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第5章 森の魔女と託宣の誓い

第1話 膝の上のまどろみ

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「ヴァルト様……こういったことは婚姻を果たしてからでないと……」

 誰もいないふたりきりの部屋で、うすい布をへだてた向こう、リーゼロッテの鼓動が手のひらに直接響く。

 驚きと羞恥でうるむ瞳は、この旅の意味を知らなかったことを物語っていた。それを始めから分かっていても、もう指の動きを止めるなどできはしない。

「誓いならば先ほど泉で果たしただろう。問題ない。オレたちは正式に夫婦となった」

 息を飲む首筋に、いくつも口づけを落としていく。夢にまで見たやわらかな肌を、余すことなくあばきたい。

 そしてリーゼロッテのすべてに消えないしるしを、永遠に、刻み続けたい――


     ◇
 うららかな陽気のまどろみの中、リーゼロッテはふと目を覚ました。見上げると書類に目を落とすジークヴァルトがいる。
 伏せ気味の青い瞳が、真剣に文字を追っていく。その横顔に見惚れながら、次第にまぶたが重くなった。瞳を閉じてすり寄ると、青の波動が包み込む。

 あたたかくて心地よくて、深くまで触れていたくなる。ねだるように引き込むと、青の力がするする身の内に入ってきた。もっともっとと願うままに、すべてがジークヴァルトで満たされていく。

 そこまできてリーゼロッテははっと顔を上げた。
 目の前には、小鬼たちがはしゃぎまわるサロンが広がっている。壁際にカークが立っていて、自分はジークヴァルトの膝の上だ。食べかけの菓子に飲みかけの紅茶。その横にはなぜか、うず高く積み上げられた書類の山が。

「わたくし眠ってしまってお仕事の邪魔を……!」
「いや、問題ない」

 午後のティータイムをたのしんでいたはずだった。眠りこけた自分を起こさないようにと、時間が来ても執務室には戻れなかったのだ。
 きっとマテアスがここまで書類を運んだのだろう。サロンが簡易執務室のようになっていて、かけさせた手間を思うと申し訳なくなる。

 ジークヴァルトの紅茶はテーブルのすみ、遠くまで追いやられ、まだひと口も飲んでいない。あわてて膝から降りようとするも、逆に肩を引き寄せられた。

「気持ちよさそうに寝ていた。よく眠れたか?」
「はい……ヴァルト様のお膝の上は心地よくて……」

 もじもじしながら本音を答えた。以前だったら言えないようなことも、今はすべて伝えたくて仕方がない。

「そうか」

 肩口辺りまで短くなった髪をきながら、ジークヴァルトはふっと笑った。公爵家に戻ってから、頻繁にこんなやさしい顔を向けられる。恥ずかしくて胸板に頬ずりすると、いまだジークヴァルトの力を吸い込んでいたことに気がついた。

「わたくしったらヴァルト様のお力を!」

 無意識だったとはいえ、我ながら驚きの吸引力だ。あわてて流れを止めようとすると、ジークヴァルト自らが力を流し込んできた。

「別に問題ない」
「ですが……」

 力は使いすぎると疲労をもたらす。身の内にあふれる青の力は、すでに相当な量になっていた。

「ならばこれであいこだ」

 そう言ってジークヴァルトは緑の力を引き寄せた。今度はリーゼロッテの力がジークヴァルトの中に流れ込んでいく。青と緑が混ざり合う。自分がジークヴァルトになって、ジークヴァルトが自分になるような、そんな感覚に包まれた。

(むしろふたりがひとつになっているような……)

 うれしさとあまりの気持ちよさに、きゅっと背中に手を回す。と、サロンがドン! と大きく揺れた。

 久々の公爵家の呪いだ。ティーカップがガチャガチャと揺れ、積まれた書類は今にも崩れ落ちそうだ。そんな中きゅるるん小鬼たちが、さらにハイテンションで走り回っている。

「ヴァルト様……!」

 一向に落ち着かない騒ぎに、膝の上、きつくしがみつく。強く抱きしめ返されて、サロンがさらに激しく揺れた。

「旦那様、そこまでです!」

 雪崩なだれを起こした書類のたばを、駆け付けたマテアスが器用にキャッチした。それでも収まらないサロンを前に、マテアスは糸目をつり上げる。

「だ・ん・な・さ・ま!」

 そこでようやく静かになった。恐る恐る顔を上げると、大勢の使用人たちが調度品を押さえて守っている。おかげで被害はそれほど大きくなさそうだ。

「まったく、油断も隙も無い……ご自制できないのでしたら、旦那様のお部屋で愛をお語り合いください」
「駄目だ」
「そうおっしゃるのなら、きちんと言動を一致させてくださいよ」
「分かっている」
「分かっておられないから今こうなっているのでしょう?」

 ふいと顔をそらしたジークヴァルトを見上げ、リーゼロッテはしゅんとうなだれた。

「ごめんなさい、わたくしがヴァルト様の邪魔をしているから……」
「とんでもございません! リーゼロッテ様は何も悪くはございませんよ」
「だったらマテアスは何を怒っているの? ヴァルト様はきちんとお仕事をなさっていたわ」
「あ、いえ、そうではなく公爵家の呪いが」
「マテアス」

 ジークヴァルトに睨みつけられ、マテアスはもの言いたげなまま口をつぐんだ。

「呪いが? 呪いは異形たちが起こしているのよね。ヴァルト様のせいではないでしょう?」
「それはそうなのですが、発動する原因を作っているのは……」
「マテアス」

 再び睨みつけられて、マテアスは困ったように眉を下げた。

「いつまでも隠していてもしょうがないでしょうに……。仕方ありませんね。旦那様はリーゼロッテ様を部屋にお連れしたら、執務室に戻ってきてくださいよ」

 書類を抱えて出ていくマテアスを見送って、膝から降りようとした。しかし強くホールドしたまま、ジークヴァルトはリーゼロッテを離そうとしない。

「ジークヴァルト様? もう戻らないとですわ」
「ああ、分かっている」

 言葉とは裏腹に手に力をめられる。戸惑っているうちに膝裏をすくい上げられ、そのまま抱き上げられた。

「わたくし自分で歩きますわ」
「いや駄目だ。来るときも転んだだろう」
「あれは毛足の長い絨毯じゅうたんに足を取られてしまって……」

 ひと月以上、狭い部屋に閉じ込められて、随分と筋力が衰えてしまった。東宮で鍛え上げた体が、今では見る影もない。

「だったらなお更だろう。いい。お前はこれから一切歩かなくていい」
「ですが少しは運動しないと本当に歩けなくなりますわ」
「オレが運ぶ。問題ない」
「そんな……!」

 呆気にとられたまま廊下を運ばれる。来るときもこうして部屋から運ばれてきた。転んでしまった手前、行きはおとなしく受け入れたが、このままいくと本当に歩かせてもらえなくなりそうだ。

 この腕の中にようやく戻ってこられたのだ。こうしてくっついていられるのは、リーゼロッテもものすごくうれしい。だが過保護ぶりに拍車がかかっていて、未来は要介護まっしぐらだ。

「部屋からは出るなよ」

 リーゼロッテの部屋の中、アルフレートの隣のソファに降ろされる。名残なごり惜しそうに髪をひとふささらって、ジークヴァルトは指からこぼしていった。

     ◇
 部屋に戻ってきてからずっと物憂ものうげなリーゼロッテに、エラは遠慮がちに声をかけた。

「お嬢様……公爵様と何かございましたか?」
「ジークヴァルト様がちっとも歩かせてくださらなくて」
「まぁ、そうでございましたか」

 公爵家でもリーゼロッテが運ばれるのは、当たり前のようになってきている。戻ってきた時の憔悴しょうすいしきったリーゼロッテを目にしたエラとしては、ジークヴァルトの気持ちが痛いほどよく分かった。

 やせ細った体。無残に切られた髪。痛々しい手足のあかぎれ。

 無事に帰還したとは言い難い姿を見た時、エラは心臓が止まるかと思った。

 今でこそ回復してきているが、やはり以前のはつらつとした姿には程遠い。儚げに瞳を伏せるリーゼロッテを前に、エラ自身、叶う事ならこのままどこにも行かないで欲しいと願ってしまう。

 リーゼロッテの髪をブラシで梳く。不揃いだった髪は肩口で切りそろえられ、美しく腰まで伸びた髪は随分と短くなってしまった。

 一体何があったのか、リーゼロッテは言葉少なく話してくれた。龍に目隠しをされるとかで、うまく説明できないようだった。
 つらくひどい境遇だったが、リーゼロッテの瞳の輝きは失われていない。その事だけが唯一の救いだ。リーゼロッテはどんなことになろうとリーゼロッテだ。この方に生涯尽くしていこうと、エラは改めて胸に誓った。

「わたくし、東宮にいた頃みたいに、きちんと体を動かしたいのだけれど」
「今はまだご無理をなさらない方が。少しずつやって参りましょう」
「そうね……でもこの部屋以外、どこも歩けないのは問題だわ。ヴァルト様を説得するいい方法はないかしら?」
「そうでございますね……」

 小首をかしげるリーゼロッテを前に、エラも考えを巡らせる。公爵は心配で心配で仕方がないのだろう。だがエラとしてはリーゼロッテの気持ちが最優先だ。

「一緒にお出かけしたいとお願いするのはいかがでしょう? 貴族街でお買い物でもいいですし、もう少し暖かくなったら公爵領を散策なさっても」
「それはいい考えね! でもヴァルト様はお忙しいし……」
「お嬢様のためならお時間をとってくださいますよ。公爵様も働きすぎのように思います。かえっていい息抜きになられるのでは?」
「だったら何かお願いしてみようかしら」
「そう言えば、公爵様は近衛騎士の訓練に復帰なさるようですね」

 謹慎が解けて、王城の出仕も再開されると聞いた。それに先立って近衛第一隊の訓練に顔を出すことになったらしい。

「訓練を見学したいとお願いなさってみては?」
「わたくし前から一度見学してみたかったの! 思い切ってお願いしてみようかしら」

 リーゼロッテは花がほころぶような笑顔を見せた。この笑顔のためなら何でもしたい。そう思うエラだった。


 リーゼロッテの可愛いおねだりに、ジークヴァルトはしぶしぶ了承し、数日後に王城へとでかけることになったのだった。

     ◇
 馬車を降りて、すかさず抱き上げられた。そのまま王城の廊下を運ばれる。
 公爵家を出るときもそうだった。エントランスに向かおうと扉を開けると、既にジークヴァルトが待っていて、有無を言わさず馬車まで横抱きで移動させられた。一歩も歩かないまま、王城に到着したリーゼロッテだ。

「ヴァルト様……わたくし自分で歩けますから」
「駄目だ」

 短く言って、ジークヴァルトは大股で歩を進める。周囲の好奇の目にさらされて、恥ずかしさのあまりリーゼロッテは黒い騎士服の首筋に顔をうずめた。
 短くなった髪を詮索されないようにと、エラがまとめ髪にしてくれた。それがあだとなって、うまく顔を隠せない。

 長い廊下を出会っては、驚き顔の騎士たちが遠ざかっていく。いつか見た風景だ。ジークヴァルトと再会した二年前、同じように輸送されていたことを思い出す。

(両思いになったのに、あの頃と扱いが変わらない……)

 涙目になりつつ、ダメモトで訴えた。

「ヴァルト様、わたくし今年で十七になります。それなのに王城で抱き上げて運ばれるなど……とても恥ずかしいですわ」
「オレは別に恥ずかしくない。それにオレたちは婚約者だ。何もおかしくはないだろう?」
「い、いえ……婚約者同士と言えどさすがにこれは……」
「そうなのか? 父上たちはいつでもこんな感じだったぞ」
「え……?」

(お父様たちって……ジークフリート様が? もしかしてヴァルト様、本当にこれが当たり前だと思っているの……!?)

 ジークヴァルトの奇行の数々は、家庭環境に起因しているのか。だが記憶に残る初恋の人ジークフリートが、そんなおかしなことをする人物とは思えない。

 その間も歩は止まらず、だっこ行脚あんぎゃは続いていく。結局は降ろしてもらえないまま、騎士団の訓練場に辿り着いた。
 訓練場に入るなり、注目が集まった。リーゼロッテを抱えたジークヴァルトが登場するや否や、どよめきが溢れ出す。

「噂の妖精姫だ……」
「幻の令嬢、妖精姫だ……」
「本当にいたんだ、伝説の妖精姫……」

 ふたつ名におかしな前置きがつけ足されていく。恥ずかしいからやめて欲しい。そしてそんなに見ないで欲しい。そんなことを思っていると、ジークヴァルトが好奇の視線から隠すように、リーゼロッテを抱え直した。

「それ以上見るな。見た奴は手合わせで容赦なく叩きのめす」
「「「ええーっそんな横暴なー!!」」」

 騎士たちの非難の声をひと睨みで黙らせると、ジークヴァルトは観客席でリーゼロッテをやさしく降ろした。先に待っていたエラとエマニュエルが迎え入れる。

「エマ、それにエデラー嬢も、後は頼む」
「お任せください、旦那様」

 両脇をふたりに固めさせて、リーゼロッテに男を近づけさせない作戦だ。

「絶対にそこを動くなよ」
「はい、おとなしく見学しておりますわ」

 過去を振り返ると、そう答えて守れた試しが一度もない。今度こそは信用を取り戻そうと、リーゼロッテは力強く頷いた。
 そんなリーゼロッテの頬をひと撫でしてから、ジークヴァルトは騎士たちの元へと向かっていく。騎士服の後ろ姿をぽーっとなって見送った。最近はジークヴァルトを見るだけで、胸が高鳴って仕方がない。心臓が壊れてしまわないか、自分でも心配になるほどだ。

「ふふふ、旦那様も可愛らしい嫉妬をなさること」

 エマニュエルに笑われて、ようやく我に返った。

「ヴァルト様がいつ嫉妬を……?」
「あら、あんなにリーゼロッテ様を隠したがっておいででしたでしょう?」
「あれはわたくしが恥ずかしがっていたから、そうしてくださっただけで……」
「それだけではございませんよ。だってわたしたち、絶対にリーゼロッテ様に騎士たちを近づけさせないよう、旦那様にきつく言われておりますもの。ねぇエラ様?」
「はい、確かにそのように」

 そう言われて思わずジークヴァルトを見やる。離れた場所の青い瞳と目が合った。

「旦那様はずっとリーゼロッテ様に首ったけですわ。お屋敷でも夜会でも、いつでもリーゼロッテ様を目で追っておられますから」
「それは同感ですわね。リーゼロッテ様が鈍くいらっしゃるから、公爵様が少しばかり不憫ふびんですわ」
「ヤスミン様……」

 いつの間にいたのか、バスケットを持ったヤスミンがいたずらな笑みを向けてくる。

「お父様に差し入れに来ましたの。リーゼロッテ様とお会いできてうれしいですわ」

 ヤスミンは侯爵であるキュプカー隊長のひとり娘だ。そもそも騎士団の訓練を見たいと思ったのも、ヤスミンから話を聞いたからだった。

 エラが椅子をずれてヤスミンが隣に腰かけると、騎士たちの注目がますますこちらに集まった。
 幻の妖精姫と噂の伯爵令嬢リーゼロッテ。いつも差し入れをくれる侯爵令嬢ヤスミン。妖艶なわがままボディの子爵夫人エマニュエル。そして妙齢美人の男爵令嬢エラ。この華やかな並びに、目を奪われるなと言うのは無理な話だ。

 その視線を威圧して、ジークヴァルトが騎士たちを全員、明後日あさっての方に向けさせる。

「ほら、やっぱり。旦那様、あんなに必死になって」
「公爵様のご苦労はこれからも絶えませんわね」

 そんなふうに笑われて、今までのジークヴァルトを思い返す。膝にのせたり、抱き上げて運んだり、人前で髪をなでたり、あーんをしたり。あの奇行の数々は、初恋のリーゼロッテに向けられた独占欲のあらわれなのだろうか?
 そう思った瞬間、頬がぼっと上気した。

(ずっと子ども扱いだと思っていたのに……。ヤスミン様が言うように、わたしってかなり鈍いのかしら……)

 だが分かりにくいジークヴァルトも大概だと思う。口べたなのは分かっているが、もう少し言葉があっても良かったのにと思ってしまう。

 そんなとき別の令嬢たちが数人、観覧席にやってきた。アイドルのおっかけさながらに、騎士たちを見てはきゃいきゃいと騒ぎ出す。

「見て、今日はフーゲンベルク公爵様がいらっしゃるわ!」
「なんて幸運! 公爵様はここ最近お姿を現さなかったから」
「ああ、あの冷たい視線、たまらないわ……わたくしも目の前で睨んで欲しい……」

 そんな会話にリーゼロッテは聞き耳を立てた。ジークヴァルトの婚約者は自分なのだ。大声でそう訴えたい。

「言った通りでしたでしょう? 見張っていないと油断も隙もありませんことよ?」
「あら? ヨハン様。それにマテアスも」

 ふいにエマニュエルが不思議そうな声を上げた。ジークヴァルトの立つ向こうに、カーク子爵家跡取りヨハンの巨体と、マテアスのもじゃもじゃ天然パーマが見える。

「今日はふたりも訓練に参加するそうですわ。ヴァルト様がそうおっしゃっていましたから」
「ヨハン様は分かりますけれど、どうしてマテアスまで……」
「マテアス……? ああ、公爵様の従者の。確かエマニュエル様の弟でしたわよね」
「ええ、旦那様とリーゼロッテ様が婚姻を果たされましたら、マテアスが公爵家の家令を務める事になっていて。あの子、お屋敷を離れて大丈夫なのかしら……」
「なんでもキュプカー侯爵様のたってのご希望らしいですわ」

 リーゼロッテの言葉に、ヤスミンは首をかしげた。

「ということは、彼は相当強いのかしら?」
「マテアスは武術の達人です。それはもう本当に強いんですよ」

 興奮気味に前のめりで言うエラに、みなの視線が集まった。

「エラ様、いつの間にマテアスとそんなに親しくなられたの?」
「いえ、親しくと言うか、去年からマテアスに護身と体術の指南を受けていて」
「あら、それは楽しそうですわね」

 そんな会話をしているうちに、キュプカー隊長の号令が訓練場に響き渡った。

「では訓練を開始する! 本日からフーゲンベルク副隊長が復帰した。手合わせ要員として、子爵家のカーク殿と公爵家の家人を副隊長が連れてきてくれた。カーク殿は力強い剣を振るう。従者の彼は武術に長けた人物だ。普段と違うタイプの相手だ、各自、油断しないように。それと怪我のないよう準備運動は怠るなよ!」

 それぞれが動き出そうとした時、見学していた令嬢たちから歓喜の悲鳴があがった。

「きゃあ! あれはグレーデン様よ!」
「騎士団に入られたって本当だったのね!」
「騎士服姿が似合いすぎてる!」

 見るとニコラウスを連れたエーミールが訓練場にやってきていた。ふたりは近衛騎士ではなく砦の王城騎士の制服を着ている。

「今日はジークヴァルト様が復帰なさると聞き、顔を出させてもらった」
「いやぁ、飛び入りですみません……」
「グレーデン殿にブラル殿か。いいだろう、こちらとしても相手に不足なしだ。おい、貴様ら! 今日はトーナメント方式で行くぞ。全員くじを引いて公正に行う。いつも言っているが、ここでは身分は一切忘れろ。手加減するような奴は除隊にするからな!」

 キュプカーのひと言で、訓練場が沸き立った。人数が多いため一度に数組の手合わせが開始され、観客席からも黄色い声援が飛び交っている。

「きゃーっグレーデン様の剣さばき、すてきー!」
「フーゲンベルク公爵様の雄姿、しびれるぅ~!」

 よく聞くと声援を飛ばされているのは、ごく限られた人間だけだ。モブ騎士たちも何とか令嬢の目に留まろうと、あちこちで激しい攻防が繰り広げられていた。

 あからさまな声援をよそに、リーゼロッテたちは慎ましやかに応援していた。

「あ、ヴァルト様! あっあっあっ……! ああ、よかった……」

 きわどい一手を避けたジークヴァルトが相手を打ち負かし、リーゼロッテの口から安堵の息がもれた。ハラハラする場面では顔を覆い、勝利を収めては破顔する。先ほどからそれを繰り返しているリーゼロッテを、エマニュエルは微笑ましそうに眺めていた。

「あっ! マテアス、危ない! そう、そこ、今よ! やっちゃいなさい!」

 一方エラは、ファイティングポーズでマテアスばかりを目で追っている。時折漏れる声援が名司令塔セコンドのようで、驚きと共にエマニュエルからくすりと笑みが漏れて出た。

「ねぇ、エマニュエル様。あの大きな方はカーク子爵家のヨハン様ですわよね?」
「ええ、そうですけれど……」
「なんて素敵な筋肉をお持ちなの……! エマニュエル様、あとでわたくしに紹介してくださらないかしら?」
「ヨハン様をですか? それはもちろん構いませんが……」

 突然のヤスミンの頼みに、エマニュエルはひたすら戸惑った。恋する乙女のような瞳で、ヤスミンはヨハンの戦う姿に見とれている。あのモジモジ大男のヨハンにこんな反応をする令嬢など、今までひとりも見たことがない。

 そのヨハンがニコラウスと対峙した。
 普段は気はやさしいが、ヨハンは剣を持つと豪胆な戦士に変わる。力任せで振り下ろされる大剣に、ばったばったと何人もの近衛騎士が打ち負かされていた。

 対してニコラウスは砦の騎士の中でも細身な体つきだ。だが騎士団総司令のバルバナス直属とあって、その剣技には定評があった。

 周囲の騎士たちがふたりの試合に注目している。パワープレーヤーのヨハン対わざのニコラウス。激しい攻防の末、勝負はニコラウスに軍配が上がった。

 おお、とどよめきが漏れる中、ニコラウスは令嬢たちをどや顔で振り返った。しかし令嬢たちはこちらには目もくれず、すぐ横で行われていたエーミールの勝利に、黄色い声援を送っている。

「難敵を倒したって言うのに……」

 トホホな顔で、ニコラウスは次の試合へと進んだ。

「次はお前か、ニコラウス」
「エーミール様、手加減なしでお願いしますよ」
「当然だ。お前こそ手を抜くなよ」

 お互いの実力は、今までの手合わせで把握済みだ。今のところ五分ごぶの戦歴に、今度こそ勝利すると、ふたりは息まいた。

 体格は似たり寄ったりで、隠れ細マッチョなニコラウスの方がやや有利な状態だ。剣技はエーミール優勢と言ったところで、双方引かずなかなか勝負がつかなかった。

 令嬢たちの声はエーミールの名しか発しない。ニコラウスと言えば、野太い声援が送られるばかりだ。

「モテたい男の執念、なめんなよっ!」

 渾身の一撃が手首に決まり、エーミールの剣が弾かれた。

「くそっ!」
「よっしゃーーーーっ!」

 剣を掲げニコラウスがどや顔で振り返る。途端に令嬢たちから大ブーイングを浴びせられた。

「うっう、勝ったのにどうして……」
「いい試合だった。次こそは負けんぞ」

 騎士道にならって礼で締める。泣きながらニコラウスはさらに次の試合に進んだ。

 次の試合相手はマテアスだった。騎士にまぎれてマテアスはひとり、体術のみで戦っている。

「ブラル様、どうぞご遠慮なく。あるじの命令でしぶしぶやって参りましたが、やるからにはこちらも全力で行かせていただきます」
「望むところだ!」

 ニコラウスの見たところ、マテアスは先手必勝のタイプだ。長剣を振るう騎士相手には、ふところに飛び込んで瞬殺するのが手っ取り早い。
 初発の一撃をかわすと、ニコラウスはすかさず剣を繰り出した。低い姿勢でかわされ、お互い再び距離を取る。

「さすがはブラル様。一筋縄では参りませんね」
生憎あいにくとこっちも実戦慣れしてるんでね」

 騎士同士の手合わせばかりしている近衛隊とは違うのだ。にやりと笑うと剣を振り上げ、ニコラウスは再びマテアスに迫った。

「わたしも旦那様相手に毎朝死ぬ思いをしておりますから」

 ふっと目の前からマテアスが掻き消えた、かと思うと背後の耳元で囁かれる。首筋にひたりと当たった短剣の刃に、ニコラウスは迷わず降参のポーズを決めた。

「失礼。飛び道具これくらいはハンデということでご容赦ようしゃください」

 短剣をしまうと、ニコラウスの前でマテアスは優雅に礼を取った。

 ジークヴァルトは順当に勝ち進み、決勝戦相手が決まるのを待つのみだ。その対戦相手を決める準決勝は、マテアスとキュプカー隊長で行われることとなった。

「おもしろい、君とは一度、手合わせしてみたかった」
「恐縮でございます」

 開始と共にマテアスが動く。それを何なくかわして、キュプカーの立て続けの斬撃ざんげきが炸裂する。
 騎士たちから感嘆の声が上がった。キュプカーもいい年だが、その腕が衰えている様子はない。若かりし頃は「連撃のブルーノ」として、同期の騎士たちから恐れられる存在だった。

 さすがのマテアスも追い詰められて、反撃の手を塞がれる。これが実戦なら毒矢でも繰り出すところだが、手合わせでそこまでする理由が見つからない。あっさり負けを認め、キュプカーの勝利で準決勝は幕を閉じた。

「さぁ、決勝戦だ。副隊長と本気でやり合うのは久しぶりだな」
「……」

 無言のままジークヴァルトはリーゼロッテに視線を向けた。エマニュエルとヤスミンに挟まれて、涙目で祈る様な瞳で見つめ返してくる。
 頷いて、キュプカーに向き直った。双方礼を取り、決勝戦が開始される。

 お互い何戦もこなしてきた身だ。若い分だけジークヴァルトの方が優勢だった。ジークヴァルトは剣技もスピードもパワーも兼ね備えた万能型プレイヤーだ。息の上がってきたキュプカーの斬撃を跳ねのけ、その喉元に剣先を突き付けた。

「参った。オレの負けだ」

 騎士たちと令嬢たちの歓声が同時に上がる。大盛り上がりの中、手合わせトーナメントはジークヴァルトが勝利を収めた。

「しかし上位者にほぼ近衛騎士がいないなど……普段の鍛え方が甘かったな」

 キュプカーのつぶやきに、周囲にいた騎士たちに戦慄せんりつが走る。隊長にスイッチが入ると地獄を見ると言うのが共通の認識だ。みなはそそくさと休憩しに遠くへ逃げていった。

「お父様、残念でしたわね」
「ヤスミンか」
「今日も差し入れを持ってきましたのよ。騎士のみな様と召し上がって……あら、今日はどなたも取りにこられないのね」

 いつもだったら群がるように差し入れに飛びつく騎士たちが、今日は遠巻きにこちらを見守っている。

「ジークヴァルト様、お怪我はございませんか?」
「ああ、問題ない」

 すぐ横で見つめ合うふたりに、ヤスミンは「相変わらずお熱いですこと」と言ってふふと笑った。

「ヤスミン……あまり失礼を言うんじゃないぞ」
「分かっておりますわ。ですが、あちこちおもしろいことになっておりますもの。これを見逃す手はございませんわ」

 ヤスミンの視線の向こうで、エラが興奮気味にマテアスと会話をしている。そのふたりを遠巻きに、エーミールが複雑そうな顔で見つめていた。

「ああ、彼も優秀な人材だな。どうして従者などやっているのか……騎士団に引き抜きたいくらいだ」
「彼は次の家令になることが決まっているそうですわよ。公爵様の右腕ですもの。無理はおっしゃらないでくださいませ」
「なんと、文武両道か。ヤスミンの婿むこに欲しいくらいだな」
「もうお父様ったら。公爵家の英才教育を受けた人物を引き抜こうだなんて、フーゲンベルク家を敵に回しますわよ。その前にお母様に離婚を言い渡されそうですけれど」
「縁起でもないことを言わんでくれ」

 親子の軽いやり取りに、エマニュエルが遠慮がちに声をかけた。

「あのヤスミン様。ヨハン様をお連れしました」
「は、はじめまして、キュプカー嬢! わ、わたしはカーク家嫡男ちゃくなん、ヨハンでありますっ」
「まぁ、ヨハン様。お会いできてうれしいですわ。あの、お体に触ってみてもよろしいですか?」
「か、からだっ!? あ、いや、どうぞ、お好きなだけっ」
「ふふ、うれしいですわ」

 興味津々と言った感じで、ヤスミンはヨハンのまわりをぐるりと一周した。吟味するように観察してから、背中の一部に手のひらを当てる。

「この筋肉、想像以上ですわ」
「ああ、これは相当毎日鍛え上げているな。カーク殿、我が近衛第一隊に入らないか?」

 なぜかキュプカーも横に並んで、ヨハンの筋肉をしげしげと眺めている。そのまま親子で筋肉談義が始まった。

 動けないままヨハンはヤスミンの姿を目で追っている。その瞳にハートマークが浮かんでいるのを認め、エマニュエルが重くため息をついた。

「ヨハン様。ヤスミン様はキュプカー侯爵家の跡取りでいらっしゃいますわ。将来は婿養子を迎えることになられるでしょう。ヨハン様はカーク家を継がれる身。不毛な恋をしている暇などございませんわよ?」
「わ、分かっている。分かっているが、キュプカー嬢……なんて美しい方なんだ……」

 小声でくぎを刺すも、ヨハンはすでにメロメロだ。ヨハンは跡取りのくせに、いまだ婚約者も決まっていない。惚れっぽい性格もここまでくると手の施しようがないと、呆れるエマニュエルだった。


 そんなこんなで訓練の見学を終え、一行は帰路につくのだった。

     ◇
「ジークヴァルト様、今日は連れてきてくださってありがとうございました」
「ああ」
「その……ヴァルト様、とても格好よかったですわ」

 帰りの馬車の中、膝の上で頬を染めながらなんとか口にした。恥ずかしいが、溢れる思いをちゃんとジークヴァルトに伝えたい。今一瞬一瞬を大事にしないと、またこの先何があるか分からない。そう思うと、与えられた時間を大切に過ごしていきたかった。

「そうか」

 そう言ってジークヴァルトがやさしく背をさすってくる。ウトウトしてきてしまって、リーゼロッテは眠ったらもったいないと必死に目をこすった。

「こするな、傷がつく」

 やんわりと手を掴まれて、そのまま大きな手に握られる。顔を見上げるも、ジークヴァルトの視線は夕刻迫った流れる景色に向けられていた。

(キス、して欲しいな……)

 あの日神殿のこごえる森で、ジークヴァルトとたくさんキスをした。うれしくてうれしくて、リーゼロッテからも夢中で何度も口づけをねだった。

 だがあの日以来、ジークヴァルトは一切何もしてこない。膝にのせたり髪を梳いたりするのは相変わらずだが、それ以上のことを求めてくることは一度もなかった。

 今日のヤスミンたちとのやり取りで、ジークヴァルトが自分に対して独占欲を抱いていることはなんとなく分かった。

(それなのにキスのひとつもしてくれないなんて……)

 やっぱり両思いなのは自分の勘違いなのではないだろうか。そんな馬鹿げた不安が頭をもたげてくる。

「どうした? 眠かったら寝てもいいぞ」

 やさしく言われ、ジークヴァルトを穿うがって見ている自分が恥ずかしくなった。

(やっぱりヴァルト様は、そういったことに淡白なのかしら……)

 あまりべたべたするのが好きじゃないのかもしれない。勇気を振り絞って自分からキスを迫ってみようか。でも嫌がられたらどうしよう。そんな考えが頭の中をぐるぐると回った。

「ヴァルト様……今度は領地の街並みをゆっくり見てみたいですわ」
「ああ、分かった。だがもう少し暖かくなってからだ」

 ジークヴァルトの声が耳に心地よい。まるで子守唄のようで、リーゼロッテはそのまま眠ってしまった。


 そんなリーゼロッテの寝顔を見つめ、ジークヴァルトはゆっくりと頬に指を滑らせる。

 無防備な唇を塞ぎ、すべてを奪ってしまいたい。そんな衝動に駆られるも、息を吐き理性を取り戻す。リーゼロッテの体力はいまだ回復しきっていない。ここまで待ったのだ。今自分が暴走したら彼女の傷が深まるだけだ。

 もう二度と、リーゼロッテを失いたくない。あの日々に戻ったら、今度こそ自分は気が狂うだろう。そんな確信の中、窓の外に目を向けた。

 今はこの温もりだけあればいい。きたる日を迎えるまでは、何が何でも自制をし続けなくては。


「――婚姻の託宣が降りるまでだ」

 何度も言い聞かせてきた言葉を、ジークヴァルトはいましめのようにつぶやいた。








【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様の過保護の目をかいくぐり、なんとか体力を取り戻していくわたし。そんな中、エラの実家エデラー家が男爵位を正式に返上し終えて。貴族籍を抜けたエラに大きな転機が訪れる……!?
 次回、5章第2話「場違いな求婚」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!! 

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