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おっさん、18禁乙女ゲームの世界にトリップする。
しおりを挟む静けさに包まれた真夜中のルテリオン王国。
王都の貴族街に佇むひときわ立派な邸宅は、エスクラ公爵家のタウンハウスだ。
当主は代々宰相を務め、開国の頃より王家に忠誠を誓ってきた。王国に三つある公爵家の中で最も格の高い家門である。
その邸宅の一室。床に一心不乱に何かを書きなぐっているのは、長女ローゼ・ラ・エスクラだ。
彼女は指の先を何度もナイフで斬りつけては、血で模様を描いていく。傍らに置かれた真っ黒な装丁の本――そこに描かれたものを書き写しているようだ。
彼女の赤い瞳からこぼれた涙が、血をところどころ滲ませる。
「呪ってやる……。あの女、絶対に呪ってやるわ!」
部屋の床一面に大きく描いたのは魔法陣だ。
ローゼは本を手に立ち上がり、呪文を詠唱していく。
その本の背表紙には、『悪魔召喚の書』と書かれていた。
「婚約者を奪ったあの女をわたくしは許さない……! 来なさい悪魔! 魂を捧げる覚悟はできているわ!」
暗闇の中で魔法陣が赤く光る。それは絶望と憤怒に染まったローゼの顔を妖しく照らした。
ふっと光がやむ。
何かが動く気配がして、ローゼは息を潜めた。
「――痛てててっ! おしり打った! なに!? 暗!? 停電!? 僕のラーメンは!?」
「……?」
悪魔にしては威厳のない声に、ローゼは違和感を覚えた。
ろうそくに火をつけ、声のするほうにおそるおそる燭台を近づける。
「まぶしっ」
顔の前に両手を出して灯りを嫌がるその存在は、魔法陣の中心で尻もちをついていた。召喚された存在で間違いないだろう。
着ている服は貴族も着用するものに似ているけれど、生地がぺらぺらだ。首元にはクラヴァットや蝶ネクタイではなく、見慣れない結び方のこれまた安っぽい布が垂れさがっていた。
悪魔はこの服装が主流なのだろうか。
変なのは服装だけではない。掘りの浅い薄い顔立ち以外は、そこらへんにいる〝ただのおっさん〟にしか見えなかった。
もっと違う外見を想像していた。こう、異形っぽいのとか。禍々しいのとか。悪魔といえば角が生えていたり羽が生えていたりといった恐ろしい形相の絵しか見たことがなかったため、拍子抜けだ。
だが外見などどうでもいい。
望む力を与えてくれるなら。
「…………お前が悪魔?」
「え? お嬢さん誰? う~ん僕のこと誰と間違えてるのかな。オジサンは田中晴信だよ」
「たなかはるのぶ?」
「そーそー。しがないサラリーマン。悪魔なんて言われるような悪いことをした覚えはないんだけどなぁ。オジサン平和主義だし。ところでここどこかな? もしかして僕死んだ? かわいいお嬢さんはお迎えに来てくれた天使かな? なーんて」
「さらりーまん? 悪魔にもいろいろ位があるのね。わたくしはお前の召喚者ローゼ・ラ・エスクラよ。さあ悪魔たなかはるのぶ、わたくしと契約して黒魔法を授けなさい!」
状況が呑み込めないまま迫られて、晴信はのらりくらりと躱そうとした。奥義、へらへら笑い。それが彼なりの、上司と部下の間に挟まれる中間管理職としての処世術であった。
「ちょちょちょっと待ってよぉ。オジサン若い子のそういうノリは咄嗟についていけないって。ていうかなんて言った? ローゼ・ラ・エスクラ? は~あいつがやってたゲームってコスプレイヤーがいるくらい人気だったんだ」
「先ほどからお前が何を言っているのか全然わからないわ。人間の言葉で話してくださる?」
「辛辣ゥ……。役作りすごいね~。で、なんで僕が悪魔役? 僕みたいなのはよくて悪役令嬢のパパでしょ。あはは、はは、……その顔、もしかして冗談じゃないやつ?」
笑顔が引き攣っていく。
晴信を見下ろすローゼのまなざしは冷ややかだ。
「茶化すのはやめてちょうだい。契約する気がないのなら別の悪魔を呼ぶわ」
「あー、えー、悪魔と契約するのはやめたほうがいいと思うよ? 黒魔法ってご法度でしょ」
「悪魔がそれを諭すのね。つくづく変な悪魔だわ。はぁ、今回の召喚は失敗のようね」
残念そうに本を閉じたローゼは、もう晴信に興味がないようだった。
「もうお前に用はないわ。早く帰って。次は絶対にわたくしの召喚に応えないでもらえるかしら」
「帰れと言われても……」
「なんなのよもう。魔界への帰り方もわからないような半人前の悪魔なの? ……わたくしの血には高位の悪魔を召喚するほどの力がないってことかしら……」
会話の噛み合わなさに辟易とする。
これはそろそろ認めなければならないようだ、と晴信は腹を括った。――自分がゲームの世界にトリップしてしまったということを。
それも、18禁乙女ゲームの世界に。
「だからぁ、オジサン悪魔じゃなくて人間なんだってば」
「……え?」
「田中晴信。人間。35歳。たぶんここと違う世界から間違って召喚されちゃったみたい」
「…………え?」
相当なショックを受けたらしい。ローゼはそのままバタリと倒れてしまった。
咄嗟に支えてベッドに横たわらせる。
「無理もない。こーんなに血を出して……。まぁそれくらい必死だったってことだよね」
白魚のような手が真っ赤に染まっている。広い部屋の床一面に血で魔法陣を描いたのだから、死にかけてもおかしくはない。
それだけローゼは自身の置かれた最悪の状況を打開したかったのだろう。
王国で禁忌とされる黒魔法に手を染めてでも。
「はーどうしよっかな。帰る方法もわかんないし。ローゼちゃん、このままだと処刑エンドまっしぐらだし」
真っ青な顔で気絶するローゼを見下ろし、晴信は頭をかいた。
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