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王太子と辺境伯
貴方に報いることができたなら(1)
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すぅ、と深く息を吸って、ゆっくりと吐き出すことを繰り返している。
「大丈夫です、いつも通りに笑えば…」
リリーナは誰もいない部屋で一人呟く。
今日は大事な日だ。試合のある前に済ませてしまわなくては、これ以上心配をかけるわけにはいかない。
場はセッティングした。あの時のように二人きりで、ソファで。
なんだが縁起でもないような気がしないでもないが、むしろこれが、大事な話の自分たちのやり方なのかも知れない。
「今日こそ…」
覚悟を、決めなくては。
そう考えた時、軽いノックの音がした。
リリーナはドアをゆっくりと開くと、その向こうにいたディードリヒの手を取る。
「え、リリーナ?」
驚くディードリヒをよそに、リリーナは彼の手を引いて移動するといつものソファの、自分の横に座るように促した。
黙ったままのリリーナに戸惑ったまま腰掛けるディードリヒは、そういえばミソラたちがいないと気がつく。ミソラはおそらく有事に備えてどこかしらにいるだろうが、リリーナにべったりのファリカはどうしているのか。
しかしそれ以上に、やはり俯いて黙ってしまっているリリーナが気になる。リリーナはドレスが皺になりそうなほど強く握り、唇を噛み締めていた。
ディードリヒが声をかけようと覗き込もうとした時、勢いをつけて上がった視線が自分を見る。
「あ、なたに」
「?」
「貴方に、ずっと、訊かないといけなかったことが、あります」
リリーナの瞳は震えていた。こんなにあからさまに震えるのは珍しい。まずそこに気を取られて彼女の目をじっと見てしまって、返答が少し遅れた。
「…どうしたの? リリーナ」
どう見てもいつもの彼女ではない。いやその様子が尋常でないのが、どうしても気になる。
「あ…」
リリーナは自分の様子に気づいたのか少し落ち着いたように見えた。それでも、体はまだ震えている。
「ごめんなさい、私…少し、緊張していまして」
ディードリヒはリリーナの言葉に少し驚いた。
彼が見つめてきた彼女は、どんなに緊張するような場でもこんな顔は見せたことがない。彼女はいつだって毅然と、真っ直ぐ前を向いている。
それなのに一体何が彼女をここまで追い込んでいるのか。
「こんなに緊張することは、初めてでして…らしくないですわね、ごめんなさい」
「いいよ」
放った言葉は、少し被るようであった。
見たことのない彼女でいい、いやそれがいい。
見たことのある彼女は、もう収めきれないほど見たのだ。もう、あのような仮面は要らない。
「リリーナが、話せるように話して。聴くから」
「ありがとう、ございます…」
一度深呼吸をしたリリーナにとっては緊張感しかない。
これは積み重ねたものではないからだ。
技術は嘘をつかない。積み重ねたものがそのまま出るのだから、気が遠くなっても積み重ねればいい。
だがこれは、この繋がりは、自分には何もできなかったら?
与えられたことがない、こんなに抱えきれないほどのものを。どうしたら返せるのかがわからない。
不安だ、恐ろしいと感じる。でもこれだけは明らかにしなければ、きっと自分に答えが出ないから。
きっと自分では信じられない答えが返ってくる。その思いに応えるために、また一つ深呼吸をして、それから相手を見た。
「貴方に、訊きたいことがあるのです」
「訊きたいこと?」
「私にとっては大事なことですが、貴方にとっても大事なことかも知れませんが、私は貴方に酷いことを言うかも知れません」
未だに少し震えるリリーナの肩を、ディードリヒはそっと抱いた。
「…いいよ」
「え…」
「リリーナの言うことは、なんでも知りたい」
「…」
その言葉を信じたくて、リリーナはまたドレスを強く握って、自分を強くもとうと目の前の相手の視線と自分の視線を合わせる。
そして、はっきりと問うた。
「貴方は…どうして私に“許嫁がいる”とわかっても努力を諦めなかったのですか?」
リリーナの言葉を聞いたディードリヒは一瞬だけきょとんとして、それからいつも通りに優しく笑う。
「そんなの勿論、“君に恥じない僕”でいたかったからだよ」
「…」
「許嫁なんだから、君だって外交の場に出るだろ? その時に今の僕じゃ恥ずかしいから。それだけ君は、僕の憧れだった」
「…っ」
あぁ、やっぱり。
リリーナはそう感じて、泣きそうになった。
どうせ、というと語弊があるが、回答はそんなところだろうとは思っていた。こう言う男だということなど、リリーナだってわかっている。その回答そのものが、自分にとって信じられないものであることも。
だから、返せるものがないのだ。自分には何もない、それこそ彼のような情熱など。
返したいのに、渡したいのに。
返せなかったとしても信じようと、そうわかっていても、これだけは感情が勝つ。勝ってしまう。
「でも、最初はやっぱり勝ち目のない勝負で、君がちゃんと婚約したらやめようって決めてたんだ」
「え…」
「本当はいつバレるとも知れない行為だしね。祝福の意味も込めて、やめようって」
「じゃあ、どうして」
「誘拐なんて、って?」
「…」
ディードリヒはしばらく見せなかった様子を見せる。
あの、濁った瞳を。
「まぁ、君と王子の関係は知っていたし、本当はその段階で救い出したかったけど流石に勝算がなかった。でも」
「…でも?」
ディードリヒはリリーナを傷つけないように、とでも言いたげに彼女からそっと離れる。
「あいつが知らない女に惹かれるようになって、許せなかった」
「…」
「リリーナが追放されそうだって聞いて、何かできないか動き始めて」
ディードリヒは片手で顔を覆う。まるでリリーナが“こんなもの”見ない方がいいと言わんばかりに。
「それで、あの婚約破棄で…何かが壊れた」
声音が少し上がっている。
それでもわかる、リリーナには見える。
彼は、衝動を抑えようとしているのだ。
「あの時、自分でも君に手が届きそうな気がして、そこから先は君を手に入れることしか頭になくて」
これが彼の愛で、情熱で。
おかしいのはわかっている。本当は許されないことだ。
でも、あの時彼が言った通り、“こうすることでしか出会えなかった”のなら。それは。
「君が、ここにいる。ここにいるんだ。僕の腕の中で、君が」
「えぇ、いますわ」
「!」
リリーナの声に我を取り戻したのか、ディードリヒは驚いた表情のまま、肩で息をして、リリーナを見た。
「思考の沼に堕ちろとまでは言っていません。少し落ち着きなさい」
「あ…ごめん」
「もう、また背中が丸いですわよ!」
彼女がディードリヒの背中を軽く叩くと、ディードリヒは反射的に背筋を正した。
そして彼女は、リリーナは、悲しげに笑う。
「…リリーナ?」
「やはり返せるものがないですわね」
「どういうこと?」
「私に貴方ほどの愛はないのかも知れないと、貴方を知らないとわかった時に思ったのです」
ディードリヒはリリーナの言葉をつかみあぐねている。彼女の言っていることが、よくわからない。
「私はとても自己中心的な女です。貴方を何度も傷つけて、それなのに貴方の思いに応えられるほどの何かは持ち合わせていません」
どんどん、ディードリヒにとって彼女の言葉が理解できているのに理解できないものになっていく。
なんだ、彼女はなにを言っている?
「なんで…そう思ったの?」
震える声は訊き返す。
しかし返ってきたのは悲しい声。
「ここまでの全てが物語っています。貴方の愛を否定するのは、いつだって私でしたでしょう?」
そうだ、リリーナからすれば、こんなものは自分ではない。そんなことは自分が一番わかっている。
だから今の自分は嫌われてしまうかもしれない。失望させてしまうかもしれない。そうさせてしまうことが、何より今は恐ろしい。
貴方は“どんな私だって”愛してくれると言ったのに。
自分でも、積み重ねてきたものを信じようと、決めたはずだったのに。
どうしてこんなに恐ろしいの?
自分は所詮、他人に興味などなかっただろうに。どうして今は、こんなに後ろ向きなのだろう。
「きっと、こんな風に後ろを向く私は貴方の理想ではないでしょう。貴方はずっと貴方のままですのに」
言い切ってしまった。
何も返せないと、伝えてしまった。
それは自分が努力を諦めた証で、こんなことは初めてで。
でも、こんな自分では貴方ほどにはどうしてもなれないと自覚してしまったから。
不安で心臓が痛いほど鳴っている。これで彼を失望させたら、自分を見てくれなくなったら。
いつもみたいに笑えない。ヒルドはいつもみたいに笑えば大丈夫だと伝えてくれたのに。
しかし震えるリリーナに、ディードリヒは笑う。
「…確かに、“いつもの”リリーナではないね」
「…」
「でも、嬉しいよ」
「え…?」
俯いた視線が思わず上がるリリーナ。笑顔を向けるディードリヒに戸惑う。
(どうして、笑って)
「リリーナのそんなところ、初めて見た」
「そう、でしょう…このような思いは初めてです」
「本当!?」
表情を明るくするディードリヒにリリーナは驚いて固まる。
「リリーナの初めてがもらえるなんて」
「な…貴方以外とキスをしたとでも!?」
「そんなこと思ってないよ。でもなんでも“初めて”は嬉しいから仕方ないね!」
「なんでも…」
言葉が出ない。この男が何に喜んでいるのかリリーナにはわからないのだ。
なにが嬉しいのだろう。
こんな自分は貴方の理想ではない。貴方の期待に応えられない自分なんて、貴方の近くにいられないはず。
「それだけ僕のことだけ考えてくれたってことでしょ? そんなの嬉しいに決まってる」
「…!」
「どんなリリーナだって好きだよ。弱いリリーナも強いリリーナも全部リリーナなんだから」
「全部…私…」
「何も返せてないなんて、そんなことないよ。言ったでしょ? リリーナは生きててくれるだけでいいんだよ」
「それは…何か違うような」
渡された言葉に困惑するリリーナ。だがディードリヒは嘘を言っていない。心から彼はそう思っている。
「確かに最初は違う意味だったけど、今は違う。リリーナが生きて、僕を見て、僕のことを考えて、僕に振り向いてくれる。それ以上に幸せなことなんてない」
「そうでしょうか…」
自信がない。ディードリヒのように相手を誘拐したいほどには、きっと愛せないから。
「そうだよ。リリーナのできる愛しかたじゃなきゃ意味がない。僕は『リリーナ・ルーベンシュタイン』を愛してるんだから」
「それは…!」
「僕は僕で、君は君。だから僕は君を好きになった」
ディードリヒは横に座るリリーナを持ち上げると自分の膝の上に乗せる。
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