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第8話「君に投げてほしい」
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「はい、これ」試合当日、最寄り駅に着くと、待っていたかのえさんは紙袋を僕に渡した。
中にはユニフォームが入っている。
「これは?」
「ユニフォーム作ったから、あげるよ」
少し開けると、白い野球のユニフォームの上下が入っている。
「ありがとう」と僕は言う。
「いいよ」
「ユニフォーム代出すよ」
「いいよ。代わりにホームランでも打って」
かのえさんは他にも四つの袋を下げている。
全員分あるのか、と思う。
「持とうか?」
「ううん、大丈夫」
「ピッチャーは指が大切だから」
「うん。じゃあ」かのえさんは僕に紙袋を手渡す。
しばらくして、義一くんと若菜さん、青池先生も来て、僕たちは高校に向かう。
高校で着替えてから、河川敷のグラウンドに行くらしい。
更衣室でユニフォームを袋から出す。
『かのえアウトサイダーズ』というロゴが胸に書かれている。
「おー、凝ってんな」と青池先生が言う。
7月というだけあって、河川敷のグラウンドへ歩いていくだけで汗だくになった。
バットは貸してもらえるから、僕たちは水筒とタオルとグローブだけを持っている。
青池先生がクーラーボックスを持ってきてくれたから、僕たちはその中に水筒を入れる。
グラウンドではもう野球部たちが待っていた。
青鷺が僕を睨むから、僕は目をそらす。
グラウンドにはベースが三つ置かれている。
僕たちは外れたところでウォーミングアップのキャッチボールをする。
しばらく経った頃、審判を務める沢良先生が
「始めようか。並んで」という。
野球部がすぐに走ってきて、キャプテンの青鷺を先頭に左バッターボックスから真っすぐ並ぶ。
僕らも小走りで、反対のバッターボックスから向かい合うように、かのえさんを先頭に並ぶ。
野球部の顔ぶれをみると、青鷺はもちろん、鞍野やバッティングセンターで会った江津欧大、他にもどこかで見たことのある坊主が並んでいる。
「ルールの確認だ」と沢良先生が言う。
やはり審判の恰好をしていても、イケメンという評価がつくのは分かる。
「ベースは一塁、二塁(本来の野球では三塁の位置)、ホームの三つ。守備はかのえアウトサイダーズの人数に合わせて5人、野球部の攻撃はツーアウトでチェンジ、かのえアウトサイダーズの攻撃は五回までで、延長戦はなし。かのえアウトサイダーズはピッチングを少し前で行う。それ以外は本来の野球と一緒です。いいね?」
随分とこちらに有利な条件を手に入れたものだ。舐められているのか、かのえさんが上手く交渉したのか。
「はいっ」と青鷺が言う。野球部らしい大きな声だ。
かのえさんは頷く。
「じゃあ、始めようか。礼」
「お願いしますっ」と野球部が言う。
「お願いします」と僕たちも言う。
ん? まあ、いいか。
僕らは走ってベンチに戻る。
「義一、手伝い頼む」と義一に声を掛けて、キャッチャーの防具をつけるのを手伝ってもらう。
「私も手伝うよ」と若菜さん。
「おい、もっと大きい声であいさつしろよ」と青池先生がグローブをはめながら言う。
「……」僕も思った。
「早田、お前経験者だろ?」
「いや、まあ、はい」と僕はあいまいに答える。
「お前もな、かのえ」
「青池先生も大きい声出してなかったよ」とかのえさんがお茶を飲みながら言う。
「俺は大人だからいいんだよ」
「私もいいの。大事なのは気持ちだから」
「そうかよ」
義一と若菜さんに手伝われて、僕はようやく防具をつける。
「じゃあ、行こう」かのえさんがキャップのツバを持っていう。
短い髪を後ろで結んで、帽子の後ろから出している。
「うん」
僕たちはグラウンドに走っていく。
ピッチャーはかのえさん、キャッチャーは僕、ファーストが若菜さんで、内野手が義一、外野手が青池先生だ。
「よろしくお願いします」と沢良先生に言って、僕はホームベースの後ろにしゃがんでグローブを開く。
かのえさんはマウンドより少し手前に立って、胸の前で構える。
この高校のグラウンドくらいなら、たいして高くなってもいないからあまり違和感はない。
大丈夫、あれだけ練習したんだ、と心の中でかのえさんに言う。
かのえさんは右足を上げる。
大きく踏み込む。
右腕を前に出す。
左腕を振る。
ボールは山なりになって、僕のもとに届く。
僕はできるだけ丁寧にかのえさんに投げ返す。
「え、始球式?」と野球部の誰かが言って、ベンチで笑いが起こる。
「たしかにアイドルっぽいな」と別の誰かが言う。
確かに、グラウンドには不釣り合いなくらい白い。
それに、可愛い。
でも、きっとかのえさんは違う。アイドルではなく、ピッチャーだ。
かのえさんはもう一球投げる。
また僕のミットまで届く。
いい。
ボールを投げ返す。
「ナイスボール」僕はマスクを持ち上げて言う。
かのえさんはボールを受け取って、帽子のツバを触る。
「いい?」と沢良先生が言う。
「はい」と僕は答える。
傍で素振りをしていた鞍野がバッターボックスに入る。
「うちの奴らがいろいろ悪いな」と鞍野は僕に言う。
「かのえさんは気にしないと思う」
「そうか。よろしくな、久次郎」鞍野はバットを構える。
「プレイ」と沢良先生が言う。
鞍野の事は知っている。キャッチャーであること、それから、一番打者というだけあって、足が速いこと。足が速いならキャッチャーじゃなくてもいいと思ったが、キャッチャーがいいらしい。
でも、かのえさんは僕のリードに従って投げることができるほどのコントロールはない。
つまり、僕の使える手札は限られている。
だから僕はあらかじめかのえさんと作戦を立ててきた。
僕は指でかのえさんにサインを送る。
かのえさんが頷く。
僕は立ち上がる。
すまない、鞍野。
「敬遠、お願いします」
「っ」鞍野が驚いて息を呑む。
「本当にいいんだね?」と沢良先生。
「はい」
「分かった。じゃあ、鞍野」
「まぁ、これも勝負だからな」鞍野は小走りで一塁に歩いていく。
次のバッターは暮露 路團(ぼろ ろとん)、外野手で、肩も強く、足も速い。背も高くて肩幅も広い、筋骨隆々といった感じだ。
「よろしくお願いします」暮露はバットを構える。
「敬遠、お願いします」
暮露は少し苛立ったようにバットを捨てて、一塁に行く。
鞍野は二塁に進む。
「なんのつもりだ。舐めてんのか?」と言いながら、青鷺がバッターボックスに入って来る。
「青鷺、礼儀な」と沢良先生。
「こいつに言ってやってください」青鷺はバットを構える。
「僕たちなら、これでも十分守れると思った。それだけだよ」と僕は青鷺に言う。
青鷺の肩に力が入る。
相当、怒っているのだろう。
もしかしたら、ここで殴り殺されるかもしれないな、と思う。
かのえさんがボールを投げる。
ボールを離すタイミングが一瞬遅れる。
外れる。
僕は慌ててミットを下に向ける。
手前で跳ねたボールが来る。
僕は何とか止める。
少し離れていた鞍野が二塁に戻る。
危ない。二塁にいると、パスボールできないんだな。
青鷺は無言で、なおもイラついた様子でバットを構えなおす。
僕はかのえさんにボールを投げ返す。
僕はまたミットを構える。
この作戦はかのえさんがある程度、いいところに投げてくれなければできない。
かのえさんは足を上げて、投げる。
来た、と青鷺はきっと思った。
いけ、
青鷺は思いっきりバットを振る。
「っ、あ」と打った瞬間に呟く。
ボールは一瞬で夏空に跳ね上がる。
僕は急いでマスクを外す。
思ったより遠くまで飛んでいく。
まずいかもしれない。
鞍野が数歩、塁を離れる。
暮露も同じだ。
想定以上に遠くまで飛ぶ。
青池先生が走っていく。
ボールは思ったよりも伸びる。
「おい、早田」と青池先生は叫ぶ。
左手を伸ばして跳ねるようにグローブの先で取る。
足場が悪い、それに遠い。
鞍野は二塁を蹴る。
足には自信がある。
一気にホームまで戻って来る。
僕は低い位置でグローブを構える。
来い。
「オラっ」青池先生は怒鳴ってボールを投げる。
鞍野が来る。
ボールが真っすぐ来る。
ベース手前で跳ねる。
鞍野が滑り込む。
ボールがミットに飛び込む。
どうだ、
「アウト。チェンジ」と沢良先生が言う。
鞍野は立ち上がる。
「まんまと、やられたのか」と鞍野が言う。
「いや、ギリギリだった。青鷺の実力は僕の想像以上だ。危ないところだった」
「そうかよ」と言って鞍野は小走りでベンチに戻っていく。
今回の作戦の狙いは青池先生の実力を見誤らせて、鞍野を走らせることだった。
まず、二者連続敬遠で青鷺を怒らせた状態で打席に立たせる。その上、この前の敗北もあるから、青鷺は絶対に打ちたい。そして、かのえさんのボールは球速が遅い。打てそうだという印象をもつだろう。しかし、実際、普段見慣れている球より球速がはるかに遅いうえに、山なりで飛んでくるから、いきなり打つのは意外と難しい。芯に当てられず、ファールになるか、フライを上げるだろうと思っていた。思ったより青鷺がとばしたから、肝を冷やしたけれど、青池先生も僕の想像より遥かに実力があった。
僕はまだまだだなと思いながらベンチへ向かう。
「ナイスピッチ」僕は走りながらかのえさんに言う。
「久次郎の策がハマったね」かのえさんはニヤリと笑う。
それでも、どことなく疲れているような感じがした。
「先生、ナイスプレー」と私は青池先生に手を出す。
少し不安だった。練習で怒られてばかりだったから、もしかしたら、先生に嫌われてるかもしれないと思って。
「おう」青池先生はそっけない顔で、私の手を叩く。
やっぱり、と少し思う。
かのえちゃんはバットを持って、キャッチャーの向こうにいく。
私は次だから、ヘルメットをかぶる。少し大きい。
ベンチの前に座って待つ。
ピッチャーの練習に合わせて、かのえちゃんは素振りをしている。
「あいつ、えつおじゃないか?」と青池先生が言う。
「ああ、そうですね」と久次郎が答える。
「あいつ、ピッチャーだったんだな」
「バッティングも上手かったですけど」
「高校生なら、ピッチャーで四番もザラだろ」
「確かに、甲子園とか見てるとそうですね」
沢良先生がかのえちゃんに何かを言って、かのえちゃんが打席に入る。
「バッター打てるよ」と久次郎。
「バッチ打てー」と青池先生。
「かのえちゃん打てるよ」と私も声援を送る。
かのえちゃんは集中した表情でまっすぐピッチャーを見る。
何かに集中しているかのえちゃんはかっこいい。
ピッチャーは足を上げて、勢いよくボールを投げる。
かのえちゃんはバットを振る。
空振りだ。
ボールはキャッチャーのミットに収まり、乾いた音を立てる。
「ドンマイ」
「ナイススイング」久次郎と青池先生はこなれた様子で声援を送る。
かのえちゃんはもう一度空振りをする。
そして、もう一度。
当たらない。
かのえちゃんはこちらへ戻ってくる。
「頑張って、若菜ちゃん」かのえちゃんが言う。
バッターボックスに入る。
「よろしくお願いします」と言う。打席に入るときに挨拶をしたほうがいいという話は久次郎が教えてくれた。
バッティングセンターとは全然違う景色。
緊張のせいか、広いからか、外野の端のほうに向けて、下向きに沿っているように見える。
大海原の水平線みたいだ。
そこに、何人もの人。
ピッチャーが左足を上げる。
来る。
私は構える。
ボールがまっすぐキャッチャーのグローブに収まる。
「ストライク」と沢良先生が言う。
早い。
手が出なかった。
でも、打つ。青池先生に見捨てられないように、私は打たないといけない。
私はバットを構えなおす。青池先生に教えてもらった通りに。
バットを強く握る。
ピッチャーが足を上げる。
来る。
今だ。
いつもと同じようにバットを振る。
え、なんで、
ボールがバットをすり抜けるように曲がる。
「ストライク」
やばい、やばい、やばい
慌てて構えなおす。
ピッチャーがもう一度、足を上げる。
打たないと、打たないと——
「ストライク」と沢良先生。
ダメだ、もう。
私は打席を離れてベンチに向かう。
次の青池先生が歩いてくる。
「すみませんでした」と私は言う。
また泣きそうだ。
青池先生は私の前で立ち止まる。
そして、私のヘルメットのツバを叩く。
少し大きかったから、それが目を覆う。
「ばーか。なに謝ってんだよ」
「……」
「バッティングなんて、上手でも三割だ。大体打てないんだよ」
青池先生は、私のズレたヘルメットの位置を直す。
「大丈夫だ。別に、三好が打てても、そうじゃなくても、置いてきぼりにしたりしねぇよ」
その言葉を聞いて、余計に泣けてくる。
「ごめんなさい、っ、私、なにも、できなくて」
青池先生は私の頭を優しく二回たたく。
「よく頑張ったな、三好。お前の分も俺が回ってきてやる」
青池先生はバッターボックスに歩いていく。
私は振り返って、青池先生を見る。
バッターボックスは涙でにじんでいて、よく見えなかった。
「ちょっと、生徒との距離が近すぎるんじゃないか、昇?」
打席に入ると、審判の沢良が話しかけてくる。
「課外活動だ。別に生徒と教師の関係じゃねぇよ。近くもねぇしな」
「あ、そう」
さて、打つか。
バットを構える。
やっぱ、人間が相手だとテンション上がるな。
えつおが足を上げる。
来る。
ボールが投げられる。
いや、外れる。
ボールは俺にかなり近いところに来る。
「ストライク」と沢良が言う。
俺は足をバッターボックスから外す。
「は? なんでだよ。どうみてもボールだろ」
沢良は審判用のマスクを外して笑う。
「僕に挨拶しなかっただろう?」
「お前が話しかけてきたからだろ」
「もしかして、高校一年生相手にストライクのハンデ一つもあげられないのか?」
「チっ、わかったよ」俺は手元でバットを一周回して打席に入る。
「プレイ」と沢良が言う。
えつおの指先からボールが放たれる。
今度は来るな。
球速は遅い。
打てるか。
いや、誘ってるな。
ギリギリのところでバットを止める。
ボールは大きく左に曲がりながら落ちる。
カーブか。こんなに曲がるんだな。
「どう見る?」と沢良が言う。
「いいピッチャーだが、変化球がうますぎる。ケガしないか心配だ」
「同感だね」
えつおが足を上げる。
速球、来たな。
俺はバットを振る。
くそ、曲がるか。
ボールはバットの先に当たって、一塁側のベンチに飛び込む。
「悪い」と野球部たちに言う。
あんなに速い球でも曲がるのか。
キャッチャーが沢良からボールを受け取って、えつおに投げる。
俺はもう一度構える。
えつおが投げる。
くそ、またファールかよ。
「バッチ打てるよー」
「青池先生、打てますよ」とベンチから声が聞こえる。
「青池先生、打って」と三好の声が聞こえる。
ああ、打たねぇとだな。そういえば、そんなことを言ったんだった。
えつおがまたボールを投げる。
またカーブか。
いや、今度こそ来たな。
思いっきりバットを振る。
あ、いったな。
ボールは高く上がり、青空にどこまでも飛んでいく。
さっき俺が捕ったボールとは違う。
これがほんとのホームランだ。
俺はバットを置いて、小走りで一塁のほうへ回る。
「すげぇ」と野球部の誰かが言う。
「おっさん、すげぇ」
「だろ」と言ってやる。おっさんじゃねぇけど。
それから二塁を踏んで、ホームへ戻る。
えつおがまっすぐこっちを見ている。
「ナイスボール。打ち取ってるところだったぜ、バッターが俺じゃなければな」
青池先生の次に回ってきた僕の打席は、二球目で打ち取られて終わった。
悔しいけれど、切り替えなくてはいけない。
急いでベンチに戻って、また義一と若菜さんに手伝ってもらいながら防具をつける。
「よし。お待たせ、かのえさん」
「うん」かのえさんは、また陽炎のマウンドに立つ。
僕はベースの後ろに座る。
「ここまでの策を考えたのは君かい?」
背後から沢良先生に話しかけられる。
「はい」と僕は答える。
「面白いことを考えるね。まるで昔の僕の相方みたいだ」
「そうですか」なんの話だろう。
「えつおは間違いなく君の策を壊せる」
「……」僕は黙ってミットを構える。
確かに、前回の策は上手くいったが、江津欧大の攻略方法は思いついていない。
最低でも二塁打で止めたい。かのえさんほどのスローボールに慣れていないから、ホームランはないだろう。そのくらいだ。
「お願いします」と言って、えつおが左打席に立つ。
きれいな構えだな、と思う。
かのえさんは足を上げる。
腕を振って球を投げる。
えつおは気だるそうにバットを振る。
かのえさんが驚いたように目を見開く。
ボールはさっきの青池先生と同じような軌道でどこまで飛んでいく。
いやな汗が流れる。
余裕でホームランだ。
青池先生はボールを追おうともしない。
えつおは淡々と一周して、ホームを踏んでベンチに戻っていく。
「やったな」などとチームメイトに言われている。
かのえさんは帽子を脱いで額の汗を拭う。
「おい、昇ー、ボール探しに行けよー」と相沢先生が言う。
「後でな」
次のバッターが入ってくる。大男、加牟波理 入道だ。ポジションはファースト。
どうするべきだろう。また、敬遠か。そうだな。
「すみません、敬遠お願いします」僕は沢良先生に言う。
かのえさんは黙ってうなずく。
次にバッターボックスに鞍野が入ってくる。
どうする?
とりあえず敬遠する。
満塁だ。バッターは暮露。
もう勝負するしかない。
僕は構える。
かのえさんが投げる。
ボールは手前で跳ねる。
僕は体に当てて止める。
蝉の鳴き声がうるさい。
僕は慌ててボールを拾ってかのえさんに投げ返す。
防具が暑い。
かのえさんはまた投げる。
入らない。
それがさらに二球続く。
フォアボールだ。
ランナーが全員一つ進み、暮露が戻ってくる。
そしてバッターは青鷺だ。
青鷺はさっきとは違って悠々と構える。
まずい、直感的にそう思う。
かのえさんがボールを投げる。
外れる。
そう思ったとき、青鷺は腕を伸ばして、バットの芯を遠いボールにぶつける。
っ、
一打席目とは次元が違う。
ボールはまた青池先生を超える。
鞍野が戻ってきて、暮露が戻ってきて、それから青鷺も戻ってくる。
僕は唖然として、その様子を見続ける。
その時、青鷺が僕に言う。
「あれはあの子の失点じゃない。お前の失点だ」
「……」分かってるよ、そんなこと。
僕はミットを構える。
0―5だ。
次のバッターはまたえつおだ。
どうする、どうすればいい?
とりあえず、えつおはダメだ。
敬遠する。
えつおは一塁にいる。
かのえさんは額の汗を拭う。
次に打席に入ってくるのは加牟波理だ。
見るからに打てそうな様子で構える。
僕はミットを構える。
もう、どうすればいいのか分からない。
一刻も早くこの守りが終わってほしい。
僕は無責任にもかのえさんに託してしまった。
加牟波理もホームランを打つ。
暑さと、蝉の鳴き声と、もう何が起こっているのかも分からない。
苦しい。
早く、終われ。
鞍野がバットを構える。
僕もミットを構える。
かのえさんがなかなか投げようとしない。
なんで、投げないんだ。
その時、かのえさんが左手を上げる。
明らかに様子がおかしい。
「すいません、タイムを」と僕は沢良先生にいう。
「うん、いいよ」と沢良先生は答える。
僕はマスクを脱いで、かのえさんに駆け寄る。
「どうした?」
「ちょっと、気持ち悪くなってきたかも」と言う。
見るからに顔色が悪い。
どうして、今まで気付けなかったんだ。
「いったん、休もう」
僕の発言に答えるより早く、かのえさんは目をつむる。
体が前に倒れる。
「かのえさんっ」僕はそれを受け止める。
かのえさんは全然汗をかいていない。ほとんど知識のない僕でもわかる、熱中症だ。
沢良先生と青池先生が素早く駆け寄る。
「動かすぞ、かのえ」青池先生がかのえの膝を支えて抱き上げる。
「とりあえず、ベンチ連れてくな」と青池先生はかのえさんにそう言ってベンチへ連れていく。
「早田、クーラーボックスのペットボトルだせ」
「はい」
青池先生はかのえさんを仰向けに寝かせ、首や脇、膝の裏に冷えたペットボトルを上げる。
義一と若菜さんも駆け寄ってきている。
「かのえさん」
「ごめん、久次郎」仰向けのまま、かのえさんは僕を見る。
いつもより正気のないない、疲れた目をしている。
そういえば、一回のピッチングが終わったときから、少し顔色が悪かった。なんで、僕はなにもしなかったのだろう。
「どうだ?」と青池先生が言う。
「ちょっと待って。すぐ投げれるようにするから」
「無理だ。自分でも分かってるだろ」と青池先生が言う。
かのえさんは体を起こして、しばらくグラウンドを見つめる。
「……わかった」
「なら、試合は、」
「試合は続ける。久次郎、もう一つのプランで行こう」
かのえさんは立ち上がる。少しふらつく。
それから、自分のグローブの中に入っているボールを持って、相手のベンチに行く。
そんなにうまく行くとは思えないけど。
かのえさんはベンチに座っている一人の野球部員の前でボールを差し出す。
「私は投げれなくなった。君に投げてほしい」
その野球部員——江津 欧大はそのボールをつかむ。
「分かった。俺が投げる」
つづく
中にはユニフォームが入っている。
「これは?」
「ユニフォーム作ったから、あげるよ」
少し開けると、白い野球のユニフォームの上下が入っている。
「ありがとう」と僕は言う。
「いいよ」
「ユニフォーム代出すよ」
「いいよ。代わりにホームランでも打って」
かのえさんは他にも四つの袋を下げている。
全員分あるのか、と思う。
「持とうか?」
「ううん、大丈夫」
「ピッチャーは指が大切だから」
「うん。じゃあ」かのえさんは僕に紙袋を手渡す。
しばらくして、義一くんと若菜さん、青池先生も来て、僕たちは高校に向かう。
高校で着替えてから、河川敷のグラウンドに行くらしい。
更衣室でユニフォームを袋から出す。
『かのえアウトサイダーズ』というロゴが胸に書かれている。
「おー、凝ってんな」と青池先生が言う。
7月というだけあって、河川敷のグラウンドへ歩いていくだけで汗だくになった。
バットは貸してもらえるから、僕たちは水筒とタオルとグローブだけを持っている。
青池先生がクーラーボックスを持ってきてくれたから、僕たちはその中に水筒を入れる。
グラウンドではもう野球部たちが待っていた。
青鷺が僕を睨むから、僕は目をそらす。
グラウンドにはベースが三つ置かれている。
僕たちは外れたところでウォーミングアップのキャッチボールをする。
しばらく経った頃、審判を務める沢良先生が
「始めようか。並んで」という。
野球部がすぐに走ってきて、キャプテンの青鷺を先頭に左バッターボックスから真っすぐ並ぶ。
僕らも小走りで、反対のバッターボックスから向かい合うように、かのえさんを先頭に並ぶ。
野球部の顔ぶれをみると、青鷺はもちろん、鞍野やバッティングセンターで会った江津欧大、他にもどこかで見たことのある坊主が並んでいる。
「ルールの確認だ」と沢良先生が言う。
やはり審判の恰好をしていても、イケメンという評価がつくのは分かる。
「ベースは一塁、二塁(本来の野球では三塁の位置)、ホームの三つ。守備はかのえアウトサイダーズの人数に合わせて5人、野球部の攻撃はツーアウトでチェンジ、かのえアウトサイダーズの攻撃は五回までで、延長戦はなし。かのえアウトサイダーズはピッチングを少し前で行う。それ以外は本来の野球と一緒です。いいね?」
随分とこちらに有利な条件を手に入れたものだ。舐められているのか、かのえさんが上手く交渉したのか。
「はいっ」と青鷺が言う。野球部らしい大きな声だ。
かのえさんは頷く。
「じゃあ、始めようか。礼」
「お願いしますっ」と野球部が言う。
「お願いします」と僕たちも言う。
ん? まあ、いいか。
僕らは走ってベンチに戻る。
「義一、手伝い頼む」と義一に声を掛けて、キャッチャーの防具をつけるのを手伝ってもらう。
「私も手伝うよ」と若菜さん。
「おい、もっと大きい声であいさつしろよ」と青池先生がグローブをはめながら言う。
「……」僕も思った。
「早田、お前経験者だろ?」
「いや、まあ、はい」と僕はあいまいに答える。
「お前もな、かのえ」
「青池先生も大きい声出してなかったよ」とかのえさんがお茶を飲みながら言う。
「俺は大人だからいいんだよ」
「私もいいの。大事なのは気持ちだから」
「そうかよ」
義一と若菜さんに手伝われて、僕はようやく防具をつける。
「じゃあ、行こう」かのえさんがキャップのツバを持っていう。
短い髪を後ろで結んで、帽子の後ろから出している。
「うん」
僕たちはグラウンドに走っていく。
ピッチャーはかのえさん、キャッチャーは僕、ファーストが若菜さんで、内野手が義一、外野手が青池先生だ。
「よろしくお願いします」と沢良先生に言って、僕はホームベースの後ろにしゃがんでグローブを開く。
かのえさんはマウンドより少し手前に立って、胸の前で構える。
この高校のグラウンドくらいなら、たいして高くなってもいないからあまり違和感はない。
大丈夫、あれだけ練習したんだ、と心の中でかのえさんに言う。
かのえさんは右足を上げる。
大きく踏み込む。
右腕を前に出す。
左腕を振る。
ボールは山なりになって、僕のもとに届く。
僕はできるだけ丁寧にかのえさんに投げ返す。
「え、始球式?」と野球部の誰かが言って、ベンチで笑いが起こる。
「たしかにアイドルっぽいな」と別の誰かが言う。
確かに、グラウンドには不釣り合いなくらい白い。
それに、可愛い。
でも、きっとかのえさんは違う。アイドルではなく、ピッチャーだ。
かのえさんはもう一球投げる。
また僕のミットまで届く。
いい。
ボールを投げ返す。
「ナイスボール」僕はマスクを持ち上げて言う。
かのえさんはボールを受け取って、帽子のツバを触る。
「いい?」と沢良先生が言う。
「はい」と僕は答える。
傍で素振りをしていた鞍野がバッターボックスに入る。
「うちの奴らがいろいろ悪いな」と鞍野は僕に言う。
「かのえさんは気にしないと思う」
「そうか。よろしくな、久次郎」鞍野はバットを構える。
「プレイ」と沢良先生が言う。
鞍野の事は知っている。キャッチャーであること、それから、一番打者というだけあって、足が速いこと。足が速いならキャッチャーじゃなくてもいいと思ったが、キャッチャーがいいらしい。
でも、かのえさんは僕のリードに従って投げることができるほどのコントロールはない。
つまり、僕の使える手札は限られている。
だから僕はあらかじめかのえさんと作戦を立ててきた。
僕は指でかのえさんにサインを送る。
かのえさんが頷く。
僕は立ち上がる。
すまない、鞍野。
「敬遠、お願いします」
「っ」鞍野が驚いて息を呑む。
「本当にいいんだね?」と沢良先生。
「はい」
「分かった。じゃあ、鞍野」
「まぁ、これも勝負だからな」鞍野は小走りで一塁に歩いていく。
次のバッターは暮露 路團(ぼろ ろとん)、外野手で、肩も強く、足も速い。背も高くて肩幅も広い、筋骨隆々といった感じだ。
「よろしくお願いします」暮露はバットを構える。
「敬遠、お願いします」
暮露は少し苛立ったようにバットを捨てて、一塁に行く。
鞍野は二塁に進む。
「なんのつもりだ。舐めてんのか?」と言いながら、青鷺がバッターボックスに入って来る。
「青鷺、礼儀な」と沢良先生。
「こいつに言ってやってください」青鷺はバットを構える。
「僕たちなら、これでも十分守れると思った。それだけだよ」と僕は青鷺に言う。
青鷺の肩に力が入る。
相当、怒っているのだろう。
もしかしたら、ここで殴り殺されるかもしれないな、と思う。
かのえさんがボールを投げる。
ボールを離すタイミングが一瞬遅れる。
外れる。
僕は慌ててミットを下に向ける。
手前で跳ねたボールが来る。
僕は何とか止める。
少し離れていた鞍野が二塁に戻る。
危ない。二塁にいると、パスボールできないんだな。
青鷺は無言で、なおもイラついた様子でバットを構えなおす。
僕はかのえさんにボールを投げ返す。
僕はまたミットを構える。
この作戦はかのえさんがある程度、いいところに投げてくれなければできない。
かのえさんは足を上げて、投げる。
来た、と青鷺はきっと思った。
いけ、
青鷺は思いっきりバットを振る。
「っ、あ」と打った瞬間に呟く。
ボールは一瞬で夏空に跳ね上がる。
僕は急いでマスクを外す。
思ったより遠くまで飛んでいく。
まずいかもしれない。
鞍野が数歩、塁を離れる。
暮露も同じだ。
想定以上に遠くまで飛ぶ。
青池先生が走っていく。
ボールは思ったよりも伸びる。
「おい、早田」と青池先生は叫ぶ。
左手を伸ばして跳ねるようにグローブの先で取る。
足場が悪い、それに遠い。
鞍野は二塁を蹴る。
足には自信がある。
一気にホームまで戻って来る。
僕は低い位置でグローブを構える。
来い。
「オラっ」青池先生は怒鳴ってボールを投げる。
鞍野が来る。
ボールが真っすぐ来る。
ベース手前で跳ねる。
鞍野が滑り込む。
ボールがミットに飛び込む。
どうだ、
「アウト。チェンジ」と沢良先生が言う。
鞍野は立ち上がる。
「まんまと、やられたのか」と鞍野が言う。
「いや、ギリギリだった。青鷺の実力は僕の想像以上だ。危ないところだった」
「そうかよ」と言って鞍野は小走りでベンチに戻っていく。
今回の作戦の狙いは青池先生の実力を見誤らせて、鞍野を走らせることだった。
まず、二者連続敬遠で青鷺を怒らせた状態で打席に立たせる。その上、この前の敗北もあるから、青鷺は絶対に打ちたい。そして、かのえさんのボールは球速が遅い。打てそうだという印象をもつだろう。しかし、実際、普段見慣れている球より球速がはるかに遅いうえに、山なりで飛んでくるから、いきなり打つのは意外と難しい。芯に当てられず、ファールになるか、フライを上げるだろうと思っていた。思ったより青鷺がとばしたから、肝を冷やしたけれど、青池先生も僕の想像より遥かに実力があった。
僕はまだまだだなと思いながらベンチへ向かう。
「ナイスピッチ」僕は走りながらかのえさんに言う。
「久次郎の策がハマったね」かのえさんはニヤリと笑う。
それでも、どことなく疲れているような感じがした。
「先生、ナイスプレー」と私は青池先生に手を出す。
少し不安だった。練習で怒られてばかりだったから、もしかしたら、先生に嫌われてるかもしれないと思って。
「おう」青池先生はそっけない顔で、私の手を叩く。
やっぱり、と少し思う。
かのえちゃんはバットを持って、キャッチャーの向こうにいく。
私は次だから、ヘルメットをかぶる。少し大きい。
ベンチの前に座って待つ。
ピッチャーの練習に合わせて、かのえちゃんは素振りをしている。
「あいつ、えつおじゃないか?」と青池先生が言う。
「ああ、そうですね」と久次郎が答える。
「あいつ、ピッチャーだったんだな」
「バッティングも上手かったですけど」
「高校生なら、ピッチャーで四番もザラだろ」
「確かに、甲子園とか見てるとそうですね」
沢良先生がかのえちゃんに何かを言って、かのえちゃんが打席に入る。
「バッター打てるよ」と久次郎。
「バッチ打てー」と青池先生。
「かのえちゃん打てるよ」と私も声援を送る。
かのえちゃんは集中した表情でまっすぐピッチャーを見る。
何かに集中しているかのえちゃんはかっこいい。
ピッチャーは足を上げて、勢いよくボールを投げる。
かのえちゃんはバットを振る。
空振りだ。
ボールはキャッチャーのミットに収まり、乾いた音を立てる。
「ドンマイ」
「ナイススイング」久次郎と青池先生はこなれた様子で声援を送る。
かのえちゃんはもう一度空振りをする。
そして、もう一度。
当たらない。
かのえちゃんはこちらへ戻ってくる。
「頑張って、若菜ちゃん」かのえちゃんが言う。
バッターボックスに入る。
「よろしくお願いします」と言う。打席に入るときに挨拶をしたほうがいいという話は久次郎が教えてくれた。
バッティングセンターとは全然違う景色。
緊張のせいか、広いからか、外野の端のほうに向けて、下向きに沿っているように見える。
大海原の水平線みたいだ。
そこに、何人もの人。
ピッチャーが左足を上げる。
来る。
私は構える。
ボールがまっすぐキャッチャーのグローブに収まる。
「ストライク」と沢良先生が言う。
早い。
手が出なかった。
でも、打つ。青池先生に見捨てられないように、私は打たないといけない。
私はバットを構えなおす。青池先生に教えてもらった通りに。
バットを強く握る。
ピッチャーが足を上げる。
来る。
今だ。
いつもと同じようにバットを振る。
え、なんで、
ボールがバットをすり抜けるように曲がる。
「ストライク」
やばい、やばい、やばい
慌てて構えなおす。
ピッチャーがもう一度、足を上げる。
打たないと、打たないと——
「ストライク」と沢良先生。
ダメだ、もう。
私は打席を離れてベンチに向かう。
次の青池先生が歩いてくる。
「すみませんでした」と私は言う。
また泣きそうだ。
青池先生は私の前で立ち止まる。
そして、私のヘルメットのツバを叩く。
少し大きかったから、それが目を覆う。
「ばーか。なに謝ってんだよ」
「……」
「バッティングなんて、上手でも三割だ。大体打てないんだよ」
青池先生は、私のズレたヘルメットの位置を直す。
「大丈夫だ。別に、三好が打てても、そうじゃなくても、置いてきぼりにしたりしねぇよ」
その言葉を聞いて、余計に泣けてくる。
「ごめんなさい、っ、私、なにも、できなくて」
青池先生は私の頭を優しく二回たたく。
「よく頑張ったな、三好。お前の分も俺が回ってきてやる」
青池先生はバッターボックスに歩いていく。
私は振り返って、青池先生を見る。
バッターボックスは涙でにじんでいて、よく見えなかった。
「ちょっと、生徒との距離が近すぎるんじゃないか、昇?」
打席に入ると、審判の沢良が話しかけてくる。
「課外活動だ。別に生徒と教師の関係じゃねぇよ。近くもねぇしな」
「あ、そう」
さて、打つか。
バットを構える。
やっぱ、人間が相手だとテンション上がるな。
えつおが足を上げる。
来る。
ボールが投げられる。
いや、外れる。
ボールは俺にかなり近いところに来る。
「ストライク」と沢良が言う。
俺は足をバッターボックスから外す。
「は? なんでだよ。どうみてもボールだろ」
沢良は審判用のマスクを外して笑う。
「僕に挨拶しなかっただろう?」
「お前が話しかけてきたからだろ」
「もしかして、高校一年生相手にストライクのハンデ一つもあげられないのか?」
「チっ、わかったよ」俺は手元でバットを一周回して打席に入る。
「プレイ」と沢良が言う。
えつおの指先からボールが放たれる。
今度は来るな。
球速は遅い。
打てるか。
いや、誘ってるな。
ギリギリのところでバットを止める。
ボールは大きく左に曲がりながら落ちる。
カーブか。こんなに曲がるんだな。
「どう見る?」と沢良が言う。
「いいピッチャーだが、変化球がうますぎる。ケガしないか心配だ」
「同感だね」
えつおが足を上げる。
速球、来たな。
俺はバットを振る。
くそ、曲がるか。
ボールはバットの先に当たって、一塁側のベンチに飛び込む。
「悪い」と野球部たちに言う。
あんなに速い球でも曲がるのか。
キャッチャーが沢良からボールを受け取って、えつおに投げる。
俺はもう一度構える。
えつおが投げる。
くそ、またファールかよ。
「バッチ打てるよー」
「青池先生、打てますよ」とベンチから声が聞こえる。
「青池先生、打って」と三好の声が聞こえる。
ああ、打たねぇとだな。そういえば、そんなことを言ったんだった。
えつおがまたボールを投げる。
またカーブか。
いや、今度こそ来たな。
思いっきりバットを振る。
あ、いったな。
ボールは高く上がり、青空にどこまでも飛んでいく。
さっき俺が捕ったボールとは違う。
これがほんとのホームランだ。
俺はバットを置いて、小走りで一塁のほうへ回る。
「すげぇ」と野球部の誰かが言う。
「おっさん、すげぇ」
「だろ」と言ってやる。おっさんじゃねぇけど。
それから二塁を踏んで、ホームへ戻る。
えつおがまっすぐこっちを見ている。
「ナイスボール。打ち取ってるところだったぜ、バッターが俺じゃなければな」
青池先生の次に回ってきた僕の打席は、二球目で打ち取られて終わった。
悔しいけれど、切り替えなくてはいけない。
急いでベンチに戻って、また義一と若菜さんに手伝ってもらいながら防具をつける。
「よし。お待たせ、かのえさん」
「うん」かのえさんは、また陽炎のマウンドに立つ。
僕はベースの後ろに座る。
「ここまでの策を考えたのは君かい?」
背後から沢良先生に話しかけられる。
「はい」と僕は答える。
「面白いことを考えるね。まるで昔の僕の相方みたいだ」
「そうですか」なんの話だろう。
「えつおは間違いなく君の策を壊せる」
「……」僕は黙ってミットを構える。
確かに、前回の策は上手くいったが、江津欧大の攻略方法は思いついていない。
最低でも二塁打で止めたい。かのえさんほどのスローボールに慣れていないから、ホームランはないだろう。そのくらいだ。
「お願いします」と言って、えつおが左打席に立つ。
きれいな構えだな、と思う。
かのえさんは足を上げる。
腕を振って球を投げる。
えつおは気だるそうにバットを振る。
かのえさんが驚いたように目を見開く。
ボールはさっきの青池先生と同じような軌道でどこまで飛んでいく。
いやな汗が流れる。
余裕でホームランだ。
青池先生はボールを追おうともしない。
えつおは淡々と一周して、ホームを踏んでベンチに戻っていく。
「やったな」などとチームメイトに言われている。
かのえさんは帽子を脱いで額の汗を拭う。
「おい、昇ー、ボール探しに行けよー」と相沢先生が言う。
「後でな」
次のバッターが入ってくる。大男、加牟波理 入道だ。ポジションはファースト。
どうするべきだろう。また、敬遠か。そうだな。
「すみません、敬遠お願いします」僕は沢良先生に言う。
かのえさんは黙ってうなずく。
次にバッターボックスに鞍野が入ってくる。
どうする?
とりあえず敬遠する。
満塁だ。バッターは暮露。
もう勝負するしかない。
僕は構える。
かのえさんが投げる。
ボールは手前で跳ねる。
僕は体に当てて止める。
蝉の鳴き声がうるさい。
僕は慌ててボールを拾ってかのえさんに投げ返す。
防具が暑い。
かのえさんはまた投げる。
入らない。
それがさらに二球続く。
フォアボールだ。
ランナーが全員一つ進み、暮露が戻ってくる。
そしてバッターは青鷺だ。
青鷺はさっきとは違って悠々と構える。
まずい、直感的にそう思う。
かのえさんがボールを投げる。
外れる。
そう思ったとき、青鷺は腕を伸ばして、バットの芯を遠いボールにぶつける。
っ、
一打席目とは次元が違う。
ボールはまた青池先生を超える。
鞍野が戻ってきて、暮露が戻ってきて、それから青鷺も戻ってくる。
僕は唖然として、その様子を見続ける。
その時、青鷺が僕に言う。
「あれはあの子の失点じゃない。お前の失点だ」
「……」分かってるよ、そんなこと。
僕はミットを構える。
0―5だ。
次のバッターはまたえつおだ。
どうする、どうすればいい?
とりあえず、えつおはダメだ。
敬遠する。
えつおは一塁にいる。
かのえさんは額の汗を拭う。
次に打席に入ってくるのは加牟波理だ。
見るからに打てそうな様子で構える。
僕はミットを構える。
もう、どうすればいいのか分からない。
一刻も早くこの守りが終わってほしい。
僕は無責任にもかのえさんに託してしまった。
加牟波理もホームランを打つ。
暑さと、蝉の鳴き声と、もう何が起こっているのかも分からない。
苦しい。
早く、終われ。
鞍野がバットを構える。
僕もミットを構える。
かのえさんがなかなか投げようとしない。
なんで、投げないんだ。
その時、かのえさんが左手を上げる。
明らかに様子がおかしい。
「すいません、タイムを」と僕は沢良先生にいう。
「うん、いいよ」と沢良先生は答える。
僕はマスクを脱いで、かのえさんに駆け寄る。
「どうした?」
「ちょっと、気持ち悪くなってきたかも」と言う。
見るからに顔色が悪い。
どうして、今まで気付けなかったんだ。
「いったん、休もう」
僕の発言に答えるより早く、かのえさんは目をつむる。
体が前に倒れる。
「かのえさんっ」僕はそれを受け止める。
かのえさんは全然汗をかいていない。ほとんど知識のない僕でもわかる、熱中症だ。
沢良先生と青池先生が素早く駆け寄る。
「動かすぞ、かのえ」青池先生がかのえの膝を支えて抱き上げる。
「とりあえず、ベンチ連れてくな」と青池先生はかのえさんにそう言ってベンチへ連れていく。
「早田、クーラーボックスのペットボトルだせ」
「はい」
青池先生はかのえさんを仰向けに寝かせ、首や脇、膝の裏に冷えたペットボトルを上げる。
義一と若菜さんも駆け寄ってきている。
「かのえさん」
「ごめん、久次郎」仰向けのまま、かのえさんは僕を見る。
いつもより正気のないない、疲れた目をしている。
そういえば、一回のピッチングが終わったときから、少し顔色が悪かった。なんで、僕はなにもしなかったのだろう。
「どうだ?」と青池先生が言う。
「ちょっと待って。すぐ投げれるようにするから」
「無理だ。自分でも分かってるだろ」と青池先生が言う。
かのえさんは体を起こして、しばらくグラウンドを見つめる。
「……わかった」
「なら、試合は、」
「試合は続ける。久次郎、もう一つのプランで行こう」
かのえさんは立ち上がる。少しふらつく。
それから、自分のグローブの中に入っているボールを持って、相手のベンチに行く。
そんなにうまく行くとは思えないけど。
かのえさんはベンチに座っている一人の野球部員の前でボールを差し出す。
「私は投げれなくなった。君に投げてほしい」
その野球部員——江津 欧大はそのボールをつかむ。
「分かった。俺が投げる」
つづく
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