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第5章 森の魔女と託宣の誓い
第6話 生まれかわって
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【前回のあらすじ】
最北の地シネヴァの森を目指すジークヴァルトとリーゼロッテ。国内最大の川で馬車から船に乗り換え、束の間の船旅を満喫します。
ひとり留守番をしていた船室に、いきなり現れたのは実の父親のイグナーツで。リーゼロッテを捨てたことを泣きながら謝るイグナーツ。ふたりで号泣し合う中、母マルグリットはまだ生きているとイグナーツは主張します。
次に向かう先がヘッダの生家バルテン家と知らされ、クリスティーナ王女と過ごした日々が心に痛く蘇ります。逃げ出したい気持ちとは裏腹に到着したバルテン家で、連れ添ったヘッダとアルベルトが現れて……。
しかしそこにいたのはヘッダではなく、あの日亡くなったはずのクリスティーナ王女の姿でした。
「久しぶりね、リーゼロッテ」
聞き覚えのある声に、礼も忘れて顔を上げた。そこに立っていたのはクリスティーナだった。亡くなったはずの王女がなぜ。亡霊を見る思いで、リーゼロッテはその美しい顔を凝視した。
「あなたたちは相変わらずのようね」
中途半端な姿勢でいるリーゼロッテを、ジークヴァルトが横から支えてくる。その様子にクリスティーナは涼やかな笑い声を立てた。
「クリス……ティーナさ、ま……クリスティーナさまっ!!」
ジークヴァルトの手を離れ、目の前まで駆け寄った。膝をつき、確かめるように手を伸ばす。
クリスティーナの白い指先が、震える手を絡めとった。伝わってくる温もりに、幻でないことを知る。本当に王女がここにいる。リーゼロッテの頬を、大粒の涙がすべり落ちた。
「本当に相変わらずね」
王女の手を包み込んだまま、ぼろぼろと泣き続けるリーゼロッテに若干の苦笑いを向ける。
「いいからもうお立ちなさい。ここではなんだから、奥でゆっくり話しましょう?」
「サロンに席を用意してございます。公爵様もどうぞご一緒に」
子爵の言葉に、クリスティーナが背を向け歩き出そうとする。そこをすかさず抱きあげて、アルベルトが王女を車椅子に座らせた。
「自分で歩けると言ったでしょう?」
「無理はするなと言われたのをお忘れですか? 長距離はまだ歩かせませんよ」
「ほんと、口うるさい男」
言葉とは裏腹に楽し気に言う。そんなクリスティーナを乗せたまま、アルベルトは奥へと車椅子を押していった。
◇
「さぁ、何から話しましょうか?」
移動したサロンでテーブルを囲んだ。王女はまっすぐにリーゼロッテを見つめている。言葉を探しつつも、聞きたいことはたったひとつだ。
「クリスティーナ様が生きていらっしゃったこと、わたくし心からうれしく思います。ですが、なぜクリスティーナ様はここにいらっしゃるのですか……?」
「そうね。まず初めに言っておくわ。わたくしの名はヘッダ・バルテンよ。第一王女はあの日、死んだのだから」
「ですが……」
目の前にいるのはクリスティーナだ。困惑していると王女の隣に座っていたアルベルトと目が合った。
「驚かれるのも無理はありません。わたしもこのバルテン家に来るまで、何も知らされていませんでしたから」
「仕方ないでしょう? わたくしだって目覚めたらもうバルテン家にいたのだから」
非難の含んだアルベルトの口調に、クリスティーナは居丈高に返した。人を従え慣れた態度は、王女の姿そのものだ。
「事情はわたしからお話しいたしましょう。我が娘ヘッダは、龍から託宣を受けていたのです」
「ヘッダ様が託宣を……?」
バルテン子爵は穏やかな表情で頷いた。
「ヘッダが賜った託宣は、クリスティーナ様をお守りし身代わりとなるというものでした。生まれた時から病弱で成人までは生きられないと言われた娘です。それが思った以上に長い時を過ごせました。これもクリスティーナ様がいてくださったからこそ……」
静かに言った子爵の横で、バルテン夫人が涙ぐむ。夫人の手に自身の手のひらを添え、子爵はリーゼロッテにやさしげな顔を向けた。
「ではヘッダ様は……」
「はい、龍の託宣を全うし、ヘッダは天へと旅立ちました。こうして無事に王女殿下をお守りできたこと、娘も誇りに思っていることでしょう」
「そう……だったのですね。ですがなぜ、クリスティーナ様がヘッダ様ということに……?」
あの時亡くなったのがヘッダだと言うのなら、クリスティーナの葬儀をとり行う必要はなかったはずだ。王女の死に、国中がいまだかなしみに沈んでいる。
「第一王女は死ぬ必要があったのよ」
「え?」
「あの日以来、わたくしは夢見の力を失ったわ。それでなくともわたくしの曖昧な夢見に、神殿は不満の声を上げていた。巫女として価値のなくなった王女など、神殿の増長を許す火種を作るだけ。龍の託宣を果たし立派に死んだ王女ということにしておいた方が、王家としても都合が良かったのよ」
「そんな……」
「王家と神殿の力関係を守るため、わたくしの死は不可欠だった。ハインリヒの決断は、王として最良のものよ」
姉姫を政治の駒として切り捨て、ハインリヒ王は神殿のみならず国民をも欺いたのだ。国を治めるとはそこまでしなくてはならないのだろうか。リーゼロッテは言葉を失った。
「では国葬を受けたのはヘッダ様だったのですか……?」
「そう、ヘッダは第一王女として王族の墓に入れられたわ。そしてわたくしがヘッダとして生きることになった」
ひとしきり話し終えて、場に沈黙が訪れた。リーゼロッテの身代わりとなったクリスティーナを守るため、ヘッダがそのまた身代わりになったと言うことだ。回りくどい龍の託宣に、困惑しか起こらない。
「幸い娘は体が弱かったため、社交界にほとんど顔を知られておりません。入れかわった所で怪しむ者もいないでしょう」
「それはわたくしも同じこと。ずっと病弱と偽って人前には出なかった身ですもの。王女と気づかれることもそうないわ」
「クリスティーナ様は……本当にそれでよかったのですか……?」
ずっと誇り高い王女として生きてきた彼女だ。自身の名を捨て去る苦悩がいかほどのものか、リーゼロッテには想像すらできはしない。
「そうね……まったく葛藤がなかったと言うなら嘘になるわ。だけれど……」
伏し目がちに言ったクリスティーナは、隣に座るアルベルトに視線を向けた。
「王女の立場を捨てなければ、こうしてアルベルトと添い遂げることなどできなかっただろうから」
穏やかにほほ笑んだクリスティーナに、アルベルトは熱の籠った瞳を返す。あの日、失ったはずの王女を取り戻したのだ。彼の心中を思うと、リーゼロッテの胸に熱いものが込み上げた。
「……本当にあなたは相変わらずね」
音もなく涙を流し続けるリーゼロッテに、クリスティーナは再び苦笑いを向けた。
◇
興奮で明け方まで寝つけなかったリーゼロッテは、眠けが抜けないまま朝食に呼ばれた。バルテン家の家族の食卓に、ジークヴァルトと共に席に着く。
(ヴァルト様と朝食をいただくなんて、初めてのことかも)
思えば食事を共にしたと言えば、あーんが繰り広げられる珍妙な晩餐と、王太子時代のハインリヒにお呼ばれしたときだけだ。さすがにここではあーんだけは阻止しようと、リーゼロッテは警戒しながらフレッシュジュースを手に取った。
ひと口飲んで首をかしげる。もうひと口飲むと、やはり独特の香りが鼻の奥に広がった。この味はビンゲンだ。比較的珍しい香草だが、バルテン領の特産として知られている。バルテン家で頻繁に食卓に上っても、何も不思議はないだろう。
朝食と言えど貴族の屋敷ではコース料理が出てくる。予想通り、次のメニューにもビンゲンが使われていた。香ばしく焼かれたデニッシュの生地にふんだんに練り込まれ、つけるジャムは甘いビンゲンの塊だ。トリュフ入りのスクランブルエッグでも、ビンゲンが主張しすぎている。せっかくのトリュフが台無しというものだ。
(そういえばヴァルト様って、ビンゲンが苦手じゃなかったっけ……)
さりげなく横のジークヴァルトに目をやると、どこか遠い目をして黙々と食べていた。向かいの席では似たような表情のアルベルトが、悟ったように料理を口に運んでいる。
(アルベルト様も駄目っぽそうね……)
客人の自分たちと違って、アルベルトは毎日こんなメニューを出されているのかもしれない。婿養子の立場では、領地の特産が嫌いだとは言い出しづらいだろう。
クリスティーナと言えば、そのアルベルトの横でグリーンサラダを上品に食べている。ビンゲンも入っているようだが、彼女だけ別メニューが用意されているようだった。
「デザートは季節のフルーツヨーグルト、ビンゲンのフレッシュソース添えでございます」
最後のメニューを差し出され、青臭いソースに顔が引きつりかけた。嫌いではないとはいえ、こうもビンゲンづくしだと、さすがに嫌になってくる。
「あら、あなた。東宮の厨房にいた……」
「ご記憶くださり光栄です。東宮が閉鎖され職を失いかけましたが、幸いバルテン家へと召し抱えていただけまして」
そこにいたのは東宮の料理人だった。見回すと使用人の中に、東宮で見かけた者が他にもいることに気がついた。
クリスティーナを見ても素知らぬ顔でサラダを口に運んでいる。リーゼロッテの口元は、知らず綻んだのだった。
◇
食後、クリスティーナに誘われて、庭へと散歩に出た。
ゆっくりとした足取りで、クリスティーナは石畳に歩を進める。その後ろをアルベルトがつかず離れずついていく。東宮でよく目にした風景だ。ヘッダだけがここにいない。そのことがリーゼロッテの気持ちを沈ませた。
(こんなふうに思っていると、きっとヘッダ様に怒られてしまうわね)
誇りにかけて彼女は王女を守り切ったのだ。ヘッダがそのことを悔やんでいるなど、ありはしないだろう。
ふとジークヴァルトの視線を感じた。やたらとリーゼロッテの足元を気にしている。自分が転ばないかとハラハラしている様子だ。
足を痛めたクリスティーナが、自身の足で歩いているのだ。ここで抱き上げられてはたまらない。絶対に転ぶものかとリーゼロッテは、いつも以上に慎重な足取りになった。
「オエ――――っ」
大きく羽をばたつかせ、白い塊が腕に飛び込んだ。勢いで数歩下がると、ジークヴァルトに背を抱きとめられる。
「マンボウ、あなたもここに呼んでもらえたのね」
「オエっ!」
胸に抱いて見つめ合う。すると真後ろからジークヴァルトが、マンボウをひょいと取り上げた。見上げると口がへの字に曲がっている。そんなジークヴァルトにマンボウは「おえっ」と敬礼のポーズをとってみせた。
不機嫌顔のまま、ジークヴァルトはマンボウをそこら辺に放り投げた。見事な飛翔を披露して、着地したマンボウがどや顔で振り返る。きりりとした太眉は健在だ。
「あら、マンボウはすっかりふたりに懐いたのね」
「わたくし、マンボウにはたくさん助けてもらいましたから……」
囚われの神殿で、卵をもらったことを思い出す。きのこの鼓笛隊を案内してくれたのもマンボウだ。あれがなかったら、リーゼロッテはあのまま飢え死にしていたかもしれない。
「さあマンボウ、いっぱいお食べなさい」
東宮の庭でそうしていたように、クリスティーナは地面に穀物を撒き始めた。他に鶏がいないせいか、マンボウは遠慮なしで啄み始める。
「そう、たんとお食べなさい。もっともっと太って滋養を蓄えるのよ」
次から次へと撒かれる餌に、マンボウが次第に追いついていけなくなった。それでも期待に応えるように、こんもりと盛られた餌に向けて必死に嘴を上下する。お腹がパンパンになっても食べ続けるマンボウが、なんだか可哀そうになってきた。
「あの、クリスティーナ様……それはさすがにあげすぎなのでは……?」
「いいのよ。この冬は長かったでしょう? いざというときのために、ちゃんと肥え太らせておかないと」
「いざというとき?」
「ええ、雪で食料が尽きたら困るじゃない。非常食として太らせておくのは当然よ」
「ひ、非常食!?」
思わずマンボウを見やる。クリスティーナは食糧難の非常時に、マンボウを食べるつもりでいるのだろうか。
「お、おえっ……」
涙目になったマンボウの嘴の端っこから、餌がぽろりとこぼれ落ちた。
「でででですが、マンボウはフリードリヒ様から頂いた大事な聖獣なのですよね!?」
「そうだけれど、ただの鶏よ?」
「ででででも、マンボウはこんなにもクリスティーナ様のことが好きですのに。クリスティーナ様もマンボウに愛着はございますでしょう?」
「愛着? そうね、マンボウの鳴き声がないと朝が来た気がしないわね」
「そそそそうですわよね、ですからマンボウをお食べになるのはおやめになった方が」
「いやだわ、誰がわたくしが食べると言ったの。食べるのはアルベルトよ」
「は? なぜわたしが?」
さすがのアルベルトも呆れた顔をクリスティーナに向けた。
「わたくしは動物の死骸なんて食べないわ。葉物野菜だけで十分よ。最悪、わたくしはビンゲンだけでも生きていけるけれど、アルベルトはそうじゃないでしょう? 可哀そうなアルベルトのために、万が一に備えてこうしてマンボウを日々肥やしているのじゃない。有難く思いなさい」
「クリスティーナ……冬の備蓄は王城にも蓄えられています。そんなことくらいあなたも知っているでしょうに」
「すぐそうやって口答えして。ほんと、つまらない男」
クリスティーナは涼やかな声で笑う。そんな彼女を見つめるアルベルトの瞳は、とても穏やかだ。
「あの、クリスティーナ様。マンボウは卵を産めるので、アルベルト様の非常時はなんとかそれでしのいでいただけませんか……?」
「マンボウは雄鶏でしょう? 卵なんて産まないわ」
「いえ、本当に産めるんです! ね、マンボウ」
生存の危機を感じたのか、マンボウは激しく首を縦に振った。目を回しそうなほどのヘッドバンキングぶりだ。
半信半疑のクリスティーナを前に、マンボウはさっとおしりを差し出した。
前傾姿勢で尾羽を震わせ、見る見るうちにおしりの穴から白い玉が顔を覗かせた。草むらにほかほかの卵が、ぽとんと産み落とされる。
「オエっ!」
頚だけ振り返って必死にアピールするマンボウに、リーゼロッテは援護射撃を繰り出した。
「ほら、このように雄鶏っぽくても卵が産めるのです。マンボウを食べてしまってはもったいないですわ!」
「それもそうね。じゃあ、この卵はアルベルトの昼食になさい」
「食べるのはやはりわたしなのですね……」
遠い目をしてアルベルトが言う。
「当たり前じゃない。わたくし鶏の卵など食べないわ」
晴れた新緑の庭を、クリスティーナの涼やかな笑い声が響き渡る。
その日の昼食、アルベルトにだけ半熟卵が提供された。ビンゲンのソースがたっぷりと添えられていたのは言うまでもない。
◇
昼食後の腹ごなしに、リーゼロッテは再び庭へと散策に出た。今度はジークヴァルトとふたりきりだ。地面を踏みしめるのが久しぶりすぎて、足取りも軽くなるというものだ。
風に揺れる木々のざわめきが心地よい。緑のにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
「わたくし、新緑の季節がいちばん好きかもですわ」
「そうか」
「でも雪どけの季節も春が待ち遠しくて好きです」
「そうか」
「春の日差しはやわらかくて、お昼寝にはもってこいですわね」
「そうだな」
「真夏は綺麗な虹がよく出ますし、秋は秋で紅葉が美しいから、どちらも捨てがたいですわ」
「そうか」
「寒い冬だったら暖炉の前で過ごす時間が好きですわ」
「そうか」
そっけない言葉しか返してこないジークヴァルトを不満げに振り返る。口下手だと分かっているが、もっとこう会話が弾まないものだろうか。
(確かこういうときは、イエス、ノーで答えられない質問をするんだったわ)
よく言われている会話を続けるコツを思い出す。
「ヴァルト様はどの季節がお好きですか?」
「……夏だな」
「夏? 理由はありますの?」
「お前が生まれた季節だからだ」
素で返されて、不意打ちを食らってしまった。不覚にも体から緑の力が溢れ出す。
「だ、大丈夫です、すぐに落ち着きますから!」
このままではまた抱き上げられてしまう。心配性のジークヴァルトを前に、ふーと息を吐いて力の流れに集中する。今までのぽんこつぶりが嘘のように、すぐに流れは整った。
「さ、参りましょう」
そそくさと先へ歩を進める。馬車の旅が始まると、またろくに歩けなくなる。今のうちに少しでも歩きだめをしておかなくては。
ずんずんと進む先、茂みの奥で人の声がした。クリスティーナとアルベルトだ。そう思って声をかけようとする。
「……リーゼロッテは相変わらずだったわね。あんなふうに感情をすぐに表に出したりして、うらやましいくらいだわ」
自分のことが会話にのぼって、リーゼロッテは思わず身をひそめた。生垣の向こうのガゼボのベンチに、ふたりは並んで座っている。
「公爵の狭量ぶりも見ていて飽きないわ。ずっとここにいてくれないかしら」
「またそのようなことを……。それにリーゼロッテ様も公爵様も、もう目上のお方ですよ」
「分かっているわ。でもこの屋敷では誰も気にはしないでしょう? 口うるさく言うのはアルベルトくらいよ」
「クリスティーナ……」
「それを言うなら、その名で呼ばないでちょうだい。わたくしのことはヘッダとお呼びなさい」
つんと顔をそらしたクリスティーナをアルベルトが胸に引き寄せた。
「他の女の名であなたに愛を誓えるわけないでしょう?」
「まあ、愛だなんて。とてもアルベルトの口から出た言葉だとは思えないわ……ん」
アルベルトは素早くクリスティーナの唇を奪った。
「ん……あなた、最近強引よ。以前のように聞き分けよく引くこともしなくなったし……まるで別人ね」
「わたしをそうさせたのはあなただ、クリスティーナ」
苦しげに言って再び口づける。繰り返されるリップ音の中、はじめだけ抵抗を見せたクリスティーナの腕が、アルベルトの首に絡みついた。切なげな息を漏らすクリスティーナを、アルベルトがベンチに押し倒す。
知り合いの濃いラブシーンに、リーゼロッテの全身が真っ赤に染まった。どんどん盛り上がっていくふたりに、動揺のあまり胸は爆発寸前だ。
「何を見ている?」
「ひょあっ」
耳元で囁かれ、口から心臓が飛び出した。リーゼロッテが見ていた先を、ジークヴァルトも覗き込もうとする。
「だ、駄目ですわ! この先は進入禁止ですっ」
慌ててジークヴァルトの目を塞ぐ。ふたりの逢瀬を邪魔しないようにと、広い背中をぐいぐいと押しやった。
(ふぅ、危ないところだったわ)
かなり遠くまできて、ようやく安堵の息を漏らす。ジークヴァルトは何も気づかなかった様子だ。リーゼロッテには刺激が強すぎて、いまだ落ち着かない鼓動を両の手のひらで確かめた。
「大丈夫か? 顔が赤い」
「は、はい、少し日に当たりすぎたのかも……」
言い終わる前に抱き上げられる。日陰を選びながら、ジークヴァルトは屋敷に向かって歩き出した。こうなれば自分で歩くと言っても聞きはしないだろう。仕方なく、力を抜いて身を預けた。
クリスティーナがしていたように、ジークヴァルトの首に手を回す。だがジークヴァルトの視線は、自分ではなく歩く先に向けられていた。
熱く見つめ合って、口づけを交わす姿が頭から離れない。愛し合うふたりに格の違いを見せつけられて、リーゼロッテの中に焦りに似た感情が生まれ落ちた。
(キスのひとつもしてくれないし……ヴァルト様はやっぱりそういうことに淡白なんだわ……)
公爵家に戻ってからというもの、恋人らしいイベントは何ひとつ起きていない。あーんと抱っこがルーチンワークのように、延々と繰り返されるだけだ。
ふたりきりの馬車でも、ジークヴァルトはずっと書類に目を通している。旅はおろかリーゼロッテすら、そっちのけにされているように思えてならなかった。
「つらいのか? すぐに戻る」
こんなふうに気遣ってくれるのに。気持ちを疑うつもりはないが、ジークヴァルトにもっともっと近づきたい。そんな欲が膨れ上がった。
「ジークヴァルト様……」
耳元に顔をうずめ、切なく名を呼んだ。抱きつく腕に、さらにぎゅっと力を籠める。
だがそうしても、建物に向かうジークヴァルトの足が、ただいたずらに早まっただけだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。クリスティーナ様に別れを告げて、バルテン領を出発したわたしたち。馬車での旅は順調に進んでいきます。途中立ち寄ったのは、イグナーツ父様の実家ブルーメ家。そこで久しぶりに会ったのは、しあわせそうに過ごすルチア様で……。
次回、5章第7話「最果ての街」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
最北の地シネヴァの森を目指すジークヴァルトとリーゼロッテ。国内最大の川で馬車から船に乗り換え、束の間の船旅を満喫します。
ひとり留守番をしていた船室に、いきなり現れたのは実の父親のイグナーツで。リーゼロッテを捨てたことを泣きながら謝るイグナーツ。ふたりで号泣し合う中、母マルグリットはまだ生きているとイグナーツは主張します。
次に向かう先がヘッダの生家バルテン家と知らされ、クリスティーナ王女と過ごした日々が心に痛く蘇ります。逃げ出したい気持ちとは裏腹に到着したバルテン家で、連れ添ったヘッダとアルベルトが現れて……。
しかしそこにいたのはヘッダではなく、あの日亡くなったはずのクリスティーナ王女の姿でした。
「久しぶりね、リーゼロッテ」
聞き覚えのある声に、礼も忘れて顔を上げた。そこに立っていたのはクリスティーナだった。亡くなったはずの王女がなぜ。亡霊を見る思いで、リーゼロッテはその美しい顔を凝視した。
「あなたたちは相変わらずのようね」
中途半端な姿勢でいるリーゼロッテを、ジークヴァルトが横から支えてくる。その様子にクリスティーナは涼やかな笑い声を立てた。
「クリス……ティーナさ、ま……クリスティーナさまっ!!」
ジークヴァルトの手を離れ、目の前まで駆け寄った。膝をつき、確かめるように手を伸ばす。
クリスティーナの白い指先が、震える手を絡めとった。伝わってくる温もりに、幻でないことを知る。本当に王女がここにいる。リーゼロッテの頬を、大粒の涙がすべり落ちた。
「本当に相変わらずね」
王女の手を包み込んだまま、ぼろぼろと泣き続けるリーゼロッテに若干の苦笑いを向ける。
「いいからもうお立ちなさい。ここではなんだから、奥でゆっくり話しましょう?」
「サロンに席を用意してございます。公爵様もどうぞご一緒に」
子爵の言葉に、クリスティーナが背を向け歩き出そうとする。そこをすかさず抱きあげて、アルベルトが王女を車椅子に座らせた。
「自分で歩けると言ったでしょう?」
「無理はするなと言われたのをお忘れですか? 長距離はまだ歩かせませんよ」
「ほんと、口うるさい男」
言葉とは裏腹に楽し気に言う。そんなクリスティーナを乗せたまま、アルベルトは奥へと車椅子を押していった。
◇
「さぁ、何から話しましょうか?」
移動したサロンでテーブルを囲んだ。王女はまっすぐにリーゼロッテを見つめている。言葉を探しつつも、聞きたいことはたったひとつだ。
「クリスティーナ様が生きていらっしゃったこと、わたくし心からうれしく思います。ですが、なぜクリスティーナ様はここにいらっしゃるのですか……?」
「そうね。まず初めに言っておくわ。わたくしの名はヘッダ・バルテンよ。第一王女はあの日、死んだのだから」
「ですが……」
目の前にいるのはクリスティーナだ。困惑していると王女の隣に座っていたアルベルトと目が合った。
「驚かれるのも無理はありません。わたしもこのバルテン家に来るまで、何も知らされていませんでしたから」
「仕方ないでしょう? わたくしだって目覚めたらもうバルテン家にいたのだから」
非難の含んだアルベルトの口調に、クリスティーナは居丈高に返した。人を従え慣れた態度は、王女の姿そのものだ。
「事情はわたしからお話しいたしましょう。我が娘ヘッダは、龍から託宣を受けていたのです」
「ヘッダ様が託宣を……?」
バルテン子爵は穏やかな表情で頷いた。
「ヘッダが賜った託宣は、クリスティーナ様をお守りし身代わりとなるというものでした。生まれた時から病弱で成人までは生きられないと言われた娘です。それが思った以上に長い時を過ごせました。これもクリスティーナ様がいてくださったからこそ……」
静かに言った子爵の横で、バルテン夫人が涙ぐむ。夫人の手に自身の手のひらを添え、子爵はリーゼロッテにやさしげな顔を向けた。
「ではヘッダ様は……」
「はい、龍の託宣を全うし、ヘッダは天へと旅立ちました。こうして無事に王女殿下をお守りできたこと、娘も誇りに思っていることでしょう」
「そう……だったのですね。ですがなぜ、クリスティーナ様がヘッダ様ということに……?」
あの時亡くなったのがヘッダだと言うのなら、クリスティーナの葬儀をとり行う必要はなかったはずだ。王女の死に、国中がいまだかなしみに沈んでいる。
「第一王女は死ぬ必要があったのよ」
「え?」
「あの日以来、わたくしは夢見の力を失ったわ。それでなくともわたくしの曖昧な夢見に、神殿は不満の声を上げていた。巫女として価値のなくなった王女など、神殿の増長を許す火種を作るだけ。龍の託宣を果たし立派に死んだ王女ということにしておいた方が、王家としても都合が良かったのよ」
「そんな……」
「王家と神殿の力関係を守るため、わたくしの死は不可欠だった。ハインリヒの決断は、王として最良のものよ」
姉姫を政治の駒として切り捨て、ハインリヒ王は神殿のみならず国民をも欺いたのだ。国を治めるとはそこまでしなくてはならないのだろうか。リーゼロッテは言葉を失った。
「では国葬を受けたのはヘッダ様だったのですか……?」
「そう、ヘッダは第一王女として王族の墓に入れられたわ。そしてわたくしがヘッダとして生きることになった」
ひとしきり話し終えて、場に沈黙が訪れた。リーゼロッテの身代わりとなったクリスティーナを守るため、ヘッダがそのまた身代わりになったと言うことだ。回りくどい龍の託宣に、困惑しか起こらない。
「幸い娘は体が弱かったため、社交界にほとんど顔を知られておりません。入れかわった所で怪しむ者もいないでしょう」
「それはわたくしも同じこと。ずっと病弱と偽って人前には出なかった身ですもの。王女と気づかれることもそうないわ」
「クリスティーナ様は……本当にそれでよかったのですか……?」
ずっと誇り高い王女として生きてきた彼女だ。自身の名を捨て去る苦悩がいかほどのものか、リーゼロッテには想像すらできはしない。
「そうね……まったく葛藤がなかったと言うなら嘘になるわ。だけれど……」
伏し目がちに言ったクリスティーナは、隣に座るアルベルトに視線を向けた。
「王女の立場を捨てなければ、こうしてアルベルトと添い遂げることなどできなかっただろうから」
穏やかにほほ笑んだクリスティーナに、アルベルトは熱の籠った瞳を返す。あの日、失ったはずの王女を取り戻したのだ。彼の心中を思うと、リーゼロッテの胸に熱いものが込み上げた。
「……本当にあなたは相変わらずね」
音もなく涙を流し続けるリーゼロッテに、クリスティーナは再び苦笑いを向けた。
◇
興奮で明け方まで寝つけなかったリーゼロッテは、眠けが抜けないまま朝食に呼ばれた。バルテン家の家族の食卓に、ジークヴァルトと共に席に着く。
(ヴァルト様と朝食をいただくなんて、初めてのことかも)
思えば食事を共にしたと言えば、あーんが繰り広げられる珍妙な晩餐と、王太子時代のハインリヒにお呼ばれしたときだけだ。さすがにここではあーんだけは阻止しようと、リーゼロッテは警戒しながらフレッシュジュースを手に取った。
ひと口飲んで首をかしげる。もうひと口飲むと、やはり独特の香りが鼻の奥に広がった。この味はビンゲンだ。比較的珍しい香草だが、バルテン領の特産として知られている。バルテン家で頻繁に食卓に上っても、何も不思議はないだろう。
朝食と言えど貴族の屋敷ではコース料理が出てくる。予想通り、次のメニューにもビンゲンが使われていた。香ばしく焼かれたデニッシュの生地にふんだんに練り込まれ、つけるジャムは甘いビンゲンの塊だ。トリュフ入りのスクランブルエッグでも、ビンゲンが主張しすぎている。せっかくのトリュフが台無しというものだ。
(そういえばヴァルト様って、ビンゲンが苦手じゃなかったっけ……)
さりげなく横のジークヴァルトに目をやると、どこか遠い目をして黙々と食べていた。向かいの席では似たような表情のアルベルトが、悟ったように料理を口に運んでいる。
(アルベルト様も駄目っぽそうね……)
客人の自分たちと違って、アルベルトは毎日こんなメニューを出されているのかもしれない。婿養子の立場では、領地の特産が嫌いだとは言い出しづらいだろう。
クリスティーナと言えば、そのアルベルトの横でグリーンサラダを上品に食べている。ビンゲンも入っているようだが、彼女だけ別メニューが用意されているようだった。
「デザートは季節のフルーツヨーグルト、ビンゲンのフレッシュソース添えでございます」
最後のメニューを差し出され、青臭いソースに顔が引きつりかけた。嫌いではないとはいえ、こうもビンゲンづくしだと、さすがに嫌になってくる。
「あら、あなた。東宮の厨房にいた……」
「ご記憶くださり光栄です。東宮が閉鎖され職を失いかけましたが、幸いバルテン家へと召し抱えていただけまして」
そこにいたのは東宮の料理人だった。見回すと使用人の中に、東宮で見かけた者が他にもいることに気がついた。
クリスティーナを見ても素知らぬ顔でサラダを口に運んでいる。リーゼロッテの口元は、知らず綻んだのだった。
◇
食後、クリスティーナに誘われて、庭へと散歩に出た。
ゆっくりとした足取りで、クリスティーナは石畳に歩を進める。その後ろをアルベルトがつかず離れずついていく。東宮でよく目にした風景だ。ヘッダだけがここにいない。そのことがリーゼロッテの気持ちを沈ませた。
(こんなふうに思っていると、きっとヘッダ様に怒られてしまうわね)
誇りにかけて彼女は王女を守り切ったのだ。ヘッダがそのことを悔やんでいるなど、ありはしないだろう。
ふとジークヴァルトの視線を感じた。やたらとリーゼロッテの足元を気にしている。自分が転ばないかとハラハラしている様子だ。
足を痛めたクリスティーナが、自身の足で歩いているのだ。ここで抱き上げられてはたまらない。絶対に転ぶものかとリーゼロッテは、いつも以上に慎重な足取りになった。
「オエ――――っ」
大きく羽をばたつかせ、白い塊が腕に飛び込んだ。勢いで数歩下がると、ジークヴァルトに背を抱きとめられる。
「マンボウ、あなたもここに呼んでもらえたのね」
「オエっ!」
胸に抱いて見つめ合う。すると真後ろからジークヴァルトが、マンボウをひょいと取り上げた。見上げると口がへの字に曲がっている。そんなジークヴァルトにマンボウは「おえっ」と敬礼のポーズをとってみせた。
不機嫌顔のまま、ジークヴァルトはマンボウをそこら辺に放り投げた。見事な飛翔を披露して、着地したマンボウがどや顔で振り返る。きりりとした太眉は健在だ。
「あら、マンボウはすっかりふたりに懐いたのね」
「わたくし、マンボウにはたくさん助けてもらいましたから……」
囚われの神殿で、卵をもらったことを思い出す。きのこの鼓笛隊を案内してくれたのもマンボウだ。あれがなかったら、リーゼロッテはあのまま飢え死にしていたかもしれない。
「さあマンボウ、いっぱいお食べなさい」
東宮の庭でそうしていたように、クリスティーナは地面に穀物を撒き始めた。他に鶏がいないせいか、マンボウは遠慮なしで啄み始める。
「そう、たんとお食べなさい。もっともっと太って滋養を蓄えるのよ」
次から次へと撒かれる餌に、マンボウが次第に追いついていけなくなった。それでも期待に応えるように、こんもりと盛られた餌に向けて必死に嘴を上下する。お腹がパンパンになっても食べ続けるマンボウが、なんだか可哀そうになってきた。
「あの、クリスティーナ様……それはさすがにあげすぎなのでは……?」
「いいのよ。この冬は長かったでしょう? いざというときのために、ちゃんと肥え太らせておかないと」
「いざというとき?」
「ええ、雪で食料が尽きたら困るじゃない。非常食として太らせておくのは当然よ」
「ひ、非常食!?」
思わずマンボウを見やる。クリスティーナは食糧難の非常時に、マンボウを食べるつもりでいるのだろうか。
「お、おえっ……」
涙目になったマンボウの嘴の端っこから、餌がぽろりとこぼれ落ちた。
「でででですが、マンボウはフリードリヒ様から頂いた大事な聖獣なのですよね!?」
「そうだけれど、ただの鶏よ?」
「ででででも、マンボウはこんなにもクリスティーナ様のことが好きですのに。クリスティーナ様もマンボウに愛着はございますでしょう?」
「愛着? そうね、マンボウの鳴き声がないと朝が来た気がしないわね」
「そそそそうですわよね、ですからマンボウをお食べになるのはおやめになった方が」
「いやだわ、誰がわたくしが食べると言ったの。食べるのはアルベルトよ」
「は? なぜわたしが?」
さすがのアルベルトも呆れた顔をクリスティーナに向けた。
「わたくしは動物の死骸なんて食べないわ。葉物野菜だけで十分よ。最悪、わたくしはビンゲンだけでも生きていけるけれど、アルベルトはそうじゃないでしょう? 可哀そうなアルベルトのために、万が一に備えてこうしてマンボウを日々肥やしているのじゃない。有難く思いなさい」
「クリスティーナ……冬の備蓄は王城にも蓄えられています。そんなことくらいあなたも知っているでしょうに」
「すぐそうやって口答えして。ほんと、つまらない男」
クリスティーナは涼やかな声で笑う。そんな彼女を見つめるアルベルトの瞳は、とても穏やかだ。
「あの、クリスティーナ様。マンボウは卵を産めるので、アルベルト様の非常時はなんとかそれでしのいでいただけませんか……?」
「マンボウは雄鶏でしょう? 卵なんて産まないわ」
「いえ、本当に産めるんです! ね、マンボウ」
生存の危機を感じたのか、マンボウは激しく首を縦に振った。目を回しそうなほどのヘッドバンキングぶりだ。
半信半疑のクリスティーナを前に、マンボウはさっとおしりを差し出した。
前傾姿勢で尾羽を震わせ、見る見るうちにおしりの穴から白い玉が顔を覗かせた。草むらにほかほかの卵が、ぽとんと産み落とされる。
「オエっ!」
頚だけ振り返って必死にアピールするマンボウに、リーゼロッテは援護射撃を繰り出した。
「ほら、このように雄鶏っぽくても卵が産めるのです。マンボウを食べてしまってはもったいないですわ!」
「それもそうね。じゃあ、この卵はアルベルトの昼食になさい」
「食べるのはやはりわたしなのですね……」
遠い目をしてアルベルトが言う。
「当たり前じゃない。わたくし鶏の卵など食べないわ」
晴れた新緑の庭を、クリスティーナの涼やかな笑い声が響き渡る。
その日の昼食、アルベルトにだけ半熟卵が提供された。ビンゲンのソースがたっぷりと添えられていたのは言うまでもない。
◇
昼食後の腹ごなしに、リーゼロッテは再び庭へと散策に出た。今度はジークヴァルトとふたりきりだ。地面を踏みしめるのが久しぶりすぎて、足取りも軽くなるというものだ。
風に揺れる木々のざわめきが心地よい。緑のにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
「わたくし、新緑の季節がいちばん好きかもですわ」
「そうか」
「でも雪どけの季節も春が待ち遠しくて好きです」
「そうか」
「春の日差しはやわらかくて、お昼寝にはもってこいですわね」
「そうだな」
「真夏は綺麗な虹がよく出ますし、秋は秋で紅葉が美しいから、どちらも捨てがたいですわ」
「そうか」
「寒い冬だったら暖炉の前で過ごす時間が好きですわ」
「そうか」
そっけない言葉しか返してこないジークヴァルトを不満げに振り返る。口下手だと分かっているが、もっとこう会話が弾まないものだろうか。
(確かこういうときは、イエス、ノーで答えられない質問をするんだったわ)
よく言われている会話を続けるコツを思い出す。
「ヴァルト様はどの季節がお好きですか?」
「……夏だな」
「夏? 理由はありますの?」
「お前が生まれた季節だからだ」
素で返されて、不意打ちを食らってしまった。不覚にも体から緑の力が溢れ出す。
「だ、大丈夫です、すぐに落ち着きますから!」
このままではまた抱き上げられてしまう。心配性のジークヴァルトを前に、ふーと息を吐いて力の流れに集中する。今までのぽんこつぶりが嘘のように、すぐに流れは整った。
「さ、参りましょう」
そそくさと先へ歩を進める。馬車の旅が始まると、またろくに歩けなくなる。今のうちに少しでも歩きだめをしておかなくては。
ずんずんと進む先、茂みの奥で人の声がした。クリスティーナとアルベルトだ。そう思って声をかけようとする。
「……リーゼロッテは相変わらずだったわね。あんなふうに感情をすぐに表に出したりして、うらやましいくらいだわ」
自分のことが会話にのぼって、リーゼロッテは思わず身をひそめた。生垣の向こうのガゼボのベンチに、ふたりは並んで座っている。
「公爵の狭量ぶりも見ていて飽きないわ。ずっとここにいてくれないかしら」
「またそのようなことを……。それにリーゼロッテ様も公爵様も、もう目上のお方ですよ」
「分かっているわ。でもこの屋敷では誰も気にはしないでしょう? 口うるさく言うのはアルベルトくらいよ」
「クリスティーナ……」
「それを言うなら、その名で呼ばないでちょうだい。わたくしのことはヘッダとお呼びなさい」
つんと顔をそらしたクリスティーナをアルベルトが胸に引き寄せた。
「他の女の名であなたに愛を誓えるわけないでしょう?」
「まあ、愛だなんて。とてもアルベルトの口から出た言葉だとは思えないわ……ん」
アルベルトは素早くクリスティーナの唇を奪った。
「ん……あなた、最近強引よ。以前のように聞き分けよく引くこともしなくなったし……まるで別人ね」
「わたしをそうさせたのはあなただ、クリスティーナ」
苦しげに言って再び口づける。繰り返されるリップ音の中、はじめだけ抵抗を見せたクリスティーナの腕が、アルベルトの首に絡みついた。切なげな息を漏らすクリスティーナを、アルベルトがベンチに押し倒す。
知り合いの濃いラブシーンに、リーゼロッテの全身が真っ赤に染まった。どんどん盛り上がっていくふたりに、動揺のあまり胸は爆発寸前だ。
「何を見ている?」
「ひょあっ」
耳元で囁かれ、口から心臓が飛び出した。リーゼロッテが見ていた先を、ジークヴァルトも覗き込もうとする。
「だ、駄目ですわ! この先は進入禁止ですっ」
慌ててジークヴァルトの目を塞ぐ。ふたりの逢瀬を邪魔しないようにと、広い背中をぐいぐいと押しやった。
(ふぅ、危ないところだったわ)
かなり遠くまできて、ようやく安堵の息を漏らす。ジークヴァルトは何も気づかなかった様子だ。リーゼロッテには刺激が強すぎて、いまだ落ち着かない鼓動を両の手のひらで確かめた。
「大丈夫か? 顔が赤い」
「は、はい、少し日に当たりすぎたのかも……」
言い終わる前に抱き上げられる。日陰を選びながら、ジークヴァルトは屋敷に向かって歩き出した。こうなれば自分で歩くと言っても聞きはしないだろう。仕方なく、力を抜いて身を預けた。
クリスティーナがしていたように、ジークヴァルトの首に手を回す。だがジークヴァルトの視線は、自分ではなく歩く先に向けられていた。
熱く見つめ合って、口づけを交わす姿が頭から離れない。愛し合うふたりに格の違いを見せつけられて、リーゼロッテの中に焦りに似た感情が生まれ落ちた。
(キスのひとつもしてくれないし……ヴァルト様はやっぱりそういうことに淡白なんだわ……)
公爵家に戻ってからというもの、恋人らしいイベントは何ひとつ起きていない。あーんと抱っこがルーチンワークのように、延々と繰り返されるだけだ。
ふたりきりの馬車でも、ジークヴァルトはずっと書類に目を通している。旅はおろかリーゼロッテすら、そっちのけにされているように思えてならなかった。
「つらいのか? すぐに戻る」
こんなふうに気遣ってくれるのに。気持ちを疑うつもりはないが、ジークヴァルトにもっともっと近づきたい。そんな欲が膨れ上がった。
「ジークヴァルト様……」
耳元に顔をうずめ、切なく名を呼んだ。抱きつく腕に、さらにぎゅっと力を籠める。
だがそうしても、建物に向かうジークヴァルトの足が、ただいたずらに早まっただけだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。クリスティーナ様に別れを告げて、バルテン領を出発したわたしたち。馬車での旅は順調に進んでいきます。途中立ち寄ったのは、イグナーツ父様の実家ブルーメ家。そこで久しぶりに会ったのは、しあわせそうに過ごすルチア様で……。
次回、5章第7話「最果ての街」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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