矢倉さんは守りが固い

香澄 翔

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シリーズ盤外戦術

盤外戦術その2 敬語とか

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「ところで君たちさ、付き合いだしたというのにどうして二人とも敬語のままなの?」

 いちご先輩がとても痛いところをついてくる。

 矢倉やぐらさんとは今までずっと敬語で話していたので、急に変わるのも難しい。それに一度敬語をやめてため口にしましょうといったこともあるのだけれど、その時は矢倉さんの機嫌が悪くなって、ずっと敬語で話すと言われたのだった。

「え、えーっと。その。昨日の今日なので、なかなか急には」

 しどろもどろに話すけれど、いちご先輩はにやにやとした顔をこちらに向けてくる。
 あ、これはからかってくる流れだ。
 そう思った瞬間。ばんっと音を立てて扉が開く。

「話は聴かせてもらった!」

 声と共に入ってきたのは木村きむら先輩だった。

「き、木村先輩。こんにちは」

 木村先輩に挨拶を交わす。
 木村先輩はどこまで話をきいていたのだろう。というか、わざわざタイミングを見計らって入ってきたのだろうか。

「うむ。くるしゅうない。ちこうよれ」
「寄りません。木村先輩に寄ったら何されるかわかりませんし」

「なんだとー。私が可愛い後輩にいたずらをすると思っているのか」
「はい。思ってます!」

「にゃにおー。そんな美濃っちには、いたずらしてやるー!」
「やっぱりするんじゃないですか!?」

「ふははは。それが宇宙の真理というものだよ、明智あけちくん」
美濃みのです」

「お前にはそんな名前はもったいない。今日からお前は明智小五郎だ」
「なら木村先輩は怪盗二十面相なんですか?」

「人を怪盗呼ばわりするとは失礼な。ワトソンくん」
「いつの間にか探偵から助手になってますけど」

「まぁ、そんなことより。美濃っちと矢倉っちはつきあいはじめたんだって!?」

 自分が話をふっておいて、なかったように話し始める。
 いろいろアドバイスしてもらったおかげで勝てたけれど、やっぱり木村先輩は苦手だ。うん。それに話はしっかりきいていたようだ。

「え、ええ。まぁ、はい。そうです」
「ほほーほほーほほー。いやぁ、まさか美濃っちと矢倉っちが付き合うなんて思ってもみなかったよ。おめでとう」

「あ、ありがとうございます」
「そんな訳で、君たちにはお祝いにこれをあげよう」

 木村先輩がいいながら取り出してきたのは、一つの紙袋だった。
 まさかこれって。

「……たいやきですか?」
「いやぁ。ははは。いちごとまるかぶりになるとは思わなかったよ。矢倉ちゃんが好きっていってたからさー。ほら、学校のすぐ近くにたいやき屋さんあるから、ちょうどいいなーって」

 木村先輩は照れくさそうに笑っていた。これは狙ってやったわけではないようだ。木村先輩が狙って重ねてきたなら、むしろもっとアピールするはずだ。

「たいやきばっかりで悪いけど、これも食べてくれるかな?」
「はい! いただきます! たいやきならいくつでも食べられます!」

 矢倉さんが目を輝かしていた。

 そ、そこまでたいやきが好きなんだ。たいやきに何か思い入れがあるのだろうか。子供の頃に母を亡くした直後に出会った少年に、たいやきをおごってもらった想い出があるとか。

 矢倉さんがたいやきを食べているのをよそに、木村先輩は僕の方へと向き直る。

「そしてそれはそれとして。君たち二人はそろそろ普通に話してもいいんじゃないかい?」

「そ、そうですね。でもまぁ何となく染みついてしまっているというか」

 少しためらいを見せる。矢倉さんにはずっと敬語で話しますと言われているのもあって、敬語をやめるのは戸惑いもある。

「じゃあまずは呼び方を変えてみるとかどうかね?」
「呼び方……ですか?」

「そう。例えば名前で呼んでみるとか」
「名前……名前ですか……!」

 矢倉さんの名前。名前を呼ぶ。そ、それはだいぶんハードルが高い。
 矢倉さんも少し目を白黒とさせていた。急にふって湧いた話に驚いているのだろう。

 もちろん矢倉さんの名前は知っている。でもそのたった三文字の言葉が、僕の胸を激しく揺らしていた。
 でも確かにつきあい始めたのだから、名前で呼んでみるのはありかもしれない。

 意を決して矢倉さんの名前を呼ぶ。

「さ……さく……」
「そ。そうだ! 教室に忘れ物してましたっ。とりにいってきます!」

 矢倉さんは急に立ち上がると、部室を出て行ってしまった。

「うーん。これは矢倉ちゃんにはまだ刺激が強かったかー」

 木村先輩が少し困ったようにうつむいていた。どうやらこの結果を予想していた訳ではないようだ。

「名前よべなくて残念だったね。美濃くん」

 その隣ではいちご先輩がにやにやとした顔で僕を見つめている。どうやらいちご先輩は展開が見えていたのだろう。

「けどボクの事は普通に名前で呼んでるのにねぇ」

 確かに言われてみるといちご先輩のことは名前で呼んでいる。まぁもちろん本人がそう呼んでといってきたからではあるのだけど、先輩を名前で呼んで彼女の事を名前で呼ばないのは変なような気がする。
 でも本人の許可をとらずに勝手に呼ぼうとしてのは良くなかったかもしれない。とりあえずその事は謝ろうと思う。

「ちょっと矢倉さんの様子みてきます」
「はーい。いってらっしゃーい」

 いちご先輩のにやけ顔をよそ目に、ボクは部室を出る。
 矢倉さんを探そうとは思ったのだけど、その必要は無かった。部室のすぐ外で立っていたからだ。でも顔が真っ赤に染まっている。

「あ。み、美濃くん」
「あ、矢倉さん。そ、その。勝手に名前で呼ぼうとしてすみませんでした」

 僕は矢倉さんに頭を下げる。
 矢倉さんはうつむいたまま何も言わない。いや、何も言わないのかと思った。

「……嫌だった訳じゃ無いんです……でも、その。…………恥ずかしくて」

 顔を紅に染めたまま、少しだけ僕の方へと顔を上げる。

「名前で呼んでくれてもいいです。……でも……その。出来れば……二人だけの時だけで……」

 可愛い。めちゃくちゃ可愛いんですけど、僕の彼女。
 なんだ。これ。

「わかりました。二人きりのときだけにします。だから戻りましょうか。――――さくらさん」
「はい……。あの……その。……いきましょう…………あゆむくん……」

 ほとんど掠れるような声で僕の名前を呼ぶ。

 ああ。僕は本当に矢倉さんの彼氏になったんだ。
 幸せって、こういうことを言うのかな。そんな風に思った。
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