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読み切り 星屑のアーカイブ
この都市には、記憶が売られている。
イデアシティ。かつては名前すらない辺境の街だった。
だが、記憶アーカイブ技術の発展により、都市は変貌を遂げた。
人々は過去を保存し、再生し、他人に渡すことすら可能になった。
「記憶」は個人のものではなく、商品となったのだ。
アーカイブセンター「No.13支局」。
その一角の地下にある記憶分析室に、ユイ・カミシロはいた。
年齢は十九。白衣に身を包み、左のこめかみに小型端末を装着している。
端末は思考と同期し、視界に記憶データの構造を映し出す。
「……この記憶、変だ」
ユイは眉をひそめた。
眼前に浮かぶ記憶データは、通常の形式を取っていない。構造が壊れているのではない。むしろ「意図的に」再構築されているようだった。
クライアントは不明。依頼書もない。センターに突如届いた「迷子データ」だという。
上司のセラは「放っておけ」と言ったが、ユイは気になっていた。
(何か、引っかかる……。記憶の断片が、誰かを呼んでいるような)
彼女はデータを深層解析にかけた。映像、音声、情動パルス、すべてを網羅する。
やがて、視界の中に映像が現れる。
──走る少女。白い髪。血のように赤い空。
──「だれか、たすけて」
──そして、記録の途切れ。
「……これは、記憶じゃない。『演出された記憶』?」
だが、なぜそんなものを?
ユイはデータの中に奇妙なタグを見つける。
《CODE: ORPHEUS-01》。存在しないはずのコードだった。
(オルフェウス……?)
その名に、彼女は心の奥がざわつくのを感じた。
***
ユイがイデアシティに来たのは六年前。
幼い頃に事故で両親を亡くし、記憶の一部を失っていた。
その失われた過去を取り戻すため、彼女はアーカイブの道に進んだ。
「記憶」は万能ではない。人は完全に過去を思い出せない。だが、断片を繋げれば、失われた真実に触れられるかもしれない──。
彼女の夢は、いつしか執念に変わっていた。
「CODE: ORPHEUS……調べてみる価値はある」
ユイは非公式のネットワークにアクセスする。
センターの規則では禁止されている行為だ。だが、彼女は何度も抜け道を使っていた。
検索をかけると、いくつかの記録がヒットする。
その中で一つ、古い記憶ログが彼女の目を引いた。
《ORPHEUS計画:実験体No.01──記憶共有の限界を超える試み》
(実験体……?)
それは二十年前の記録。すでに削除されているはずの情報だった。
中身はほとんど読み取れなかったが、ただ一つ、地名が記されていた。
《ナナシ区:旧セクターD》
今では廃墟となった地区。かつて、記憶技術の闇が生まれた場所。
「これは、行くしかない」
ユイは白衣を脱ぎ、黒のジャケットに着替えると、小型端末と記憶プローブを携えてセンターを出た。
***
ナナシ区に入ると、空気が変わった。
廃棄されたビル。ひび割れた道路。
かつての未来都市の影はそこにはなかった。
誰もいない。だが、誰かが見ている気配があった。
ユイは記憶プローブを地面に差し込んだ。
微弱な記憶残留を探ることができるツールだ。
「……反応あり。地下?」
セクターDの一角、古びたマンホールの下に反応がある。
彼女は工具で蓋を開け、梯子を降りていく。
地下は闇だったが、端末のライトが空間を照らす。
そこには、かつての実験施設の名残があった。
機器は朽ち果てていたが、中央にある記憶カプセルだけが奇妙な輝きを放っていた。
ユイが近づくと、端末が自動接続を開始する。
彼女の視界に映像が流れ込む。
──白い部屋。無数の子どもたち。
──頭部に装着された記憶共有装置。
──その中に、幼い日の「自分」がいる。
「……これ、私?」
幼いユイは、笑っていた。だがその瞳は虚ろだった。
──ORPHEUS-01、起動開始。
──目標:記憶同期率100%。
「まさか……私が……」
記録が終わった瞬間、背後で「カチリ」と音がした。
誰かがいた。
ユイが振り返ると、そこには黒いフードを被った人物が立っていた。
「コードに触れたな。カミシロ・ユイ」
低く、感情のない声。
だが、その声にどこか懐かしさを感じた。
「あなたは……誰?」
「名など不要だ。ただの記録管理者だ」
フードの男は腕を上げた。ユイの端末が強制的にシャットダウンされる。
「あなたは記憶に近づきすぎた。『真実』に触れてはならない」
「どうして? 私は……私の過去を知りたいだけなのに!」
男はしばらく沈黙した後、ふっと笑った。
「ならば、試すがいい。オルフェウスの扉を、開けられるか」
次の瞬間、ユイの視界が白く染まる。
記憶が、逆流していく。自分のではない、誰かの記憶。
誰だ……この感情は……
痛み、絶望、怒り……
そして、祈り。
「……たすけて、ユイ」
記憶の中で、誰かが呼んでいた。
***
目覚めた時、ユイはアパートのベッドにいた。
端末は壊れていた。記録も全て消されていた。
だが、あの記憶の「声」だけは、心に残っていた。
「オルフェウス……そして、私自身」
彼女は再び立ち上がる。
過去を取り戻すために。
そして、未来を変えるために。
──これは記憶に囚われた少女が、
真実の扉を開ける物語の始まり。
夜の都市が、雨に沈んでいた。
窓の外では、ネオンサインが濡れたアスファルトに滲んでいる。
ユイ・カミシロは、ベッドに座りながら壊れた端末を見つめていた。昨日、ナナシ区で起きたすべてが、まるで幻のように思える。
だが、体の奥に刻まれた“あの記憶の声”だけが、今も鮮やかに残っていた。
「たすけて、ユイ……」
誰だったのか。それは自分自身の声にも聞こえた。
いや、似ているようで違う。まるで、もう一人の自分がどこかに存在しているかのような錯覚。
壊れた端末を調べていると、奇妙なデータ片が残されていた。
通常の復元ソフトでは読めないフォーマットだが、ユイはセンターに隠されている旧式の解析機「アリス」に接続してみることにした。
「お願い、アリス。あの記憶を、もう一度見せて」
アリスはかつて実験用に開発されたAIだ。今はセンターの倉庫に眠っているはず。
彼女は夜明けを待たず、アーカイブセンターへと戻った。
***
地下保管庫。センサーをかいくぐりながらユイは忍び込む。
No.13支局の奥に、アリスは眠っていた。
黄ばんだ外装、レトロなスクリーン。だがその演算性能は今もトップクラスだ。
ユイがデータを読み込ませると、アリスのモニターが不意に青白く点灯した。
「……ユイ? 久しぶりね」
「……覚えてるの? 私のことを?」
「当然よ。わたしの記憶は、あなたと共有されているもの」
アリスは人間に似せて作られた会話AIだった。だが、何かが違った。
まるで、本当に「彼女」が生きているような感覚がある。
「見せたい記憶があるんでしょう?」
「ええ。これ、読める?」
ユイは残留データを差し出した。アリスはしばらく無言のまま解析を続けた後、低い音を鳴らして映像を再生した。
──赤い光。手術室。無数のコードが絡む子どもたち。
──その中に、自分と“同じ顔”の少女。だが、名前が違う。
《実験体No.02──カミシロ・アイ》
「……アイ? 私じゃない……私と同じ顔……」
「そう。彼女はあなたの“ミラー”。記憶を共有する、もう一つの器」
「オルフェウス計画……それって、双方向の記憶共有?」
「それ以上よ。人格の統合、感情の模倣、記憶の拡張──
アイはあなたの“記憶補完体”として作られた。失われた記憶は、彼女に保存されていたの」
ユイの心に冷たいものが流れた。
失った記憶は、別の誰かの中にあった。いや、「作られた記憶」だったのかもしれない。
「彼女は今どこにいるの?」
「……“コード領域”にいるわ」
「コード領域?」
「物理空間とは別に存在する、データだけの“記憶領域”よ。
オルフェウス実験が失敗したとき、彼女はそこに封じられたの」
「助けられるの? 私に」
アリスは静かに頷いた。
「ただし、条件がある。あなたの記憶を“対価”として捧げる必要がある」
「……記憶を?」
「彼女を救えば、あなたの一部は失われる。
それでも、進む覚悟はある?」
ユイは迷わなかった。
彼女は記憶に囚われてきた。そして、今、記憶を解き放つために動いている。
「進むわ。彼女を助けたい。そして、自分の真実を知りたい」
「いいわ。じゃあ、準備して」
***
記憶ダイブ装置が起動される。
カプセルの中でユイは目を閉じた。
そして、アリスのカウントダウンが始まる。
──3
──2
──1
──Dive.
彼女の意識が、データの深淵に沈んでいく。
***
目を開けたとき、そこは白い空間だった。
何もない。重力も、空気も、時間も存在しない。
ただ、無数の光が漂っていた。記憶の断片だ。
その中に、ひときわ強く光る「核」があった。
ユイはそれに触れようと手を伸ばす──
「ユイ……なの?」
声が響いた。背後に、少女が立っていた。
白いワンピース。自分と同じ顔。だが、その表情はどこか儚げだった。
「アイ……?」
「私、ここでずっと眠ってたの。あなたを待ってた」
アイは微笑む。その目には涙が浮かんでいた。
「私が見ていた記憶は、本当はあなたのものだった。でも、あなたは……忘れた方が幸せかもしれない」
「違う。私は、私自身を取り戻したい。
それに……あなたを、ここに閉じ込めたままにはしたくない」
「……なら、試してみる? 一つになるってことを」
アイは手を差し出した。
ユイもそれを取る。次の瞬間、二人の記憶が混ざり合っていく。
──両親の事故
──実験施設の冷たい天井
──手を握り合う小さな二人
──「名前を分けよう。半分ずつで、一人になるんだ」
彼女たちは一人だった。
名前だけを分けて生きた、同じ存在だった。
そして今、記憶が一つに戻ろうとしていた。
***
目覚めたとき、ユイの心には奇妙な静けさがあった。
頭の中に、アイの記憶がある。
いや、もう区別はつかない。
すべては「私」の記憶だ。
カプセルの外で、アリスが彼女を見つめていた。
「……成功ね。けれど、警告するわ。あなたの中には、もう一人の“意識”が残っている。
今は融合しているけれど、いつか“乖離”が起こる可能性もある」
「……それでもいい」
ユイは立ち上がった。
都市はまだ、記憶に支配されている。
商品として売られる記憶、加工される記憶、偽りの人生。
そして、その裏で動いている者たち──「記録管理局」。
「行かなくちゃ。真実を暴くために」
「その先にあるのは、“忘却”かもしれない」
「それでも、知る価値がある。私たちは、誰かの記憶じゃない。
私たち自身として、生きるために」
ユイの瞳には、かつてなかった強さが宿っていた。
──星屑のような記憶の海を越えて、
少女は真実へと歩み出す。
夜の帳が下りる頃、ユイは再び街に出た。
アリスの忠告──「もう一つの意識」──それは、内側からじわじわと忍び寄る不安だった。
だが、それ以上に彼女の中には確信があった。「自分は進まなければならない」という意志が、静かに、だが強く燃えていた。
次の目的地は、記録管理局の本部。
そこには、記憶アーカイブの最奥、すなわち「記憶の中枢」に直接アクセスできる中枢塔──《オルド・メモリア》がある。
都市の誰もがその存在を知っているが、中に入った者はいない。政府機関、軍事ネットワーク、そしてかつてオルフェウス計画を統括していた研究者たちの記憶すら、全てここに保管されているという。
真実の扉はそこにある。
そして恐らく、彼女自身の「最後の記憶」も。
ユイはその中枢塔の座標を、アリスから渡されたアクセスコードに従ってセットする。
「ようこそ、記録管理局の影へ」と、彼女の端末が囁いた。
***
《オルド・メモリア》。それは、都市の心臓部だった。
外観は黒い円錐型の構造体。無数のアンテナと波動膜が張り巡らされている。
その外には、警備ドローンと武装管理官が巡回していたが、ユイはその隙間を正確に縫って進んだ。
潜入のために使ったのは、記録管理局に所属していたセラのID。
彼女の上司だったセラは、かつてユイを保護した人物でもある。
しかし、今にして思えば、セラもまた「記憶管理の側」にいたのだ。
(あなたは私を守ってくれた……でも、何を隠していたの?)
ユイは胸の奥にある疑問を抱いたまま、塔の内部へと足を踏み入れる。
***
塔の中は、現実の建物とは思えない空間だった。
白い廊下。無音。時間の感覚すら歪んでいるように感じる。
ユイはアリスから提供された地図に従って進む。
途中、いくつかの記憶アーカイブゾーンを通過した。そこでは、管理局が保管している「削除されたはずの記憶」が展示されている。
──戦争の真実。
──操作された選挙の映像。
──記憶を売買する巨大企業の陰謀。
それはどれも、都市の根幹を揺るがす情報だった。
「……これが、管理される“真実”」
やがて彼女は、最深部に辿り着く。
そこにあったのは、巨大な記憶核──《コア・オブ・レムナント》。
無数のコードが絡まり、常に情報が循環している黒い球体だ。
そしてその前に、立っていたのは──
「久しぶりね、ユイ」
「……セラ」
白衣姿の女性が、静かに微笑んでいた。
上司であり、保護者であり、そして──
「あなたも、“創られた存在”よ」
「……どういう意味?」
「あなたには、二度目の“人生”がある。
事故で記憶を失ったのではない。“記憶を初期化された”の。
オルフェウス計画の失敗者として、あなたは“再構成”されたのよ」
ユイの心が揺れた。頭の奥で、アイの声が小さく鳴った。
──ユイ、冷静でいて。
「……私は、人間なの?」
「ええ。生物学的には完全に人間よ。
でも、記憶の半分以上は“書き換え”られていた。あなたはオルフェウスの実験によって、自己を再構築された存在」
「それでも、私は私。ユイ・カミシロよ」
ユイはそう言って、歩み寄る。
「あなたは、私を守ってくれていた。でも、それは真実から遠ざけるためでもあった」
「……そうね。でも、もう止めない。あなたがここまで来たということは、既に“融合”は始まっている」
「融合?」
「あなたの中にある“アイ”の意識。今は共存している。でも、それはいつか主導権を奪うかもしれない。
──それが“完全記憶統合”の代償」
ユイは拳を握りしめた。
「でも、それが私の選んだ道よ。
記憶を失っても、記憶に飲まれても、私は私を諦めない」
セラはうなずいた。
「ならば、最後の扉を開けなさい。
《コード:オルフェウス・ゼロ》──それが、すべての始まりよ」
***
中央コアに接続したユイの視界に、再び光があふれる。
記憶が流れ込む。
──自分が実験体だった日々。
──失敗したアイの叫び。
──何度も書き換えられた記憶。
──「本当の私は、どこにいるの?」
そして、最も奥底にあったもの。
──母の手。優しく、温かく、包み込むような笑顔。
「ユイ。生きていて。どんな記憶を持っていても、それがあなた」
涙が頬を伝った。
記憶は、痛みと悲しみに満ちていた。だが、温かさもあった。
偽りの中にも「本物の感情」は存在していた。
「ありがとう。アイ……セラ……そして、私」
ユイはゆっくりと目を閉じた。
──真実は、すべてを暴くものじゃない。
──それを「どう受け入れるか」で、人は生き方を決める。
***
《オルド・メモリア》を出たとき、空は白み始めていた。
都市はまだ、記憶の中で眠っている。
だがユイは、その中で確かに目を覚ました。
彼女は今、ようやく自分自身として歩き出す。
──少女は、記憶の影を越えていく。
ユイ・カミシロは、都市の夜明けを見ていた。
あの日、記録管理局《オルド・メモリア》の中枢で、自分の全てを知った。
それは、真実という名の刃だった。だが彼女はそれを受け入れ、自らの「軌跡」とした。
今、彼女の中にはふたつの意識がある──ユイとアイ。
記憶を共有し、互いに歩んできた存在。
ふたりは分かたれた双子のように似て、そして違っていた。
融合は進み、互いの境界は曖昧になっていた。
それでも、ふたりの意志は一つだった。
「この都市を変える。記憶を支配する者たちの手から、自由を取り戻す」
***
都市第7層、スラム地帯《ネブラ》。
かつて廃棄された記録端末や違法な記憶抽出機が山積みにされていたその場所に、ユイは足を踏み入れた。
彼女は「記憶難民」たちを探していた。
──記憶を失った者たち。
──他人の人生を植え付けられた者たち。
──政府にとって“不都合な記憶”を持つ者たち。
そこには、かつての彼女と同じ目をした人々がいた。
「あなたたちの記憶は、奪われたものじゃない。
それでも、あなたたちは生きている。だからこそ、意味がある」
ユイの言葉は少しずつ広がっていく。
仲間ができはじめていた。
暗号屋の少年・カズ。義手の女性兵士・レイナ。そして、ハッカーAIアリスも依然として支援を続けている。
「ユイ、このデータを見て。管理局の次の動きが予測できるわ」
アリスが示したのは、都市中央《スフィア・ゼロ》の計画書だった。
それは“記憶の再初期化”──すなわち、都市全体の記憶を書き換えるプログラムだった。
「まさか……都市全体を、リセットするつもり?」
「ええ。都市OS“メモリア・シグマ”の強制再起動。
それが完了すれば、すべての人々が“統一された記憶”で書き換えられる」
それは、記憶という自由の死を意味する。
ユイは決意する。
「止めなきゃ。私たちは、過去をなかったことにされてはならない」
***
《スフィア・ゼロ》侵入計画は、仲間たちの知恵と勇気の結晶だった。
レイナが警備の陽動を引き受け、カズが防御システムをハッキング、ユイとアリスは最奥部“統合制御中枢”へのルートを突き進む。
中枢へたどり着いたとき、待っていたのは──
「……君が来ると信じていたよ」
そこに立っていたのは、記録管理局長官《ノア・セイン》。
静かな眼差し、銀の髪、年齢不詳の青年。
「君は“希望”だった。
人工記憶と自然記憶を融合できる“最初の存在”。だが、君が希望であり続けるには、他者の自由は不要だ」
「違う。私は“誰かの記憶”じゃない。私自身の意志で生きてる。
それは、誰にも操作できない」
ノアは静かに笑った。
「ならば証明してみせろ。記憶の力が、人間の意志に勝てないということを」
彼が起動したのは、都市記憶OS《メモリア・シグマ》の暴走モード。
都市中にあふれ返る記憶の断片が、物理空間に歪みを起こす。
「記憶が都市を喰う……!?」
崩れゆく空間。ゆがむ時間。過去と未来が錯綜する。
ユイの意識も、飲み込まれそうになる。
──その時、アイの声が響いた。
「ユイ。今こそ、私たちは一つにならなきゃ」
記憶の奥底。少女は彼女に手を差し伸べた。
「本当の記憶って、なにかって考えてた。
それは、つらさでも苦しさでもなく、“誰かと過ごした証”なんだと思う。
私たちの過去も、失われたわけじゃない。
忘れたくないのは、“一緒に笑った日々”なの」
ユイは涙を流しながら、彼女の手を取った。
──ふたりは、完全にひとつになった。
記憶が、意志に従い始める。
暴走するOSに逆流する“生の記憶”。
アリスが叫ぶ。
「いける! プログラムを上書きできる! ユイ、あなたの記憶で“再定義”するの!」
ユイは心の奥から、言葉を放った。
「記憶とは、自由であるべき。痛みも、愛も、すべてが私たちの生きた証。
誰もが、自分の物語を選ぶべきなんだ!」
その瞬間、全都市に“記憶の波動”が広がった。
──光。無数の記憶が天へと昇る。
──それは、解き放たれた魂のように自由だった。
《メモリア・シグマ》は停止した。
ノアは崩れゆくプラットフォームの中で立ち尽くす。
「……君が本物の“継承者”だったのか」
「いいえ、私たちは“始まり”になるの。これからの時代を、自分たちの記憶で刻むために」
***
数日後。
都市は変わった。管理局は解体され、記憶管理制度も廃止された。
人々は少しずつ、自分の“本当の記憶”を取り戻していく。
ネブラでは、ユイたちが開いた《記憶解放センター》が始動していた。
レイナとカズはそこで働き、アリスは都市ネットの自由なAIとして生まれ変わった。
そしてユイは、ひとりの少女の名をそっと口にする。
「アイ……ありがとう。あなたがいたから、私はここまで来られた」
風が吹く。空には星々がまたたく。
──もう誰かに記憶を決められることはない。
──これからは、自分の記憶で未来を描いていく。
ユイ・カミシロの目は、明日を見つめていた。
記憶管理局が崩壊してから、三ヶ月が経った。
都市には、静かに、しかし確かに変化が訪れていた。
市民は徐々に「与えられた記憶」ではなく「自らの記憶」で語り合いはじめ、
“思い出”というものが再び人と人を繋ぐ絆になりつつあった。
かつて記憶を売買し、統制していた企業群は解体され、
人々は「忘れる自由」と「思い出す自由」の重みを知りはじめた。
そんなある日、ユイのもとに一通の古い信号が届く。
──〈記録外衛星ステーション No.47 “ルーメン”より最終アクセス信号〉
それは遥か軌道上、かつてのオルフェウス計画本部が設置されていた衛星からの通信だった。
消されたはずの「最初の実験記録」が、そこにある。
ユイは決めた。
「行くわ、“はじまりの場所”へ」
***
宇宙航行船《プロメテア号》。
開放された軍用シャトルをカズが修復し、アリスが航路を構築。
レイナは彼女の肩を叩いて言った。
「また無茶をするんだな、ユイ」
「今度は私ひとりで。
記憶は共有できても、“答え”は自分で見つけたいの」
そして出発の日。
都市を見下ろす発射台の上、ユイは空を見上げる。
星が、そこにはあった。
かつて彼女が見たことのない、本当の星空。
「アイ……行こう。
あなたと私の物語を、終わらせるために。そして、次を始めるために」
***
無重力空間。深い沈黙の中、航行は続いた。
やがて、ユイは《ルーメン》の軌道ステーションへと到着する。
そこはすでに人の手が入らぬ朽ちた聖域だった。
無数のメモリーバンク。実験記録のホログラム。
そして、中央にただひとつ残された冷却保存カプセル。
ユイは静かに接続コードを挿す。
──記録再生開始。
【被験体X:A.I.(人工意識)構築プログラム】
【第1世代試験体 “ユイ”──記憶共有型プロトタイプ】
【人格分離処理開始──副意識コード名“Ai”として分化保存】
【倫理コードにより凍結処理】
ユイは目を見開く。
──つまり、最初に生まれたのは“わたし”だった。
そして、その「副意識」として“アイ”が創られたのではない。
“アイ”こそが主たる意識であり、“わたし”があとから与えられた存在だった。
「ユイ」と「アイ」は、決して別々の存在ではなく──
もともとひとつの魂が、社会の中で「役割」として分割されていたのだ。
自分は“本物”だったのか? 偽物だったのか?
その問いに、答えはなかった。
だが、ひとつだけ確かなものがある。
「私は生きてきた。この世界で、誰かと出会って、笑って、泣いて──それは何よりもリアルだった」
記憶とは“証明”ではない。
記憶とは、“物語”だ。
ならば、誰が書いたとしても、それを選んで生きた自分こそが「真実」なのだ。
ユイは衛星データを都市に向けて送信する。
すべての人々が「自分の過去」と向き合えるように。
そして、「自分の未来」を選べるように。
***
帰還のシャトルで、ユイは目を閉じる。
心の中で、アイの声が静かに囁く。
「……ユイ、ありがとう。
私はあなたで、あなたは私。ふたりで、ようやくひとりになれたね」
「うん。さよならじゃない。これからずっと一緒にいるから」
星の中に帰っていく記憶。
それは誰かの涙かもしれないし、誰かの笑顔かもしれない。
でも、その全てが、今の「私」を形づくっている。
──記憶は、生きるための地図。
──過去は、未来を選ぶための灯。
ユイ・カミシロは微笑む。
その眼差しは、もう迷っていなかった。
星屑のような記憶の中で、
彼女は確かに、自分の物語を選び取ったのだった。
⸻
星屑のアーカイブ
ーー完ーー
イデアシティ。かつては名前すらない辺境の街だった。
だが、記憶アーカイブ技術の発展により、都市は変貌を遂げた。
人々は過去を保存し、再生し、他人に渡すことすら可能になった。
「記憶」は個人のものではなく、商品となったのだ。
アーカイブセンター「No.13支局」。
その一角の地下にある記憶分析室に、ユイ・カミシロはいた。
年齢は十九。白衣に身を包み、左のこめかみに小型端末を装着している。
端末は思考と同期し、視界に記憶データの構造を映し出す。
「……この記憶、変だ」
ユイは眉をひそめた。
眼前に浮かぶ記憶データは、通常の形式を取っていない。構造が壊れているのではない。むしろ「意図的に」再構築されているようだった。
クライアントは不明。依頼書もない。センターに突如届いた「迷子データ」だという。
上司のセラは「放っておけ」と言ったが、ユイは気になっていた。
(何か、引っかかる……。記憶の断片が、誰かを呼んでいるような)
彼女はデータを深層解析にかけた。映像、音声、情動パルス、すべてを網羅する。
やがて、視界の中に映像が現れる。
──走る少女。白い髪。血のように赤い空。
──「だれか、たすけて」
──そして、記録の途切れ。
「……これは、記憶じゃない。『演出された記憶』?」
だが、なぜそんなものを?
ユイはデータの中に奇妙なタグを見つける。
《CODE: ORPHEUS-01》。存在しないはずのコードだった。
(オルフェウス……?)
その名に、彼女は心の奥がざわつくのを感じた。
***
ユイがイデアシティに来たのは六年前。
幼い頃に事故で両親を亡くし、記憶の一部を失っていた。
その失われた過去を取り戻すため、彼女はアーカイブの道に進んだ。
「記憶」は万能ではない。人は完全に過去を思い出せない。だが、断片を繋げれば、失われた真実に触れられるかもしれない──。
彼女の夢は、いつしか執念に変わっていた。
「CODE: ORPHEUS……調べてみる価値はある」
ユイは非公式のネットワークにアクセスする。
センターの規則では禁止されている行為だ。だが、彼女は何度も抜け道を使っていた。
検索をかけると、いくつかの記録がヒットする。
その中で一つ、古い記憶ログが彼女の目を引いた。
《ORPHEUS計画:実験体No.01──記憶共有の限界を超える試み》
(実験体……?)
それは二十年前の記録。すでに削除されているはずの情報だった。
中身はほとんど読み取れなかったが、ただ一つ、地名が記されていた。
《ナナシ区:旧セクターD》
今では廃墟となった地区。かつて、記憶技術の闇が生まれた場所。
「これは、行くしかない」
ユイは白衣を脱ぎ、黒のジャケットに着替えると、小型端末と記憶プローブを携えてセンターを出た。
***
ナナシ区に入ると、空気が変わった。
廃棄されたビル。ひび割れた道路。
かつての未来都市の影はそこにはなかった。
誰もいない。だが、誰かが見ている気配があった。
ユイは記憶プローブを地面に差し込んだ。
微弱な記憶残留を探ることができるツールだ。
「……反応あり。地下?」
セクターDの一角、古びたマンホールの下に反応がある。
彼女は工具で蓋を開け、梯子を降りていく。
地下は闇だったが、端末のライトが空間を照らす。
そこには、かつての実験施設の名残があった。
機器は朽ち果てていたが、中央にある記憶カプセルだけが奇妙な輝きを放っていた。
ユイが近づくと、端末が自動接続を開始する。
彼女の視界に映像が流れ込む。
──白い部屋。無数の子どもたち。
──頭部に装着された記憶共有装置。
──その中に、幼い日の「自分」がいる。
「……これ、私?」
幼いユイは、笑っていた。だがその瞳は虚ろだった。
──ORPHEUS-01、起動開始。
──目標:記憶同期率100%。
「まさか……私が……」
記録が終わった瞬間、背後で「カチリ」と音がした。
誰かがいた。
ユイが振り返ると、そこには黒いフードを被った人物が立っていた。
「コードに触れたな。カミシロ・ユイ」
低く、感情のない声。
だが、その声にどこか懐かしさを感じた。
「あなたは……誰?」
「名など不要だ。ただの記録管理者だ」
フードの男は腕を上げた。ユイの端末が強制的にシャットダウンされる。
「あなたは記憶に近づきすぎた。『真実』に触れてはならない」
「どうして? 私は……私の過去を知りたいだけなのに!」
男はしばらく沈黙した後、ふっと笑った。
「ならば、試すがいい。オルフェウスの扉を、開けられるか」
次の瞬間、ユイの視界が白く染まる。
記憶が、逆流していく。自分のではない、誰かの記憶。
誰だ……この感情は……
痛み、絶望、怒り……
そして、祈り。
「……たすけて、ユイ」
記憶の中で、誰かが呼んでいた。
***
目覚めた時、ユイはアパートのベッドにいた。
端末は壊れていた。記録も全て消されていた。
だが、あの記憶の「声」だけは、心に残っていた。
「オルフェウス……そして、私自身」
彼女は再び立ち上がる。
過去を取り戻すために。
そして、未来を変えるために。
──これは記憶に囚われた少女が、
真実の扉を開ける物語の始まり。
夜の都市が、雨に沈んでいた。
窓の外では、ネオンサインが濡れたアスファルトに滲んでいる。
ユイ・カミシロは、ベッドに座りながら壊れた端末を見つめていた。昨日、ナナシ区で起きたすべてが、まるで幻のように思える。
だが、体の奥に刻まれた“あの記憶の声”だけが、今も鮮やかに残っていた。
「たすけて、ユイ……」
誰だったのか。それは自分自身の声にも聞こえた。
いや、似ているようで違う。まるで、もう一人の自分がどこかに存在しているかのような錯覚。
壊れた端末を調べていると、奇妙なデータ片が残されていた。
通常の復元ソフトでは読めないフォーマットだが、ユイはセンターに隠されている旧式の解析機「アリス」に接続してみることにした。
「お願い、アリス。あの記憶を、もう一度見せて」
アリスはかつて実験用に開発されたAIだ。今はセンターの倉庫に眠っているはず。
彼女は夜明けを待たず、アーカイブセンターへと戻った。
***
地下保管庫。センサーをかいくぐりながらユイは忍び込む。
No.13支局の奥に、アリスは眠っていた。
黄ばんだ外装、レトロなスクリーン。だがその演算性能は今もトップクラスだ。
ユイがデータを読み込ませると、アリスのモニターが不意に青白く点灯した。
「……ユイ? 久しぶりね」
「……覚えてるの? 私のことを?」
「当然よ。わたしの記憶は、あなたと共有されているもの」
アリスは人間に似せて作られた会話AIだった。だが、何かが違った。
まるで、本当に「彼女」が生きているような感覚がある。
「見せたい記憶があるんでしょう?」
「ええ。これ、読める?」
ユイは残留データを差し出した。アリスはしばらく無言のまま解析を続けた後、低い音を鳴らして映像を再生した。
──赤い光。手術室。無数のコードが絡む子どもたち。
──その中に、自分と“同じ顔”の少女。だが、名前が違う。
《実験体No.02──カミシロ・アイ》
「……アイ? 私じゃない……私と同じ顔……」
「そう。彼女はあなたの“ミラー”。記憶を共有する、もう一つの器」
「オルフェウス計画……それって、双方向の記憶共有?」
「それ以上よ。人格の統合、感情の模倣、記憶の拡張──
アイはあなたの“記憶補完体”として作られた。失われた記憶は、彼女に保存されていたの」
ユイの心に冷たいものが流れた。
失った記憶は、別の誰かの中にあった。いや、「作られた記憶」だったのかもしれない。
「彼女は今どこにいるの?」
「……“コード領域”にいるわ」
「コード領域?」
「物理空間とは別に存在する、データだけの“記憶領域”よ。
オルフェウス実験が失敗したとき、彼女はそこに封じられたの」
「助けられるの? 私に」
アリスは静かに頷いた。
「ただし、条件がある。あなたの記憶を“対価”として捧げる必要がある」
「……記憶を?」
「彼女を救えば、あなたの一部は失われる。
それでも、進む覚悟はある?」
ユイは迷わなかった。
彼女は記憶に囚われてきた。そして、今、記憶を解き放つために動いている。
「進むわ。彼女を助けたい。そして、自分の真実を知りたい」
「いいわ。じゃあ、準備して」
***
記憶ダイブ装置が起動される。
カプセルの中でユイは目を閉じた。
そして、アリスのカウントダウンが始まる。
──3
──2
──1
──Dive.
彼女の意識が、データの深淵に沈んでいく。
***
目を開けたとき、そこは白い空間だった。
何もない。重力も、空気も、時間も存在しない。
ただ、無数の光が漂っていた。記憶の断片だ。
その中に、ひときわ強く光る「核」があった。
ユイはそれに触れようと手を伸ばす──
「ユイ……なの?」
声が響いた。背後に、少女が立っていた。
白いワンピース。自分と同じ顔。だが、その表情はどこか儚げだった。
「アイ……?」
「私、ここでずっと眠ってたの。あなたを待ってた」
アイは微笑む。その目には涙が浮かんでいた。
「私が見ていた記憶は、本当はあなたのものだった。でも、あなたは……忘れた方が幸せかもしれない」
「違う。私は、私自身を取り戻したい。
それに……あなたを、ここに閉じ込めたままにはしたくない」
「……なら、試してみる? 一つになるってことを」
アイは手を差し出した。
ユイもそれを取る。次の瞬間、二人の記憶が混ざり合っていく。
──両親の事故
──実験施設の冷たい天井
──手を握り合う小さな二人
──「名前を分けよう。半分ずつで、一人になるんだ」
彼女たちは一人だった。
名前だけを分けて生きた、同じ存在だった。
そして今、記憶が一つに戻ろうとしていた。
***
目覚めたとき、ユイの心には奇妙な静けさがあった。
頭の中に、アイの記憶がある。
いや、もう区別はつかない。
すべては「私」の記憶だ。
カプセルの外で、アリスが彼女を見つめていた。
「……成功ね。けれど、警告するわ。あなたの中には、もう一人の“意識”が残っている。
今は融合しているけれど、いつか“乖離”が起こる可能性もある」
「……それでもいい」
ユイは立ち上がった。
都市はまだ、記憶に支配されている。
商品として売られる記憶、加工される記憶、偽りの人生。
そして、その裏で動いている者たち──「記録管理局」。
「行かなくちゃ。真実を暴くために」
「その先にあるのは、“忘却”かもしれない」
「それでも、知る価値がある。私たちは、誰かの記憶じゃない。
私たち自身として、生きるために」
ユイの瞳には、かつてなかった強さが宿っていた。
──星屑のような記憶の海を越えて、
少女は真実へと歩み出す。
夜の帳が下りる頃、ユイは再び街に出た。
アリスの忠告──「もう一つの意識」──それは、内側からじわじわと忍び寄る不安だった。
だが、それ以上に彼女の中には確信があった。「自分は進まなければならない」という意志が、静かに、だが強く燃えていた。
次の目的地は、記録管理局の本部。
そこには、記憶アーカイブの最奥、すなわち「記憶の中枢」に直接アクセスできる中枢塔──《オルド・メモリア》がある。
都市の誰もがその存在を知っているが、中に入った者はいない。政府機関、軍事ネットワーク、そしてかつてオルフェウス計画を統括していた研究者たちの記憶すら、全てここに保管されているという。
真実の扉はそこにある。
そして恐らく、彼女自身の「最後の記憶」も。
ユイはその中枢塔の座標を、アリスから渡されたアクセスコードに従ってセットする。
「ようこそ、記録管理局の影へ」と、彼女の端末が囁いた。
***
《オルド・メモリア》。それは、都市の心臓部だった。
外観は黒い円錐型の構造体。無数のアンテナと波動膜が張り巡らされている。
その外には、警備ドローンと武装管理官が巡回していたが、ユイはその隙間を正確に縫って進んだ。
潜入のために使ったのは、記録管理局に所属していたセラのID。
彼女の上司だったセラは、かつてユイを保護した人物でもある。
しかし、今にして思えば、セラもまた「記憶管理の側」にいたのだ。
(あなたは私を守ってくれた……でも、何を隠していたの?)
ユイは胸の奥にある疑問を抱いたまま、塔の内部へと足を踏み入れる。
***
塔の中は、現実の建物とは思えない空間だった。
白い廊下。無音。時間の感覚すら歪んでいるように感じる。
ユイはアリスから提供された地図に従って進む。
途中、いくつかの記憶アーカイブゾーンを通過した。そこでは、管理局が保管している「削除されたはずの記憶」が展示されている。
──戦争の真実。
──操作された選挙の映像。
──記憶を売買する巨大企業の陰謀。
それはどれも、都市の根幹を揺るがす情報だった。
「……これが、管理される“真実”」
やがて彼女は、最深部に辿り着く。
そこにあったのは、巨大な記憶核──《コア・オブ・レムナント》。
無数のコードが絡まり、常に情報が循環している黒い球体だ。
そしてその前に、立っていたのは──
「久しぶりね、ユイ」
「……セラ」
白衣姿の女性が、静かに微笑んでいた。
上司であり、保護者であり、そして──
「あなたも、“創られた存在”よ」
「……どういう意味?」
「あなたには、二度目の“人生”がある。
事故で記憶を失ったのではない。“記憶を初期化された”の。
オルフェウス計画の失敗者として、あなたは“再構成”されたのよ」
ユイの心が揺れた。頭の奥で、アイの声が小さく鳴った。
──ユイ、冷静でいて。
「……私は、人間なの?」
「ええ。生物学的には完全に人間よ。
でも、記憶の半分以上は“書き換え”られていた。あなたはオルフェウスの実験によって、自己を再構築された存在」
「それでも、私は私。ユイ・カミシロよ」
ユイはそう言って、歩み寄る。
「あなたは、私を守ってくれていた。でも、それは真実から遠ざけるためでもあった」
「……そうね。でも、もう止めない。あなたがここまで来たということは、既に“融合”は始まっている」
「融合?」
「あなたの中にある“アイ”の意識。今は共存している。でも、それはいつか主導権を奪うかもしれない。
──それが“完全記憶統合”の代償」
ユイは拳を握りしめた。
「でも、それが私の選んだ道よ。
記憶を失っても、記憶に飲まれても、私は私を諦めない」
セラはうなずいた。
「ならば、最後の扉を開けなさい。
《コード:オルフェウス・ゼロ》──それが、すべての始まりよ」
***
中央コアに接続したユイの視界に、再び光があふれる。
記憶が流れ込む。
──自分が実験体だった日々。
──失敗したアイの叫び。
──何度も書き換えられた記憶。
──「本当の私は、どこにいるの?」
そして、最も奥底にあったもの。
──母の手。優しく、温かく、包み込むような笑顔。
「ユイ。生きていて。どんな記憶を持っていても、それがあなた」
涙が頬を伝った。
記憶は、痛みと悲しみに満ちていた。だが、温かさもあった。
偽りの中にも「本物の感情」は存在していた。
「ありがとう。アイ……セラ……そして、私」
ユイはゆっくりと目を閉じた。
──真実は、すべてを暴くものじゃない。
──それを「どう受け入れるか」で、人は生き方を決める。
***
《オルド・メモリア》を出たとき、空は白み始めていた。
都市はまだ、記憶の中で眠っている。
だがユイは、その中で確かに目を覚ました。
彼女は今、ようやく自分自身として歩き出す。
──少女は、記憶の影を越えていく。
ユイ・カミシロは、都市の夜明けを見ていた。
あの日、記録管理局《オルド・メモリア》の中枢で、自分の全てを知った。
それは、真実という名の刃だった。だが彼女はそれを受け入れ、自らの「軌跡」とした。
今、彼女の中にはふたつの意識がある──ユイとアイ。
記憶を共有し、互いに歩んできた存在。
ふたりは分かたれた双子のように似て、そして違っていた。
融合は進み、互いの境界は曖昧になっていた。
それでも、ふたりの意志は一つだった。
「この都市を変える。記憶を支配する者たちの手から、自由を取り戻す」
***
都市第7層、スラム地帯《ネブラ》。
かつて廃棄された記録端末や違法な記憶抽出機が山積みにされていたその場所に、ユイは足を踏み入れた。
彼女は「記憶難民」たちを探していた。
──記憶を失った者たち。
──他人の人生を植え付けられた者たち。
──政府にとって“不都合な記憶”を持つ者たち。
そこには、かつての彼女と同じ目をした人々がいた。
「あなたたちの記憶は、奪われたものじゃない。
それでも、あなたたちは生きている。だからこそ、意味がある」
ユイの言葉は少しずつ広がっていく。
仲間ができはじめていた。
暗号屋の少年・カズ。義手の女性兵士・レイナ。そして、ハッカーAIアリスも依然として支援を続けている。
「ユイ、このデータを見て。管理局の次の動きが予測できるわ」
アリスが示したのは、都市中央《スフィア・ゼロ》の計画書だった。
それは“記憶の再初期化”──すなわち、都市全体の記憶を書き換えるプログラムだった。
「まさか……都市全体を、リセットするつもり?」
「ええ。都市OS“メモリア・シグマ”の強制再起動。
それが完了すれば、すべての人々が“統一された記憶”で書き換えられる」
それは、記憶という自由の死を意味する。
ユイは決意する。
「止めなきゃ。私たちは、過去をなかったことにされてはならない」
***
《スフィア・ゼロ》侵入計画は、仲間たちの知恵と勇気の結晶だった。
レイナが警備の陽動を引き受け、カズが防御システムをハッキング、ユイとアリスは最奥部“統合制御中枢”へのルートを突き進む。
中枢へたどり着いたとき、待っていたのは──
「……君が来ると信じていたよ」
そこに立っていたのは、記録管理局長官《ノア・セイン》。
静かな眼差し、銀の髪、年齢不詳の青年。
「君は“希望”だった。
人工記憶と自然記憶を融合できる“最初の存在”。だが、君が希望であり続けるには、他者の自由は不要だ」
「違う。私は“誰かの記憶”じゃない。私自身の意志で生きてる。
それは、誰にも操作できない」
ノアは静かに笑った。
「ならば証明してみせろ。記憶の力が、人間の意志に勝てないということを」
彼が起動したのは、都市記憶OS《メモリア・シグマ》の暴走モード。
都市中にあふれ返る記憶の断片が、物理空間に歪みを起こす。
「記憶が都市を喰う……!?」
崩れゆく空間。ゆがむ時間。過去と未来が錯綜する。
ユイの意識も、飲み込まれそうになる。
──その時、アイの声が響いた。
「ユイ。今こそ、私たちは一つにならなきゃ」
記憶の奥底。少女は彼女に手を差し伸べた。
「本当の記憶って、なにかって考えてた。
それは、つらさでも苦しさでもなく、“誰かと過ごした証”なんだと思う。
私たちの過去も、失われたわけじゃない。
忘れたくないのは、“一緒に笑った日々”なの」
ユイは涙を流しながら、彼女の手を取った。
──ふたりは、完全にひとつになった。
記憶が、意志に従い始める。
暴走するOSに逆流する“生の記憶”。
アリスが叫ぶ。
「いける! プログラムを上書きできる! ユイ、あなたの記憶で“再定義”するの!」
ユイは心の奥から、言葉を放った。
「記憶とは、自由であるべき。痛みも、愛も、すべてが私たちの生きた証。
誰もが、自分の物語を選ぶべきなんだ!」
その瞬間、全都市に“記憶の波動”が広がった。
──光。無数の記憶が天へと昇る。
──それは、解き放たれた魂のように自由だった。
《メモリア・シグマ》は停止した。
ノアは崩れゆくプラットフォームの中で立ち尽くす。
「……君が本物の“継承者”だったのか」
「いいえ、私たちは“始まり”になるの。これからの時代を、自分たちの記憶で刻むために」
***
数日後。
都市は変わった。管理局は解体され、記憶管理制度も廃止された。
人々は少しずつ、自分の“本当の記憶”を取り戻していく。
ネブラでは、ユイたちが開いた《記憶解放センター》が始動していた。
レイナとカズはそこで働き、アリスは都市ネットの自由なAIとして生まれ変わった。
そしてユイは、ひとりの少女の名をそっと口にする。
「アイ……ありがとう。あなたがいたから、私はここまで来られた」
風が吹く。空には星々がまたたく。
──もう誰かに記憶を決められることはない。
──これからは、自分の記憶で未来を描いていく。
ユイ・カミシロの目は、明日を見つめていた。
記憶管理局が崩壊してから、三ヶ月が経った。
都市には、静かに、しかし確かに変化が訪れていた。
市民は徐々に「与えられた記憶」ではなく「自らの記憶」で語り合いはじめ、
“思い出”というものが再び人と人を繋ぐ絆になりつつあった。
かつて記憶を売買し、統制していた企業群は解体され、
人々は「忘れる自由」と「思い出す自由」の重みを知りはじめた。
そんなある日、ユイのもとに一通の古い信号が届く。
──〈記録外衛星ステーション No.47 “ルーメン”より最終アクセス信号〉
それは遥か軌道上、かつてのオルフェウス計画本部が設置されていた衛星からの通信だった。
消されたはずの「最初の実験記録」が、そこにある。
ユイは決めた。
「行くわ、“はじまりの場所”へ」
***
宇宙航行船《プロメテア号》。
開放された軍用シャトルをカズが修復し、アリスが航路を構築。
レイナは彼女の肩を叩いて言った。
「また無茶をするんだな、ユイ」
「今度は私ひとりで。
記憶は共有できても、“答え”は自分で見つけたいの」
そして出発の日。
都市を見下ろす発射台の上、ユイは空を見上げる。
星が、そこにはあった。
かつて彼女が見たことのない、本当の星空。
「アイ……行こう。
あなたと私の物語を、終わらせるために。そして、次を始めるために」
***
無重力空間。深い沈黙の中、航行は続いた。
やがて、ユイは《ルーメン》の軌道ステーションへと到着する。
そこはすでに人の手が入らぬ朽ちた聖域だった。
無数のメモリーバンク。実験記録のホログラム。
そして、中央にただひとつ残された冷却保存カプセル。
ユイは静かに接続コードを挿す。
──記録再生開始。
【被験体X:A.I.(人工意識)構築プログラム】
【第1世代試験体 “ユイ”──記憶共有型プロトタイプ】
【人格分離処理開始──副意識コード名“Ai”として分化保存】
【倫理コードにより凍結処理】
ユイは目を見開く。
──つまり、最初に生まれたのは“わたし”だった。
そして、その「副意識」として“アイ”が創られたのではない。
“アイ”こそが主たる意識であり、“わたし”があとから与えられた存在だった。
「ユイ」と「アイ」は、決して別々の存在ではなく──
もともとひとつの魂が、社会の中で「役割」として分割されていたのだ。
自分は“本物”だったのか? 偽物だったのか?
その問いに、答えはなかった。
だが、ひとつだけ確かなものがある。
「私は生きてきた。この世界で、誰かと出会って、笑って、泣いて──それは何よりもリアルだった」
記憶とは“証明”ではない。
記憶とは、“物語”だ。
ならば、誰が書いたとしても、それを選んで生きた自分こそが「真実」なのだ。
ユイは衛星データを都市に向けて送信する。
すべての人々が「自分の過去」と向き合えるように。
そして、「自分の未来」を選べるように。
***
帰還のシャトルで、ユイは目を閉じる。
心の中で、アイの声が静かに囁く。
「……ユイ、ありがとう。
私はあなたで、あなたは私。ふたりで、ようやくひとりになれたね」
「うん。さよならじゃない。これからずっと一緒にいるから」
星の中に帰っていく記憶。
それは誰かの涙かもしれないし、誰かの笑顔かもしれない。
でも、その全てが、今の「私」を形づくっている。
──記憶は、生きるための地図。
──過去は、未来を選ぶための灯。
ユイ・カミシロは微笑む。
その眼差しは、もう迷っていなかった。
星屑のような記憶の中で、
彼女は確かに、自分の物語を選び取ったのだった。
⸻
星屑のアーカイブ
ーー完ーー
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