舞いあがる五月 Soaring May

梅室しば

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二章 反撃:彼女にとっての生物学

史岐の許嫁

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 茉莉花から、史岐を振った人物を突き止めたというメールが送られてきたのは、温泉に行ってから二日後の事だった。
 相手は、潟杜大学の学部三年生だった。史岐とは同い年。
 学内でも有名なカップルだったらしい。美男美女の組み合わせという事もあるが、どちらも旧家の出身で、県内の高校から進学してきた者であれば名字を聞いただけでわかるという。
 利玖だってその一人のはずだが、メールに書かれていた名前には聞き覚えがなかった。またしても悔しさが募る。
 さすがに、顔も知らない利玖と話をする場を設けるのは無理だった、と書かれていたが、利玖もそれは予想していたので、スクロールホイールを転がしてメールを読み進めた。
『……そもそも、三年生で、かなりのお嬢様で、いつも友人と一緒にいるって言われちゃったら、おいそれと話しかけに行けないわよね(利玖は気にしないだろうけど)。
 でも、イギリス文学史の講義がある金曜日には、一時間前から講義室に来ていて、その時は大抵周りに誰もいないんだって』
 そこから改行を一つ挟んで、『頑張ってね』の文言で茉莉花からのメールは締め括られている。
 利玖は微笑んで、ウィンドウの右上をクリックしてメールのビューアを閉じた。


 金曜日になると、利玖は一人でイギリス文学史の講義室を訪れた。
 まだ朝の八時過ぎである。構内の人影はまばらだったが、目的の講義室の扉は開いていた。百人近くも入る大きな講義室で、利玖も入学してすぐの頃、学内システムの利用講習会で一度使った事がある。
 隠れる謂われは全くないのだが、一応用心して、後ろの入り口からそっと入る。すると、足音に反応して、中央よりやや右後ろの席に座っていた女子生徒がこちらを振り向いた。
「佐倉川さん?」
 友人を見つけたような、弾んだ声だった。
 深みのあるジンジャーヘアを肩の下まで伸ばして、耳にかけている。ムーンストーンに似た色味のティアドロップ・イヤリングが耳たぶについているのが見えた。
 リネンのテーラードジャケットに細身のデニムという服装からは、明るく溌剌とした印象が伝わってくる。
 執事が運転する高級車の後部座席から静々しずしずと日傘を差して降りてくるよりも、自分で買いつけたスポーツカーのステアリングを握って、郊外のハイウェイを颯爽と流している方が似合いそうな人物だった。
 聞いた名前はたいら梓葉あずはという。平が姓、梓葉が名だ。
 利玖は後ろ手に扉を閉めると、まず、深々と頭を下げた。
「この度は大変ご迷惑をおかけしました」
「えっ、いいのよ、そんな」
 梓葉は慌てて立ち上がる。
「むしろ、あなたの方が迷惑しているのでしょう。わざわざこうして探して会いに来てくれるんだから、よっぽどの事があったのかと思ったのよ」
「では、今日、わたしが訪ねてくるとわかっておいででしたか」
 梓葉は微笑んで、片目をつむった。
「確信はなかったけれど、人目を忍んでわたしに会いに来るとしたら、この時間を選ぶと思ったから。たまには一人になりたくて、金曜日だけは理由をつけて、いつもよりも早く家を出ているのよ」
 それはつまり、家にいても大学にいても、常に誰かしらの目を気にしなければいけない立場であるという事だろうか、という思いが頭をよぎったが、その手の話題は長いこと利玖の関心を引いておけるものではなかったので、手早く本題に移る。
「平さんの方から熊野氏を振った、ともっぱらの噂ですが、それは事実ですか?」
「ええ」
「では、その際、熊野氏が何か落とし物をしたのを見ましたか?」
 梓葉は怪訝そうに眉をひそめ、その表情のまま何か言いかけたが、途中ではっと息をのんだ。
 それは、一瞬の機微だったが、初めから注意深く梓葉の挙動を観察していた利玖には、彼女が、利玖にありのまま伝えるにはまずい事を思い出して、それを隠した方がいいと判断した事がわかった。
「ごめんなさい、覚えていないわ。突然の事だったから、本当に頭に来ていて……、史岐の頬をぶってしまうくらいだったもの」
 利玖は、そうですか、と返しながら、心の中で舌を巻いた。
 伏せたままにしておきたいカードに相手の手が伸びた時、それを直接止める代わりに、全く別の所から、スキャンダラスな事実を書いたカードを出してみせる。振った振られたの噂話を好んでやまない人間相手には、さぞ効果的だろう。意識的にやっているにしろ、無意識にしろ、名のある家の令嬢として育てられただけの事はある。
 しかし、それは利玖には通用しない手でもあった。
「差しつかえなければ、その行為に至った経緯を教えていただけないでしょうか?」
「話したくないわ。……と言ったら?」
 梓葉は誘いかけるような目で利玖を見上げる。
 魅力的な表情ではあるが、意図して作り上げられたものではない。そういう所も含めて好ましい印象を与えられるのが彼女の強みだ、と利玖は思った。
「最悪の場合……」
「なあに?」
臼内岳うすうちだけの生態系が崩壊します」
「え……?」
 梓葉は、ぽかんとした後、口を押さえて笑い始めた。
「ああ。驚いたわ……あなた、学科はどこ?」
「生物科学科です」
「なるほどね。それで、生態系というわけね」
 梓葉は笑いを収めて、姿勢を正した。
「何が何だかわからないけど、いいわ、簡単な事だから。
 わたしと史岐は許嫁いいなずけの仲だったの。何事もなければ、卒業してすぐに籍を入れる予定だった。でも、先月、ある検査を受けた所、わたしが彼の家で期待されているような子どもを産むのは難しいとわかったの。それで、破談を切り出されたってわけ」
 利玖は黙って梓葉の表情を見つめている。
 後半に向かうにつれて、口調が仰々しくなり、身振りもまじえて聞き手の感情の高揚を誘うような語り方になっている。
(何割かは、真実でない……)
 そんな風に利玖は感じ取った。
「そんなの、我慢できないわよね? こっちはおかげで、この歳で他の誰かに恋をした経験もないんだもの」
 それは利玖とて同じだったが、はなからその気がなかったのと、したいと思ってもしがらみがあって出来ないのとではまるで性質が違うだろうと思って、ただ頷くにとどめておいた。
「ねえ、わたしからも訊いていいかしら。史岐があなたを口説いたっていうのは本当? 二人きりで噴水の所にいたって聞いたわ」
「口説かれてはいません。二人で噴水の前にいたのは本当です」
 てっきり、そんな所で何をしていたのか、と訊かれると思ったので、利玖は頭の中の今まで使ってこなかった部位を高速駆動させて、信憑性のある言い訳を組み立てていたが、梓葉はただ、よく光る目で利玖を見つめていた。
「……何でしょう?」
「いえ、ちょっと意外だと思って。何となくだけれど、あなた、史岐と気が合いそうだから」
 利玖は目をいたが、どう答えたらいいのかわからず、ちょっと唇を動かす事しか出来なかった。
 何だか、ずっと梓葉に会話の主導権を握られている気がする。これが、社交性の差というものなのだろうか……。
 とはいえ、知りたかった情報は手に入れた。
 利玖は去り際にもう一度簡潔な謝罪を述べて、講義室を後にした。

 梓葉は最後まで嫌な顔ひとつ見せなかった。
 本当に大したものだ。あれなら、多くの友人がいても何ら不思議はない。
 廊下を歩きながら、一体、自分は何に対してあんなに謝っていたのだろう、と考えた。おそらく明確な理由はなくて、梓葉と史岐、そして自分の関係性を考えた時、そう振る舞っておくのが最も「考える事」が少なくて済むからだ、と気づいた。そんな安直な行動指針をとっていた自分が、少しだけ嫌になる。
 梓葉と史岐の間に、本当は何が起きたのか。
 梓葉が隠そうとした事は何だったのか。
 後ろ暗い推測を立てようとするたびに、ぱっと日が射すような梓葉の笑顔が浮かんで、それ以上思考を先に進められなくなってしまう。強く、まぶしく、凜としていて、二十年も三十年も先の生き方までしっかりと考えていそうな、芯のある人物だった。とても、婚約者に一方的に別れを言い渡された悲劇の身の上とは思えない。その懸隔ギャップに最後まで翻弄されていた気がする。
(計算して、そんな風に見せていたのでしょうか……)
 それもあり得る。利玖は、感情表現があまり豊かではないので、自分には出来ないと思っている事でも、いったんは相手には出来るものとして推論を組み立てなければならない。
 もし、計算した上での振る舞いだったのであれば、心の中で何を思っていたにしろ、梓葉はそういう姿勢を見せる事で完全に利玖の優位に立った事になる。一朝一夕で身につく技術ではないし、利玖には無理な芸当なので、これは、嘆いても仕方がない。
 それよりも。
 史岐から破談を言い渡された、と語った時、梓葉の顔にはかすかな違和感があった。
 彼女の振る舞いに翻弄されて、その発見まで有耶無耶うやむやにしてはいけない。

 考えるべき事を考える為の断片が、少しずつ揃い始めていた。
 そうすると、この部分を解明すれば、他の疑問も一気に解決に向かう、という一種の触媒とも呼べる要素が、おぼろげに浮かび上がってくる。
 脳裏に、実家の古い門構えが浮かんだ。
 ずいぶん広くなった家で暮らしている、母の顔も。

 結局、匠の言う通りになった、と思いながら、利玖はスマートフォンを取り出して兄にメールを書いた。
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