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第3章
7 アンジェ
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ざわざわする。
人の動きも風の音も。キハラの苛立ちも。ロイの寂しそうな背中も。
なんだかみんなゆっくりと視界に入っていく。上流から下流へと。川の流れみたいだ。石や岩にぶつかって留まりながら離れていく。
観光客の笑い声も怒鳴り声もみんないっしょくたに聞こえる。くたくたになるまで煮込んだスープみたいに。肉から染み出したエキスと野菜の角が丸くなっていっしょくたに崩れる。
「キア」
名前を呼ばれてハッとした。
「顔がこわいぞ」
眉間に皺を寄せ、一点を見つめているキアに、アンジェは口を開いた。
「あ、ごめん…」
「そんなに気にするなよ」
今日は門所の前で屋台を出すと言うアンジェについて来た。村のピリピリした空気から出て、開放感を満喫してほしいとナノハが勧めてくれたのだが、悩みのタネは尽きなかった。
「でも。あんな話を聞いちゃうと無視はできないよ」
私のせいかもしれない。キハラに迷惑をかけている。
「まあな。気にするなと言っても気になるよな」
アンジェはキアを呼び、布地の端を持たせた。反対側はアンジェが持った。ピンとシワを伸ばして台の上にかけた。
「…こういうことは前にもあったって聞いたけど。前はどうしてたの?」
「宿屋の連中は必死さ。客が他のことになど目もくれないほど、もてなしてたな」
サービスにサービスを重ねて大サービス。
「…それは解決策?」
問題解決には程遠いのでは?とキアは肩を落とした。
「キハラのことはキハラがするから。私らは、キハラの邪魔をしないことだな」
「結局キハラ任せなんだね」
私は番として、何ができることがあるかと思っていた。だが、それは驕りだったようだ。
キアは落胆した。自分ではまだまだ力不足だと。
「キアの仕事は、背筋を伸ばして前を向いて、人の顔を見て話すことだな」
アンジェはキアの顎に手をかけて上向きにし、背中には物差しを突っ込んで来た。
「ひゃあっ!」
突然の衝動に、自分でも思ってもない声が出た。
「ハッハッハッ!キアもそんな声が出るんだ。いいことだ」
「アンジェ~」
アンジェに揶揄われてキアは頬を真っ赤に染めた。ムスッとした目元が可愛らしく、また違う表情を見られてアンジェは満足気味だ。
「さあ。こっちも商売商売!手伝ってくれ」
「うん。あ、あれ、ロイさんは?さっきまでいなかった?」
「ロイはアーシャと沢に下りてる。あっちはあっちで何か考え中だ」
アンジェが指を差した方向に、大きな背中が見えた。アーシャはロイに抱きついたまま、楽しそうに手を振った。
「かーしゃん!かあしゃん!」
「おお」
アンジェも微笑んで手を振った。
「ふふ。今日はご機嫌だな」
日によって気分の良し悪しが違うのは、幼児あるあるだ。
「アンジェがいるからだよ」
キアも真似して手を振った。
「き!き!きうぁ!」
「ははっ。惜しいな」
「ふふ」
キアの発音はアーシャにはまだ難しいようだ。
言葉より、まずは体が動いてばかりいたアーシャだったが、最近は口数が増えてきた。舌ったらずで、なかなか理解するのは難しいが、子どもの目線でものを見ると、また新たな発見と出会えるものだ。楽しみが増える。
「ロイ!アーシャのお守りを頼むね」
アンジェはロイにも声を掛けた。ロイからは返事はなく、のそっと右手を上げた。
「…ん?何だかロイさんらしくないね。どうしたのかな」
いつも見ない態度にキアは首を捻った。
「いつもより人が多いからね。私らは慣れちゃったけど、彼は獣人だから何かと騒がれるかもしれない。それが嫌だから今日は下にいるって」
「そう。獣人だからって分けられるのは嫌だな」
「確かにな。まぁ、でも、そうすぐに受け止められる人とそうじゃない人は少なからずいるから。全員が全員、手放しで受け止められるのは難しいよ」
どこにでもある「区分」。「そうじゃない人」。
「それは嫌だね」
キアも最近までずっと「そうじゃない人」だった。そうじゃないと思うのは、他人がどうこう決めるより、自分の意思を持つことではないかと考えた。でも、すぐにできることじゃない。どう思うか。どう思われるか。どっちにしても他人の意見にも耳を傾けなきゃいけない気もするからだ。
「…頭の中混乱してきた」
「ロイの問題をキアが悩んでどうすんだ。まあ、悩みは誰にでもあるもんだよ」
「…アンジェも悩み事がある?」
「私?…さあ、ねぇ。どうだか」
一呼吸置いてアンジェは首を横に振った。こう客が多いと誰が誰なんだか顔もわからないと独り言のように呟いた。
よく聞こえなくて、聞き返そうとしたが曖昧に笑ってこの話はなかったかのようにかき消された。
「さあ、皆さま。寄ってらっしゃい!見てらっしゃい!」
アンジェは商人魂に火をつけて、自分の屋台に陣取った。たちまちに観光客が屋台の周りを囲った。
アンジェは自身で調合した薬の説明を始めた。
普段は口数も少なめで大人しめだが、自分の仕事に対しては決して手を抜かない。誠実に向き合っている。口数もどんどん多くなる。
「家の常備薬に。旅のお供に。良く効きますよ」
頭痛、腹痛、胃痛、眼痛、歯痛、耳痛、鼻痛。なんでもござれ。
売れた後の包装や金銭の受け渡しなどをキアが担当した。
「オレは肩や腰が痛いんだが。貼り薬はあるかい?」
七十代くらいの白髪頭の男がやってきた。背中には一歳くらいの子どもをおんぶしていた。
「あるぞ。神経痛なら飲み薬もつけといてやる。貼り薬で効きが悪かったら、これも飲むといい」
「おお。こりゃありがたい!孫の世話をしてるとあちこち痛くなってきちまう」
背中の子どもは気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「そりゃ大変だ。すぐに貼った方がいい。こちらに」
アンジェは客を屋台の後ろの椅子に座らせた。
「よっこらしょ」と男が腰を下ろしたタイミングで背中で寝ていた子どもがぐずり出した。
「うふぇぇ!!ぶぇぇぇぇ!!」
「おっといかん」
やっぱりダメかと男は立ち上がろうとする。この子は座ると泣き出すんだと疲れた顔を見せる。
「あ、待って。私が」
代わりますと言い、キアは男の背にいた子どもを抱きかかえた。
「少しの間代わりますね」
「おお。それは助かる!でも大丈夫かな…」
「よしよし」
「あー!あー!!」
子どもは全身を激しく動かしてキアを拒否した。
キアは慌てずに泣き出す子どもの背中をさすった。時にはポンポンと優しく叩いた。
「ごめんね。こわくないよ。少しの間だけ我慢してね。ほら、おじいちゃんはここにいるよ」
祖父の顔を見せた後は、キアはゆらゆらと一定の動きを繰り返した。そうこうしているうちに、子どもの涙は止まり、癇癪も止んだ。キアの顔をまじまじと見つめてきた。
「よしよし。良い子だね」
キアは子どもの生え際を撫でた。まだ生え揃ってない柔らかな髪質が気持ちよかった。
ぷにぷにした肌もだ。指の腹でちょんちょんと触った。
「ふふふ。かわいいね」
幼い子を見てると気持ちが安らぐ。育児やお世話は楽しいことばかりではないが、日々の成長の機微をじっくりと観察ができる。どんなふうに成長していくか見守っていきたくなる。
「…ほう。珍しいな。もう泣き止んだ」
「何がだい?」
「あの子。ピーちゃんというんだが、母親と私以外には全く懐かないのに、今日会ったばかりの人に抱っこされてすぐ寝ちゃうなんてあり得ない」
男は立ち上がり、肩や腰を回し始めた。貼り薬は関節痛を和らげる効能がある。
「ふふん。私も鼻が高いぜ」
「薬剤師さんの友達かい?」
「まあね。大事な子さ。うちの子も面倒見て貰ってる」
「そりゃあいい!母ちゃん楽ちんだな!」
「楽…」
ガハハと大笑いしてくる男に、アンジェの表情が固まった。
孫をまた背中におんぶして男は去っていった。体が軽くなったと上機嫌だ。
その後もアンジェの薬の売り上げは好調で、夕暮れ近くなった頃には全部売れた。アンジェとキアは店じまいをしながら、村に遊びに行っていた観光客達を見送った。
「今日もたくさん売れたね。よかったね」
「ん」
アンジェはキアに背中を向けたまま返事をした。
人の行き来がまばらになった頃、ロイとアーシャが下道から登ってきた。
アーシャは小枝を握りしめながら、ニコニコと満面の笑みを浮かべていた。ロイは体に草の実をたくさん付けたままになっていた。
「ご苦労さん」
ロイのやつれ具合を見てアンジェは察した。子どもの面倒を見るのは誰にとっても重労働だ。それを私はいつも仕事を理由に人任せにしていたのだ。
「…母親失格だな」
母親とは名ばかり。仕事に没頭して子どもを蔑ろにしていた。
「キア。ロイ。二人ともいつもアーシャの面倒を見てくれていてありがとう」
アンジェは店じまいをする手を止め、深々と頭を下げた。
「は?な、何だ急に、」
「どうしたの?アンジェ」
キアとロイはお互いに顔を見合わせて慌てふためいた。
「私は仕事を理由にアーシャの面倒を二人に任せていた。だがそれは、決して楽しようとかそういった理由ではない。薬材の中には早朝や深夜にしか摘めないものもあり、場合によっては崖に登ったり地下に潜ったり川に入ったりする。稀に毒を扱うこともある。そんな場所にアーシャを連れていくのは危険極まりない」
「それに今さらというか母親とはどんなものが正解なのか分からないんだ。私の両親は、私と同じ薬剤師で各国を転々としている。私は祖父母に育てられたから、どうも考えが年寄り寄りだ。ナノハのように手先が器用ではないし、キアのようにうまく寝かしつけてやれない。ナユタのように料理も上手くなければ、シダル婆さんのように礼儀もなってない。それに、ロイのように子どもが好きそうな遊び方も知らない。だからか、その要所要所にこなれてる人に任せていれば安心かと思っていた」
「二人には特に感謝している。負担にさせてすまなかった」
長々とした答弁の後で、アンジェはその場にぺたりと座り込んだ。
「アンジェ!」
キアは駆け寄り、アンジェの肩に抱きついた。
「感謝なんてこっちがだよ!どこのどいつかもわからない私なんかに、大事なアーシャを預けてくれて、すごい嬉しかったんだから!!」
村に来たばかりの頃、ナユタ夫婦が忙しく手が開かなかった頃にアンジェは話し相手に買って出てくれていた。傍にはアーシャがいた。泣いてばかりの甘えん坊で癇癪持ち。手がかかるが遊び相手になってくれないかと声をかけてくれたのがはじまりだった。
「嬉しかったんだよ。すごく。だから、ありがとうは私の言葉だよ」
嗚咽を上げて泣きじゃくるキアの姿を見て、ロイは言葉少なめに返した。
「…同じく。感謝しているのはオレの方だ」
子育ては協力が不可欠だ。ひとりでは無理がある。
座り込んでいるアンジェに手を伸ばした。
「…恨んではないか」
「どこにそんな感情があるのか見せてくれ」
アンジェの手を引っ張り、キア共々立ち上がらせた。
「キアは泣くな。私なんかと言うのもダメだ。主神に気付かれたらオレが脅される」
キハラの湖の方向からパシャンと魚が跳ねた音がした。すかさず体を震わせたロイを見て、アンジェはくくくと笑みを溢した。
「頼りにしてるよ。これからも」
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