもりもりと肉を食べている。それを目にするだけで、胃もたれしてしまうヘッダだった。

「ほんと、つまらない男」

 この言葉をクリスティーナは、いつもたのしげに言う。繰り返される日常が、切なくて苦しくていとおしくてたまらなかった。

(どうか、いつまでも――)

 この願いはどこにも届かない。
 それを知っていてもなお、ヘッダは祈らずにいられなかった。

     ◇
 朝食のワゴンを返しに来て、ヘッダは料理長と目を合わせた。普段使用人に声掛けなどしないが、王女にああ言った手前、ひと言だけと口を開いた。

「ビンゲンを入れてくれたのね。その、故郷の味が懐かしかったわ」
「ああ……お口に合ったようでよかったです」

 からになった皿を見て、料理長はうれしそうに笑顔になった。

「もしほかにご要望がございましたら、なんでもおっしゃってくださいね」
「ええ、そうするわ」
「でも本当によかった。バルテン子爵令嬢様は、ここのところずっと食が細くいらっしゃいましたから」

 気遣われていたことにヘッダは驚いた。自分は王女に仕える、ただの侍女でしかないのだから。だがなんだかとても心があたためられた。

「ビンゲンを使うことは、実はダーミッシュ伯爵令嬢様が勧めてくださいまして」
「え……?」

 その名に気持ちが一気に冷える。あの令嬢はどこまでも自分を不快にさせる。ヘッダは唇をかみしめて、逃げるように厨房を出た。

 ヘッダの部屋は王女のいる階下、四階にある。螺旋階段を昇りながら、ヘッダは途中で胸を押さえて座りこんでしまった。
 いつもは休み休み昇るのだが、怒りに任せて無理をしてしまった。この胸は長い運動に耐えられない。常備薬を探すも、入れ忘れていたことに気がついた。

「……っは」

 苦しくて呼吸がままならない。もう少しだけ上がれば部屋へとたどり着く。脂汗あぶらあせを流しながら、ヘッダはやっとの思いで手すりにしがみついた。

「ヘッダ様……? どうなさったのですか!?」

 駆け寄り支えられる。そのぬしがリーゼロッテだと分かると、ヘッダは息も絶え絶えにその手を振り払った。

「離して! あなたのほどこしなどいらないわ!」
「ですが……」

 できることなら今すぐこの階段から突き落としてやりたかった。だが痛む胸がそれを許してはくれない。

「いいからどこかへ行って!」

 これ以上醜態しゅうたいを見られるのは耐えられない。叫ぶように言って、ヘッダは再び手すりを頼りに昇り出した。しかし数段もいかずにその場にへたり込んでしまう。
 そこをすぐさま支えられる。腕を肩にかつがれて、リーゼロッテはヘッダを上へと導こうとしてきた。

「いいって言ってるでしょう!」
「できません!」

 初めて聞くリーゼロッテの強い声に、ヘッダは驚きで口をつぐんだ。

「ヘッダ様に何かあったら、王女殿下がお悲しみになられます。わたくしが気に食わなくとも、ヘッダ様は素直に助けを求めるべきです」

 強いまなざしに反論できない。そのままヘッダはリーゼロッテに支えられて、自室へとたどり着いた。

「そこの引き出しに薬が……」
 力なく言うと、常備薬が水と共に差し出される。それを飲みくだして呼吸が落ち着くまで、リーゼロッテはやさしく背をさすっていた。

「……もう大丈夫です。できればアルベルト様を呼んできていただけますか?」
「はい、すぐにでも」

 礼すら言わなかったヘッダに淑女の礼を残し、リーゼロッテは部屋を出ていった。

「あなたがもっと……嫌な人間だったらよかったのに」

 悲しくて、ヘッダの瞳に涙がにじんだ。

     ◇
「じゃあエラ、ちょっと行ってくるわね」
「はい、お嬢様。お気をつけて」

 戻ってきたエラと共に、何事もない日々を過ごしていた。日課の散歩をするために部屋を出る。と言っても、東宮の建物の中をうろつきまわるだけだ。ここ数日、外は雪が降りしきっており、庭に出ることは叶わない。

 螺旋階段をゆっくりと昇っていく。五階建ての東宮はいちフロアの天井が結構高い。建物としてもおそらく相当の高さだろう。

 はじめは休み休み昇っていたこの階段も、今では息切れすることなく昇りきることができるようになった。いかに運動不足だったか、今になってよく分かる。

(公爵家では階段は絶対にひとりでは昇らせてくれなかったものね)

 王城で階段上からダイブして以来、ジークヴァルトはリーゼロッテを抱えて階段を昇り降りするようになった。ジークヴァルトがいないときは、階段に近寄ることもままならない。どうしても必要なときは、必ず複数人がそばで見張っているという過保護ぶりだ。

(公爵家に戻ってもこの運動は続けたいわね。うまくヴァルト様と交渉しなくちゃ)

 そんなことを思っているうちに最上階まで昇りきる。一息ついてから、リーゼロッテは階段を降り始めた。調子のいい時はこれを何回か繰り返す。

(次に踊るダンスの足さばきは、きっとキレッキレね)

 うきうきな想像をしながら螺旋階段をくだる。いつまで続くか分からない軟禁生活は、そんなことでもしないと暗く沈みがちになってしまう。

「あら、リーゼロッテ」
「クリスティーナ様!」

 昇ってきた王女と出くわして、あわてて階段のはしける。

「ちょうどよかったわ。あなたも部屋にいらっしゃい」

 そう声をかけ、クリスティーナは上階へと進んでいく。リーゼロッテはその背を追いかけ、降りてきた階段を再び急いで昇っていった。
 かなり急いだのに、王女は先に上まで昇りきっていた。病弱な割には疲れも見せずに、けろっとした顔をしている。

「クリスティーナ様はあのゴンドラをお使いになられた方がよろしいのでは……」
「どうして? あれは揺れるし時間もかかるから、自分の足で行った方が早いわ」
「ですが、お体が……」
「ああ、そういうこと。大丈夫よ、わたくしの体はどこも悪くはないから」
「え……?」

 部屋に招かれて、促されるままソファに座る。向かいに腰かけた王女はスノウドームを手に取った。感情を乗せない瞳で、それを手の内でもてあそぶ。

「テレーズが、隣国へと嫁いだでしょう?」

 突然そう言われ、一瞬返事に詰まった。テレーズはクリスティーナの妹だ。アンネマリーが隣国話で、頻繁に話題に出す第二王女のことを思い出す。

「第二王女殿下ですわね。アンネマリー様からテレーズ様のお話をよくお伺いしました」
「そう」

 それが何だと言うのだろうか。小首をかしげていると、クリスティーナがスノウドームを軽く揺らした。中で白い雪が対流するように舞っていく。

「縁談話は昔から出ていたの。本来なら第一王女であるわたくしが隣国へと嫁ぐはずだった。だけれどわたくしは龍から託宣をたまわった身……この国から出ることは許されないわ。でもそんな言い訳、他国に通用するはずもないでしょう?」
「それでクリスティーナ様は病弱ということに……?」
「そんなところよ」

 遠い目をしてクリスティーナは続けた。

「妹は龍の託宣を受けなかった。それでわたくしの代わりに、テレーズに白羽の矢が立ってしまったわ……」

 アンネマリーの話では隣国の情勢はかなり不安定らしい。アンネマリーがテレーズの安否を気遣う様子を、リーゼロッテは何度も目にしてきた。

「だからこそ、わたくしは王女として託宣を果たす義務がある。例えそれがどんなものであったとしても」

 龍の託宣によって自分もアンネマリーも、大好きな人と結ばれることができた。だが王太子時代のハインリヒの苦悩と、アデライーデの悲劇を思い出し、両手放しによろこぶこともできないのだと改めて思った。

(テレーズ様の事だけじゃなくて、王女殿下は何かおつらい過去を抱えていらっしゃるのかしら……)

 うれいをはらんだ瞳にそんなことを感じる。ヘッダの冷たい態度も、それに関係しているのかもしれない。

「いいこと、リーゼロッテ。あなたはいつか大きな選択を迫られる。龍に選ばれた者として、その時はいずれ必ず訪れるわ」

 真剣に見つめられ、綺麗な菫色すみれいろの瞳に吸い込まれそうになる。

「でも絶対にまどわされては駄目。誰かの言葉に従うのではなく、あなたの見たまま、感じたまま――その心に従いなさい。この言葉をよく覚えておいて」
「……はい、クリスティーナ様」

 催眠術にかけられたようにリーゼロッテは返事をした。

「これはあなたにあげるわ」
 ふいに差し出されたスノウドームを慌てて受け取った。

「よろしいのですか?」
「ええ、セレスティーヌお母様の形見だから、大切にしてちょうだいね」
「そんな大事なもの、わたくしいただけませんわ……!」
「いいのよ、わたくしにはもう必要のないものだから」

 静かに言われ、それ以上は断ることもできなくなる。

「明後日、わたくしは王城へ向かうわ。今回はあなたも連れて行くから、そのつもりでいてちょうだい」
「わたくしも……?」

 王女は定期的に行われる神事に参加していると聞いている。月に一度は王城へと行っているようだったが、リーゼロッテはいつも東宮で留守番をしていた。

「あなたがここに戻ってくることはもうないと思うから……そのつもりで支度したくなさい」
「え? では公爵家に帰れるのですか?」
「王城での神事が済めばそうなるはずよ」

 頷くクリスティーナを前に、リーゼロッテは瞳を輝かせた。

「もういいわ。下がりなさい」

 気もそぞろに部屋を辞し、ようやく帰る目処めどがついたことを、リーゼロッテはエラに笑顔で報告したのだった。







【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。間もなく時が満ちると感じたクリスティーナ王女は、ヘッダ様にねぎらいの言葉をかけて。残された僅かな時間の中、最後の願いを叶えるために、クリスティーナ様が向かった先は……?
 次回4章第16話「宿命の王女」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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