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16ー1.忍び寄る影
しおりを挟むある日の深夜。寝室でダリアと共に眠っていたヘンリーは、扉の向こうに人の気配を感じて目を覚ました。
ダリアを起こさないようにそっとベッドから抜け出して、静かに部屋を出る。寝室と扉一枚隔ててつながった私室には、全身を黒ずくめで覆った、男とも女とも判別のつかない人物が佇んでいた。――その人物は、ヘンリーがかねてより重宝している密偵である。
「お待ちかねの物が手に入りました」
「やっとか」
差し出された帳簿をぺらぺらと捲り、ヘンリーはほくそ笑んだ。
「よくやった」
ヘンリーはそれをデスクの鍵のついた引き出しにしまい込む。
証拠集めに少し手間取ったが、ようやくすべてが整った。ハイデル公爵家を陥れるための準備が。
――その日の早朝、ヘンリーは皇宮へ赴いていた。
急ぎの用だったため、皇帝への謁見申請も今朝割り込ませるかたちで申し込んだ。しかしイングリッド公爵であるヘンリーより優先される用事はなかったようで、朝一番に皇帝との謁見が叶った。
ヘンリーは、皇帝に優雅な仕草で頭を下げる。
それを玉座から見下ろしていた皇帝は、少しの間を置いたあと頭を上げるよう促した。
イングリッド公爵がヘンリーになってから、こういった改まった形式で顔を合わせるのは始めてだ。皇宮で開かれるパーティーや会議では見かけたことがあるが、皇帝はまだヘンリーのことをあまり理解しきれていなかった。
パーティーでは、その華やかな顔立ちと爵位から女性たちの人気をひときわ集めていたように思う。それこそ皇太子よりも。いつも穏やかで優しく微笑んでいる印象のヘンリーは、まだ公爵位を継ぐのは荷が重いのでは、と心配していた。爵位の継承について最終的に決定を下すのは皇帝のため、イングリッド前公爵には「本当にこれでよいのか」と何度も聞いてしまったほどだ。
しかしイングリッド前公爵は、「息子は優秀ですよ」としか言わなかった。――いや、違う。そのあとに「ただ……」と続いた言葉を、結局イングリッド前公爵は濁したのだ。
顔を上げたヘンリーを今一度観察してみても、最初に抱いた印象は覆らなかった。
「……急な謁見申請を申し込んだということは、それほど重要な事案なのだろうな?」
「ハイデル公爵が奴隷売買をしております。証拠が今朝出揃いましたので報告に上がりました」
「なに……? 奴隷売買……? 我が帝国では奴隷制度が廃止されて久しいのだぞ!? 奴隷売買は重罪だ。しかもハイデル公爵がだと? その情報がでたらめだったらどう責任を取るつもりだ?」
「いかようにもなさってください」
もってきた証拠となる帳簿を、ヘンリーは侍従へと渡す。
侍従伝いにそれを受け取った皇帝は、中身を確認して怪訝な表情を浮かべた。
「これが証拠というのか? ただの帳簿ではないか」
「ハイデル公爵家の裏帳簿です。僕の密偵が手に入れました。ハイデル公爵家の運営する孤児院への寄付金が多すぎると思いませんか? この帳簿は、収入と支出の欄が実際と逆になっているのです。すなわち、孤児院への寄付金と見せかけて帳簿に記してあるその金額は、奴隷を売って得た金です。孤児院とは名ばかりの奴隷商館なのです」
ヘンリーの説明をふまえてもう一度帳簿を見てみると、確かに違和感を覚えた。孤児院に多額の寄付をする貴族は多くいるが、それにしてもこの帳簿に書かれているのは、ひとつの孤児院に対しては過剰な額だ。それも一年に一度などではなく、かなり頻繁に寄付をしている。
皇帝はあごに手を当てて、しばし考え込んだ。
この密告が事実であるならば、ハイデル公爵の行いは許されない罪だ。しかるべき裁きを受けさせなければならない。今も奴隷として捕まっている人々を、いち早く解放してやる必要がある。しかし、相手はハイデル公爵だ。もしイングリッド公爵の密告がただの勘違いだったとしたら、これまた大変なことになる。この件は慎重にならなければならない。
だが皇帝の直感は、ハイデル公爵が黒だと言っている。ハイデル公爵には、昔からずっと悪い噂が絶えなかった。証拠がないから罪に問われていないだけで、裏ではかなり悪質なことをやっているという確信がある。
皇帝も、できることならハイデル公爵の悪事を暴き、その座から退かせてやりたい気持ちだった。
なぜならハイデル公爵は皇帝にとって、物凄くいけ好かない人物だからだ。ハイデル公爵と話していると、腹の黒いたぬきを相手にしている気分にさせられる。自己顕示欲が強く、権力にものを言わせて人を従わせ、傍若無人な振る舞いをするハイデル公爵は、皇帝さえもいつか取って食ってしまおうと考えている者の目をしていた。絶対に悪に手を染めているに違いない。
「監査と称して、ハイデル公爵家の運営する孤児院を調査してみてはいかがでしょう。何も出なければ、ただの監査で終わりです。しかし事前にハイデル公爵に通達してはなりませんよ。奴隷たちや証拠を隠蔽されては、真実は永遠に闇の中に消えてしまいますから」
「ふむ…………よかろう。その案で調査を進めるとしよう」
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