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松穂

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後々話

Tボーグと子鹿、上々な日々

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 水奈瀬蓮という男は、妹に関すること以外の話題になれば、博識で筋の通った面白い人間である。
 中華料理『香苑』で食事をする間、お互いの仕事のことや近年の競泳界事情に話が及び、思いの外、話は弾んだ。
 ただ、食事を済ませて店を出た後、蓮をマンションまで送っていったのは間違いであった。
 マンションの客用駐車スペースに停めるなり、言葉巧みに車から降ろされて一緒に自宅まで連れて行かれ、なんと部屋の掃除を手伝わされる羽目となった。すげなくあしらおうにも、事あるごとに「義兄」の立場を持ち出してくるのだから始末が悪い。
 つい無意識に、何度も携帯端末を確認してしまい、それに気づいた蓮はわざと足止めしたのだろう。
 ようやく解放されて、宮崎から送られてきたという地鶏の炭火焼きやら日向夏ゼリーやら、そして彼女の好物だという『香苑』の杏仁豆腐もごっそり持たされ、「あまり縛るなよ、、、、」と見送られた時、やはり見透かされていた自分の軽率さを大いに呪った。

 SUVに乗り込んだところで雨が降り出す。ポツポツとフロントガラスを叩く雨滴は、都心へ向かう街道へ出た途端に激しくなり、視界は一気に白く煙った。
 ラジオのニュースで、私鉄線の一部で豪雨による一時的な遅延が出ていると流れた。彼女が使う線ではないが、その影響であちこちが混雑するだろう。そんな電車には絶対に乗せたくない。
 どうしたものかと考える。携帯端末は何の着信もない。迎えに行くとは言ってあるが時間を決めていたわけではない。おまけに今朝は、彼女が目を覚ます前に早々と家を出てきてしまった。
 信号待ちの合間に、とりあえずメッセージだけでも入れておこうと端末を手にしたところで、一件のショートメールを受信した。
 意外な差出人にドキリとする。牧野昭美からの短いメッセージには、《 迎えに来れる? 》という一文の後、目黒区から始まる住所が記載されている。
 ――やはり、何かあったのか。
 ほんの数秒でその住所を完全に記憶した侑司は、振り荒ぶ雨の中、アクセルを踏み込んだ。


 駅からほど近い場所にある、五階建ての小ぢんまりとしたマンションはすぐに見つかった。
 この界隈は、以前侑司が住んでいた場所に近い。住所さえわかれば目当てのマンションを探し当てるのは造作もないことだ。
 到着する頃には、幾分雨の勢いは落ち着いたようだが、当分止みそうにない。
 客用駐車場が見当たらず、仕方なくエントランス前に着けて彼女の携帯を鳴らしてみる。すると一分もしないうちに、エントランスから爽やかなブルーの傘が出てきた。彼女だ。
 その後からもう一つ、華やかな花柄の傘――牧野昭美と夫の晃治が、仲良くくっついて一つの傘の下に収まっている。
 牧野昭美にせっつかれるようにして、彼女は助手席側に回ってきた。牧野夫妻は運転席側に近づいてくる。ウィンドウを下げると「さすが、早かったわね」と二人でしたり顔だ。

「侑司ー、余った料理、少しだけど包んだからさ。夜にでも、葵ちゃんと食べてよ」
「ありがとうございます」
 晃治がビニール袋を掲げてみせて、後部座席に入れてくれた。
 降りしきる雨から逃げるようにして彼女が助手席に乗り込んでくる。濡れた傘を後ろに置いてやりながらそれとなく注視した。どこか、おかしな兆候はないか。
「大丈夫よ、何かあったわけじゃないから」
 傘を差したままの昭美が、笑いを噛み殺すような面持ちで言う。その隣で、ニヤニヤと歯を見せて笑っている晃治。
 今日はどうも、見透かされてばかりいる日だ。

「諸岡と大久保も来ているんですよね。一緒に送っていきましょうか」
「あの子たちは二人で仲良く、皿洗い中。もう少ししたら雨も落ち着くと思うし、電車で帰らせるから」
 頷いて、ウィンドウを上げようとした時、昭美が侑司の方へ顔を寄せた。
「……今日は葵ちゃんを貸してくれて、ありがとね」

 グ、と詰まった侑司を見て、昭美は声を上げて笑った。晃治もくつくつと肩を震わせている。キョトンとした顔でこちらを見る助手席の彼女。侑司は憮然としたまま、今度こそウィンドウを上げた。
 昭美の口が「じゃあ、気をつけてね」と動いて、仲睦まじそうな若夫婦は揃って手を振った。

 発進する車の中から手を振っていた彼女は、牧野夫婦の姿が見えなくなるとすぐに申し訳なさそうな声を出した。
「あの、すみません。雨が小降りになったら電車で帰るつもりだったんですけど、牧野さんが迎えに来るようにメールしたから、って」
 憮然とした侑司の表情を見て、怒っていると思ったのだろう。
 侑司は、身体中の神経が緩やかに弛緩していくのを感じた。彼女が傍に戻ってきただけで、こんなにも落ち着くとは。ということは、さっきまでの自分にどれだけ余裕がなかったのか。
 思わず苦笑してしまい、彼女が不思議そうな顔をした。

「牧野さんは、元気そうだったな」
「はい、とても。早く働きたくてウズウズしてるって言ってました」
 侑司が怒っていないとわかったのか、彼女は嬉しそうに話し始める。
 諸岡や大久保から聞いた異動先での苦労話や新しい仲間の話。牧野チーフが作った料理の話と教えてもらったレシピの話。牧野夫妻が近々マンション購入を考えているので、侑司に詳しい情報を訊きたがっていたという話。
 よほど楽しかったのか、彼女はほんのりと頬を上気させて矢継ぎ早に語っている。その様子に無理をしている気配は感じられない。

「一緒に行ってやれなくて、悪かった。……辛くは、なかったか?」
 侑司が覗き込むと、彼女は瞳を瞬いて一瞬ののち、ああ、と気づいて恥ずかしそうに笑った。
「牧野さんにも、心配されちゃいました。イヤな思いをさせてないか、って。でも、大丈夫だったんです。……そりゃ、昔のことも、ちょこっとだけ思い出したりはしましたけど、本当に、苦しくなったり辛くなったりすることはなかったんです」
 そうか、と低く応えて、侑司は内心胸を撫で下ろした。
 迂闊にも、侑司がそのこと、、、、に思い至ったのはつい数時間前、蓮と食事をしている時だ。
 彼女は、かつて妊娠し流産し、そのショックから精神的に不安定となってしまった経験がある。身体的には回復しても、その当時のショックは心的外傷PTSDとなって、長い間彼女を苦しめたのだ。
 克服したように見えても、心の傷は根が深い。妊娠中の女性に接することは、まだまだ彼女にとってトラウマを呼び起こしてしまう危険を孕んでいると言ってもいい。
 最初、牧野夫妻にお呼ばれしたと嬉しそうにしていたので、そこまで深く考えなかった。周囲の干渉に過敏となり、愚かな焦慮に捉われて肝心な部分に気づいてやれなかったのは、侑司の落ち度だ。

「ただ……」
 大丈夫だと言った彼女は、けれどにわかに瞳を泳がせた。
「ただ、その……私……、くろ……」
 もごもごと言い淀んで、よく聞こえない。彼女の頬はますます紅潮していないか。
 やはりトラウマの症状が……? 侑司は反射的にウィンカーを出して車を路肩に寄せた。ハザードを点滅させて自身のシートベルトを外して、助手席に向き直り彼女の手を取る。
 しっとりとした細い手に目立った震えはない。額にも手を当ててみるが、熱もないようだ。でも頬が赤い。瞳が潤んでいる。
「……具合が悪いのか? 幻聴は?」
「いえ、あのそうじゃ……、」
「やっぱり無理をしていたんだろう」
 彼女の前髪をかき上げ、その頬に手の平を当てた時、小さな声が耳に届いた。

「―― “侑さん” 」
「え?」
 今、何て――、
「あの…… “侑さん” と、呼んでいいですか……?」
 不意を突かれるとはこのことだ。侑司は口を開けたまま固まった。しかし彼女は、まるで侑司の返答を遮ろうとする勢いでまくし立てた。

「す、すみません、突然……、え、えっと、あの、昔から、う、うちの母は父のことを、時々 “響さん” って呼んでいて、子供の頃は特に何とも思わなかったんですけど、今になって、それっていいなーって思ってて、……あっ、でも、仕事中はきちんと “黒河さん” って呼びます、だから、その……」
 熟れた果実のように顔を紅潮させて、彼女は咳き込むように必死で訴える。
「ダ、ダメならいいんですっ、他の呼び方を考えます、あ、えっと、下の名前で呼ばれるのがイヤなら、今まで通りでいいんです、でも、あの」
 ひとまずの衝撃が去って、侑司はやっと止まっていた呼吸を再開させた。
「……何を、吹き込まれてきたんだ」

 去り際の、牧野夫妻の含み笑う様子が思い返される。彼女自身が思いついたことではないだろう。諸岡や大久保も一緒になって、素直で柔順な彼女をはやし立て、余計な入れ知恵をしたに違いない。
 心の内で恨みがましい思いが沸々と湧き上がる。これ以上、自分たちの関係に口を挟んでくれるな、と声を大にして叫びたい気分だ。
 だが、そんな侑司を否定するように、彼女は大きく首を振った。

「私は……六月病、なんだそうです」
「六月病……?」
「四月から住むところも職場もがらりと変わって、自分では自覚がなかったんですけど、それなりにストレスを受けていたようなんです」
 それが、先ほどの “侑さん” と、どう繋がるのだ。
「変化した環境には、時間をかけて慣れていくしかないんですけど、ただ突っ走っていくだけじゃ、身体も心も疲れてしまうって、牧野さんが教えてくれました。不安なことや嫌だなって感じていることを自分できちんと自覚して、それを口に出して伝えなきゃダメだ、って。一番大切な人に、自分のことをわかってもらうのは、決して悪いことじゃない、って」
 自分自身へ言い聞かせるように、彼女は語る。
「それを聞いて、私……本当は、黒河さんに色んなことを相談したかったんだ、って思いました。でも、これ以上、迷惑や心配をかけたくなくて、遠慮して気後れしてしまって……」
 そして、真っ直ぐな瞳を侑司に向けた。
「遠慮はしたくないです。でも、黒河さんの負担にはなりたくない。……どうすれば、って思ってたら牧野さんが、仕事場では上司でも、プライベートは対等でいた方がいい……例えば、二人でいる時ぐらい、名前で呼んでみるのはどう?ってアドバイスしてくれて……」

 何となく、流れは理解した。と同時に、己の自己本位が浮き彫りとなる。
 環境の変化によるストレスというなら、彼女にかかる負荷の半分は侑司の責任である。職場の異動は仕方がないにしても、本来ならプライベートは彼女だけの場所と時間が確保できたはずなのだ。それを半ば強引に自分の生活圏へ引き込んだのは、己の我がまま以外、何物でもない。
 自分の策動はわかっている。だからこそ、そこを突かれると弁解の余地もない。

「……一緒に住むことは、ストレスか?」
 なるべく優しく聞こえるよう尋ねれば、彼女はまさか、といった顔で首を振った。
「違います、そうじゃないんです。……私が辛くて不安だったのは、一緒にいるのに、私が黒河さんの役に立っていないことです。私はいつも黒河さんに支えられてばっかりです。だからいつか、愛想を尽かされてしまうんじゃないか、って……」
 彼女は、心底申し訳なさそうな表情で言葉を連ねる。
 ……家事を受け持つわけでもなく、金銭的な負担もほとんど負っていない……送り迎えをしてもらって休みを合わせてもらって……そんな自分は、黒河さんにとって完全なお荷物なのではないか……おまけに、仕事場で黒河さんの優秀な仕事ぶりを聞かされることも多く、それが、どうしても自分と比べられている気がして焦ってしまう……自分は恋人として、黒河さんにふさわしい人間なのだろうか……

「そんなことを、考えていたのか……」
 驚きを通り越してむしろ呆れた。
 彼女の度を越した遠慮は、上司と部下であった頃の距離そのものだと思っていた。一向に縮まらないその距離感に、もどかしい思いをしていたのは自分だけだと思っていたのだが。
「ゴメンなさい。私が勝手に焦って、もがいていただけなんです」
 恥ずかしそうに彼女が目を伏せて、ふっさりと額にかかる前髪を、もう一度そっとかき上げてやる。
 彼女のために負担を強いられている感覚は、微塵もなかった。むしろ、彼女を繋ぎとめるために必死になっていた。それがかえって、彼女を遠ざけていたのか。
 六つも年下の彼女が、自分を支えたいという。
 支えられるばかりじゃなく、自分も支えになりたい……そんなことを言われたのは初めてかもしれない。

「……俺はもう、支えられているんだけどな」
「……え?」
 彼女は知らない。
 傍にいてくれるだけで、どれだけ侑司の生活に “張り” がもたらされるようになったか。彼女の笑顔に魅了され、ひたむきさに感嘆し、香りに安堵する。声、体温、抱いた感覚……すべてに侑司は癒されて、次への活力を生み出すことができるのだ。
 手に入れてまだ、わずかに数か月。しかし、すでに彼女なしの生活は考えられない。

「いいんじゃないか」
 笑みが漏れた。完全に、やられているなと思う。
 大きく瞬く瞳を見返し、柔らかな頬を撫でてやる。
「呼び方だ。今のうちに慣れておくのも悪くない。……いずれ、お前も “黒河” になる」
「え……それは――、」
 言いさした彼女の唇を指でなぞり、そのまま、己のそれで塞いだ。
 甘やかな唇を優しく解きほぐせば、その瞬間から身体中を満たしていく猛烈な我欲。
 彼女以外に感じたことのない、この生々しい情動は、どこか愉悦さえ覚える。
 たとえ六月病だろうが何だろうが、彼女の居場所はここだ。手放してやることなどできるわけがない。おそらく自分は近いうち、本当に彼女を “黒河” としてしまうだろう。
 つい一年前までは、欲しいものに形振り構わず手を伸ばす行為は愚かしいと決めつけていた。そんな過去の自分は、今の自分を見てどう思うのか。
 込み上げる可笑しさと彼女の吐息を、一度に呑み込んだ。
 彼女のためなら、いくらでも情けなく愚かな男になってやろうじゃないか。
 ――葵と、共に生きていくためなら。

 二人がいるSUVを避けるようにして、降り注ぐ雨の音も、脇を走り去る車の音も、遠く遥かに去っていく。
 薄暗くモノクロに陰った世界の中、自分と彼女を包み込む空気だけが、暖かで優しい色を発している気がした。


* * * * *


「葵ちゃん。おっつかれー」
 解放感でざわめく中から声をかけられた葵は、にこやかな笑みを浮かべる先輩に嬉々として駆け寄った。
「牧野さん! こないだはごちそうさまでした。ありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして。こっちも楽しかったわ。今度は引っ越ししたら、また招待するから」
「わぁ、楽しみです」
 二人で笑い合ったところで、「牧さーん、葵ちゃーん、お昼どうするー?」と大久保の声がかかる。
「俺たちも一緒に行きまーす」
 近寄ってきたのは『アーコレード』渋谷店店長の諸岡と、慧徳店店長の坪井。それぞれ勤務店が変わっても、相変わらずのお馴染みメンバーである。


 ――あれから数週間が経った。
 本日はクロカワフーズの七月度月定例会議。いつものように朝からスーツ姿の役職者が本社ビルに集い、午前の総会議を終えた昼休みである。
 『櫻華亭』メンバーとして会議に出席すること四回目となるが、以前からの仲間が変わりなく声をかけてくれるので、葵としてはとても有難く心強い。

 七月も半ばを過ぎて、例年よりほんの少し早く梅雨が明け、本格的な夏が始まった。夏らしい天気が続き、最高気温を日々更新していく暑さである。
「暑いから外に出たくない」という牧野女史の一声により、今日の昼食は冷房の効いた小会議室を借りて取ることになった。食糧は、選ばれし買い出し部隊が近くのコンビニへ調達しに行っている。
 女史とともに買い出しを免除された葵は、会議室のテーブルや椅子を移動させる、昼食セッティングを請け負った。

「葵ちゃん、どう? 少しは “六月病” から脱却できたかしら」
 涼し気な薄生地の濃紺色ワンピースを着ている昭美は、よっこらしょ、と言いながら、椅子の一つに腰を下ろす。
 葵はテーブルを移動させながら、ちょっと恥ずかしい心地で頷いた。
「はい、たぶん。あれからずいぶん、楽になった気がします」
「そう。よかった」

 悶々とした日々の鬱屈感や焦燥感は、生活環境の変化によるストレスが原因かもしれない――そう、牧野女史に指摘されたあの日以降、不思議なことではあるが、葵の中に重く澱んでいた思考が日に日に軽くクリアになっていった実感がある。ガチガチに固まった身体から、少しずつ余計な力が抜けていったような感じだ。
 思いかけずも、昭美や大久保に相談したことが功を奏したのか、あるいは、意を決して彼に心の内を明かしたことが吉と出たのか……

「それで……結局、英会話の学校は行くことにしたの?」
 さらに膨らみを増した腹部を撫でつつ尋ねてくる昭美に、葵は簡易椅子を並べながら「いいえ」と首を振った。
「それは止めました。仙田支配人も、そこまですることはないって仰ってくれて。クロカワフーズは、英語の勉強を推奨してはいるけれど、強制じゃないんだ、って。英語を勉強する時間があるなら、一人でも多くの顧客とその嗜好を覚えた方がよっぽどいい、だそうです」
「あっはは……そりゃそうね。本店は我儘で特殊な客が多いから。私も仙田支配人の意見に賛成だな。外国のお客さんは、一生懸命聞いて一生懸命話して、それでも理解できない、伝わらないっていうなら、話せる人に任せていいと思う。お客さんだってわかってくれるわ」
「はい」
 あの多言語話者マルチリンガルの大久保も、英会話の学校へ通ったからって、すぐにペラペラ話せるようになるわけじゃない、と言っていた。それより、今の環境の中で少しずつ取得していった方がいい、むしろ常連のお客さん側にはその方がウケる……のだそうだ。
 才女の感覚は今一つ理解しかねるが、多くの外国人相手に接客をこなしてきた大久保の言葉は説得力があった。そんな周りの助言のおかげもあってか、今ではかなり肩の力を抜いて仕事と向き合えるようになったと思う。

 十名以上が囲める卓を作って、適当に椅子を配置し、葵はこんなものかな、と見渡す。
 四月から徐々に、一緒に昼食をとるメンバーが増えているのだ。新しく役職に就いた若手や、以前は話をしたこともない同年代の役職者が、何となく仲間に加わるようになった。それはとても賑やかで楽しくて、嬉しいことだ。
 もうそろそろ、買い出し部隊が帰ってくるかなー、と腕時計に視線を落とした時、テーブルに頬杖を突いた昭美が「葵ちゃん、ちょっと、こっちに来て」と呼ぶ。
 首を傾げつつ昭美の元へ行けば、ぐいと腕を引っ張られて座らされ、じとっと意味ありげな視線を投げかけられた。

「……で? 黒河くんのこと……呼び方、変えてみた?」
 ドキッとボアッと、葵の頬が上気して、昭美はニンマリと笑む。
「はぁ、あの、少しずつ……」
「ね、ね、なんて呼んでるの? ん?」
 二人しかいないのに、昭美は極秘情報を訊き出すかのごとく、身体を寄せてくる。
 最近、ようやく意識しなくても出るようになった呼び方をモジモジと伝えれば、昭美はブフッと噴き出して、慌てて無理矢理顔を引き締めた。

「 “侑さん” ねぇ……うーん、まぁ、それが妥当かな。 “侑司さん” じゃ、ちょっと遠い感じもするし、 “侑司くん” は逆に葵ちゃんが呼びづらいだろうし…… “侑さん” ……ちょっと日活っぽい感じもするけど……、……あ? ううん、こっちの話。うふふ、いいじゃない、 “侑さん” って。 “黒河さん” よりよっぽどいいわ」
 発火してプスプスと煙を吐きだす葵の肩をポンポンと叩いて、昭美はさらに顔を寄せてきた。

「……それで、黒河くんの反応は? 葵ちゃんが最初に “侑さん” って呼んだ時、どんな顔をしてたの?」
「えっと……どんな顔だったかは、覚えていないんですけど……」
「うんうん」
「……いいんじゃないか、……と言ったような……」
「え? それだけ?」
「……あ、……いずれ、お前も黒河になるから、慣れておくのも悪くない……だったかな……」
「――い……っ、うそっ、ちょっと、それって、プロポ――、」
 昭美が叫びかけた時、小会議室のドアが勢いよく開いた。
「ただいまー。買ってきましたよー」
「水奈瀬ー、サラダパスタが和風しかなかったー。いいー?」
 どやどやと入ってきたのは、諸岡良晃と大久保恵梨。あとに続く坪井青年は大きなビニール袋を三つも提げて汗だくになっている。

「いえいえ、何でもいいんです。うわ、おいしそー。ありがとうございます」
 諸岡にお礼を言う葵の隣で、牧野女史からチッと舌打ちの音が聞こえたのは、気のせいだろうか。
 その後すぐ、『アーコレード』恵比寿店店長の鷺沼が同じようにコンビニのビニール袋を引っ提げて、新しく役職に就いたばかりの若手数人とともに入って来た。小会議室はあっという間にワイワイガヤガヤと賑やかな昼食タイムになる。

「ちょっと、大久保のそれ、美味しそうね。あとで味見させて」
「牧さん。体重制限かかってるんでしょ。節制しなきゃダメですよ」
「一口くらいいいじゃない! ケチッ!」
 キィッと歯を剥きだす牧野女史に、鷺沼が苦笑いしている。
 以前、日比谷店のアテンドであった鷺沼は、恵比寿に異動となってから、諸岡とずいぶん仲良くなったようだ。その繋がりから、今まで交流のなかったホテル店舗の若手社員も度々交じるようになり、葵の仲間はたくさん増えた。
 社内全体がいい雰囲気になってきたと、誰もが実感している今日この頃である。
 やいのやいのとやり合う先輩方を横目に、葵も自分のサラダパスタに青じそドレッシングを回しかけた時、再び会議室のドアが勢いよく開いた。 

「「――はっるみちゃぁぁぁん♪」」
 ジャジャーンという効果音を鳴らす勢いで乱入してきた瓜二つの青年――小野寺双子兄弟が、テーブルの一角に見つけた昭美めがけて飛んでくる。

「な、なによあんたたち……」
 警戒心露わにする女史の左右背後にピタリとつき、双子は完全シンメトリーの動きで彼女を覗き込んだ。
「ねねね、はるみちゃんのお腹の子って、女の子なんでしょ?」
「ねねね、オレたち、すっげー、いいこと思いついちゃってさ」
「――はぁ? なによ、いいことって」
 右に左にのけぞりながら、牧野女史が怪訝な顔をする。
 葵の隣で、大久保が諸岡に咎めるような目を向けた。
「ちょっと……こいつら、いつから “はるみちゃん” って呼んでんの?」
「俺に聞かないでよ……」
 額を抑えて呻く諸岡。それに構わずウキウキの小野寺双子は、おもむろに一枚の白い紙を取り出した。
「いいからいいから」
「ほらほら、これ見てよ」
 パラリと開かれた紙には、何やらたくさんの文字が書きつけてあるようだ。
 葵も首を伸ばして覗き込んだところ、漢字と平仮名がいくつも並んでいる。
  “華鈴音” …… “芽独子” …… “絽麻音” ……? 何だろう。
「…… “かべるね” …… “めどっく” …… “ろまね” ……なに、これ……」
 紙を渡された昭美が、漢字に振られたルビを読み上げた時、双子兄弟は一寸の狂いもない重音で声高に宣言した。

「「――オレたち、はるみちゃんが生む赤ちゃんの、名付け親になろうと思ってさ!」」

「……は……?」
 おそらくその場の全員――双子を除く――が、同じ顔になったに違いない。
 皆が唖然とする中、諸岡が書かれた文字を細い目でなぞっていく。
「 “絽和琉ろわる” ……ロワールってことか…… “紋羅紫衣もんらしえ” はモンラッシェ……?」
「……牧野紋羅紫衣もんらしえ、って……もはやどこの国の人かわからないんですけど……」
 小さく呟いたのは坪井か。
 しかし皆の反応などどこ吹く風、小野寺双子はこれ以上ないほどの得意満面である。

「男の子だったらさ、牧野紗斗しゃととか、牧野満留悟まるごとか、牧野歩弥久ぽいやっくなんかも考えたんだけどさー。あ、マルゴーってのはワインの女王的存在だからね、男の子の名としてはちょっと違和感があるんだけどー」
「もうー、はるみちゃん、どうして双子じゃないのさー。双子だったら、ほらこれ、牧野望如玲ぼじょれいと牧野菩琉努ぼるど、なんかいいでしょ? 厳密にいうと、ボルドーと対にしたいのはブルゴーニュなんだけどさ、語呂的にねー」
 葵と大久保が、同時に女史を見た。
 諸岡と坪井が、ヤバい、という顔をする。

「やっぱし、最近の流行りはキラキラネームだよなー」
「これくらいインパクトがあっても、はるみちゃんの子供なら名前負けしないしさー」
「するわけないよ。はるみちゃんの娘だぜ?」
「むしろありきたりの名前じゃ、ゴジラに花子ってつけるようなもんだしな」
「――ま、牧さん! これ、味見します? すごく美味し――、」
 大久保のフォローは、残念無念、間に合わなかったようだ。
 ガタ、と音を鳴らして、牧野女史が椅子から立ち上がった。

「あれ? はるみちゃん? どうしたの?」
「ほっぺたがぴくぴくしてるよ?」
 キョトンと首を傾げる双子兄弟。ぐしゃりと握りつぶされる白い紙。
 諸岡が十字を切った。

「……一号二号……そこに、なおれぇぇぇぇっっ!!」
「「――ひ、ひぃぃぃぃっっっ!」」

「牧さん、落ち着いてっ!」
「お、お腹の子にさわりますってっ!」
 大久保と諸岡が暴れる昭美を抑える中、双子が坪井を盾にしようともみくちゃになり、その場は瞬く間に修羅場と化す。鷺沼とその他若手数人は、引きつった顔で固まったままだ。
 葵も立ち上がり、オロオロと右往左往する中、ごく短い聞き覚えのある音が耳に届いた。
「あ」
 床に置いた鞄の中で鳴ったのは携帯端末。この音は侑司からのメールだ。最近、彼専用の着信音に設定したのだ。侑司からのメールと着信は、今まで以上に気づくようになったと思う。

「「――ぐぇぇっっ!」」
「牧野さんっ、それは禁じ手――、」
 妊婦らしからぬ制裁の回し蹴りがダブルでヒットする中、葵はいそいそと端末を取り出した。
 店舗移転にまつわる業者との打ち合わせがあるため、侑司は今日の会議に出席していない。けれど、夕方頃には終わるので、夜は一緒に夕飯を食べようと約束している。
 画面をタップすれば、《 悪い、少し遅くなりそうだ 》とある。ますます忙しい彼との約束は、こうして時間がずれることもよくあることだ。
 葵はすぐさま《 了解です。先に帰って何か作ってましょうか? それともどこかに食べに行きますか? 》と送った。
 雄叫びと悲鳴が飛び交う現場に再び意識を戻そうとしたところ、すぐさまメッセージ受信。
 開いて、葵は思わずうふふ、と微笑んだ。

《 葵の手料理がいい 》

 彼のために料理を作って、彼と一緒に食べるのはこれで何回目だろう。仕事柄、外で食べることも相変わらず多いのだけれど、時間がある時は、葵が料理を作ることも少しずつ増えてきた。
 こないだは侑司と一緒に買い出しをしてキッチンへ立って、二人で作ったのだ。そんな他愛もないひと時がとても楽しくて、とても嬉しい。
 侑司の役に立ちたいのだ、と正直に訴えた日から、彼は「しなくていい」と言わなくなった。「無理はするな」とは言うけれど、掃除や洗濯なども、葵のしたいようにさせてくれる。そのおかげか、おんぶに抱っこの後ろめたさは、少しだけ減った気がする。
 その代わり、仕事場への送り迎えは以前と変わりなく、侑司の好きなようにしてもらっている。彼がしたくてやっているのだと言うなら、そこは甘えてしまおうと思えるようになった。

「「――っぎゃぁぁぁぁぁっ!」」
 断末魔が響き渡り、何かがドドゥ、と倒れこんだのも耳に届かず、葵は幸せな気分で “了解!” と跳ねる子鹿バンビのスタンプを送った。
 少しずつ少しずつ、彼との絶対的な差異が気にならなくなってきた。少しずつ少しずつ、彼の傍にいてもいいんだ、という安堵感が大きくなっている。
 そうなると不思議なもので、仕事場で侑司の話が出ても、以前のような劣等感はさほど抱かなくなった。彼に対する尊敬の念は変わらないけれど、自分と彼は違うのだと、素直に割り切れるようになったのかもしれない。
 溜め込まないで何でも話せ、と彼は言ってくれた。そこで初めて、彼との距離を作っていたのは自分だったのだと気づいたのだ。自分の心持ち次第で、彼との距離は縮められるのだと。
 午後の会議が終わったら、さっそく近所のスーパーへ寄って買い物をして帰ろう。
 彼は、意外と素朴な和食が好みだということも段々とわかってきた。今日はお魚の煮つけにしようかな、それとも、さっぱりとした冷しゃぶなんかがいいかな。

「――ひゅうぅぅ」
 深く息を吐き出し、決めのポーズを取った牧野女史。床の上に折り重なりピクピクと悶える双子兄弟に、諸岡の哀れみが落とされる。
「お腹の子をゴジラ呼ばわりした時点で、こうなるのは必然だよな」
「そんなぁ……」
「しどいぃ……」
 ボロ雑巾のようになった双子は、ふと葵に目を止めて恨めしい顔になった。
「オレらの危機なのに葵ちゃんが笑ってる……」
「しあわせオーラがキラキラしてる……」
「……えっ、あ、いや、これはその……」
 慌てて携帯を後ろ手に隠すが、大久保が抜け目なくチェックする。
「――あ、携帯持ってる。……ってことは、黒河マネージャー」
「そういえば、さっき着信音が鳴ってたね」
「え、ちょっと、葵ちゃん、私にも見せなさいよ」
「ダ、ダメです」
「牧さん……プライバシーの侵害ですよ」
「……オレらの葵ちゃんが……」
「……うぅ……切ない……」

 すっきりした顔の牧野女史を筆頭に、再びワイワイガヤガヤと賑やかな昼食タイムが戻り、葵は今度こそサラダパスタを食べるべく割り箸を割りながら、ふと、本当に魔法の呪文だったのかも、と思った。
 六月病から抜け出せたのも、仕事に対する気持ちが楽になったのも、侑司との距離が縮まったのも、すべては牧野女史から伝授されたミラクルマジックを実践してからだ。

 ――葵の手料理がいい。
 侑司がほんの時々さりげなく、 “葵” と呼んでくれるようになったのも。

「……やっぱり “名前” は大事なのです」
 誰にも聞こえないように小さく呟いて、葵はパスタをちゅるんと啜った。




 
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