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第2章
12 合永絵麻(1)私
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たゆたう川の流れのように、何にも逆らわずに生きてきた。波風立てずに過ごしていれば傷つくことはないからだ。
争うことも。嘆くことも。
何もかも諦めていたあの頃が、今も記憶の奥のほうに静かに眠っている。たまに小さな囁きが聞こえてくることもある。
「…はぁ」
目が覚めてもおはようを言う相手はいない。夜勤明けの母が帰ってくるのは私が登校した後だ。
合永絵麻13歳。中学校一年生。母と二人暮らし。父とは10歳の時に離別。仕事で留守ばかりの人だったから、離婚と言われてもなかなかピンと来なかった。母とは2Kの間取りの古いアパートに住んでいる。一階なので二つの部屋には日が当たるが、キッチンには日が当たらず、冬場は料理を作る時は寒くて仕方がなかった。
シングルマザーの母を支える為、家事は分担していた。登校前に洗濯機を回し、ゴミを出し、朝食を作った。
食パンにジャムを塗るか、チーズを乗せるか。ごはんは、よそうのかおにぎりか。卵は目玉焼きか玉子焼きか。他愛ない会話さえ出来ない。母の好みも私の好みも、もうよくわからなくなった。胃に入れてしまえばみな同じだ。ついつい、つまらない考え方をしてしまう。それくらい母には会っていない。ラップのかかった皿が冷蔵庫を埋め尽くしていた。
「…はぁ」
毎日忙しいのはわかる。二人で暮らしていくためだ。母は看護師をしていて、朝から晩まで働き詰めだ。シフト制であっても顔を合わせるのは一日に一度だけ。朝か夜か。交わす言葉は、おはようかおやすみか。他にも言いたいことや聞きたいことがたくさんあったけれど、目の下の黒ずんだくまを見ていたら何も言えなくなった。何度もなんでもないよと諦めた。
制服のワイシャツに袖を通す。この春に入学したばかりの中学校だが、何度も洗濯をして糊が取れた。よれっとシワが付いたままだ。学校からは、「身だしなみはきちんと」と言われている。アイロンをかければと簡単に言われたが、かけるという気までは起きなかった。というか使い方がよくわからない。ネクタイをするのも初めてだというのに、締め方も上手にならないまま、五月も終わる。明日から衣替えだ。厚手のブレザーを脱いで半袖になる。
心の中で、わあわあと喚いていても問題は解決しない。言い聞かせて丸め込んで、諦めをつかせようと自分でも動いていた。
「なんだかなぁ…」
会話が欲しいのに、真逆のことをしている。諦めが肝心だよと言い聞かせている。もう、ブレザーと共に脱ぎ放したいくらいだ。
天気の話ぐらいしようよ。晴れの日も雨の日も。風の強い日も。雷が鳴っても雪が降っても。会話の糸口を作るには最高のテーマだ。なのに、ただの一言も言えない。
もしかして母に避けられてる?
ついには、そんなことさえ考えてしまうのだ。
不協和音。いつの間にか、私と母の間には大きな溝ができているのだろうか。
少し前に、テーブルの上に「いつもありがとう」と書かれたメモがあった。
会えないけれど、心は繋がってると母も思ってくれていた。嬉しかった。
お互いがお互いを大事に想いあっている。だから、顔を合わせなくても大丈夫だと母は考えているのだろうか。父とはすれ違いで別れたというのに。
同じじゃない?
私とも別れたいと思っているのだろうか。
それはどうなの?ずれてるのに気が付いてる?
問いただしたい。でも、
「こちらこそ、ありがとう」と返すのがやっとだ。
私のことをどう思っているか。気にはなるけれど決定的なことを聞くことはできない。
「もういらない」と言われたらどうしたらいいかわからないからだ。
私はまだ、中学生だ。一人では暮らせない。父に引き取ってもらうの?ろくに帰って来ないのでは、今までと変わりないではないか。母方、父方の祖父母達は遠方に住んでいて高齢だ。しかも疎遠だ。誰も私を要していないじゃないか。
そんなふうに悪い方向にばかり考えがいってしまう。私はひとり。孤独だ。
私ひとりいなければ、生活は少しは楽になるのだろうか。母は仕事をセーブできるのだろうか。母のくまがなくなるのであれば、それでもいいかもと考えてしまうのだ。
母が好きで大事だ。だから、私のことも好きで大事にして欲しい。
そう思うのは狡いこと?
「…はあぁぁぁぁ」
「またため息ついた。幸せ逃げちゃうよ」
「…もともと無ければ何にもなくならないよ」
図書委員の竹内依子は、机に突っ伏している絵麻の背を叩いた。
「仕事してくださいね。図書委員さん」
放課後すぐに家に帰るのが嫌だった。どうせ早く帰っても誰もいないのだ。私は習い事も部活動もしていない。
際限なく学校にいる理由を作りたくて、図書委員になった。仕事内容は、本の貸し出し、古くなった本の修復、そして配架。読むのも好きだが返却された本を棚に戻すのも好きだ。空いたスペースを埋めていく。穴の空いたパズルみたいで、すとんと嵌るとほっとした。
全巻シリーズの途中が抜けているとモヤモヤした。借りた人は誰なのか名前と学年を調べたりもした。遅延の言い訳は、忘れていたとか、今日返そうと思っていたとか、自分勝手ばかりだ。面白くて何度も読み返しているうちに返却期日を過ぎてしまったとか言うならまだ許せるのに。その言い訳をしてくる人にはまだ出会ってない。
新刊本の背表紙にピタッと張り付いたラベルも好きだ。まだ誰にも触られてないラベルは何度なぞられるだろうか。
誰が一番に借りに来るのだろう。こればかりはリクエストした人とは限らない。一期一会。たまたま訪れた人に借りられていくかもしれない。入荷リクエストはできても、貸し出し予約のシステムはない。早い者勝ちだ。誰にも貸し出されなければ図書委員は有利だ。誰よりも先に読むことが出来るから。
ハードカバーの硬い表紙。程よい厚みと硬さが好きだ。
ここにいると、私の行き場のない想いを何百冊かの本が受け止めてくれる。
文学、歴史書、化学書、図鑑から辞典に至るまで。数多の文字の中に入り込んでしまえば、きっと答えのひとつくらい出てくるだろう。結局は人任せ。物任せ。
でもいいんだ。
自分で答えを見つけられない時は誰かに委ねたい。私ではない誰かに答えを任せてもいいよね。
もう疲れてしまった。
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