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斎国歴六八四年 八の月
1、相棒と新入り ◆
しおりを挟む『黒の軍勢~、緋色を散らし~』
暗闇に沈んだ街の一角から、調子っぱずれな歌声が聞こえてくる。
道行く人は真夏のじっとりとした空気に顔をしかめるだけで、その声に頓着することはない。無関心な人波を無言で縫って、一人の女が通りを歩いていた。
ここは大陸東端の大国、斎の中央に位置する帝都陽連。
夜を迎えた華やかな歓楽街を通りすぎ、人気のない路地に入ってもまるで臆する様子もなく進む女の名を、李雪華という。
歳は二十三。体の線に沿う装束をまとい、長い黒髪を高い位置でまとめたその面差しは美しいがどこか怜悧でもある。
いくつめかの角を過ぎると、雪華の耳にもあの歌声と呼ぶには歌に失礼と思えるほどの声が聞こえてきた。
『美姫は嘆き~、井戸へと落ちた~』
「……下手くそ。この声は……梅林か?」
どう贔屓目に聞いても上手いとは思えぬ旋律に、苦笑がこぼれる。
この街では知らぬ者のないその歌は、つい十三年ほど前の帝都の騒乱を歌ったものだ。そして、過去の雪華とその家族を歌ったもの――でもあった。
斎国、朱朝討伐の変。
今ではそう呼ばれているらしい斎の内乱は、ここ陽連で十三年前に端を発した。
時の皇帝、朱康成の第一臣下たる宰相、胡黒耀による謀反。
朝廷内の多数の貴族を味方につけたその造反は、瞬く間に城内と城下を制圧し、黒耀は皇帝の首を取った。
ただ一人の皇子も同時に処刑され、皇后と妹の皇女だけが命からがら城下へ逃げ出した。しかし追っ手が迫り、皇后も最終的には自害の道を選んだ。
そして幼い皇女もまた、行方不明になったのちにどこかで遺体が見つかったらしい。
――と、一般的には思われていた。
(……生きてるけどな)
死んだことになっている元皇女は、実は今もひっそりと生き延びている。
それが、この自分だ。
この歌を聞いて、何も心が動かないと言ったら嘘になる。
けれどとりたてて感傷に浸るには、その『過去』からは時が流れすぎていた。
『――斎の国は~、宵に惑う~~…っとぉ』
ちょうど歌が終わったところで、目的の酒楼にたどり着いた。古びたその扉の前に立つと、ゆっくりと飴色のそれを押し開ける。
「――あっ。姐御、お帰んなさい」
「ああ副長、明日の話ですけど――」
薄暗い店内には、若い男がひしめき合っている。背の高い男、低い男。痩せた奴、筋肉質な奴――様々な顔を持つ、無骨な男たちが振り返る。
だがそれに気圧されるような可愛らしさは、雪華とは無縁のものだった。
広くもない空間に漂うのは、南洋から運ばれた葉巻の煙、酒、料理の匂いだ。
ここは陽連、花街最深部の酒楼「蒼月楼」。一階が酒楼で二階が宿になっている、年季の入った建物だ。
そこが、今の雪華の帰る場所だった。
雑多な匂いに一瞬眉をひそめるが、次の瞬間にはその空気に馴染んでしまう。
まったく頓着することなく、雪華は酒楼の奥へと足を進めた。
「おう、雪華。ずいぶんと遅かったな」
奥の席に陣取った男が軽く手を上げた。吸っていた煙管から灰を落とし、紫煙をくゆらせる。
上背と厚みのある肩の上に乗っているのは、少し垂れたまなじりがいかにも女受けしそうな顔。毎日飽きるほど見ているその男の顔をちらりと見やり、雪華はつかつかと歩み寄った。
「お疲れさん。どうだった?」
「少し依頼人との話がこじれてな。……航悠、お前またその酒か。収入が入ったんだから少しは奮発すればいいのに」
「いいよ、俺はこいつを一生の友と決めてるんでね。……まぁ座れよ、腹減っただろ。食いながら聞かせてくれ」
ニッと笑った相棒――尚航悠が、隣に座っていた部下を押しのけて椅子を引く。
ありがたくそこに腰掛けた雪華は、哀れにも追い落とされた部下へ肩をすくめてみせた。
「悪いな、梅林。あっちの席が空いてたと思うけど」
追い出された部下の名は、白梅林。雪華よりも幾分か年下のはずだが、小柄で童顔のためかもっと年若く見える。
梅林は笑顔で大きく手を振ると、空の酒杯に冷えた酒を注いだ。
「いいっすいいっす! お帰んなさい、雪華の姐御。暑い中お疲れさんでした。ささ、どうぞ」
「ん、ありがとう」
冷酒を一息にあおると、キリリとした清涼感のあとに喉から胃にかけて熱が灯る。その余韻を楽しみ、雪華はようやく長い息を吐きだした。
「ああ旨い。……お前な、いつも言ってるが姐御はよせと言っただろう。その呼び方はどうにかならないのか?」
出会った当初から変わることのない、仰々しい呼称だ。酌をする梅林に溜息で問うと、梅林は心外とばかりに口を開く。
「ええ~? いや、無理っすよ。オレらにとっては頭は頭で姐御は姐御です。名前で呼ぶなんて、オレらの意地が許しませんよ」
「意地、ねえ」
腰は低いくせに妙に胸を張って答える小柄な部下に、結局は苦笑で返すしかなかった。
そのまま他の仲間の卓へと行ってしまった梅林をなんとはなしに見送ると、見慣れぬ顔があることに気付いて雪華は視線を止めた。その視線を追い、航悠が煙管を置く。
「あ、悪ぃ。紹介すんの忘れてたわ。……おーい、飛路! こっち来いや」
「新入りか……?」
航悠に呼ばれ、声をかけられた男が場違いなほど俊敏に椅子から立ち上がった。
……いや、男と言うにはいくぶんか若い。年の頃は少年から青年に変わったばかりというところだろうか。
赤みを帯びた髪を一つにまとめ、少しつり目気味の涼しげな眼差しで雪華を見やった青年が無駄のない動きでこちらへ寄ってくる。
立ち上がって迎えると、同じく横に立った航悠がのんびりと口を開いた。
「昼間うちに入りたいって言ってきてな。腕も立つし頭も良さそうだから、入れることにした。まぁ仲良くやれ」
「な…っ。お前な、また勝手に……!」
寝耳に水もいいところだ。高い位置にある顔を思わず睨みつけると、悪びれた様子もなく航悠が見返してくる。
「この前だってそう言って入れたら、三日で逃げただろう。いつも一言相談しろって言ってるだろうが……!」
「だってお前いなかったんだから、仕方ねえだろ」
「お前この間もそう言ってなかったか? まったく……」
ここ蒼月楼は現在、「暁の鷹」という武装組織――要するに、少し荒っぽい何でも屋だ――の根城となっている。
航悠を首領、雪華を副首領とし、以下十人程度の部下たちからなる小さな組織だが、時折こうして新入りを迎える。
どこかから情報を聞いて入りたいと言ってくる者もいるし、航悠が目をつけて勝手に声を掛け、仲間に入れてしまう場合もある。そのまま居着く者も多いが、知らないうちにいなくなっている者も多いことが、目下の雪華の悩みの種だった。
集団に束縛するつもりはないので出入りが自由なのは結構だが、せっかく屋敷への侵入法などの特殊技術を教えても、いなくなってしまうのでは元も子もない。
そのため、せめて一人で決めず誰かに一緒に見極めさせてから仲間に加えろと再三言っているのだが、航悠は聞く耳を持たなかったようだ。
「ま、そう目くじら立てるなよ。……飛路、うちの副長の李雪華だ。口は悪いは喧嘩は強いわ性格は冷たいわの三拍子だが、顔だけはいいぞ。ま、手ぇ出したら十倍返しになるがな」
「お前…あとで覚えてろよ……」
「んで、こっちが――あれ、お前姓なんだったっけか」
「伯飛路です。あんた――」
飛路と名乗った青年が、こちらをじっと眺める。明るめの瞳の中に、興味の薄そうな自分の顔が映った。
飛路はすっと腕を伸ばすと、雪華の顎をおもむろに持ち上げる。
「あんた、すごい美人だな。……オレの女になってよ」
一見すると真面目そうな印象を一変させ、青年――飛路が口の端で笑う。突然の無礼に動じることもなく、雪華は冷めた目で飛路を見上げた。
「子供はお断りだ」
「……ははっ、一刀両断かよ。オレ、そんなに子供じゃないけど?」
「まだ二十歳も超えてないだろ。私からすれば十分子供だ」
「ふーん。……でもあんた、結構無防備だね。もしオレがここにもぐり込んだ敵だったら、今のでやられてたんじゃない?」
雪華の顎を解放して、飛路が薄く笑う。雪華はちらりと航悠へ視線をやると、再び飛路に向き合った。
「殺気がなかったんでな。殺そうとするならもっと不穏な気配を立てるはずだ。……それに、私に何かしようとしても先にこいつに止められるよ」
「頭領が…?」
「うちの女王様はものぐさなんでね。従者の俺が守らないと、あとで鉄拳が飛ぶんだよ。――っと、言ったそばからこれだよ」
両手を挙げてうそぶく航悠に、肘突きを喰らわせた。一瞬目を丸くした飛路が、面白そうに雪華と航悠を見つめる。
「へえ……。ずいぶん信頼してるんだな」
「まぁな。十年前からベタ惚れされてますから」
「お前がな。……言ってろ馬鹿」
「ほんっと口が悪いよな。誰に似たんだか」
何の実にもならない会話が面倒くさくなってきて、溜息をついて切り上げた。
肩をすくめた航悠が悪態をつく。それを無視して雪華は飛路に向きなおった。
「じゃ、よろしく。呼び方は飛路でいいのか?」
「ええ。じゃあオレは雪華でいい?」
頷いた飛路が、挑戦的に唇をしならせる。雪華はゆっくりと首を振ると、拒否を示した。
「雪華『さん』だ。『さん』って柄じゃないが、一応立場ってものがある。……まぁ好きに呼べばいいさ」
「冗談だって。よろしく、雪華さん」
「ああ。強制はしないが、できるだけ長くいてくれると助かる。最近新入りが抜けるのが続いてて、困ってるんだ」
「……じゃ、できるだけは」
悪戯っぽく笑った飛路が手を差し出す。その手を軽く握り返すと、隣の航悠がゆったりと笑った。
「飛路、そこは一生お仕えしますって答えるところだろ。点数上がるぞ。……雪華。こいつの教育、お前に任せる。色々教えてやってくれ」
「それは構わないが、今か? お前との話がまだ――」
依頼の話の途中だったはずだが、いいのだろうか。呼び止めると、航悠は手を振って背中を向ける。
「あとでいいよ。じゃ飛路、続きはこいつに聞いてくれ。二人っきりになってもいいが、惚れるなよ? あとが怖いぞ」
「大丈夫ですよ。オレ、そんなに困ってませんから」
「ははっ。言われたな、雪華」
肩を揺らして笑いながら、長身が遠ざかっていく。飛路を奥の卓に誘って腰かけると、雪華は持ってきた杯を飲み干した。
「悪いな。あんなんでも一応うちの頭だ。それなりに腕は立つし頭もいいから、困ったことがあったら相談してくれ」
やれやれと手酌で酒をつごうとすると、飛路が酌をしてくれた。代わりにつぎ返そうとした雪華の手をとどめ、飛路は自ら杯を満たす。
互いに杯を軽くかかげ、酒を舐める。目を閉じてまろやかな旨味に浸っていた雪華は、こちらに注がれる視線を感じて目を押し開けた。
「それにしても、ずいぶんオレのこと牽制してたね。あんた、頭領の女?」
「は――」
不躾に雪華を眺めていた飛路が、唇にうっすらとした笑みを浮かべて問いかける。
歳は若いのに、その表情だけがいやに大人びている。どこかちぐはぐなものを感じながら、溜息で答えた。
「違う。よく言われるが、まったくもって違う。あいつはもっと女らしい、華やかな女が好きだよ。よく妓楼に行って遊んでる」
「へえ。本当かな…? ま、あんたも十分女らしいと思うけどね、オレは」
「それはどうも。それで、何が聞きたい? 航悠からある程度は説明されてるんだろ」
嘘くさいお世辞が鬱陶しくなってきて話題を変えると、予想に反し――いや、ある意味予想通りではあったが、飛路は小さく首を振った。
「いや、ほとんど。雪華って女が帰ってきたら話してくれるからって」
「あいつな……。分かった、それじゃ一通り説明するよ」
部下に頼むことも増えてきたが、新入りの教育は主に雪華の役目だ。酒杯を横にどけると、雪華は改めてこの生業について説明を始めた。
「うちは『暁の鷹』……なんか適当な名前を付けただけだけど、まぁとりあえずは街のよろず屋に頼めないような、ちょっと裏の依頼を請け負ってる組織だ。どこかに忍び込んでの密偵と、要人警護の二つを主に扱ってる」
「うん、そこは聞いた」
「他には頼まれれば取引の仲介をしたりもするが、一応依頼には私か航悠が目を通して、悪事には当たらない程度のものを選んでいる。結果的には犯罪の片棒を担ぐこともたまにあるが、表を歩けなくなるようなものは断ってるよ」
「じゃあ……暗殺とか闇討ちは?」
「受けない。どこで足がつくか分からないしな」
思いがけず物騒な単語が出てきた。ぼそりと問いかけた飛路に、念のため確認を取っておく。
「一応聞くが……そういうのがしたかったのか?」
「え? ……ううん、嫌だよ。一般人に手を出すのなんて後味が悪いだろ」
(へえ……)
眉をひそめて即答した飛路に、雪華は少し驚いた。
飛路ぐらいの歳ならば、暁の鷹のような裏組織に加わる時点でそういう願望を持っている輩が決して少なくないからだ。
武器を手にし、技術を手にしたら、それを見せつけたくなるのが人の性だ。
その点この青年は幾分か軽そうな態度に反し、そういった歪んだ欲望を持ってはいないようだ。何か清々しいものを感じ、唇が小さくしなる。
「そうだな……。無関係の人は巻き込みたくないな」
「うん」
「それで、だ。まぁしばらくの間は仕事を覚えるのと屋敷潜入のコツなんかを掴むために、色々な奴に同行してもらおうと思う。航悠の口ぶりじゃ、もともと何もしてなかった訳じゃないんだろ? 何か得意なものはあるか?」
「んー……、剣かな。あまりここみたいな用途で使ったことはないけど」
「基本ができてるに越したことはないよ。短剣を使えるようになったらさらにいいかな。剣技でも体術でも、何か得意なものがあれば馴染むのは早い」
「ふーん。……ねぇ、あんたにも直々に指導してもらえる?」
「ああ。暗器の扱いや潜入なんかはわりと詳しいほうだし、教える機会もあるだろ」
「そっか。じゃあ頑張ろ」
飛路は酒杯を置くと両手を頭上で組み、伸びをしながら笑った。
猫のようなその仕草と思いがけず年相応な笑顔に、雪華は呆れるのも忘れて肩をすくめる。
「暁の鷹」には梅林のように雪華より年下の者も何人かはいる。その中でも飛路は特に若い部類に入るだろう。
大人のしたたかさと少年の面影を併せ持つ青年は、決して悪い人間ではなさそうだ。何の根拠もなく、いつの間にかそう感じていた。
(ん……?)
それからしばらく酒とつまみに没頭していると、頬のあたりに視線を感じた。横を見ると、頬杖をついた飛路が柔らかな眼差しでこちらを見つめている。
「顔に何かついてるか?」
「…………」
問いかけるも答えはない。その視線のまま見つめ続けられ、雪華は小さな困惑を覚えた。
仲間以外の男たちからじろじろと見られることはたまにあるが、飛路の視線はそれらとはまったく違っていた。粘着質なものではなく、懐かしい誰かを見るような――温かい目だ。
なぜ、そんな目をする――?
そう問いかけそうになったが、緩く首を振った飛路が視線を外し、その微妙な空気は霧散した。
「んーん。美人だなって思って。……やばいな。あんた、マジで好み」
「……お褒めに預かり光栄だよ。じゃ、話はこれで終わりだな。子供は上行って寝てろ」
「うっわ、ひでえ。……はいはい、じゃあ頭領呼んできますよ」
困惑するだけ損をした。そっけなく手を振ると、わざとらしく傷ついた顔をした飛路が立ち上がる。
何か誤魔化された気がするが、大したことでもないだろう。飛路と入れ替わりに、大柄な相棒がのっそりと戻ってくる。
「話終わったか。ありがとな」
「お前な……最低限の話ぐらいはしておけ。なんでいつもお前が勝手に入れた奴らに、私が話をしなきゃいけないんだ」
「そりゃあお前の方が話が分かりやすいからだろ。めんどくせえんだよ、細かいこと話すの」
「それをいつも押しつけられてる私の立場にもなってみろ!」
酒瓶と自分の杯を持った航悠が、空いた席にどかりと腰掛ける。
惰性のようにその杯に酒をついでやりながら、いくら飲んでも赤くならない男の顔を見上げた。
「それにしても、うちもずいぶん人が増えたよな」
「あ? ……ああ、そうだな。誰かさんが好き勝手に新入りを増やしてくれるおかげでな」
「根に持つねぇ。……でも、もう十年以上か。若い奴らも増えたし、俺らも年取ったよなぁ」
再び煙管を手にした航悠が、紫煙を目で追いながらしみじみとつぶやく。そのオヤジくさい表情に、思わず笑ってしまった。
「お前がな。私はまだピチピチのツヤツヤだ。三十路のお前と一緒にするな」
「結婚適齢期とっくに過ぎてんのにな」
「……どうでもいい」
本当にどうでもいい話題を取りとめなく交わし、互いに酒をつぎ合う。
この卓に入ってくる勇気のある部下はいない。首領と副首領の話に横から首を突っ込む勇気はないと、以前誰かがこぼしていた。だがおそらくは、自分たちの酒量についてこられる者がいないことが一番の原因だろうと雪華は思っている。
(……十年、か)
暁の鷹が今のように裏稼業を請け負うようになってから、それだけの歳月が過ぎた。
結成というと大げさだが、立ち上げ当初の仲間は今も残っている者もいれば、途中で袂を分かった者もいる。航悠と雪華と、その他数人から始まった組織だ。
(思えば無茶をしたな……)
当初は拠点も決まっておらず、この斎国をはじめとして大陸中の様々な国に足を向けた。南洋に出たこともあるし、雪国をさすらったこともある。
斎の隣国シルキアだけは女が入国できないため訪れなかったが、それでも最終的にはここ斎に拠点を構えた。仲間の大多数の故郷であるし、航悠も雪華もあえて話し合ったことはないが、自然とこの国に戻りたいと思ったのだ。
さすがにかつて住んでいた城がある帝都に入る時は緊張と小さな痛みを感じたが、市井に紛れてしまえば自分が元皇女であることなど分かりはしない。
そんなわけで、ここ陽連にやってきてからすでに一年ほどが過ぎていた。
「――おい……。おい雪華、聞いてるか」
「ん? ……あ、悪い。ちょっと考え事していた」
「お前ババ臭い顔してたぞ。昔を懐かしむには早いんじゃねーの」
「お前が十年とか言うからだろうが……」
少し回想に浸っていたようだ。回り始めた酔いを醒ますように、ぞんざいに前髪をかき上げる。
「ほら」
「? ……ああ」
航悠が目の前に箸の先端を突き出す。そこに挟まれた白い果実を認め、雪華は薄く口を開いた。
「あーん」
「あーんとか言うな。馬鹿かお前……」
ぶつくさ言いながらも、唇に突っ込まれた果実…林檎を咀嚼し、飲み込む。
冷たい果汁が口内に染みわたり、ほのかな酸味が少しだけ意識をはっきりとさせた。
「で、本題だが……どうだった? 今日の依頼は。受けることにしたのか?」
「ああ……」
航悠がわずかに姿勢を正し、薄い色の瞳を向けた。その顔を見つめ返し、雪華はぼんやりとこの場にそぐわぬことを思い浮かべる。
そういえば前に誰かが言っていた。この少し下がり気味の目がどうにもたまらないと。甘いくせに有無を言わせぬ力があり、色気を感じるとかなんとか――そうだ、思い出した。航悠と関係をもった女に勝手に聞かされたんだった。
(私にはまったく分からないけどな。……いや、今はそんなことどうでもいいんだが)
航悠の外見の評価なんて知ったことではない。やはり少し酔っぱらっているのかもしれない。頭から無駄な思考を追い払うと、本題に戻る。
「報酬が良かったから、とりあえず受けてみる。ただ、なんか一つおかしいんだよな」
「おかしい?」
「ああ。報酬の割に、依頼がずいぶん簡単なんだ。今、シルキアの外交使節団が城に滞在してるだろ?」
「ああ、そういえば……」
「そいつらが明後日にこの陽連を視察するんだと。それで、その使節団がどんな奴らだったかを詳しく教えてほしいって――」
――シルキア。それは、ここ斎の隣国にあたる砂漠と鉱物の国だ。
斎と交易はあるが砂漠で隔てられているのもあって、自分たちのような市井の民にはその内情はほとんど伝わってこない。加えて大陸内でもまれな女人鎖国性をしいていることもあり、斎の民のほとんどは「未知の国」という印象を抱いていた。
隣国でありながら、その使節が帝都にまで訪れるのはかなり珍しい。興味を引かれたように航悠も片眉をつり上げる。
「見るだけでいいってことか?」
「みたいだな。……そんなに簡単な依頼でいいのかな」
何か釈然としないものを感じ、雪華は拳を唇に押し当てる。
今日の依頼人……正確には依頼人からの伝言を伝える役目の者は、人を襲えとか何かを盗めとは言ってこなかった。ただ滞在している隣国の役人を観察しろと、そう言ってきたのだ。
「誰が来てるかなんて、市井までは流れてこないからな……。でも特徴だけ掴んで、何がしたいんだろうな。お前はどう思う?」
「さあねぇ。なんかシルキアの奴らに恨みでもあって、あとで闇討ちするんじゃねーの。……どうにもキナ臭いが、そこから先は俺らの管轄外だ。とりあえず無理ない範囲で終わらせようぜ」
「ああ。動くのは私でいいか? どうせなら飛路を連れてくよ」
「明後日か。……俺も暇だから行くかな。隣国のくせにシルキア人が来ること自体珍しいからな。一度見てみたい」
再び杯を手にしながら、航悠が薄く唇だけで笑む。
……何を考えているか、だいたい分かる。どこか色めいた笑みに、雪華は呆れた息を吐いた。
「お前の大好きな女は、国境を越えられないから来ないがな」
「だな、残念。シルキア人って褐色の肌してるだろ? 色っぽい女が国内にはうじゃうじゃいるんだろうに、向こうの王さんもケチだよなぁ」
「お前みたいなのがいるから女人鎖国制なんだろ……。手を出すのは斎の、遊びと割り切ってくれる女だけにしろ。お前との仲を勘違いされて、いたいけな女性に怒りを向けられるのはもう真っ平だ」
今までに幾度となくあった修羅場を思い出し、重く息をつく。航悠は楽しげにくつくつと笑うと何杯目とも知れぬ酒を飲み干した。
「寛大だな、雪華。それとも焼きもちか?」
「勝手に言ってろ」
――くだらない会話。実のない話題。仕事のこと以外での航悠との会話など、いつもこんなものだ。
もう飽きるほどに繰り返してきたそれを肴に、二人は夜が更けるまでささやかな宴会を楽しんだ。
のちに雪華は、追想する。――この夜が、すべての運命のはじまりであったと。
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