君がたとえあいつの秘書でも離さない

花里 美佐

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幸せと恐れ

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 朝。
 ベッドルームの明かりに目を開けると、隣に彼の姿はなかった。
 
 部屋を開けると、ラフなTシャツにパンツ姿の彼が、朝ご飯を作っている。
 
 「おはよう。良かったらシャワー使って。この扉を出て、突き当たりだ。タオルも棚にあるの使ってくれていいから。その間に朝ご飯作っておくよ」
 
 水の入ったペットボトルを手渡してくれる。
 
 「ありがとうございます。お言葉に甘えてお借りしますね」
 
 「遙。その敬語やめろよ」
 
 「はい……えっと。……徐々に」
 
 鞄を持つと部屋を出た。
 
 シャワーを借りて、部屋へ戻るとコーヒーのいい香りがする。

 パンとコーヒー、それにハムエッグ。ミニトマトにレタス。フライパンが置いてある。
 
 「お腹すいた?」
 
 「もしかして全部作ってくれたんですか?」
 
 ははっと笑ってこちらを見る。
 
 「作るって言ってもこの程度だけどね。良かったらどうぞ」
 
 「……美味しそう。いただきます」
 
 そう言って、ダイニングテーブルに向かい合って座ると、深煎りのコーヒーのいい香りがする。
 
 「このコーヒーいい香りですね」
 
 「味もいいんだ。飲んでみて。気に入ったら豆あげるよ」
 
 「……うん。美味しい。こくと甘さが共存してますね。苦みが少ない」
 
 「そうだろ。行きつけのカフェであれこれ言ってブレンドしてもらったんだけど、自分では注文できないくらい複雑になっちゃって。匠スペシャルってことで、マスターに頼んであるんだ」
 
 「匠さんって、凝り性?」
 
 「そうだな。一度、気になるととことん突き詰めたくなるほうかもしれない。新たに気になるモノが出来たから、しばらくはそれを突き詰めることで精一杯だな」
 
 「なんですか、それ?」
 
 「目の前にいるじゃないか」
 
 にっこりと笑い私を見つめている。
 え?まさか、私とか言いませんよね。
 
 「しばらくは、君を知ることに毎日が費やされることだろうよ。楽しみだな。とりあえず、夕べ少しわかったし」
 
 「……やめてくださいよ」
 
 「なんだ、赤くなって。そういう意味じゃないぞ。君が僕を守りたいとか言ってただろ。そういうことだよ。何想像してんのかなー」
 
 「……意地悪。匠さんそういう人なんだ。私も貴方を知る権利がある。がっかりさせないで」
 
 「そうだな。遙にがっかりされないように、頑張るから見ててくれよ」
 
 「もう」
 
 朝から、キラースマイル。どうしてくれよう。

 食事をして、リビングの奥の部屋へ。
 明るいサロンのような部屋の真ん中にはグランドピアノ。
 
 その横にはショットバー。
 そして、ピアノの横にはバイオリンの箱がある。
 
 「匠さん、バーで話していたバイオリンこれなのね。どのくらい弾けるの?」
 
 「のこぎりをかきならす趣味程度なら」
 
 「嘘ばっかり。こんな素敵なサロンを自宅に持っているなんて。相当弾けるんでしょ」
 
 匠さんはこちらを見て、にやりと笑った。
 
 「遙もピアノやっていたといってたじゃないか。じゃあ、お互い実力を知ることとしようか。何か弾ける?楽譜もあるが」
 
 「何でもいいんですか?」
 
 「有名なピアノ曲なら俺も知ってると思うんだ。俺はそれに合わせて弾くから」
 
 そう言うと、バイオリンの箱を開けて、取り出す。
 
 弓を取り、弦を締めて、松ヤニを塗る。
  
 ピアノの蓋を開けて、ラの音を鳴らし、バイオリンを手に取ると調弦をはじめた。
 私はゆっくりピアノに近づいて、座る。
 
 「なんでもいいよ。適当に合わせて弾くから」

 私も弾くのは実家を離れて以来だから三年ぶりくらいになる。
 弾けるかな?大きく息を吸って手を鍵盤へ。

 ショパンノクターン二番。
 甘いメロディー。
 
 主旋律のメロディーの一回目を私が弾き終わると、二回目の主旋律が出てきたところから彼が一緒に弾いてくれる。
 途中から彼が自分で編曲して私と一緒に合奏していく。
 
 朝の光とバイオリンを弾く彼。まるで夢みたいな光景。
 最後まで弾き終わると、彼はバイオリンを下ろしてブラボーと言う。

 「遙、ピアノかなりやっていたんじゃないか?」
 
 「それを言うなら匠さんだって。どこが、のこぎり?もう、嫌だ、こんなに弾けるなんて。私恥ずかしい」
 
 「いや、とても良かった。弾いていてこんなに気持ちいいのは久しぶりだ。癒やされたよ。また、一緒に弾いてくれ。デトックス効果がありそうだ」
 
 「こんな程度で良ければ。今度はバイオリンの曲をやりましょう。伴奏練習しますから」
 
 「それは楽しみだ。そこの楽譜入れにもいくつかある。気に入ったのがあれば練習して。僕も練習しないとな」
 
 「ここは、夜弾いても大丈夫ですか?」
 
 「ああ。最上階だし、隣もいないし。母もピアノを弾く。来るとよく弾いている。家にもあるんだが、俺と合奏したがってたまに来るんだ」
 
 「素敵な親子ですね」
 
 「口うるさい母でね。俺を心配しているんだろう。よく口げんかもするんだが、これが仲直りの秘訣ってとこかな。音楽の力は偉大だな」
 
 「うちなんて、甘いものを買ってきて食べさせれば母はイチコロです。ずいぶん程度が低い気がする」
 
 「それだって、お母さんの好きなモノを知っているから出来ることだよ。仲がいい証拠だ」
 
 「匠さんご兄弟は?」
 
 「俺は一人っ子なんだ。寂しいもんだよ。君は?」
 
 「弟がいます」
 
 「なんか、そんな感じがする。しっかりしてるもんな。わがまま言わなそう」
 
 「そういう匠さんはわがままですか?御曹司で一人っ子」
 
 「そうだなといいたいところだが、甘える相手がいなかった。実は母はピアニストだったんだ。ほとんど家にいなくて、世界を回っていた。海外にいた父と出会って結婚したが、拠点がヨーロッパだった母は俺を妊娠したことでキャリアが狂った。父は母を独り占めしたくて、ソリストを辞めさせたかったようだ。俺が生まれたことで母のことを独占できなくてさらにイライラしていた」
 
 お母様の旧姓でのお名前を聞いてびっくりした。
 私でも知るピアニストだった。
 
 最近はあまり表舞台に出てこないのでどうしたのかと思っていたのだ。
 
 「そういうわけで、子供はひとりしか作らないということみたいだ。母は早く復帰出来ると思っていたようだが、父は母を溺愛して離さない。こういう仕事だし、社交界も少なからずあり、妻としての仕事もある。うちでパーティーを開くときは頼まれてもピアノを弾かなかった母が、俺がバイオリンを弾くようになって、やっと伴奏するといってピアノの前に座るようになった」
 
 「そうだったんですね。匠さんの存在はご両親の間をつなぐ大切な役割ですね」
 
 「小さいときに見たピアノを弾く母の姿が好きだったんだ。だんだん弾かなくなってしまって、どうしたら弾いてくれるかと考えた末、俺がバイオリンを習うという選択に至った」
 
 「ピアノ教えてもらったんでしょ?」
 
 「……それが。鬼のように怖い。ピアノはこの人に習ったら殺されると思ったよ、子供心に」
 
 「それでも、音楽を辞めなかった。お好きだったんですね?」
 
 「まあ、そうだな。父ももともとクラシック好きで母と縁を結んだ。これこそ血だろうな」
 
 なるほど。それで、匠さんは今でも自由に弾けるくらいテクニックがあるのね。
 うらやましい。こんな素敵な場所で好きなときにピアノを弾けるなんて。
 
 「……君も相当好きなんだろ。弾いている姿を見れば分かる」
 
 「そうですね。高校まではかなり本気でやってました。お母様のリサイタルも行ったことが小さいときにあります」
 
 「そうだったのか。縁があるな。なら、来るたびに弾くといい。本当は弾きたいんだろ?今住んでるところにはピアノないだろ?」
 
 「ええ。でも匠さんの前で弾くのはやだな。お母様のピアノを聞いていた方に私のつたないピアノなんて聞かせられない」
 
 「そんなことはない。君もうまいよ。冗談抜きで」
 
 「……やめて。でもたまに弾かせてください。貴方と合奏できるように頑張ります」
 
 「それなら、ピアノ譜もかなりあるよ。勝手に使っていいからね」

 少し見せてもらうと、譜面に書き込みが入っている。
 お母様のものかもしれない。
 勉強になる。

 その日は夕方過ぎまでサロンでピアノとバイオリンで遊び、夜近くのレストランへ食事に出た後、また部屋へ戻された。

 夜の光の中でピアノの前に座って適当に弾いていたら、後ろに彼が座って身体をぴったり合わせてくる。
 連弾をするように弾いていたら、いつの間にか手を上から握られてしまう。

 「……遙。ピアノと俺とどっちが好き?」
 
 「うふふ。ピアノよりも良い音を聞かせてくれるなら貴方が好きです」
 
 そう言うと、顎を捉えて音を立ててキスをする。
 「どう?」
 
 「……ん」
 
 また、キスをする。
 彼の手がいたずらをはじめた。
 
 「……もう、あ……ダメ」
 
 身体に手が触れる。
 
 「さあ、いい声で今度は遙に歌ってもらおうかな……ベッドへ行こう」
 
 彼の愛を全身に浴びて、幸せいっぱいだった。
 日曜日は午後から仕事があるというので、私はタクシーで帰宅した。

 週が明けて月曜日。
 すっかり忘れていたが、取締役のことがあった。

 朝、いつも通りに取締役の部屋へコーヒーを持って行く。
 
 「ああ、おはよう」
 
 顔も上げずに、パソコンを見ている。
 
 「おはようございます。本日の予定を確認させて頂きます」
 
 私が読み上げ、質問することに顔も見ないで答える。
 
 「では、失礼します」
 
 そう言って、後ろを向いた。
 すると、突然……。

 「しょうがないな。えげつない。匠さんも牽制とかするんだな」
 
 「!」
 
 驚いて振り向くと、私の方を見て取締役が言う。
 
 「後ろのうなじから首筋にふたつ。見えるところへ跡がある。久しぶりに見た。営業の奴と別れてからそんなの見たことなかったからな。週末かい?」
 
 あっけにとられて、手を後ろにやる。
 
 「匠さんだろ?君が見ていたのは匠さんだ。秘書ではない」
 
 恐ろしい顔で言いつのる。
 
 「私をつけていたんですか?」
 
 震える声を絞り出す。
 
 「そんなわけないだろ。僕もあのカフェで待ち合わせだったんだ。君がいるのに気づいて声をかけようと思ったら、ある一点を凝視している。君のことはここ数年見てるからね。行動や目線を見れば考えていることはわかるようになったんだ」
 
 怖い。どうしたらいいの。
 
 「そんなにおびえないで。そんなつもりはない。怖がらせたならごめん」
 
 いつもの優しい表情に戻る。
 
 「ちょっと座って」
 
 そう言うと、自らソファに移動した。
 私も、はじかれるようにそちらに移動して座る。

 正面から見つめられた。優しい顔に戻っている。

 「蓮見商事の蓮見専務だけどね。元々、堂本コーポレーションの匠さんと親しいのは有名なことなんだ。高校も匠さんと一緒でね。まあ、色々あって知らない仲ではない。蓮見専務がちょろちょろしているのも知っていたし。だから蓮見商事がこちらと取引なんて天地がひっくり返るほどのことなんだよ」
 
 「……」
 
 「そこへ、川口さん。そして、君は川口さんと特に親しい関係だよね。彼女が蓮見専務と付き合いだしたんだ。蓮見専務は匠さんに紹介しただろうし。一緒にいる君が匠さんと知り合いじゃないとはとても思えなかった」
 
 「あの。本当に、誰だか知らなかったんです。お目にかかったことはあっても」
 
 「そうだろうね。あの、説明会で君が匠さんと目を合わせてから様子が変になった。言ったろ。君のことはよく見ているって。匠さんを少し見てたら、君のことを目で追ってる。しかも、君が出て行ったら子飼いの秘書が匠さんに耳打ちして、すぐに君を追いかけていった」
 
 見られていたのね。
 本当に恐ろしい人なんだわ。
 匠さんの言うとおりだった。
 
 「そんな目で見るなよ。言っておくけど、相手を研究するのは経営者としては大切なことなんだ。相手の強み、弱みを知ることで攻め方が決まる。君も僕の担当なんだ。僕のやり方くらい見てきたろ?」
 
 確かに、相手のすきなモノをリサーチして、お会いするときはそう言うモノを手土産に、お話のネタになりそうなチケットを事前に取得するなど先回りすることを得意としている人。
 それにしても……相手が私でもそうするの?
 プライベートですけど。
 
 「ハッキリ聞いておこう。匠さんと恋人になった?お互い気になる仲なんだろうということは金曜日わかったからね。秘書室長を迎えによこすほどだ」
 
 「私のプライベートです。取締役にご報告の必要はないかと思います」
 
 「……馬鹿だなあ。君は本当にそんな風に思ってるの?彼は敵対企業のトップ。プライベートと言う言葉で片付くなんて甘いだろ」
 
 「公私混同は絶対しません。この会社の不利益になるようなことも致しません。あちらの不利益になったとしても」
 
 肘をついて私を見ている。
 
 「古川さん。僕ね。今まで言わないできたけど、君のこととても気に入ってるんだ。言うと警戒されそうだからさ。君ってそういうタイプだし。普通、気に入ってるって言うと喜んでくれるでしょ。でも君の場合逆だって分かってた」
 
 春樹の言うとおりだったわけね。
 
 「だから、プライベートまで支配するんですか?公私混同はしないと私にいつもおっしゃていたのは取締役ご本人です」
 
 うーんと腕を上げて伸びをしている。
 
 「僕は、君を大切にしたい。しているつもりだったけど伝わっていなかった?」
 
 「それは……伝わっていました」
 
 「実はね、業界説明会の時に話があったんだが、この業界大手三グループで公開入札がある予定だ。ウチと堂本も参加する。大きい額でね。数年のプロジェクトになる。入札できればグループとしても大きな利益だ」
 
 「そうだったんですか」
 
 「僕は、父や兄から今回のことを依頼されている。営業一課が担当だが、陣頭指揮は僕が執る。そうそう、君の元カレは非常に優秀な営業だ。カレにも参加してもらう予定だよ」
 
 私は怖くなって顔色が変わった。
 
 「大丈夫だよ。何もしない。とにかく、これから堂本と一騎打ちだ。実質この二グループの争いなのは目に見えている。そこでだ。そんな会社のトップと君が付き合うなんて、許されるとでも思ったかい?知れたらインサイダーの疑いも持たれて君も破滅だよ。匠さんにとってもいいことなんて何もない。あ、君からこちらの情報を得ることができるからそういうところはいいと思ってるかな?」
 
 「……やめて!匠さんはそんなこと考えていない。私もしない。信用してください」
 
 「君が僕と匠さんを天秤にかけているかと思うとぞっとする。僕の気持ち分かる?」
 
 「どうして?どうしてそんなことを言うんです?」
 
 「君が好きだから。君を独占したいから。そのつもりだった。ようやく元カレが消えて俺の番だったのに」
 
 立ち上がると私の前に来て、腕を引いて抱きしめた。
 
 「やめてください!」
 
 「落ち着いて。大丈夫だから」
 
 背中を撫でる手。気持ち悪い……。
 
 「震えているの?大丈夫だよ」
 
 怖い。匠さん助けて。
 
 すると、デスクの電話が鳴った。
 チッと舌打ちして、私を離すと電話に向かう。

 「はい。石井です。はい?ああ、わかりました。すぐに行きます」
 
 電話を置くと、私を見て言う。
 
 「社長から呼ばれた。社長室に行く。営業一課から連絡が来たら、システム上は承認したから動き出していいと伝えてくれ。あと、午前中の会議はキャンセル。社長との打ち合わせに変更。頼むよ」
 
 いつもの顔に戻っている。
 
 「……はい。かしこまりました」
 
 そう言うと、背広を持って部屋を出て行く。
 
 私はしばらく動けなかった。

 
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