ヒトカミ粧

見早

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第五章 濡羽ニ櫛

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 木、木、木――行けども森しかない山道を歩き続け、少なくとも一刻は経っている。

「あー! もう足が限界です! 本当にこんな山奥に鳥の神がいるんですか?」
『おう。奴ら棲み処は変わらねぇみたいだな』

 旅装束に高下駄で万全のはずだったのだが、すでに体力は限界だ。さっさと坂を上る刹那は、息ひとつ切れていない。やはり神は、人間よりも頑丈にできているようだ。
 地べたに座り込んでいると、向かいから人が降りてきた。手拭いを首に掛けた男二人組だ。顔からは湯気がホクホクと立ち昇っている。上で何をしてきたのか訊くと、中年の男たちは薬湯の宿へ行った帰りだと話してくれた。

「噂にたがわぬ秘湯だったよ! アンタたちも行ってみると良い」

 その温泉宿は、さらに半刻ほど登ると見えてくるそうだ。男たちを見送った後、八咫に温泉宿と鳥の神は関係があるのか尋ねてみたが、そんなもの昔はなかったという。

「うーん、でも他に手掛はなさそうですよね。刹那さんは何か知っていますか?」

 刹那を振り返り、目が合った瞬間。やっと落ち着いたばかりの鼓動が速くなった。一昨日のことを思い出し、さり気なく視線を逸らす。

「おい貴様、今目を逸らしたな? 相手に何かを問う時はこちらを見ろ」

 至極当然のことを諭され、余計に頬が熱くなる。それでも目を見ることができない。

「おい、聞いているのか? 小ぞ……!」

 言葉の端が切れた途端、禍々しい黒煙が目の前を横切った。

「こんばんは、お二方」

 紫の炎を帯びた刀の切っ先が迫る。刃は鼻先で留まり、つい先日見たばかりの笑顔がその後ろに見えた。黒だ。
 容赦のない腕が振り下ろされる直前、刹那が鎖で拘束してくれた。それでも黒は、こちらに不気味な殺気を送り付けてくる。

「先日はありがとうございました、咲様。そして――」

 黒は、刹那の方を首だけで振り返った。

「刹那様。やはり貴方と力比べしても勝てそうにありませんね……素晴らしい!」

 恍惚として刹那を見つめる黒の横顔に、腹の底から怒りが湧いてくる。

「小僧、出てくるなよ!」

 刹那の乱暴な腕に襟首を掴まれ、茂みに投げられた。やり場のない衝動を必死に抑えていると、懐がじわりと熱くなる。

『咲、願え。人が願えば願うほど、アイツの神力は力を増すんだからな』
「八咫さん……心に思うだけで良いんですか? それとも、声に出した方が強くなるとか」
『どんなやり方でも構わねぇ。ただアイツに願うだけで』

「勝ってほしい」。少し違う。「守りきってほしい」。自分本位だ。ならば――。

「お願いですから、『どうか無事で――』」

 すべて言い切る寸前、声が出なくなった。

「こんばんは」

 振り返るよりも早く、体が宙に浮いた。どこかで嗅いだような甘い匂いが漂ってくる。

「『ソレ』はダメだよ、咲」
「白?」

 白に背後から抱えられ、山の針葉樹よりも高いところまで昇っている。

「分かってる? 君の命は僕の腕の中……暴れても危険、『願い』を口にしてもいけない」
「どこへ行く気ですか?」
「……君が黒に殺されないところ。アイツ、戦いに入ると理性飛ぶから」

 そう言いつつ、これも神粧の儀を邪魔するための作戦に違いない。無を貼り付けた白の顔を、キッと睨み上げる。

「こんなことをしたって無駄ですよ。刹那さんはひとりだって、きっと大丈夫ですから」

 確信を持った目で白を見上げると、桜色の唇から小さなため息が漏れた。そこには薄く噛み痕が残っている。

「やっぱりそう。あの無名神を慕ってるんだ」

 それは付喪神の洋館で、白の口から聞いた言葉と同じだった。執神、それも敵を公言する白が、なぜそんなことを気にするのか。

「邪魔をするってことは、あの先に鳥の神がいるんですか?」

 表情の変わらない白だが、一瞬言葉に詰まった。これは当たりだ。

「戻ってください! あのまま放っておいたら、黒さんだってどうなるか分かりませんよ?」

「対のご心配どうも。黒が消えれば鎖が切れるから……無事なのは分かる」

 やはりこの鎖は、目に見えない何かで黒と白を繋いでいるらしい。ということは、だ――。

「あっ、こらっ、鎖はダメ……!」

 こうすれば、刹那と戦闘中の黒を妨害できるかもしれない。望みをかけて、白の首輪に繋がる短い鎖を引っ張る。

「君がそのつもりなら……」

 白の片手が脇腹に触れ、くすぐるように動き回った。この手の悪戯には強いつもりだったが、白は的確に弱点を狙ってくる。

「あっ、そこはちょっ、あはっ、あははははは!」
「ほら、鎖を離して。離さないと止めな……あっ」

 突然声を張り上げた白に、思わず鎖を引く手を止めた。
白の腕と、俺の体が離れている。そう気づいた瞬間。胸の中心がヒヤリと涼しくなった。

「咲……!」

 上から伸ばされた白の腕が、超速で離れていく。掴もうとしても、もう届かない。耳を塞ぐ轟音の中、頭を過ったのは「死」の一文字だった。
 背中に走る激しい衝撃と同時に、全身が冷たくなった。まるで水の中へ入っているかのように息ができない。目が開けられない。おまけに鼻が痛い。

「……お……ぅ……い……」

 耳だけはまだ生きているのか、誰かの声がくぐもって聞こえる。どうにか目を開けてみようと思うと、目を開けることもできた。上に水面のような光がゆらゆら揺れている。そのきらめきが、少しずつ明るくなり――。
 ようやく息が吸えた。日の光が眩しい。鼻が痛い。

「ありゃあ! 桃太郎じゃのうて、桃姫が流れてきよった」

 川から引き上げてくれたのは、きらめく瞳をまん丸にしたお婆さんだった。



「『姫』じゃのうて『太郎』じゃったとは思わなんだけんど、本当にオラの着物でええの? じっさまのも残ってはおるが」
「大丈夫です。ありがとうございます」

 洗濯物と一緒に俺を川から上げてくれたのは、キヨというお婆さんだった。
 キヨの家は、小川沿いにぽつんと建つかやぶき屋根の民家だ。中には少し酸いような匂いが漂い、土間を占領している広い作業台には、黄色い木のクズが沢山落ちている。

「着物が乾くまでここにおればええ。どうせ年寄りひとりじゃて」

 すぐにでも刹那のところへ引き返したいが、借りものをそのまま着ていくわけにはいかない。
 そういえば、一緒に落ちたはずの八咫は無事だろうか。びしょ濡れになった着物の袖口を探ってみたが、八咫は入っていなかった。
 裸足のまま縁側から庭へ飛び出し、着物の裾をまくる。川へ入り浅瀬を探ってみるも、錆びた鏡は見つからない。

「失せ物かぇ?」
「これくらいの青銅鏡で、俺と一緒に落ちてきたはずなんです!」

 キヨは首を傾げながらも、小川の捜索を手伝ってくれた。しかし八咫の姿はどこにもない。

「咲ちゃんが落ちてきたんは、もっとあっちの深いとこだよ。危ねぇからやめときな」

 キヨの言う通りだと思い、ひとまず引き返すことにした。刹那と合流できれば、八咫の気配を追って探してくれるだろう。今焦っても仕方がない。

「すまなんだが、急ぎの仕事があるでな。オラのことは放って、咲ちゃんはゆっくりしてけれ」

 縁側に緑茶を出してくれた後、キヨは土間の作業台へ向かっていった。キヨは櫛を作る職人――櫛師だという。時には庭の小川に光る魚の背を眺め、時には後ろのキヨの進捗を見る。そうするうちに、ゆっくりと日が落ちていった。

「――ちゃん、咲ちゃん」

 優しい呼び声に、はっと我に返った。うたた寝をしていたようだ。

「あ……すみません。こんなに安らげたのは久しぶりで」
「そりゃあえかった。夕餉の支度ができたよ」

 世話になりっぱなしで申し訳ない。せめて何か手伝うと申し出ると、夕餉の後に運んでほしいものがあると頼まれた。

「これは立派な蔵ですね」
「じゃろ? 昔じっさまが作ったんだ」

 そこには切り落としの木材が何本か保管されていた。年寄りの腕では、これを母屋へ運ぶのは大変だろう。

「ちょっと前まではオラひとりでもいけたんだが、ここんとこ急に力が無くなっちまってねぇ」

 キヨは深いしわの寄った顔をすぼめると、亡くなったお爺さんの話をしてくれた。キヨは櫛師の家の娘で、お爺さんは婿養子として家業を継いだという。

「じっさまは働き者で、人のええ男じゃった。オラにはもったいねぇほどの」

 木材を家まで運び終えると、キヨは作っている途中の櫛を見せてくれた。よく露店で売っている櫛と同じ形になっているが、まだ完成ではないのだという。

「この歯を何回も磨いてやれば、櫛はスッと髪をとかしてくれる、ええ使い心地になる」

 さらにキヨは、櫛に透かしや絵を入れることのできる職人だった。これまでに作った櫛を見せてもらうと、どれも細かい装飾が施されている。

「これ、とても鮮やかな山と鳥の絵ですね。あれ?」

 よく見ると、飛び立つ鳥の絵が端で切れている。キヨに促されて裏返すと、表の鳥は裏側に描かれた鳥と額を合わせていた。止まり木に、対の鳥が止まっているような構図になっている。

「それは『返し文』じゃ。裏と表が一つになって、完成する絵模様でな」
「へぇ! 粋な図柄ですね。あ、でも裏と表で何か違うような?」

 そう指摘すると、キヨの小さな瞳が一瞬揺れた。

「ええ目をもっとるね……どうじゃ、咲ちゃんもひとつこさえてみるかぇ?」

 こんな機会は滅多にないだろう。そう思った瞬間、頭がきゅっとしめつけられた。刹那が大変な時に、まして八咫が行方不明だというのに、こんなことをしていて良いのだろうか。

「あの、やっぱり……」
「咲ちゃんは、好いた人がおるんか?」

 喉が塞がったままキヨを見つめていると、キヨの震える頬が微かに持ち上がる。

「好いた人がおるんなら、その人に贈るとええ」

 ふと赤い着物にはどんな柄の櫛が合うだろうか、などと考えてしまった。しかし――。

「私には今、やるべきことがあるんです。それは私自身の気持ちよりずっと大切なことで……」

 神粧のこと、刹那の呪いのこと。これらを成し遂げるために、きっとこの想いは邪魔なものだ。まして俺のような人間が――。

「あれはオラが咲ちゃんくらいの頃だったか、今でもはっきり覚えとる」

 キヨは先ほどの返し文が施された櫛を大切に持ったまま、目を閉じている。やがて秋色の素朴な唇は、キヨの娘時代を語り出した。

「うちには男児がいなくてのう。オラが家を継ぐことになってたもんだから、トトさまは養子を欲しがってた。じっさまは、トトさまが町で見つけてきた相手だよ」

 キヨは櫛師の家に生まれた時から、櫛師になると決まっていた。物作りが好きだったため、特に反発もなかったという。

「ただ、オラの心を捧げる相手は童の頃から決まっていた」

 キヨが想いを寄せるその人は、櫛のお得意様だった。問屋か、あるいは行商人かは分からないが、キヨが幼い頃からの馴染みだったという。時々、キヨのか細い指が対の鳥を撫でていた。

「じっさまと見合いする前、その人からオラに依頼が入った。特別な人へ送る櫛をひとつ、作ってくれと。ただ絵は描かなくてえいって言う。自分で鳥の絵を描くから、って」
「もしかして、その依頼の櫛って……」
「ああ、これだよ。出来上がった素の櫛を届けた後、その人が表に絵を描いてオラに渡してくれたんだ。『キヨも同じ思いならば、裏に返事を描いておくれ』、って」

 キヨはすぐに裏の絵を描き、その人に渡した。が、その櫛がこうしてキヨの手元にあるということは――。

「『これは思い出に取っておいてくれ』、って返されてね。その人はとんと消えちまった」

 キヨの寂しげな笑みを見つけた瞬間、言葉が胸に詰まった。

「あの人はオラの家の事情を知ってたから、潔く身を引いたんだろうよ。だがオラは納得いかなかった。じっさまにゃ悪いが、八十の婆さんになった今も」

 老人とは思えない力強い口調と眼力に、背筋がすっと伸びた。哀愁の漂う影は、もうとっくにキヨの顔から消えている。

「自分の気持ちさ素直になってればえがった。己の気持ちは何にも代えられねぇもんだって、年喰ってから気づいたんだ……だから『自分の気持ちより大切なことがある』なんて、寂しいこと言わんでちょうだいよ」

 キヨが胸の内を明かしてくれたからか。それとも、自分の気持ちに少し余裕ができたからか。素の櫛に絵を描いてみたいと、自分から申し出た。化粧をするのとはまた違う。同じ色具と筆を使う作業でも、小さな櫛に絵を描くことは、また別の繊細な作業だ。
 一晩かけて何とか描き終え、ようやく床に就くことができた。

「絵……あれで良かったかな」

 作業台の方をちらりと見、再び目を閉じる。そうしてじっとしていると、今日の疲れが一気に押し寄せてきた。刹那と八咫のことは、とりあえず明日考えよう。

「これ、起きろ」

 あと少しで寝入りそうなところに、幼子の声が降ってきた。きっと疲れているのだろう。黒白のことや絵付け作業など、色々なことがあったせいだ。

「これ、坊」
「痛っ! 何なんですか?」

 叩かれた額を押さえながら、仕方なく目を開ける。すると腹の上に乗っている、小さな娘と目が合った。

「えっ、誰……?」

 まさか噂に聞く座敷童だろうか。十字型をした少女の瞳は、琥珀色に光っている。そのおかげで、真夜中でも少女の顔をよく見ることができた。

「其方が色師に仕えておるという化粧師じゃな? ワシに神粧の儀とやらをしてはくれまいか」

 この異様に軽い少女。どうやら座敷童ではなく、神のようだ。
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