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第2章
13 合永絵麻(2)母
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「今日こそ定時で帰るんだからぁぁぁ!!」
合永志穂は、机にかじりつきながら心の中で叫んだ。
志穂は、絵麻の母親で小児科の看護師だ。しっかり者の絵麻とは反して、どこかヌけている女性だ。
今はナースステーションで日報を書いている。日報が書き終わったら、備品の補充もしなければならない。入院患者の子ども達に挨拶も欠かせない。
いつもの仕事の流れだが、いつも同じとは限らない。人命を扱っている以上、いつ何が起きるかはわからないからだ。
「よし。書き終わった!」
志穂は書き終えた日報を上から目で追った。書き損じはないか、誤字はないか。急いでいるからと言って、書きこぼしがあるのはまずい。上長に気が遠くなる程のお説教を聞かされる羽目になるからだ。
定時を過ぎる理由の一つがこれだ。
「よし!」
志穂は日報のチェックを終えた。席を立つ同時に腕時計を見た。定時の5時まであと10分。今日は比較的にスムーズだ。今日は何がなんでも定時で帰りたい。大事な娘の誕生日なのだ。
上長の席を見る。上長の佐川文子は、夜間勤務者への申し送りを書いている最中だった。
「上長。日報書けました。チェックお願いします!」
「はぁい。ちょっと待ってて」
上長の佐川文子は、30年勤務のベテランだ。ふっくらとふくらんだ体から発せられた太い声音は、貫禄さえ感じる。
志穂の方は見ずに、生返事だけをした。申し送り書を書く手は止まらない。首から下げている携帯電話が鳴った。胸元のポケットからサッと取り出して、ワンコールで話し始めた。
「もしもし。あら、おかえり。今日は早かったのね」
仕事の話かと思えば、通話の相手は家族のようだ。声がワントーン高くなった。この口調だと高校生のお嬢さんかな?学校から帰って来た報告だろう。
上長は、二台の携帯電話を交互に使い分けている。塾の送迎やら、舅姑の世話やら、犬の散歩や洗濯物を取り込んでとの指示も。家族内のアレヤコレヤを職場で堂々と話している。仕事中はやめてほしいと誰もが思っていたが、誰も文句は言えなかった。
「お母さんはまだ帰れないから、洗濯物取り込んでおいて」
「はーい。今日の晩ご飯は何?もうお腹空いちゃった!」
「今日は鯖かなぁ。あとは、玉子豆腐。破竹とピーマンとじゃこを炒めて甘辛く味付けしたやつ」
「ああ、アレね。おいしいよね!でも、あんまり辛くしないでよ」
「わかってるわよ。辛くすると爺ちゃん婆ちゃんも食べられないもの。ああ、青物がないわね。おひたしでも出すわ。あとは汁物とお漬け物とか、かな」
上長は話しながらメモを取る。声はうわずっている。娘との会話は楽しそうだ。買い物リストかしら。申し送り書は書き終わったのかな?
志穂は、上長の方をじっと見つめた。視線を送り続けても、上長はこちらを見ない。私が待っているのを忘れてはいまいか。不安になる。
「いつまでそうしてるんですか」
肩をポンと叩かれた。先輩の片瀬真澄だ。目つきはやや鋭いが、胸元のポケットには、子ども達が好きなアニメのキャラクターが付いたボールペンを入れていた。
「あ、あの。上長のチェック待ち、です」
鋭い目つきは大人には容赦ない。志穂は少々苦手としていた。しかも年下上司。
「上長のちょっと待っては30分。もしくはそれ以上。ただ突っ立っているだけなら、先に備品の補充をしてきた方がいいですよ」
日報は私が預かりますと片瀬は志穂から取り上げた。片瀬のモットーは、常に時短行動。志穂とは真逆のタイプだ。
「あ、はい!そうします。ご指摘ありがとうございました!」
既に5分経過していた。今日は1分足らずも無駄にしたくなかった。
片瀬はテキパキと正確な指示を出すのは得意としている。単に片付かないのが嫌いだとどこかで聞いたことがあった。志穂より年下だが、ここでは先輩だ。
「あの人はいつも行動が遅いのよね。一つのことに執着し過ぎるというか。いつまでも同じことをやってないで次のことをやりなさいっていつも思う。つまりは要領が悪いのよね」
佐川は通話を終えて、志穂が書いた日報を指でなぞった。
「仕事は丁寧なんだけど、丁寧過ぎて遅いのよね」
佐川は日報の字面を指先で弾く。仕事は丁寧に。かつスピーディーに。医療現場なら尚更だ。
「…合永さんは子ども達に好かれてますよ。私達はどうしても忙しないですから、そんな中でうまく話せない子もいますから、子ども達の面倒をよく見てます」
片瀬は呟いた。片瀬は志穂の仕事ぶりをよく見ていた。
「あら、そう」
方や佐川は興味無さげだ。
「好かれてる?舐められてるの間違いじゃないの?」
佐川はフォローを入れてくる片瀬をジッと見つめた。
「志穂ちゃんは手際が悪いって子ども達が言っていたわよ。患者さんにまでそんなふうに思われているなんて問題じゃない?あまりにも目に余るようなら対処も考えなきゃね。今の若い親に、何言われるかわかったもんじゃない」
危ない危ないと佐川は、ぼやく。
「まあ。あんなのでも人の親だから、多少なりとも、子どもの気持ちはわかるんじゃない?確か小六か、今年、中学生なったかぐらいの子どもがいるはずよ」
「そうなんですか!」
そんな大きな子どもがいるとは知らなかった。片瀬の声はうわずった。志穂は、とても中学生の子を持つ親には見えなかった。背も低くて童顔だ。
「そうよ。しかもバツイチ。結婚して離職したのに、離婚したら復職した。そんな甘い世界じゃないっちゅうの」
呑気なもんよねえと佐川は笑った。笑うたびに肉付きの良い二の腕が波を打つ。片瀬は、見るたびにペン先で突きたくなってしまっていた。(やらないけど)
「何にせよ。子どもに親しまれても、人が良くても、仕事に不備があったら大問題よ。片瀬さん。先輩として、しっかり指導してよね」
佐川はニヤリと片瀬を見つめた。嫌な目だ。
「…上長の私用電話は問題にならないのでしょうか」
含みのある笑い方に片瀬は食いついた。片瀬は発言はよくする方だ。相手が誰であれ、間違いがあれば正すことに徹していた。
「はあ?何言ってるの?」
「ロッカーならまだしも、患者さんや面会に来た人達からも丸見えなナースステーションで、私用電話を受けるのはいかがなものかと常々思っていまして」
「家族からの連絡よ。取って何が悪いのよ。緊急かもしれないじゃない!うちには年寄りがいるのよ!」
佐川の家は、夫婦と子ども三人と義理の父母の七人の大家族だ。
「私の知る限りでは、緊急を要するようなお話はされてないと思うのですが…」
塾への送迎、犬の散歩、今日の晩ご飯の内容など。義父母は高齢ではあるが、病気などはしてないと聞いている。
「はあ?あなた聞き耳立ててるの?趣味悪いわね!」
佐川は顔を真っ赤にして開き直る。聞かれてないとでも思っていたのか。
「上長の声は大きくて良く通るんです。面会者がいない夕方でも、通話は控えていただかないと、下の者に示しがつきません。子ども達にも話題になっていますよ。今日の晩ご飯は何かなって。食事制限をしている子もいるのですから、少しは自重してください」
片瀬は浅く頭を下げた。
「あなた誰に向かって言ってるのかわかってるの?」
圧力でもかけようとしているのか。お決まりの悪役台詞にも片瀬は動じなかった。
「はい。上長に申し上げています。保護者からも部長からもクレームが来ています」
「ぶ、部長!?」
「他人の仕事ぶりを指摘する前に、ご自分の仕事に対する姿勢を直された方が良いのかと。生意気言って申し訳ないですが、黙っている性分ではないので」
片瀬はもう一度浅く頭を下げて、踵を返して立ち去った。
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