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ジェダイト編
10、非道であれば
「アーシム。……あんたの主人は、いったい何をしようとしているんだ?」
「なに……と言われ、ましても……」
夕方、湯殿への道すがら、雪華は影のように付き従うアーシムに質問を浴びせかけていた。
「昨日の奴隷にも聞いたが、斎国語が分からなくてな。というか、耳自体が聞こえなかったんだが」
「ああ……ルトフ、ですか」
繰り返される雪華の質問に、アーシムは相変わらずの掠れ声で応じてくれていた。これまでも何人かのジェダイトの使用人に会ったが、斎国語が通じるのはこの男だけだった。
最初こそ互いに警戒が先に立ち、そもそもが護衛だから今でも完全に打ち解けたとはとても言えないが、少しずつ態度が柔らかくなってきているのが分かる。
こちらの真意を悟られないよう気を付けながら実直な従者と会話を繰り返し、雪華はなんとかジェダイトの情報を集めようとしていた。
「気を悪くしたらすまないが……しゃべれなかったり聞こえなかったりするのは、異国では不便ではないのか?」
「いえ……特には。表に出る仕事、ではないですから。いつもの仲間、と来られて、やりやすい…です」
ここ数日で分かったことだが、ジェダイトに随行してきた使用人……という名の奴隷は、体に障害を負っていたり目立つ傷があったりする者が多かった。
他国にまで連れてくる使用人というと、見目麗しい小姓のような若者が相場だと思っていた。実際、以前見た他のシルキア人の随従はそうだったからジェダイトが特殊なのかもしれない。
「ジェダイト、様は…他のヤシキで雇われない、わたしたちのようなドレイを、働かせて、くれます。ちゃんと、キュウキンを払って。文字や、計算を覚えて……ほかのバショで働きはじめた者も、います。ドレイでは望めないような……ちゃんとした、仕事を、あの方は…与えてくれた」
雪華の質問に気分を害した様子もなく、アーシムが熱っぽく語る。アーシムの言うジェダイトと、雪華の知るジェダイトの間には相変わらず隔たりがあったが、数日前ほどの落差は感じなくなっていた。
(……ほだされているのか?)
それは、非常に良くない傾向だ。だが「そんな聖者のような男ではない」と断固として突っぱねることも、できなくなっていた。
それはジェダイトの従者たちが、あまりに――彼を信じ、慕っているのが分かったからだ。損得勘定抜きに彼らはジェダイトに心から忠誠を誓い、ジェダイトのために働いている。
「あの方には……感謝をしても、したりない、です。あの方になら、わたしのゼンブを、ささげてもいい。ウラギられても、いい……」
「心酔しているな。私には分からんが。……あいつの何が、あんた達をそれほど惹きつける? のし上がってきた強さか? あいつは最下層の奴隷だったと言っていた。その男がなぜ、これほどの地位に上りつめた?」
「それは……」
アーシムは迷うように、しばし黙り込んだ。だが首元の布に手を当てると、意を決したように口を開く。
「あの方は……ドレイとして生まれ、市で売られ……買われたあと、も、ひどい、ギャクタイを……受けていました」
「…!」
「シイタげられることを知り、痛みを知り……それでも屈することなく、必死で、タカみを目指した。その光に……われらは、惹かれるのです」
「……ジェダイトが、自分たちを解放してくれるかもしれないからか」
「いいえ。ドレイが解放、されなくても……自由なミブンが得られ、なくても…われらのために、誰かが動いてくれた。それだけで……十分、なのです」
アーシムの熱っぽい声に雪華は眉をひそめる。
……気持ちは分かるが、納得したくない。綻びを探すようにきつい口調で詰問する。
「それならどうして、あんたはまだ奴隷身分なんだ? 口ではどうとでも言える。奴は本当に動いているのか? 丸めこまれている可能性は――」
「やめて、ください。あの方を……悪く、言わないで。自由身分になっても…十年たたないと、他のドレイを同じ身分にすることは、できないのです。あの方は……十年たったら、わたしたちをみな解放すると言って、くれました。それが、どんなにウレしかったか…!」
アーシムが珍しく気色ばみ、雪華に反論する。声を枯らしてもなおジェダイトを擁護するその姿に、雪華は己の失言を悟った。
「……すまない、言いすぎたな。それなら……シルキア国内でも、あいつを慕う奴隷は多いのか」
「はい……。ドレイだけで、なく……市民や、キゾク以外の役人にも……あの方をシエンしている者は、多いです。でも、その代わりに……あの方を、うと…うとましく思う者も、多い…です。貴族や、役人は……ドレイがいなくなったら……困る、から」
次第に声を紡ぐことが苦しくなってきたのか、アーシムが咳をする。もういいと目で促すと、アーシムは怒りを目にたたえ、小さく首を振った。
「貴族、は……身分をタテに、あの方に、無理を言いつける。今だって、ジェダイト様が斎に留まっておられるのは……っ」
「……?」
「あ――」
余計なことを言った、とばかりにアーシムが口をつぐむ。不自然に途切れた言葉に雪華は眉を寄せた。
「あいつが、斎に留まっているのは……? なんだ」
「あ、の……。…………」
「アーシム。私には、尋ねる権利があると思うが」
声を低めると、アーシムはその巨体を縮こまらせた。命じられることに慣れた男は、ジェダイトと彼の「賓客」である雪華のどちらに従うか迷っている。
脅すようで少々悪いが、雪華は目を細めると顎を吊り上げて傲然と命じた。
「アーシム。……答えろ」
「…………。絶対に、ジェダイト様には……言わないでください」
「分かった、誓おう」
――勝った。内心で息を吐きつつ神妙にうなずくと、アーシムは迷いを滲ませたまま苦々しげに口を開く。
「人質……なのです」
「……なに?」
――アーシムの話は、こうだ。
ジェダイトたちが斎にやってきたのと時を同じくして、シルキアにも斎の官吏が外交に赴いた。しかし国同士の情勢が悪化し、斎の皇帝…龍昇は彼らの帰還を命じた。だが、シルキア側がそれに応じなかった。
国外に出ようとする斎の外交団を監禁し、シルキアは無理な要求を突きつけてきた。それに業を煮やした斎の朝廷は、対抗策としてシルキアと同じく相手側の官吏を斎に留め置くことを決めたのだ。
そしてシルキアの外交団で誰を残すかを検討した結果――ジェダイトに、白羽の矢が立ったのだという。
交渉を続けるため、と朝廷は言うがジェダイトは現在軟禁状態で、実際はまともな外交などできていない。いざ戦が始まれば、真っ先に狙われるのがジェダイトであることは明白だった。
シルキアが見限れば、もしくは斎の朝廷がもう用済みと判断すれば、彼は切り捨てられる運命だ。
……それは、人質以外の何ものでもなかった。
(……龍昇が命じたとは限らない。だいたい外交が、綺麗事で済むわけもない。でも――)
ひどく、重い気分になった。
政治の裏舞台と、それに翻弄される一人の男。ならば、そのその男に振り回されるちっぽけな自分は……一体何なのだろう。
「もしも、あの方が……傷付くようなことが、あれば…わたしは斎を、許さないでしょう。そしてそれ以上に……シルキアの役人を、許せない。あの方を……マモり、たい。血に汚れても、自分の道を行くあの方を……失いたく、ないのです」
「…………」
ジェダイトという男が、ますます分からなくなった。涼しい顔の裏では、自国になかば見放され……それでも何か、足掻いている。何かを成し遂げようとしている。
黙り込んだ雪華の頭上で、アーシムが長く息をついた。……湯殿を目の前にして、いつの間にかだいぶ長いこと話しこんでいた。
「また、しゃべり……すぎました。ジェダイト様が、言っていました。あなたといると、ヨケイなことまで、話してしまうと。わたしのようなドレイと、ちゃんと目を合わせて、耳をカタむけてくれる、から……止まり、ませんでした。……どうぞ、お湯を。お着替えです」
「ああ……。ありがとう」
湯を浴びて、いくらかさっぱりとした雪華は用意された着替えに袖を通しかけ、目を疑った。それを素早く着込むと、バンと扉を開ける。
「あ……お、お戻りですか」
「おい……アーシム。この服はなんだ? いつもの斎の着物は!」
「あ……すみま、せん。すべて、センタクに出してしまって……」
「豪華なやつじゃなくていいよ。さっきの服は! あれならあるだろ」
「あ……そ、それも……。あの、でも……ジェダイト様は、お喜びになるかと」
「なぜ私があいつを喜ばせなくてはいけない!」
「す、すみません……」
アーシムが用意した着替え――それはいつもの斎の着物ではなく、シルキアの女性用の衣装だった。
別に露出が多いわけでもない、ごく上品な仕立てのものだ。悔しいが、深い緑の色も相まって綺麗だと思う。だがシルキアの服など着ては、まるで情人になったかのようだ。
裸で出るわけにもいかず仕方なくそれを身に着けたが、こんな服であの男の前に出たくない。
だが非情にも、アーシムはさっさと廊下を歩くと雪華を室内に放り込んだ。猫を投げ入れるように部屋に押し込め、外から鍵をかけてしまう。
「おい…っ、手錠…は――」
かけられたい訳では断じてないが、その扱いはいかがなものか。思わず叫びそうになった雪華は、室内の気配にふと体を強張らせた。
(……最悪だ……)
夜を迎えた部屋に輝く、銀の髪。
……ジェダイトが、窓辺に腰かけて待っていた。
「…………」
「…………」
ジェダイトは目を丸くして、部屋に戻ってきた雪華を凝視した。珍しく本気で驚いている姿と沈黙が気まずく、雪華はことさら不愛想に口を開く。
「ずいぶんと早いお帰りだな。宮廷内でくたばっていれば良かったのに」
「今日は……皇帝陛下が、お休みの日でしたので……。雪華殿、その服は――」
「言っておくが、私の選択ではない。貴様の可愛い従者が、わざわざ用意して下さった」
「そう…ですか……。……アーシムも、なかなか気の利いたことをする」
「貴様がいなければ、今すぐ脱ぎ捨てて破ってやりたい」
窓辺に腰かけていたジェダイトは、雪華の罵りにどこか間の抜けたような苦笑で応える。頭から爪先まで舐めるように見つめられ、ひどく不快だ。
「従者は男だらけのくせして、女物の服を持ち込むとは……はじめから慰み物でも、ここに入れる予定でいたのか?」
「ああ……いえ。たぶんそれは、うちの役人の誰かが皇帝陛下の愛妾にでも差し上げようと、持ち込んだのだと思いますが……。結局愛妾はいらっしゃらず、持ち返るのも面倒で置いていったと見えますね。アーシムも、よく探してきたものです。それにしても――」
「……何か? 言いたいことがあるならはっきり言え。そのように見られるのはますます不快だ」
「ああ、失礼。その……美しいですね。驚きました」
「……は?」
「あなたが綺麗なのは元からですが、これはまた……新鮮です。アーシムも、良い仕事をする」
ジェダイトの目には、珍しく裏表のない称賛が浮かんでいるように見えた。一歩近付いてきた男から反射的に後ずさると、ジェダイトは寂しげな笑みを浮かべる。
「ずいぶんと嫌われたものですね」
「当たり前だろう。好かれていると思ったか?」
「いいえ、まさか。……少し痩せましたね。ちゃんと食べないと、体力が持ちませんよ」
「余計なお世話だ。貴様が私の前から消えてくれれば、いくらだって食欲も出てくるだろうよ」
「そうですか。……でも、それはどうでしょうね」
冷ややかに返すと、ジェダイトはどこか同情するような顔で雪華の言葉をやんわりと否定する。その言いざまに顔を上げると、彼は目を伏せて自らの手のひらを見つめた。
「あなたが私の前から消えたとて、ここでの記憶がなくなる訳じゃない。心に、体に刻まれた記憶は消えない。すべて元通りには、ならないでしょう」
「未来永劫、私の心に居座ると? ……大した自信だ。よほど自分のことを買っていると見える。いっとき体を自由にされた相手など、いつまでも律儀に覚えているものか。生娘でもあるまいし。貴様の記憶など、即座に消去してやる」
「…………。ふ……。はは……っ」
不吉な予言に真っ向から反論すると、ジェダイトは小さく目を見開き、ついで苦笑した。それを嘲笑と取った雪華は目を細め、低く続ける。
「おかしいか。笑いたければ笑えばいい」
「失礼。……違います、感服したんです。あなたはやはり、一筋縄ではいかない」
「……なに?」
「正直、ここまであなたが持つとは思っていませんでした。早々に白旗を挙げて、扱いやすくなってくれるとタカをくくっていたのですが……。誤算でしたね。あなたのことを、どうやら私は見くびっていたようだ。さすがは元皇女殿下。気丈でいらっしゃる」
「…………」
――それは、そう振舞っているだけにすぎない。折れそうな心を、この男への憎しみだけで何とか支えているだけだ。何かの拍子にくじけたっておかしくない。
それでもこの男にだけは、弱っている内面を見せたくない。傲然と顎を引くと、雪華は鼻で笑った。
「皇女ね。……貴様は私を皇女と呼ぶ。それはたしかにかつての事実だ。だが貴様の目に私が気丈に映っているのなら、それは私の出自のためではない。……皇女の肩書きが私に与えたものなど、わずかだ。今の私を形成しているのは、李雪華として生きた年月で培われたものが大半だ」
子供の頃のたかだか数年の記憶と、李雪華となってから過ごした十数年の記憶、そして経験。それを比べればどちらが今の自分を形成しているかなど、明らかだった。眼差しに力を込め、雪華は続ける。
「名前が変わった。姿が変わった。性格だって、きっと大きく変わった。皇女のままだったら、これほど図太い神経はしていなかっただろうよ。出自が何であろうと、今の私は李雪華でそれ以外の何者でもない。皇女の朱香紗をおとしめて満足しようと思っているなら、無駄だからやめておけ。……そう言っても、貴様は『恵まれた者の戯言だ』と鼻で笑うか? ……そうしたければ、そうしろ」
「いいえ。笑いはしませんが……興味深くはありますね。過去には未練も悔いもありませんか?」
「未練も悔いも、大ありだ。だけど仕方ないだろう。皇女じゃなくなったからって、死んだわけじゃない。命があれば、何かしらはできるからな」
「前向きなんですね。……卑賤の身には、実にまぶしく映ります」
ジェダイトが自嘲気味に笑う。顔を上げると、男はなんとも言えない表情で目を閉じていた。
ちかりと――よせばいいのに、追い立てるような言葉が口に浮かんだ。
「その言い方。……貴様は貴様で、過去に囚われて雁字搦めになっているようだな」
「……?」
「自分は奴隷。卑賤の身――事あるごとに、貴様はそう言う。それが免罪符みたいに、そう言っておけば私に理解などできるはずがないと」
腕を組んで続けた雪華にジェダイトが目を開く。雪華はその瞳を見据えると、笑みも嘲りも浮かべずに吐き捨てた。
「馬鹿じゃないのか? たしかに、貴様がどんな過去を持っていたかなんて知らないし、口で言われてもきっと私には想像も付かない。……だがな、私にとっては貴様の過去も、奴隷だったことも大した意味など持たない。最初に会った時から貴様はジェダイト・アル=マリクでしかなかった。胡散臭い笑みを浮かべた、正体は鬼畜な大臣補佐官が私の知る貴様のすべてだ。ジェダイトという人間のすべてを理解することはできないが、少なくとも鬼畜補佐官の多少の部分なら、理解の範疇にある。……許容はしないが」
「…………」
「貴様の過去など知ったことか。私は奴隷の貴様と話をしているんじゃない。奴隷だ卑賤だとこだわるのは結構だが、それで貴様の見方が変わるものでもない。奴隷であったことを示せば、心の内は理解されないと思ったか? ……半分は失敗していると思うぞ。残念ながらな」
一息に言って、息を吐き出した。
……余計なことを言った。ジェダイトの怒りを煽り自分の首を絞めるのは目に見えていたが、一気に告げたら少しすっとした。
わずかに目を見開いたまま無言になったジェダイトから視線を逸らさず、雪華は目を細める。
「元皇女に『多少は理解できる』などと言われるのは屈辱か? 腹立たしいか?」
「さあ……。何も感じないと言ったら嘘になりますが、正直、考えあぐねますね。……なかなか面白い見解だ」
「貴様はいつも『面白い』『楽しい』ばかりだな。苛立つことすら抑圧されて、忘れたか」
「どうでしょう。私は奴隷――いえ、昔からそうでしたから。心の底から煮えくり返るようなことは、ほとんどなかったように思います」
「体が縛られていても、心は自由などとどこぞの誰かが言っていたが……あれは嘘だな」
「そうですね。今、同感しました」
大きく溜息をついたジェダイトが、窓枠から身を起こし雪華に手を伸ばした。体に触れるかと思われたそれは、繋がれていないままだった鎖を握り、寝台へと括りつける。
(あ――。しまった、忘れてた……)
ありえない。馬鹿にもほどがある。話をするのに気を取られて、せっかくの機会を逃していたなんて。
(結局、こうなるのか……)
寝台に繋がれ、この後の行為を予測して目を閉じる。
いくらジェダイトが賛辞を口にしたとて、することは一つなのだ。さっさと逃げ出さなかった自分が恨めしい。
「……雪華殿」
「やめろ」
ジェダイトが雪華を抱え込み、寝台にもつれ込む。無駄な足掻きと悟りつつ、肘鉄を打ち込むべく構えた腕にジェダイトの手が添えらえた。
「……っ、はな――」
攻撃を仕損じて、押さえつけられ、征服される――繰り返された行為を半ばあきらめと共に追想し、苦いものが込み上げる。
しかし雪華を蹂躙するかと思われたその手は、彼女の体を腕ごと後ろからやんわりと抱きしめた。
「っ……」
「……今日は……何もしません。本当に。……少し、疲れていて。眠りたいんです」
「なに……。だったら、自分の部屋で寝ればいいだろう…っ」
「あなたの隣の方が、落ち着く気がするんです。襲われるかもしれないのに、おかしいですね……」
「は……? なに言って……」
背後に回ったジェダイトが、深く長い溜息をついた。その吐息がうなじをくすぐるが、ジェダイトは本当にそれ以上深く触れてはこなかった。
緩い力ですっぽりと抱きしめられ、困惑がつのる。
「……やめろ。放せ」
「私が寝たら、離れていいですよ」
「寝首をかいてもいいと? 嗜虐趣味に加えて、被虐趣味もお持ちとは。救えない変態だな」
「ふふ……。忠告してくれるとは、優しいのですね。そういう非情に徹し切れないところ、好きですよ」
背後からジェダイトのささやき声が響く。彼はもう一度溜息をつくと、穏やかな声で続けた。
「シルキアの服……よくお似合いだ。ディープグリーン――シルキア人が切望する、緑の色だ。あなたにも合っている。でも、緑もいいですが……私は青の方がより好きですね。海の色だと聞いて、昔から憧れていました」
「誰も貴様の好みなど聞いていない」
「何かの役に立つかもしれませんよ。何の知識でも、覚えていて損はない」
「…………」
本気でわけが分からなくなってきた。居心地悪く身じろぐと、背後で静かに深い呼吸を繰り返していたジェダイトがぽつりと囁く。
「震えていますね。でも……たまには、こんな夜があってもいいでしょう」
「なに……?」
「あなたは、私におびえている。蹂躙され、体の自由を奪われ、今度は何をされるのかといつも恐れている。そうなるよう仕向けたのは私ですが。……今以上に踏み込まれるのではないか、何かされるのではないかとおびえる。それは別に唾棄することではありません。生きるために必要な、防御反応だ」
「貴様……何が言いたい」
「私も……あなたと同じでした」
「……?」
意外な言葉に耳をそばだてると、ジェダイトは少し沈黙して再び口を開いた。彼の柔らかい前髪が後頭部に触れ、その体温がわずかに伝わる。
「安眠できる夜があっても……何かが起こるのではないかと身構えて、結局一睡もできなかったり。刻み込まれた恐怖心は、厄介なものですね」
自嘲したジェダイトの吐息が、首筋にかかった。それに嫌悪よりも戸惑いを感じながら雪華はその言葉を反芻する。
男の言葉は雪華のことを言っているようで――その実、他のことを暗に示しているようにも思えた。だがその真意など分かるはずもなく、雪華はただじっと体を固くする。ジェダイトは掠れていく吐息で、ごく静かに囁いた。
「あなたに、そんなものを植えつけてしまったこと……申し訳なく、思います」
「…………」
それきり、ジェダイトが声を発することはなかった。しばらく身を固くしていると、背後から深く静かな息が聞こえてきて雪華は耳を疑った。
(……嘘だろ……?)
あのジェダイトが――寝ている。雪華を抱きしめたまま、体の力を抜ききって。
ちらりと振り返ると、閉ざされた銀のまつげが見えた。その光景を間近に眺め、そろそろと腕から抜け出す。……ジェダイトは、起きない。
「馬鹿じゃないのか……」
こんな、捕らえた女を間近にして――
鎖で繋いだとはいえ、片手は自由なのに――
こんな……寝首をかき切れるような、無防備さで。
「…………」
瞳を閉じたジェダイトは、目を開けている時より幾分か年若く見えた。冷たい光を宿す瞳が隠れると、出会った頃のように穏やかで美しい風貌が現れる。
よくよく見てみると、出会った頃よりだいぶやつれたように思う。当初はひたすら美形だという印象しかなかったが、その顔には確かな疲労が見て取れた。
(弱ってる……。今ここで、手を下せば――)
簡単に、この男から――逃れられる。その後脱出するのが難儀だが、少なくともこれ以上この男に体と心を踏み荒らされる心配はなくなる。
ためらうことなど何もない。この男にされたことを考えればお釣りがくるぐらいだ。そもそも、こんな無防備に寝こけるジェダイトが悪い。
(簡単だ。首を締めれば……)
そろそろと、褐色の首に両手を近付ける。ジェダイトは起きない。その滑らかな皮膚に、指が触れそうになり――
『あの方は、われらの、希望…なのです』
『あの方を……マモり、たい。血に汚れても、自分の道を行くあの方を……失いたく、ないのです』
「…っ!」
唐突にアーシムの言葉を思い出し、雪華は指を握りしめた。ジェダイトの首ではなく、寝台の上で。
「……くそ……っ」
固く握った拳の上に、弱々しい呻きが漏れた。
ジェダイトは起きない。起きないことに――苛立ちがつのった。
なぜ、そんな穏やかな顔を見せるのか。あの冷酷な瞳で雪華を嘲り続けていたのなら、奴隷を道具のように虐げる非情な男だったなら、何も考えずに殺せたのに――
「調子が……狂うんだ……っ。そんな顔して――。……くそっ……」
安らいだ表情で静かに眠る男を前にして、雪華は真夜中になるまで葛藤し……いつしか自分も眠りに落ちていた。
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夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
ド天然勘違い令嬢と狂愛公爵
薔薇の蕾がほころび始める初夏の午後、公爵邸の東屋(あずまや)には、冷ややかな空気が漂っていた。
「アリス、来週の王立夜会だが……共に参列する馬車の手配をしておいた。ドレスの色を教えてもらえれば、タイの色を合わせよう」
テーブルを挟んで座るアルフレッド・フォン・ローゼンベルク公爵令息は、完璧な仕立ての紺青の夜会服に身を包み、陶器のように滑らかな顔立ちで紅茶に口をつけていた。
氷の彫刻を思わせるアイスブルーの瞳には、一切の揺らぎがない。
その向かい側で、アリス・フォン・ベルンハルト伯爵令嬢は、優雅に扇を揺らしながら小さく頷いた。
腰まで届くプラチナブロンドの髪、彫刻のように整った鼻筋。
誰しもが見惚れる「氷の貴婦人」と称される冷ややかな美貌の裏で、アリスの脳内は大荒れに荒れていた。
(ああ……やっぱり。私のドレスの色なんて、どうでもいいのね。『タイの色を合わせる』だなんて、マニュアル通りの完璧な婚約者ムーブ。きっと心の中では、あの可憐なエリス男爵令嬢のことを想っているんだわ……!)
アリスの盛大な勘違いの根底には、ゆるぎない確信があった。
先日、王立庭園で見かけたのだ。
アルフレッドが、はかない雰囲気を纏ったエリス男爵令嬢から一輪の白いゆりを受け取り、それを胸ポケットに収める瞬間を。
実際には、その花には「公爵家の領地事業に関する極秘の暗号文」が仕込まれており、アルフレッドは冷徹なビジネスとして受け取ったに過ぎないのだが、アリスの脳内フィルターを通すと『身分差の恋に苦しむ切ない公爵男の密会』へと完璧に翻訳されてしまった────。