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22ー1.あてのない旅路
ダリアは馬車に乗って街へ向かうと、少し手前で降りた。イングリッド公爵家の紋章が入った馬車は目立つのだ。御者には邸宅へ戻るよう告げて、ダリアは馬車道を歩いていく。今日はたくさん歩くことを想定して、ヒールの低い靴を選んだ。
少し離れた後ろから、ベンジャミンと護衛騎士が5名ついてきている。ベンジャミンは普通の執事服だが、護衛騎士たちはイングリッド公爵家の騎士服では目を引いてしまうため、帯剣はしているものの平民のようなラフな格好をしていた。
馬車道を歩いていくと、貴族街が見えてくる。
ダリアはつばの広い帽子を目深にかぶった。
行く当てがあるわけでもなく、メインストリートを通り抜けていく。どちらかといえば、この先にある平民街のほうを見てみたかった。ダリアは孤児院とその地下と、あとは貴族街にしか行ったことがない。イングリッド公爵邸を出て一人で暮らすには、あまりにも世間知らずだった。
貴族街だけあって、たまに見知った顔に出会う。そんなときには殊更に帽子のつばを下げ、そそくさと通り過ぎた。ニーナ・ハイデルとして知られた顔は、貴族街を歩くには不都合が多い。
「――……聞きまして? イングリッド公爵様とクレマンティーヌ皇女殿下の結婚の噂」
貴婦人たちの姦しい声が耳に入り、ダリアは肩を揺らした。
今朝ヘンリーのもとに求婚状が届いたばかりだというのに、もう噂になっていることに驚く。やはりもっと前から二人の結婚の話が出ていたに違いない。そうでなければ、噂になるのが早すぎる。まるで外堀から埋めていくかのように。――そう感じてしまうだけで、ただダリアが社交の場に出ていないから知らなかっただけなのだろう。
「お似合いのお二人だわ」
「以前から親しくされていたようですし、邪魔者がいなくなってやっと、という感じよね」
「ああ、あの狂犬――……」
ダリアは自身を指すあだ名を聞いて、貴婦人たちの前を足早に通り過ぎた。
邪魔者。やっぱり、誰がどう見ても邪魔者なのだ。
確かにクレマンティーヌ皇女は、以前からヘンリーと親しくしたがっていた。パーティーでどこへ行くにもついてこようとするヘンリーをダリアが追い払うと、しばらくしてクレマンティーヌのところへ向かう姿を何度も見たことがある。ヘンリーとクレマンティーヌが二人で親密そうに話をしている場面を見てもなんとも感じたことはなかったが、ほかの貴族からはお似合いに見えるらしい。
クレマンティーヌは皇女なだけあって、気高く美しい。ダリアはあまりクレマンティーヌと親しくないため人となりまではわからないが、ヘンリーと並んでも遜色のない人物だろう。
幼なじみで、ほかに誰もパートナーに誘ってくれるような男性もいないダリアのことを気にかけて、いつもパーティーではパートナーに誘ってくれていたが、ヘンリーが本当にパートナーになりたかったのはクレマンティーヌだったのかもしれない。
――腹の底から妙な感覚が上がってきて、ダリアは鳩尾のあたりを押さえた。しかしそれは、正しくは胸のあたりで渦巻いている。手足は冷え切っているのに、身体の内側、臓腑だけがぐらぐらと煮え立つよう熱かった。沸騰したそれはやがてドロドロとこぼれだし、ダリアの中を汚いもので埋め尽くす。それは汚泥のように心の底へ溜まっていった。
これはなんだ。この感情はなんだというのか。
こんなもの、ダリアは知らない。
いいや、本当は知っている。けれどこれほど苛烈ではなかった。
この感情は、嫉妬だ。
――けれど、ヘンリーはダリアを「愛している」と言っていたではないか。
クレマンティーヌとのことは、すべてダリアの穿った妄想だ。そうに違いない。
(でも、本当にそうかしら? 愛しているなんて言葉、愛していなくとも簡単に言えるもの)
デイヴィッドの件で思い知ったのだ。人は容易に嘘をついて、人を騙すということを。ヘンリーがあのクズ男と同じとは思いたくないけれど、嘘にはいくつも種類がある。あのときの言葉は、愛に裏切られたダリアを慰めるために囁いた、ヘンリーの優しい嘘だったんだろう、と今なら理解できた。
優しさは、時には残酷だ。優しさにつけ入っていたダリアもまたひどい女であった。
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