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第5章 森の魔女と託宣の誓い

第2話 場違いな求婚

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【前回のあらすじ】
 ようやく穏やかな時間を取り戻したリーゼロッテは、公爵家のお屋敷でジークヴァルトに過保護に甘やかされます。しかし体力の落ちた体では、自分の足で歩かせてもらえなくて。
 このままではまずいと感じたリーゼロッテはお出かけをおねだり。騎士団の訓練の見学に連れて行ってもらいます。そこでジークヴァルトの雄姿を見て、さらに思いを募らせるリーゼロッテ。
 キスひとつしてこないジークヴァルトに不満を持ちつつも、嫌われるのが怖くて何もできなくて。
 そんな無防備なリーゼロッテを前に、必死に理性を働かせるジークヴァルト。婚姻の託宣が降りるまではと、なんとか自分に言い聞かせるのでした。







 小さな異形の思いが流れ込んでくる。懸命に訴えかける姿を前に、リーゼロッテは目蓋まぶたを閉じた。

「そう……あなたは過去のことは思い出したくないのね。いえ、いいのよ、誰だってつらいことは忘れたいって思うもの……ええ、そうね、それでいいと思うわ。今までずっとひとりで頑張って耐えてきたのね……でももう大丈夫。その思いと一緒に、このまま天にかえりましょう?」

 もう楽になりたい。何もかもを忘れ去って。暗く重いおりの中、小鬼は必死に手を伸ばしてくる。ゆっくりと瞳を開き、小鬼に向かってほほ笑んだ。

 緑の力が小鬼を取り巻いて、絡みつく闇から切り離す。そして流れる水路のように、天に続く狭間はざまへと導いていった。
 低く重苦しかった小鬼の波動が、昇るごとにふわりと軽やかになっていく。やがては光に溶け込んで、眩しさで輪郭すら見えなくなった。

(やっとあの子を楽にしてあげられた……)

 閉じゆく天への扉に目を細める。言いようのないよろこびが、胸に深く込み上げた。

 リーゼロッテの力に触れたとき、多くの小鬼はご機嫌にはしゃぎまわった。そのほとんどが満足したかのように、いつしか自発的に還っていく。

 だが一部の異形はかたくなに心を閉ざし、黒い呪縛に囚われたままでいた。そんな小鬼たちはみな、終わりのない苦痛にひたすら耐えているようだった。
 それがつらく悲しくて、どうにか楽にしてあげたかった。だが異形自らが助けを求めてこないことには、リーゼロッテは天に還せない。だから根気よく異形のこころに寄り添った。

 自分の存在に気づいてくれるまで、ただそばにいるだけだ。暗い思いに触れていると、自分も落ち込んだ気分になってくる。それでもその先にある光を信じて、リーゼロッテは決して諦めなかった。

「今日はもうしまいにしろ」
「分かりましたわ、ヴァルト様」

 リーゼロッテを囲んで輪になっていた異形たちが、一斉に逃げ散らばっていく。サロンの真ん中で直接絨毯じゅうたんに座っていたリーゼロッテは、ジークヴァルトに引き寄せられた。
 あぐらの上に座らされ、腹に回された手に力がこもる。ジークヴァルトの胸に背を預け、リーゼロッテは腕の中、力を抜いた。

「あまり異形に同調しすぎるな。下手をすると取り込まれる」
「ええ、分かっておりますわ」

 見上げるとジークヴァルトは難しい顔をしている。あまりやりすぎると、異形を天に還す行為も禁止されそうだ。

「わたくし、ジークヴァルト様が一緒の時しか異形をはらいません。勝手な真似は致しませんから」
「ああ。無理に止めさせたりはしない」

 それでも眉間にしわが寄っていて、リーゼロッテはそこをもみほぐすように指をあてた。

「ふふ、おしわがなくなりましたわ」

 穏やかな時間に自然と笑みが漏れる。再び背を預けると、ジークヴァルトの腕に手を重ねた。

「あの、ヴァルト様」
「なんだ?」
「きちんとカークを連れていきますから、お屋敷の中だけでもお散歩を」
「却下だ」
「どうしても駄目ですか……?」
「駄目だ」
「わたくし転ばないよう気をつけますわ」
「気をつけても転ぶかもしれないだろう? 散歩に行きたいならオレが抱いて連れていく」
「それでは意味がありませんわ。わたくし、領地のお屋敷では毎日転んでおりました。上手に転ぶのには慣れております。ですから」
「駄目だ、却下だ、諦めろ」
「むぐっ」

 いきなり菓子を押しつけられる。唇を尖らせたまま、リーゼロッテはそれを口にした。
 説得は続行不能で、このあと結局は部屋まで運ばれた。ここ数日、本当に部屋の中以外は一歩も歩いていないリーゼロッテだった。

     ◇
「このままじゃ本当にまずいわ」

 うろうろと歩き回りながら、リーゼロッテは思案に明け暮れていた。広い部屋とは言え、ここで歩くにも限界がある。

「お嬢様、言いつけ通りマテアスを呼んでまいりました」
「リーゼロッテ様、ご用でしょうか? あるじに内緒で部屋訪れたと知られたくないので、エラ様に呼ばれたことにしておいてくださると助かります」
「ええ、もちろん。内密にとお願いしたのはわたくしの方だもの。忙しいのに時間を取らせてごめんなさい」
「とんでもございません。リーゼロッテ様のことは最優先にするようにと、あるじからも常々言われております。それでお話と言うのは……」
「マテアスも分かっているでしょう? わたくしこのままだと足腰が弱って、そのうち寝たきりの生活になりそうだわ」

 リーゼロッテの言葉に、マテアスは困り眉をさらに下げた。

あるじはこうと思ったら聞く耳を持ちませんからねぇ。強めに進言してみますが、お力になれるかどうか……」
「そう……だったら、他にお願いしたいことがあるのだけれど」
「はい、なんなりとお申し付けください」

 うやうやしく腰を折ったマテアスに、身振り手振りを添えて話し始めた。

「まずは乗っても大丈夫な安定感のある箱を用意してほしいの。大きさは椅子の座面くらい、高さは階段の段差より少し高いくらいがいいわ」
「丈夫な箱でございますね。それを何に使われるのですか?」
「それを昇り降りしようと思って」
「昇り降り、でございますか?」
み台昇降しょうこうと言って異国の運動方法なの」

 適当な設定で誤魔化して、さらに話を続ける。

「あともし可能なら、それとは別に二輪の車を作って欲しいのだけれど」
「二輪の車……? 安定感が悪そうですね」
「固定した状態で左右の足踏み台をぐだけだから大丈夫よ。このくらいの大きさの車輪をふたつ前後に並べて、踏み台は真ん中辺りにこうつけて……後ろの車輪には中心からこんなふうに鎖を回して、それでここを足で漕ぐと後輪が回るのよ。安定感を出すために、前には手でつかめるをつけてほしいわ」

 自分の持てる知識の限りを尽くして懸命に説明していく。自転車の構造を思い出しながら、なんとか理解してもらえるようにと言葉を選んだ。つたいながらも絵を添えると、マテアスが興味深そうな顔をする。

「ですがそれですと、前輪は必要ないのでは?」
「確かにそうね。固定した状態ならそうだけれど、うまくバランスを取ればこの車は前へと進むのよ?」

 エアロバイクなら後輪も必要ないが、どうせなら実用的なものを作ってみたい。

「なるほど……試作に時間を頂ければ、わが領の技術なら形になるかもしれません」
「よかった! それがあればこの部屋でも無理なく運動ができるわ」

 歩かずとも脚力きゃくりょく向上に役立つ上、何よりジークヴァルトに知られず漕ぎたい放題だ。

「時間はかかるかもしれませんが、ご希望に沿えるようやってみます。こちらの設計図はお預かりしてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。だけれどわたくしも知識が曖昧あいまいで、その通りではうまくいかないかもしれないわ」
「承知いたしました。試行錯誤を続けて形にしてみます」

 こうしてリーゼロッテのお部屋フィットネスクラブ化計画が、ジークヴァルトに内緒で進められることになったのだった。

     ◇
 踏み台昇降用の箱はすぐに届けられた。
 自転車試作初号機しょごうきが届けられたのは、それから二週間が過ぎたころだ。思った以上にごつい物がやってきて、広い部屋で異様な存在感を放っている。零号機ぜろごうきはさらに大きすぎて、ここまで運んでこられなかったらしい。

「まずは試作品となりますが……」

 乗ってみてとりあえず漕いでみる。ペダルが軽快に回って、長いスカートでも漕ぎ心地は悪くない。

「走るならこのくらいが楽だけれど、もう少し漕ぎ加減が重い方が運動になるわね」
「なるほど。力のかけ具合を調節できるといいわけですね」

 技術担当のおじさんもやってきて、あれこれと意見を重ねていく。

「ごめんなさい、作れもしないのに言いたい放題で」
「とんでもございません! この革新的なからくりに、みな夢中になって開発しております!」

 少年のようなきらきらした瞳でおじさんが熱く語った。寝る間も惜しんで作ってくれているとのことで、今さらながら事が大きくなっていることを知ったリーゼロッテだ。
 いいところ悪いところを思うまま並べ上げ、初号機は作業場へと引き揚げられた。

 再び踏み台昇降を続ける日々に戻ったリーゼロッテは、汗を流しながらちょっぴり後悔し始めていた。

(何気にこれだけで十分運動になっているような……)

 息を切らし台を昇り降りしながら、そんなことをふと思った。なかなかうまく進まない自転車開発に、今さらもういいわと言えるはずもない。お願いした手前、開発には協力していこうと、汗をぬぐいながら頷いた。

(でも無理そうなら頃合いを見て、大丈夫って言った方がいいかしら……とにかく今はできることを続けなくっちゃ。踏み台昇降に、あとはストレッチをがんばって)

 リーゼロッテの奇妙なストレッチには、今ではエラも慣れたものだ。最近では一緒につき合ってくれて、引きこもりの室内でも効率よく運動できていた。

(エラって何気に引き締まった体してるのよね……)

 最近のエラはうらやましいほどにしなやかな体型だ。マテアスから護身術を習っているとは聞いていた。こうなると自分もやってみたくなる。

(だけどヴァルト様が許してくれるとは思えないわね。エラに頼んでも危ないからってやんわり断られちゃったし)

 踊って戦える令嬢がいてもいいのではないか。そう思ったとき、リーゼロッテははっと顔を上げた。
 過保護なジークヴァルト攻略の糸口を見出した瞬間だった。

     ◇
「ヴァルト様、頼みを聞いてくださって、わたくしとってもうれしいですわ」

 オーケストラの演奏が流れる中、リーゼロッテはジークヴァルトと手を取り合った。
 公爵家にも夜会用の会場がある。誰もいないダンスフロアを、ふたりきりでのびのびと踊っていた。

(はじめから一緒に踊ってほしいってお願いすればよかったんだわ)

 体力が落ちているからと、夜会には一切連れて行ってもらえない。だったらせめてダンスがしたいと駄々をこね、ようやくお許しが出たと言うわけだ。

(ヴァルト様とくっつけるし運動にもなるし、まさに一石二鳥ね)

 ストレッチと踏み台昇降の効果もあって、思った以上にステップも軽やかだ。やっぱり自転車は必要なかったと、マテアスたちには申し訳ない気持ちになってしまった。

「またこうして踊っていただけますか?」
「ああ。ただし無理のない範囲でだ」
「わたくし、ちゃんと踊れておりますでしょう? 歩くのだってもう大丈夫ですのに」
「そんなにオレに抱かれるのは嫌か?」
「い、いえ、そういうわけでは……」

 おかしな言い回しに頬が熱くなる。じっと見つめられて、恥ずかしさのあまり胸元に顔をうずめた。

 曲の終わりと共にすかさず抱き上げられる。

「疲れただろう。部屋まで送る」

 そう言って、いつも通り一歩も歩かず運ばれてしまった。

     ◇
「なかなか開発が進まず申し訳ございません」

 マテアスに耳打ちされて、リーゼロッテは困った顔になった。ジークヴァルトの目を盗み、小声のままふたりで会話を続ける。

「そのことなのだけれど、わたくし最近ちゃんと運動できていて。だから無理に続けなくっても大丈夫よ」
左様さようでございますか……ですが技術者たちはそれでは納得しないでしょう。そこでご提案なのですが……」

 マテアスはいつになく真剣な顔つきだ。無理難題を突き付けた自覚はある。文句を言われるのを覚悟して、リーゼロッテは背筋を伸ばして居住まいを正した。

「公爵家としましては、この二輪車を運動用ではなく、もっと実用的な移動の手段として開発していけないかと考えております」
「そうなのね。元々そう言った目的の乗り物だからいいんじゃないかしら」
「その場合、リーゼロッテ様が特許を持つという形にさせて頂きたいと思っております。もちろんダーミッシュ伯爵様には正式に契約を取りつける所存です」
「特許? そんなもの必要ないわ。わたくしは好き勝手言っただけだもの。フーゲンベルク家でいいようにしてちょうだい」
「そういうわけには参りません。この事業がうまくいけば、かかった開発費以上の利益が長期的に見込めます。リーゼロッテ様にはそれを受け取る権利がございます」

 マテアスは完全にビジネスモードだ。あれこれと説得されて、結局は義父のフーゴの返事次第ということにしてもらった。

 この二輪車事業が妖精印のブランドとして、後にフーゲンベルク家とダーミッシュ家、そしてエデラー商会を巻き込んだ一大産業になるなど、リーゼロッテは知るよしもなかった。

     ◇
 廊下をふたり並んで歩きながら、エラはマテアスの顔を見上げた。

「それでマテアスがダーミッシュ領まで行ってきたのですか?」
「はい、先週に急ぎ行って参りました。ダーミッシュ伯爵様も快く受け入れてくださいまして、商品開発がうまく進めば、販売経路もご協力くださる事となりました。それに伴い公爵家は、この度エデラー商会とも正式に契約を結んできた次第です」
「父にも会ったのですか?」
「ええ。エデラー男爵様はエラ様のこと、とても心配なさっておられましたよ」
「どうせ早く嫁に行けとか、行き遅れる前に貰い手を探せとか、そんなことを言ってたんでしょう? もうしつこくて嫌になっちゃう」

 エラはどうあっても結婚するつもりはない。何が何でも独り身を貫いて、一生リーゼロッテのそばにいると胸に固く誓っている。

「親の心子知らずと申しますからねぇ。と言ってもわたしも独り身ですので、親の気持ちは分かりかねますが」
「マテアスこそどうなってるんですか? そろそろ結婚相手を探さないとって、ロミルダが言ってましたけど」
生憎あいにく、伴侶となる相手がまだ見つからないものでして」

 ロミルダの話だと、何人か候補はいるらしい。ただマテアスが首を縦に振らないとのことだった。そのことを口にすると、マテアスはめずらしく複雑そうな顔をした。

「あの人のおしゃべりにも困ったものですねぇ。まぁエラ様の信用が厚いといった所でしょうが。公爵家家令となる者の妻には、それなりの方を迎えねばなりませんから。家柄から素行から、問題のない相手を探さないとなりません」
「そうですか……公爵家の家令ともなると、恋愛感情で相手を選べないんですね……」
「理想は母ロミルダのように、侍女長を務めあげられるような方ですねぇ。ですが公爵家の甘い汁を吸いたいがために近づいてくる人間が多すぎまして」

 マテアスも立場的にいろいろと苦労しているのだ。そう改めてエラは思った。決して表には出さないが、公爵家を取りまとめる人間として、常に重圧を感じているのだろう。

「わたしにできることがあったら、何でも言ってくださいね。リーゼロッテお嬢様に仕える立場として、わたしも公爵家のお役に立ちたいですから」
「心強いお言葉、ありがとうございます。では早速なのですが、今からちょっとした捕り物にお付き合いくださいますか?」
「ちょっとした捕り物?」
「ええ、最近甘いみつに吸い寄せられた、ちょうに似せたまとわりついておりまして。エラ様はただ事の次第を見守ってくださればそれで大丈夫ですので。今からわたしの部屋にお連れしますが、お声は出さないようお願いいたします」

 何だかよく分からないが、役に立てることがあるなら大歓迎だ。快く了承して、エラはマテアスについていった。

     ◇
「あー忙しい、忙しい」

 わざと大きな音を立て扉を開けると、マテアスは大根役者のように棒読みでそんなことを言った。

 部屋に入ると物陰で隠れるように、ロミルダがじっと息をひそめていた。エラに向かって、しぃっと指を口元に立ててくる。

 そのロミルダに気づきながらも、マテアスは部屋の奥に歩を進める。
 ロミルダに手招きをされて、エラはその横で同じように息をひそめた。これから何かが起こるようだ。そんな予感を前に、エラは言われた通り黙って事の次第を見守った。

 マテアスが振り向くと、ロミルダが言葉を発さず奥の扉を指さした。身振り手振りでマテアスに、必死で何かを伝えている。
 頷くとマテアスはその扉のノブに手をかけた。開かれた部屋は寝室だった。マテアスがその先に進むと、ロミルダに手を引かれてエラもその入り口近くまで移動する。

 扉の横から盗み見ると、寝台で寝ていた誰かが勢いよく身を起こした。
 声を上げそうになって、エラはロミルダに口をふさがれた。何しろマテアスの寝室にいたのは、一糸も身にまとわない、素っ裸の女性だったのだ。

「待っていたわ、愛しい人ダーリン
「あなた様をここに招き入れた覚えは、微塵みじんもございませんがねぇ」

 裸の女性を前に、マテアスは少しも動揺していない声で返した。どちらかというと、うんざりしている様子に見える。

「伯爵家のご令嬢ともあろうお方が、このようなはしたない真似まねをなさるなど。いかにご実家の財政が火の車であろうとも、貴族の誇りは忘れて頂きたくありませんねぇ」
「そんなことまで知られているなんて……さすが公爵家の次期家令ね。いいのよ、家のためだもの。使用人の妻にだってなってやるわ。わたくしは何としても、公爵家と縁を結ばないといけないんだから……!」

 どうやらあの女性は、マテアスの立場目当てで近づいてきたらしい。貴族令嬢が捨て身の色仕掛けを決行するなど、よほど切羽せっぱ詰まっているのだろう。

「生憎こんな茶番につき合うほど、わたしもひまではありませんので。今回のことは見なかった事にいたします。今すぐお引き取りくださいますか?」
「そんな訳にいかないわ!」

 マテアスが背を向け出ていこうとすると、令嬢が慌てて寝台から降りてきた。たわわな胸を揺らしながら、マテアスの腕にしがみつく。

「今わたくしが大声を上げたら、あなたは責任を取らざるを得ないわ。だって未婚のわたくしとこんなことをしていたんだから!」
「勝手に侵入して勝手にご自分で服をお脱ぎになったのでしょう? 声を上げたところで公爵家不法侵入の罪状と共に、露出狂ろしゅつきょうのレッテルが張られるだけでございますよ」
「事実はどうあれ、こんな状況じゃ世間は納得しないわ! 公爵家だって醜聞しゅうぶんは困るでしょう!?」
「醜聞になるのはあなた方、伯爵家だけですよ。何しろわたしはここ数日、この部屋には戻っておりません。今までも旦那様と執務室にいて、先ほどエデラー男爵令嬢様と一緒にここに参りました。それにあなたがひとりでその寝台に潜り込んだことを、公爵家の使用人がすべて目撃しております」
「そんなはずない! だって部屋には誰もいなかったもの!」

 令嬢がそう叫んだ時、ロミルダとエラが姿を現した。令嬢の口から悲鳴が漏れる。

「こちらは侍女長のロミルダです。どうですか、ロミルダ。この部屋で見た事を、一部始終わたしに教えてください」
「わたしはたまたまこの部屋を掃除に参ったのですが……。そこにいるご令嬢は人目を忍ぶようにこの部屋に入ってきて、ご自分で服をお脱ぎになりました。そして自ら寝台へと潜り込むのを、わたしは確かにこの目で見ました」
「そうですか。エラ様も証言してくださいますか? ここまでずっとわたしと一緒にいたと」
「はい、執務室を出たマテアスとは、ずっとここまで一緒にいました」
「それ以前の時間については、旦那様が証言してくださいます。これで分かったでしょう? この茶番はあなた様の自作自演であると、素直にそうお認めください」

 青ざめて令嬢は金切り声を上げた。

「わたくしがここまでしているって言うのに、そんなこと許されないわ! でないと伯爵家はお終いじゃない!」
「わたしの知った事ではございませんねぇ。素直に引けば事を荒立てるつもりはなかったのですが、こうなったら出る所に出て頂きましょうか」
「横暴よ! 身内で結託してわたくしをおとしめようだなんて……! 格式高い公爵家がそんなひどい事するなんて信じられない!」
「公爵家の上げる言明に嘘偽りがあると申されますか? それこそフーゲンベルク家を貶める行為。わたしもお遊びでこの立場にいるわけではございません。公爵家を守る人間として、有害因子は叩き潰すまでのこと」

 令嬢の手を振り払うと、マテアスは冷酷に言い放った。

「それにわたしの妻になった所で、無条件であなたの実家に手を差し伸べるとでもお思いですか? そんな甘い考えでは、公爵家家令の伴侶は務まりませんよ」

 マテアスの言葉に令嬢はその場で泣き崩れた。ロミルダが裸の肩に毛布を掛ける。

「間もなく屈強な護衛騎士がここへとやってきます。これ以上醜態しゅうたいさらしたくなかったら、すぐにでも身なりをお整えください」

 そう言ってマテアスはロミルダを見た。

「後のことはお任せしてもいいですか? わたしはエラ様をお部屋まで送って参りますので」

 ロミルダが頷くと、マテアスはエラにいつも通りの穏やかな笑みを向けた。やわらかい物腰で、エラの手を取り部屋の外へと導いていく。
 すすり泣く令嬢の声を聞きながら、エラはマテアスと共に部屋を後にした。

     ◇
「エラ様、先ほどはいてくださって助かりました。こんなことにお付き合いさせて、誠に申し訳ございません」
「なんて言うかマテアスもたいへんなんですね……」
「まぁわたしは慣れておりますから」

 平然と話すマテアスに、こんなことが日常茶飯事さはんじなのかと驚いた。これだけ巨大な公爵家だ。それを取りまとめる立場として、それも仕方のない事なのだろう。

「さっきのご令嬢はどうなってしまうのですか……?」
「あの手の人種は温情を与えるとろくなことはございません。フーゲンベルク家をたばろうとたくらんだのです。伯爵家の未来は、もはや明るくはないでしょう」
「そうですか……」

 貴族とは実に恐ろしいものだ。改めてエラはそう感じた。だがリーゼロッテを守る立場として、マテアスの言っていることが間違いだとは思わない。

「それにしても、この前の騎士団の訓練は勉強になりました。見ていて体がうずうずしちゃって。わたしもマテアスのように、手合わせに参加したかったくらいです」
「エラ様にお教えしているのは、あくまで護身が中心ですから。いざという時は無抵抗の方が命をつなげることも多くございます。危険を冒さないためにも、有事の際は闇雲に戦おうとはなさらないでくださいね」

 エラの部屋までもう少しといった廊下で、伝令を務める使用人に声を掛けられた。エラに手紙を差し出すと、男は慌ただしく去っていく。

「父さんからだわ……筆不精ふでぶしょうなのにめずらしい」
「エデラー男爵様からでございますか? やはり大切なエラ様が心配なのですね」

 そんなふうに言われ、エラは曖昧な笑みを返した。

「いえ、父はいつも緊急時にしか手紙をよこしません。もしかしたら何かあったのかも」

 無作法だとは思ったが、歩きながら急いで手紙の封を開けた。マテアスも心配そうに、手紙を読むエラを黙って見つめている。

「なんだ……そう言う事」
「大事の知らせではなかったのですね? それは良うございました」

 ほっと息をついたエラにつられるように、マテアスも自然と笑顔になった。

「本日付けでエデラー家は、正式に男爵位を王に返上したそうです。これでわたしも貴族でなくなりました。よかった、ようやく肩の荷が下りました」

 声を弾ませて歩を進めた。急に足取りまで軽くなる。

「ああ、そうだわ。以前約束しましたよね? わたしが貴族籍を抜けたら、敬称はつけずに呼んでくれるって」

 もうマテアスと同じ平民になったのだ。「エラ様」と呼ばれる必要はすでにない。横で歩いているはずのマテアスに、エラは満面の笑みを向けた。しかしそこにマテアスはおらず、思わず後ろを振り返る。だが見上げ慣れたその位置に、マテアスの顔は見あたらなかった。

 視線を下げると足元の床で、なぜかマテアスが片膝をついている。エラに向かって右手を差し伸べ、反対の手は胸に当てたまま、真剣な表情でこちらを見上げていた。

「あの、マテアス……一体何をして……?」
「エラ、どうかわたしと結婚してください」
「え、嫌です」

 条件反射のようにエラは瞬時に返した。マテアスは何を言っているのだろうか。生涯結婚するつもりがない事は、マテアスがいちばんよく知っているはずだ。

「そうおっしゃらずにまずはわたしの話をお聞きください。この求婚を受けるかいなか、それから判断しても遅くはありません」
「いや、だからいつも言ってるように、わたしは一生独り身を貫くと……」

 引き気味にエラは口を開いた。すっくと立ちあがると、マテアスは強引にエラの片手を取ってくる。

「いいえ、どうぞよく聞いてください。いいですか? これはリーゼロッテ様に関わる、とても重要かつ、重大な話です。エラ、あなたもあとで後悔をして、泣きたくはないでしょう?」

 手を掴まれたまま一歩一歩と詰められて、エラは壁際かべぎわまで後退させられた。薄く開かれた青い瞳に気圧けおされて、壁に背を預け身動きが取れなくなる。

「お嬢様に関わる重大な話……?」
「ええ、そうです」

 普段とまったく違う強引なマテアスに、エラは思わず目を泳がせた。壁伝いに体をずらすと、すかさず両脇に手を突かれてしまった。左右の逃げ場を失って、その場でしゃがみこもうとする。壁に追い詰められた時、下からくぐって脱出するのが定石じょうせきだ。

 しかしマテアスは股下を割って、足の間に膝を食い込ませてきた。本格的に閉じ込められて、すぐそこにあるマテアスの顔に恐る恐る視線を向ける。

「エラ、話をするだけです。聞いてもらってよろしいですか?」

 こくこくと頷くと、エラの瞳を見据えたまま、マテアスは事務的に淡々と話しだした。

「まず初めに。リーゼロッテ様と旦那様はいずれ婚姻を果たされます。あなたも知っての通り、今現在、旦那様の理性は相当追い詰められた状態です。そんな中で婚姻の託宣が降りたとしたら、我があるじたがが外れるのは必至ひっし。そうなった時リーゼロッテ様は、そのすべてを一身で受け止めねばなりません」

 マテアスの言葉に、エラははっと顔を上げた。本当にリーゼロッテの話をされて、表情が真剣なものとなる。

「その上旦那様とリーゼロッテ様の体格差も問題です。夫婦となられたあかつきに、女性の中でも小柄なリーゼロッテ様にとって、体力無尽蔵むじんぞうな旦那様の重い愛がご負担になるのは目に見えています。くすぶる欲を持て余しているあの旦那様相手に、夫婦生活の悩みは尽きないことでしょう」

 生々しい想像をして、エラは一気に青ざめた。寝台の上、泣きながら公爵に追い詰められるリーゼロッテが目に浮かぶ。

「リーゼロッテ様は公爵夫人となられるお方。旦那様と子をお作りになることは、避けようのない責務です。それだけではありません。夫婦生活、出産、子育てに至るまで、リーゼロッテ様は今後さまざまなお悩みを胸の内に抱えられることでしょう。その苦悩の数々を、リーゼロッテ様は誰に打ち明けられると思いますか?」
「それはもちろんわたしです。わたしはいつどんな時でも、全力でリーゼロッテ様のお力になると決めています」
「あなたはそうお考えでしょうが、リーゼロッテ様にしてみればどうでしょうか。未婚で子を産み育てたことのないあなたの言葉は、いわば机上きじょう空論くうろんに過ぎません。悩みが深刻になればなるほど、リーゼロッテ様はあなたよりも、経験豊富なロミルダやエマニュエル様を頼りになさることでしょう」
「そんな……」

 思ってもみなかった事を突き付けられて、エラは驚愕で目を見開いた。確かにエラに男性経験はない。侍女ご用達の指南書でひと通り知識は仕入れているが、マテアスの言うように夜の営みや夫婦関係の悩みに関しては、どこまで力になれるかは自信がなかった。

「次にこのマテアス、わたしの話をいたしましょう。わたしは幼少のおりから従者として、旦那様がお育ちになるのを誰よりも近くで見守って参りました。それこそおくるみを着せられていた頃から、旦那様が成人し公爵位を継いで今に至るまで、ずっと離れることなく仕え続けております。これが可能だったのは、ひとえにわたしが家令であるエッカルトの息子だったからこそ。それは理解していただけますね?」
「ええ、もちろん」

 突然話が飛んで、エラは戸惑ったまま頷いた。だがマテアスの論調に気圧されて、口をはさむ余地も見当たらない。

「そしてわたしはいずれ公爵家の家令となる立場です。それがゆえ、必然的にわたしの子も、リーゼロッテ様の御子のそばで育つことになるでしょう。この意味が分かりますか? わたしの妻となればエラ、あなたもリーゼロッテ様と生まれ来るお子に、親子二代でお仕えできるのですよ」
「親子二代で……」
「加えて言うならば、公爵家の福利厚生はこれ以上になく手厚くなっています。わたしの妻の立場ともなれば、リーゼロッテ様のおそばにいながら子を産み育てることも容易なことです」

 一言一句聞き逃さないよう、マテアスの話に耳を傾ける。リーゼロッテと共に歩む輝く未来が、エラの中で広がった。

「さらに言うと、妻として迎える方には、ロミルダの後を継いで侍女長を務めて頂きたいと考えています。母はディートリンデ奥様に仕え、アデライーデ様とジークヴァルト様の乳母もつとめて参りました。同様にわたしの妻となる女性も、リーゼロッテ様のお子の乳母となることでしょう」
「お子の乳母に……」
「そうです。例え使用人であろうと乳母ともなれば、リーゼロッテ様と苦楽を共にする特別な存在となりましょう。フーゲンベルク家家令の妻となる女性は、望まざるともその立場に立つことになるのです。その役割をになう人間を、エラ、あなたは他の知らない誰かにまかせることなどできますか?」
「そんなのは駄目! お嬢様をいちばん近くでお支えするのは、このわたし以外あり得ません……!」
「でしたらあなたの取るべき道はひとつですよね? 今決断をしなければ近いうちに、わたしの妻の座はあなた以外の誰かの物となるのですよ」
「わたし、マテアスと結婚します。いいえ、マテアス、どうかわたしと結婚してください……!」
「よろこんで!」


 エラを壁に押し付けて、マテアスはその唇を奪い取った。驚きで強張こわばる体を逃がさないようにと、角度を変えてついばんでいく。漏れた吐息に合わせるように、口づけをどんどん深めていった。

 エラから力が抜けたのを確認すると、マテアスはごそごそとふところを探って黒い箱を取り出した。
 何年もそこにしまわれていた小さな箱は、り切れてかなりみすぼらしくなっている。唇を離さないままマテアスは、親指でふたを押し開けた。

 箱の中にはシンプルな指輪がふたつ、銀の輝きを美しく放っていた。大きさの違う小さい方を手に取ると、エラの薬指にはめていく。
 もうひとつの指輪を取り出すと、用済みとばかりに小箱を後ろ手に投げ捨てる。エラに指輪を握らせて、自らの指を輪の中めがけて突っ込んだ。

 真新しい指輪が、互いの指にはめられた。下手をすると永遠に日の目を見ることのなかったエンゲージリングは、この日ようやく、正しい役割を果たしたのだった。

     ◇
「まあ! エラとマテアスが結婚を……!?」

 ふたり並んで報告に来たエラとマテアスに、リーゼロッテは輝く笑顔でよろこびの声を上げた。執務机に座るジークヴァルトは、無表情のままだ。

「いつからふたりはお付き合いをしていたの? もう、もっと早く教えてくれればよかったのに」
「いえ、マテアスとはそういった仲ではなかったのですが……」
「エラが貴族籍を抜けたのを機に、わたしから求婚をいたしました。幸運にもエラが受けてくれまして、このマテアス、生涯の運を使い果たした気分です」

 エラの手を持ち上げて、マテアスは指輪の上に口づけた。それを見たリーゼロッテから、きゃっと恥ずかしそうな声が漏れる。

「そう言ったわけで旦那様、明日は一日、暇を頂きます。王都で婚姻の手続きをした後、その足でエデラー家とダーミッシュ伯爵様にご挨拶をしに行ってまいります」
「マテアス、何もそんなに急がなくっても……」
「いいえ、今がいちばん執務の少ない時期ですから。それにこういったことは、きちんと筋を通しておかねばなりません」

 そんなふうに言われては、エラも頷くしかなかった。勢いで返事をしたものの、自分がマテアスの妻になるなどまったく実感の湧かないエラだった。

「これから屋敷内、みなに報告に回ってきます。そのほかいろいろと準備もありますので、わたしたちはこれで失礼を」

 マテアスに連れられて、エラは執務室を後にした。

     ◇
 公爵家使用人たち各所への挨拶周りは、結局遅くまでかかってしまった。みな、泣きながら祝いの言葉をくれたが、やはりエラの実感は薄いままだ。
 へとへとになりながら、エラはマテアスの部屋に通される。マテアスと言えば始終ご機嫌で、少しも疲れている様子は見えなかった。

「エラは今夜からこの部屋で過ごしてください。明日には夫婦となるのですから構いませんよね?」
「でも、ここからではお嬢様のお部屋が遠すぎます。しばらくはまだ今まででいさせて欲しいです」
「奥の扉は今は空き部屋ですが、妻用の続き部屋となっています。中にはリーゼロッテ様のお部屋へと続く、隠し通路が備えられているのですよ。明日にでも案内しますが、今まであなたが使っていた部屋よりも、最短で向かえるようになっているので安心してください」
「だけど今夜もお嬢様のお世話をしないとならないし」
「リーゼロッテ様はロミルダに任せてありますから。今日はわたしたちにとって特別な夜です。これ以上無粋ぶすいなことは言わないでください」

 マテアスの腕に抱き寄せられる。早朝の鍛錬たんれんで今まで何度も組み手を取ったが、こんなにやさしい手つきで包まれるのは初めてのことだ。
 戸惑っているうちに顔を上向かされる。近づく唇に思わず体を引くと、マテアスは少し強引に口づけてきた。

 口づけを深めながら、マテアスがエラのドレスの胡桃くるみぼたんに手をかけた。その気配を察知して、肩を押しながらエラはなんとかその手を引きはがした。

「あの、お願い、まだ待って」
「待ちませんよ。言ったでしょう? 今夜はわたしたちにとって特別な夜だと」
「あ、でもだって」

 再びふさがれた唇に翻弄ほんろうされるうちに、いつの間にか髪がほどかれていく。いくつも口づけが落とされる中、強張こわばる体をどうすることもできなくて、エラは必死にマテアスの動きを止めにかかった。

 しかし体術の師匠だけあって、マテアスは最小限の力でエラの動きを封じてくる。どうあっても抜け出すことができなくて、エラはただ体を震わせた。

「エラ、いいのですか? 一刻も早く子供を作らないと、リーゼロッテ様に先を越されてしまうかもしれませんよ? 何しろ若い旦那様の方が、わたしなどより体力がおありです。婚姻の託宣が降りたなら、あっという間にお子ができるに違いありません。エラが先に経験を積まないことには、リーゼロッテ様のお力になれないでしょう?」

 耳元で囁かれ、エラは目を見開いた。マテアスの言うことはもっともだ。だがいきなりのことでエラも心が追いつかない。どうしても体が抵抗してしまって、エラはマテアスから目を逸らした。真剣に見下ろすマテアスが、まるで知らない男に見えた。

「ところで、エラ。リーゼロッテ様が初夜を迎えるときに、あなたは何と言って送り出すつもりでいますか?」
「それは……旦那様にすべてお任せすれば、それで大丈夫だと……」

 突然の問いかけに、淑女教育の教本に載っているような答えを、エラはそのまま返した。するとマテアスの口元から、小さく笑いが漏れて出る。

を、あなたはリーゼロッテ様に進言しようとしていたのですか?」

 その言葉に息を飲んだ。マテアスはいつでも正しくて、エラは何も言い返せない。観念したように力を抜くと、エラは寝台の上で震える手を祈るように重ね合わせた。
 ふっと笑うとマテアスは、再び口づけを重ねてくる。おびえる体を悟られないようにと、エラはきつく目を閉じた。

 続いていた刺激がふと止んで、苦笑いと共に体を抱き起される。エラを寝台のふちに座らせると、マテアスはエラの乱れた服を元通りに整え始めた。

「あの、マテアス……?」
「思いがけずにあなたを手に入れてしまって、わたしも性急に事を進めすぎました。怖い思いをさせましたね。本当ならエラの気持ちの整理がつくまで、きちんと待つべきでした。エラ、わたしを許してくれますか?」

 普段通りのやわらかな笑みを向けられて、そこでようやく力が抜けた。

「とはいえ、わたしもそう長くは待てないと思います。できるだけ早く心を決めてもらえるとうれしいのですが」
「分かりました……」

 気の抜けたまま頷いた。そんなエラの肩に、マテアスはやさしく手を乗せてくる。まっすぐと見つめられて、エラも素直に見つめ返した。

「エラ、ひとつだけ約束してくださいますか? わたしは公爵家の家令として、家庭よりも優先しなければならないことが今後たくさん出てきます。リーゼロッテ様にお仕えする身として、それはあなたも同じことでしょう」

 マテアスの言葉に頷いた。あるじの大事とあらば、家族ですら切り捨てなければならないこともある。

「ですが、だからと言って、すべてをないがしろにはして欲しくありません。夫婦となるからには、これから先ずっと、共にしあわせな家庭を築く努力をおこたらないと、そうわたしと約束して欲しいのです」
「はい、マテアス……わたし、あなたと約束します」
「ありがとう、エラ。誰よりも愛していますよ」

 マテアスの顔が近づいて、エラは静かに瞳を閉じた。触れるだけの口づけを落とすと、マテアスはすぐに立ち上がる。

「もう遅い時間です。エラはこのままここで休んでください」
「マテアスはどこへ行くんですか?」
「わたしは執務室でもどこででも寝られます。一晩中あなたといて、何もしないでいる自信はありませんから」

 困ったような笑顔を向けると、マテアスはそのまま部屋を出ていこうとした。

「あの、マテアス……!」

 思わず腕を掴んで引きとめる。振り返ったマテアスの胸の中に、勇気を出して飛び込んだ。

「今夜、わたしを……マテアスの妻にしてください」

 もう心を決めた。いずれ迎える初夜なのだ。マテアスの言うように、子を作るなら早い方がいい。

「本当にいいんですか? 今度こそ絶対に止められませんよ?」

 息を飲んだあと、マテアスは真剣に聞き返してきた。頷いて、抱きつく手に力を入れる。気づくとあっという間に、寝台の上に逆戻りしていた。

 与えられる口づけを受け入れて、エラはマテアスに身をゆだねた。

     ◇
 目の前に座るマテアスが、一枚の書類を差し出してくる。

「どうぞ、ご確認の上ご署名ください」
「ああ、確かに娘の筆跡だ。いや、しかし、昨日の今日だぞ。どうやってあの頑固娘を説得したんだ?」

 言いながら平民用の婚姻届けに、父親としてサインを書き込んでいく。エデラー家が正式に貴族籍を抜けたのはつい昨日のことだ。絶対に結婚などしないと公言していたあのエラをあっさり落とすなど、マテアスの交渉術に興味惹かれるのも当然のことだった。

「わたしは誠心誠意の言葉を尽くして、結婚を申し込んだだけですよ」
「ふっ、まぁいいだろう。いずれ娘の口から真相を聞き出すさ」
「時に先日の商談の話なのですが、あれから大きく進展がありまして」

 マテアスの言葉に、すぐさまビジネスモードの顔つきになる。駆け引きするように、お互いのカードを切り合った。

「ははは! エデラー家も幸先さいさきいいえんを得たものだ!」
「公爵家としても頼もしいのひと言ですよ。義父とうさんとお呼びしても?」
「もちろんだ! よろこんで家族に迎えよう、我が息子よ!」

 胡散うさん臭い笑顔で見つめ合いながら、ふたりはがっちりと握手を交わした。

     ◇
 ロミルダの声掛けに目を覚まし、気だるげな体を起こす。ぼんやりと見回すと、知らない部屋の壁紙が目に映った。

「エラ様……? 入ってもよろしいですか?」
「え、あ、はいっ、いえ、ちょっと待って!」

 素っ裸のままでいたことに気づき、慌てて服を手に取った。しわを伸ばしてふんわりと置かれていたドレスに、マテアスの気遣いが見て取れる。
 見ると朝も遅い時刻だ。とっくにリーゼロッテの朝食も終わっている時間に、エラは顔を青ざめさせた。

「そんなに慌てなくても大丈夫でございますよ。リーゼロッテ様ならきちんとお世話させていただいておりますから」
「あの、ロミルダ。わたしはもう貴族ではないので、敬語は必要ないです。それにわたしはマテアスの……」
「ああ、そうだったわね。こんな可愛い娘ができて、わたしも本当にうれしいわ」
「はい、その、ロミルダ、これからもよろしくお願いします」

 初夜の乱れた寝所を義母に整えさせるわけにはいかない。エラは慌ててきしむ体で動き出した。

「今日は体がつらいでしょう? いいからわたしに任せなさい。まったくマテアスときたら、昔からこうと決めたら行動が早いものだから……。そのくせ下準備が完璧に整わないと、眠れないくらいに落ち着かなくなったりするのよ。これからいろいろと苦労すると思うけど、何かあったら遠慮なく言ってちょうだいね」
「はい、ありがとうございます。それでマテアスは一体どこに……?」
「今朝早くに王都へ出かけていったわ。良く寝てるから起こさないでくれって言われていたの。よっぽどあなたと結ばれたのがうれしかったのね。あんなに締まりのない息子を見るのは本当に久しぶりよ」

 ロミルダの言葉に夕べの記憶がよみがえる。初めてのエラに、マテアスは本当に気を遣ってくれたようだ。時間をかけて身も心もほぐされて、聞いていたほど痛い思いをすることはなかった。
 夫婦のちぎりは想像の範囲内の行為ではあったが、確かに知識だけでは知り得ないこともたくさんあった。

「もっとちゃんと夫婦にならないと……」

 リーゼロッテに助言できるくらいには、経験を積み重ねる必要がある。それに侍女としての役割も、今まで通りきちんとこなしていかなくてはならなかった。

 思い描いていた人生設計とは、すべてが真逆になってしまった。だが後悔は微塵みじんも感じていない。


 晴れやかな気分の中で、エラの結婚生活が新たに始まったのだった。








【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。謹慎が解け、王城への出仕が再開されたジークヴァルト様。でもハインリヒ王に対して芽生えた不信感が、その胸には燻ったままで。そんな状態のジークヴァルト様に、ある王命が下されて……?
 次回、5章第3話「王の采配」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!! 



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