【完結】斎国華譚 ~亡朝の皇女は帝都の闇に舞う~

多摩ゆら

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航悠編

12、崩れた均衡

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「……ん……」

 いつの間にか、眠っていたらしい。乱れた着衣もそのままで、寝台の上で寒気に襲われ雪華は目を覚ました。

 まだ日は昇っていないようだ。もぞもぞと服を替え、二度寝しようと掛け布を引き上げる。
 だが落ち着いた状況になると、途端に寝る前の出来事が――航悠の冷たい視線が脳裏に浮かんできて、目が冴えてしまった。……考えないようにしていたのに。

 それから何時間か。うたた寝と覚醒を繰り返しているうちに、昼も近くなってしまった。


 昨晩の出来事に遠慮しているのか、いつもはうるさく起こしにくる梅林もやってこない。というか、この時間はさすがに出かけているのかもしれない。

(静かだ……)

 今日は何をする気にもなれない。中途半端に寝台の上で伏せっていると、階段を上ってくる足音を捉え、はっと顔を上げた。
 おおらかな歩調が、隣の部屋の前でぴたりと止まる。雪華は跳ね起きると、自室の扉を開いた。

「……っ」

 隣室の前には、予想通りに航悠が立っていた。とび色の瞳が雪華を興味無さそうにちらりと眺め、逸らされる。一片の甘さもないその眼差しに心が凍った。
 ……また期待していた。時間が経てば元に戻っているはずだ、と。

「……こんな時まで、妓楼通いか。そんなに女が好きか?」

「お前には関係ないだろ。いつものことだ。今さらどうこう言われる筋合いはねぇよ」

 昨晩の雪華の台詞をそっくり返し、航悠がふいと目を背ける。その服から漂う、艶やかな香の匂いに眉をひそめた。
 雪華を叩いたその手で、昨夜も女を抱いてきたのか。自分は部屋で怒りを収めるのに苦心していたというのに。

 そっけなく告げた航悠が扉に手を掛ける。その前に立ち塞がり、長身の男を睨み上げた。

「話が終わってない。……昨日のことだ。どうして私が叩かれないといけない?」

「はぁ? ……お前、そんなこと気にしてたのか? 分からないのか。馬鹿じゃねーの」

「…っ! 馬鹿とはなんだ……!」

 本当は、分からない訳がなかった。だが冷静に考えることを、雪華は昨夜から放棄してしまっていた。
 雪華が苛立っても、この男は普段とまるで変わりがない。その差が悔しく、鼻で小さく笑った航悠に収まりかけた怒りがまたひらめいた。航悠の服の裾を掴むと真下から見上げる。

「ああ分からないさ。どうして私がお前に叩かれなくてはいけない? 私が何をした……!」

「分かんねぇなら、いいよ。……叩いて悪かった。そう言えば満足か? それでもムカついたなら、俺にも一発喰らわせりゃあいい」

 片頬で笑った航悠が、雪華を押しのけて部屋に入ろうとする。その腕を強く掴んだ。

「茶化すな、ちゃんと答えろ! だいたい人が真剣に考えてたってのに、お前は女と遊んでるってどういうことだ。呑気なものだな…!」

 主題からずれていることにも気付かず、心のままに航悠をなじる。しかし次の瞬間、航悠を取り巻く空気が一変した。

「……人のこと、よく言えるな」

「……え?」

「そんなにあいつのことが心配か? だったら正面から探りゃあいいものを、俺に突き放されたら不安で仕方ないって顔をする。……ずいぶん欲張りだな」

 掴んでいた腕を、逆に掴み返された。急激に下がった声音に顔を上げると、笑みの欠片かけらもない瞳と視線がかち合う。
 ぼそりと漏らされた言葉の意味がすぐには分からず雪華が目を見開くと、強く手首がひねられた。

「いっ……!」

「……思い知れよ。傲慢で我儘な、お姫様」

「――!!」


 壁に押し付けられ、後頭部を強く引かれた。
 避ける間もなかった。……いや、予想外の出来事すぎて避けようとも思わなかった。

 手足を完璧に封じられ、雪華は航悠に口付けられていた。


「…ッ!? ん――、……っ、ぅ……んっ!」

 口を塞ぐ、航悠の唇。背の高い男の、弾力のある、どこか苦い香りの――。
 荒々しいそれは、雪華の抵抗をやすやすと封じ込めた。

「ふ――……、んん…ッ!」

 数秒の呆然自失ののち、自由な方の腕で強く航悠の胸を押し返した。だが突っぱねたそれは難なく捕らえられ、航悠の片手で一まとめにされてしまう。

あめえよ。護身術、叩き込んだのが誰か忘れたか?」

「…! ん――、んんッ!!」

 いったん唇を離した航悠が小さく笑い、雪華の顎に手を掛ける。大した力もかけずに口がこじ開けられ、口付けは一気に深くなった。

「……! や……、ふっ――、…ッ」

 航悠が覆いかぶさってくる。舌をねじ込まれ、それを避けることもできない。抵抗する四肢は完全に押さえ込まれ、たくましい手足に封じられて身動きが取れない。
 航悠の熱が、雪華の中に入ってくる。荒々しくも巧みなそれが逃げる雪華の舌を捕らえた。ぬめる熱と熱が触れ、その衝撃に背筋が強張る。

 ――どうして。どうして、どうして。
 どうして、航悠はこんなことをする……!

 一片の自由も許さず、奪うように口付けられて混乱が極まる。だがその思考すら、口付けの荒々しさにかき乱されて消えていく。

「んん…ッ。や……っ。こ……、ゆ…! や――」

 舌の根を探られ、絡め取られる。逃れようとしてもなお追いかけてくるそれに、歯を立てようとする力までもが奪われていく。
 上背のある男からの口付けに背骨がきしんだ。あふれた唾液が、顎へと伝い落ちていく。それを追って熱い舌が喉を舐め上げ、膝が抜けそうになった。

「…っ!! 航悠――、いや、だ……っ」

「……遅ぇよ」

 耳のすぐそばで航悠がささやく。どこか乱れたそれに、また背筋がわなないた。掠れた抗議は再び降りてきた唇に完全に黙殺される。
 封じられた言葉の代わりに、閉じたくなるまぶたを叱咤して開き、雪華は力を込めて航悠を睨んだ。だが――

「!」

 同じく目を開いていた航悠と視線が交わり、体が硬直した。その目の中に、あの怪我をした日に宿っていた『雄』の熱を見つけ、頬が紅潮する。
 ――逃れられない。頭ではなく、本能でそう思った。

(…! 誰か来る……!)

 そのとき、雪華の耳は階段を上ってくる誰かの足音を捉えた。ここが廊下であることを思い出し、拘束された手首を振りほどこうと突っ張る。
 だが航悠の力は緩まない。しかもあろうことか、口付けたまま片手を雪華の胸へと滑らせた。乳房が押しつぶされ、明確な欲望を宿した手付きに目を見開く。

「……っ! 航悠…っ、やめ――」

「…………」

「人が……! ……んっ、ふ…っ」

 ――嫌だ。見られたくない。だが雪華の願いも虚しく、足音はどんどん近付いてくる。

「……っ、嫌だ…!」

 唐突に、足音が止まった。航悠に口付けられたまま恐る恐る視線を向けると、そこには予想だにしなかった人物が立っていた。


「…!?」

「……っ」

 斎国皇帝・胡龍昇――ありえない人物の来訪に、雪華はもちろん航悠までもが目を見開いた。その一瞬の隙をつき、龍昇が雪華と航悠の間に手を差し入れる。

「……やめろ」

「あんた――。なんでここに……」

 航悠が呆然とつぶやく。だが驚いてみせたのは一瞬で、龍昇の硬い声音に航悠はすっと目を細めた。雪華の手を放し、私服姿の龍昇を見下ろす。

「……あんたには関係ない。口を出すな」

「たしかに関係はないが……嫌がってる」

「…………」

 航悠がはっきりと不快感を露わにした。舌打ちした男はしかし、龍昇にかばわれて後退した雪華に片頬を歪めて笑ってみせる。

「良かったな、護り手が来て。……慰めてもらえよ」

「! ……お前っ!」

 揶揄やゆする言葉にカッとなり、思わず手を振り上げた。不意打ちでまともに平手を受け、航悠が顔を背ける。

「……い…ってえ。容赦ねーな、さすがに」

 一拍ののち、赤くなった頬もそのままに航悠はきびすを返すと階下へ下りて行ってしまった。
 遠ざかる背中を雪華は憤然と見送る。そしてあとには、気まずい顔をした龍昇だけが残された。





「…………」

「…………」

 ……どうしてここに。しかも、よりにもよってあんな時に。
 あのまま廊下にいるのはまずいと思い、雪華は龍昇を自室に引き込んだ。しかし顔を合わせることもできず無言でうつむいていると、静寂を破るように龍昇がつぶやく。

「……すまない」

「え?」

「いや……とっさに止めてしまったが、良かったのか? 何も事情が分からないのに、勝手なことを」

「…………。いや……助かった。こちらこそ、見苦しいところを見せてしまってすまない」

「そんなことは……」

 龍昇は部屋の入り口に立ちつくしたまま、視線を合わせようとしない。続く言葉を探して雪華が黙り込んでいると、龍昇はためらうように口を開いた。

「彼とあなたは、やはり……そういう仲なのか」

「いや……違う。説得力がないと思うが、今日は私があいつを怒らせて……ああいうことになった」

「……いつも、あんな風に無理やりされてるのか?」

「な……まさか。今日が初めてだ。あいつと、そんな――。…………」

 雪華は口を覆い、視線を逸らした。……生々しく先ほどの感触を思い出す。
 拘束する手、ねじ込まれた舌、雄の眼差し――そのすべてが、今まで知らなかった航悠の姿だった。もし龍昇が来なければ、あのままどうなっていたかも分からない。

(いや、きっと……)

 その先が容易に想像できて、目を伏せた。そんな雪華を龍昇が無言で見つめる。

「……顔を、見せてしまった。すまない。あなたの素性が疑われなければ良いが」

「ああ……仕方ない。何か言われたら、昔知り合いだったとでも言うよ。もしバレたとしても、あいつなら気にしないだろう」

「……信用してるんだな」

 そのとき龍昇の瞳によぎった複雑な羨望に、雪華は気付かなかった。龍昇の苦笑に応えるように雪華もまた苦く笑う。

「……そうだな。気付かないうちに、自分でも驚くぐらいに寄りかかってた。それだけに今日のは……こたえたな」

「……裏切られたと、思わないのか」

「あれが? 驚きが大きすぎて、まだよく頭が回らないが……あれぐらいは、裏切りのうちには入らないだろ」

「……そうか」

 自嘲するように告げた雪華に、龍昇が苦々しい声で同意を返した。その声音にはっと顔を上げる。

「……違う、あんたを責めてるわけじゃない。ただ、航悠に関しては――私を裏切るとか、そんな意味でやったわけじゃないと思う。たぶん、衝動的で……。あいつ相当怒ったんだな。私のこと、女としてなんて見てないだろうにあんなこと勢いでするぐらいに……」

 衝撃から少しずつ立ち直ると同時に血の上っていた頭が冷えていき、ようやく冷静になることができた。
 雪華の何かが、航悠の怒りを解放したのだ。あの動じない男が、珍しく自制を忘れるぐらいに――

 小さく自嘲して龍昇を見上げると、彼はなんとも言えぬ表情で雪華を見下ろしていた。

「つかぬことを聞くが……それは、彼がそう言ったのか?」

「それ…?」

「その……女性として見ていない、というところだ。彼はそんなことを、あなたに?」

「いや……でも、そうだろ? 十三年共にいるが、一度だってあいつがそういう目で私を見たことはないぞ。まして最初に会ったのは私が十のときだ。それで女として見ていたら、人としてかなりやばいだろ」

 雪華が眉をひそめると、龍昇はますますなんとも言えぬ顔になる。小さく溜息をつくと少し呆れたようにも聞こえる声で彼は続けた。

「出会ったときはそうかもしれないが、今は違うだろう。あなたはもう、成熟した女性だ」

「それでも、あいつの好みは私とは対極のところにあるよ。もっと華やかで気立てのいい、そういう女が好きらしい。私のことなんて、まったく――。……?」

 ……なんだ、今の考えは。これではまるで、航悠に女として見られたがっているかのようではないか。

「……っ」

 雪華の頬に、今さらのように朱が上った。唇を押さえて呆然とすると龍昇が苦く笑う。

「俺が言うのも何か変かもしれないが……そんなことは、ないと思う。あなたは十分華やかで、気立てが良くて……魅力的な女性だ」

「……ありがとう。でも、世辞はいいんだ」

 慰めのように言われ、その気遣いと見透かされてしまった恥ずかしさに顔のほてりは続く。龍昇は笑みを収めると真顔でたたみかける。

「世辞ではない、本心だ。あなたは自分のことを知らなすぎる。今のあなたのことを、そう多く知っている訳ではないが……俺はあなたを素敵な女性だと思っている」

「…………」

 思いがけず真剣な声音に、呆気に取られた。
 ……少なくとも、気立ては良くない。そう突っ込もうとしたが、龍昇の眼差しに押されてあえなく消沈した。

 掛け値なしに褒められて、さすがの雪華も首の裏まで熱くなる。返す言葉を探して黙っていると、龍昇は小さく続けた。

「きっと彼も、それを分かっている。俺が言うのも本当にどうかと思うんだが、あなたのことを女性として見てないなんてことは……ないと思う」

「……どうして、そんなことが分かる」

「男の勘だ」

 非常に不本意というような顔で、龍昇が渋く漏らす。ぽかんとその顔を眺めていると、やがて苦笑が漏れた。
 龍昇は――自分を、慰めてくれたのだ。

「勘か……。あまり当てにはならないが、そういう可能性もあるかもしれないとは思っておく。……ありがとう」

「慰めの意味で言ったのではないのだが……。参ったな、完全に塩を送ってしまった」

「…?」

 礼を告げる雪華の微笑に、龍昇が困ったような笑みを浮かべた。昔のままの優しい表情に、つかの間、温かいものが胸に流れる。
 ようやく平常心を取り戻した雪華は龍昇に椅子を勧めると、今になって思い出したかのように切り出した。

「ああ、そういえば今さらだが……あんた、どうしてここに?」

「え……ああ、怪我が良くなったかと心配で。大丈夫なのか? あまり顔色が良くないように見えるが」

「怪我は治った。体調は……昨日少し、しくじってな。航悠が怒ったのも、これが原因だ」

「何か失敗をしたのか」

「まぁそうなんだが……私に非があることだ。それより悪いな、わざわざ。年始の朝賀も終わって忙しい頃だろうに」

 眉をひそめた龍昇に溜息で答えると、雪華はその気遣いに感謝を伝えた。いまだ心配顔の龍昇が苦笑を浮かべる。

「忙しいことは忙しいが、週一の休みだけは強制的に取らされているよ。俺に倒れられては困る、とな」

「あんたには気の毒だが、ま、それはそうだろうな。……それで、シルキアとの情勢はどうなってる?」

「残念ながら……。シルキア側の国境付近で、軍備が整えられつつあるのを確認した。戦になるのは、もう避けられないと思う」

「……そうか」

 風の噂で、斎に残っていたシルキアの使節も全員が帰国したと聞いた。おそらくはあの補佐官…ジェダイトも。もう、交渉の余地もないということなのだろう。

「皇帝と言っても、できることは本当に少ない。……情けないことだ」

 低くつぶやく龍昇の顔には、苦悩と悔しさが滲んでいた。雪華はもう、以前のようにそれを責めようとは思えなかった。

 手を尽くしても、どうにもならない勢いというものはある。それでもこの男はその状況を何とかしようと、文字通り身を粉にして働いてきた。
 政務をしている姿を見なくとも、今の姿を見れば龍昇が全力を尽くしていることはおのずと分かる。それをこれ以上責めることなど、誰ができるだろうか。

「……仕方がない。それが時代の流れなんだろう。それを止めることはきっと誰にもできない。だから、あまり自分を責めるな」

 自然とそう告げると、龍昇は驚いたように雪華を見た。その黒い目が、薄い笑みを形作る。

「ありがとう……。それで、そのことなんだが――」

 居住まいを正し、龍昇が引き締まった面持ちになる。雪華も知らず背筋を伸ばすと、続く言葉を待った。

「近く、あなたたちに正式に依頼をさせてもらうかもしれない。……密偵の依頼だ。もちろん、あなたが嫌でなければで構わないのだが……」

「ああ……なんだ、そのことか。前にも言っただろう。依頼として望まれたなら、協力するのは構わないって。正規の兵はまた違うところに温存しておけ。私たちは好きに使えばいいさ。少し値は張るが、働きはなかなかのものだぞ」

「危険なことをしてほしいわけじゃないんだ。無理そうだったら、すぐに手を引いてくれ。成果によって額面を変えたりはしない」

「……私たちにも、多少の矜持きょうじというものがある。依頼されたら、全力で取り組ませてもらう。正式に依頼するなら悪いが書面を通してくれ」

 苦しげに付け足した龍昇を、雪華はじっと見返した。
 一度告げた言葉を、たがえるつもりはない。たとえその依頼が仲間に拒まれたとしても、雪華一人でも受ける気持ちでいた。そんな雪華を見て龍昇が視線を下げる。

「……すまない」

「? 何を謝る」

「俺は何につけても、覚悟が足りないな。あなたの方がよほど誇り高くて……潔い」

「はは。一度言ったことを取り下げるのがしょうに合わないだけだ。あれこれ調整するのも面倒だしな」

「……分かった。もう少し議論して、正式に書面を送らせてもらう。その上で検討してくれ」

「ああ」

 小さく頭を下げた龍昇に、鷹揚おうように頷いてみせる。……何か立場が逆転しているような気がするが、まあ良しとする。

「ああ、そうだ。私の方でも少し報告があったんだ」

 龍昇が仕事の話を切り出したことで、雪華もようやく昨夜の任務中に収穫があったことを思い出した。
 雪華が姿勢を正すと、龍昇は元から良かった背筋をさらにしゃんと伸ばす。その様にくすりと笑い、ゆっくりと報告を始めた。



 昨夜得た情報を伝えると、側近の中に思い当たる節のある者がいると告げ、龍昇は帰っていった。その表情は静かで、彼の中ではもう確信を得ていたことだったのかもしれない。
 とりあえず、伝えるべきことは伝えられた。人がいなくなり、雪華は寝台に横たわる。

「…………」

 龍昇の登場でいったんは薄れた記憶が、よみがえってくる。
 航悠は――どこに行ったのだろう。下にいるのか、それともまた妓楼に向かったのか。

(女として見てる、なんて……)

 ……ありえないだろう。
 そう否定する心の裏で、もしかしたら、多少はそうなのかもしれないと思っている……いや、期待している自分がいた。

 自分はきっと、航悠を……もう、男として見ている。
 それが恋情なのか、それ以外の何かなのかは分からないが、航悠の中の『雄』を意識せずにはいられなくなっていた。

「なんで、今になって……」

 家族同然で過ごしてきた男を、意識するようになったのか。なぜ急に航悠は、あんな顔を浮かべるようになったのか。

(いつから、なんて――)

 裸の肌に、触れられたから? 口付けを、されたから? たったそれだけのことで――……

「…………」

 どんな顔をして会えばいいのだろう。少なくともこんな赤くなった顔でないことだけは確かだが、情けないことに、今の雪華にはさっぱりそれが分からなかった。


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