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第一話

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 川尻に滔々とうとうたる浪が立つのか、寝静まった街の上をしきりに渡り鳥が夜の静寂を破って飛んで行く。ギャーッ、というさぎや鴨の鳴き声も、時々妙に陰気で怖気すら震わせる。 
 そんな夜闇に起きているのはここ一軒。青白い晦冥かいめいに閉ざされた街角で、窓の木蓋からボウと黄色い明りが洩れ出し、さながら釈迦が犍陀多かんだたに向けて垂らす蜘蛛の糸のようである。門扉の上には、「ロスバーグ邸」と書かれた木札が風になびいて音を立てていた。 

 ここギョーム男爵領では、剣術試合が年中行事となっていた。この試合は、ギョームの主催ではあったが、隣領であるアメルン伯爵の家中からも剣術の名人を選りすぐって参加させるのが慣例であった。 
 その結果は、いつもギョーム男爵の家臣から多くの優勝者を出し、名門たるアメルンは今年もまたまた笑止なまでの敗北を喫してしまった。 
 常日頃から名門たる驕慢を鼻に掛け連ねて、尊大倨傲そんだいきょごうな振る舞いを振りまいているアメルンの惨敗は、反動として郡民達の物笑いの種になっていた。ギョームの民衆も皮肉と嘲笑を公然とアメルン方へ浴びせたのだ。 

「――ご、ご主人様、大変ですっ」 

 剣術試合の夜、ギョームの剣術師範フロリアン・ロスバーグ邸の玄関で、使用人が喚いた。彼は、ロスバーグ令嬢のナタリーの共をして剣術試合の見物に行っていたのだ。帰りを案じていたフロリアンは、声に驚いて出てみると、使用人は全身打ち身だらけで、所々から血を流していた。 

「ど、どうしたのだっ。如何いかが致した」 
「大変でございますっ。お嬢様が、ナタリー様がっ」 

 わなわなと震えながら、使用人は舌を吊らせた。 

「剣術試合の帰り道で、自棄酒に任せたアメルンの若武者共が、お嬢様と私を取り囲み、私を打ちのめした挙句、お嬢様を誘拐して、街外れの荒れ小屋に連れ込んでいきました」 
「うーむ。さるにしても、奇怪千万な狼藉ではないか。如何に大領の家臣とは言え、理由無く私の娘に手を出すはずが無い。おい、何かそいつらは言っていなかったか?」 

 使用人は、少し考えていたが、すぐにあっ、と思いだした声を上げ 

「そう仰れば、いつかお見合いしたいとお屋敷にやって来たアメルンの指南役ハーラ・グーロの名前を一人が申しておりました」 
「おのれ、その匹夫こそ以前、ナタリーを嫁にとほざいて参った男だ。それをきっぱり刎ねつけたので、それを恨みに思ったのだろう」 

 憤怒の眦を裂いたフロリアンは、慌ただしく鉄甲を纏い、馬を引かせた。そして使用人をかえり見て、 

「心配致すなっ。老いたりとはいえど、このフロリアン・ロスバーグ、直ちに娘を奪い返してくるぞ」 

と、疾風の如く娘の元へ向かった。 

 
 かしましい女の叫びが夜の静寂を破った。街外れの幽寂の雑木林は、それに愕いたかの如くざわめきその枝を揺らした。枝葉は月光を隠したり輝かせたりした。 

 続いて嵐のような勢いで、一団の武者共が女を簀巻きにして引っ担いできた。昼間の剣術試合に敗れた彼らは気を腐らせ、鬱憤晴らしの深酒狼藉を働いたのだ。 

「ようし、下ろせっ」 

 先頭の丈夫の号令で、女は手荒く地面に放り投げられた。若武者共は、大手柄でも果たしたかの如く、各々、むしろに座って呵々と赤ら顔で大笑している。 

「成る程、妙齢な佳人。先生のご執心も解る気がする」 
「こんな美女をこんな小領で、麦粥喰らいの貧乏騎士の好きにさせるのは惜しい。ハーラ先生の待望を断るとは後生の冥加を知らぬ愚か者だ」 

 小屋の壁に凭れて座っていたハーラは、冷然と一瞥して 

「そう恐れる事は無い。お前の父親が愚かしい程に頑なだったから、このような手荒な真似をしたのだ。そんな顔してないで、門人達の酌でもしてやれ。明日の朝には此処を出立し、数日の内にはアメリア伯爵領の指南役ハーラ・グーロの妻となるのだ。満更悪い話でもあるまい」 

 と、ナタリーに媚笑を向けた。一人の門弟が早く酌をせんか、と彼女の髪を引っ張った。 

「無礼でしょっ。触らないでっ」 

 と、その者は紅唇を破る怒声にたじろいだ。ナタリーは、白皙を振り上げ、柳眉を逆立て、 

「女と侮って無礼すると、容赦しないからね、穢らわしい。誰があなた達の酌の面倒など見るか」 

 と、眦を裂き、さながら羅刹女らせつにょのような威圧感を出した。ハーラは、その容態を嘲笑い、腕を伸ばしてナタリーの上襟を掴んで、しっかと離さず 

「お前は自分の状況を解っていないな。もはや駕籠の中で鳥がいくら鳴いても意味はあるまい。この私は、一度思ったものは何でも手に入れないと済まない男だ。諦めろ」 
「そんな戯れ言を聞く耳は持たないっ。離してよっ」 

 と、慌てて振りほどき、飛鳥の如く駆けていったが、取り押さえろっ、というハーラの下知に門弟共は、須臾しゅゆにしてナタリーを取り囲み 

「こら、じだばたするな」 
「大人しくしろっ」 

 と、彼女の手脚を押さえハーラの前に引きずっていった。その時、 

「うわっ」 

 後ろにいた一人が血煙を上げて斃れた。どっと開いた一同が見た先には、ナタリーの父であるフロリアンがいた。 

 血走る眼は憤怒を露わにし、子を奪われた鬼子母神のような血相で大勢を睨み付けていた。月の逆光となるその姿は、傍から見れば悪鬼羅刹あっきらせつも縮み上がっていたであろう。 

「みだりに他領の平穏無事を脅かす奸賊共、我こそはこのナタリーの父親、フロリアン・ロスバーグであるっ。汝ら、神妙に帰国すれば咎めはせぬが、手向かいすれば我が剣の錆にしてくれようっ」 

 と、怒れる父は娘を後ろに庇って、長剣片手に怒鳴った。 

「何を言うか、貧乏領主の麦粥家臣がっ。邪魔をする貴様の方から嬲り殺しだっ」 

 真っ先に叫び返した若武者一人、長剣抜き打ち躍り掛かる。それを見たフロリアンは、一足飛び退いて喉笛狙って、老練の腕前誤たず、ぐさっ、と突き上げた。噴血は水玉の如く四方に飛び散り、血煙は月を曇らせる。 

「おのれっ、この耄碌爺っ」 

 と、続けて斬り掛かった一人は、電光の如く払われた横斬りの白刃に、胴を輪切りにされてしまった。 
 勝てぬと見るや、背後に回った男が一人、剣の切っ先をフロリアンの脾腹目掛けて突き出した。 

「ぐわっ」 

 倒れたのは、背後の男の方であった。ナタリーが咄嗟の機知で石を投げつけたのだ。流星の如く飛んだ石は男の片眼を潰し、彼は唐竹割りに斬って捨てられた。 
 三人は斬られ、残る門弟は胆を潰して逃げ奔ってしまった。それを見ていたハーラ・グーロは、悠然と三歩ばかり歩いた後、傲然と長剣を抜き払い、 

「血迷ったか、フロリアンッ。何故あって我が弟子達を手に掛けたのだっ」 
「酔いに任せた笑止な戯れ言、猫も杓子も聞く耳持たぬ。お前こそ、結婚を断られたからと言って、大切な娘を誘拐しようとした痴れ者。その腰巾着どもを斬ったがそれがどうした」 
「よくもそのような大言、許してはおけぬっ。今ここでその白髪首を真っ二つにしてやるっ」 

 と、大喝一声、ハーラの腰から抜かれた銀龍の如き長剣一閃、フロリアン目掛けて振り下ろされる。一度でもひらりと躱した彼は運が良かった。しかし、息もつかせぬ二撃目! 
 疾風の勢いで振られた刃を、フロリアンは咄嗟に剣を縦にして止めたが、そのまま吹っ飛ばされそうな圧力を受けて、老剣客はたじたじとなった。 

 新月七日ばかりの仄かな月は、薄墨色の街を照らして朧気な夜を整えていた。街道の彼方から月明かりを背にやって来た一人の影。 

 春の月夜にふさわしい煌びやかな服装で、世の中の苦労だとか貧乏だとかを知らなそうな青年は、茶髪白皙で歳は十三、フロリアンに剣術を学ぶ弟子の一人、ルーク・ブランシュである。ロスバーグ家の使用人でもある彼は、家の用事を終えて帰路に着いていたのだ。 

 ルークは、通り掛かった小屋の影で叫び声を耳にした。 

「何だ? 誰かいるのか?」 

 と、彼が耳を澄ますと何やら激しい金属音がする。 

「き、斬り合いだ。どうしよう」 

 聞こえぬ振りして立ち去ろうかと思った矢先、 

「あ、ルークッ。早く来てっ」 

 と、ナタリーの声が彼を止める。引かれるように小屋の裏手に躍り出すと、気息奄々とした師が見知らぬ男と斬り合っている。閃光を放ち、丁々と火華を散らす両刃を見て、ルークは白玉のように青白い面で震え上がるのみだった。 

「ちっ、助太刀か。覚えてろ」 

 と、ハーラは闇夜の中に身を躍らして脱兎の如く逃げていってしまった。 

「ふう、よく来てくれたなルーク。お陰で命拾いしたよ」 

 フロリアンは、片手で額を拭きつつ茹で蛸のような面で笑った。しかしルークは、 

「フ、フロリアン様。ち、血が剣にも着物にも」 
「ああ、これはそこに転がっている連中の物だ。私に怪我は無いから安心しろ」 

 ルークは、後ろの死屍累々を見て、うーん、と一声上げて気絶してしまった。 

「大変っ。お父様、早く家に運ばないとっ」 
「全く気弱な奴だ」 

 フロリアンは、何もしていないのに気絶したルークを月明かりの下、自身の屋敷へと背負って行った。
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