22 / 36
第四章 再会からの逃亡、そして捕まる
21話
しおりを挟む『──シエナ。どうしたの?』
暗闇に閉じ込められたように真っ暗な世界。突如として聞こえた音色の優しい声に、シエナはゆっくりと顔を上げる。
すると、朝陽に照らされるように視界が明るくなり、焼き立てのライ麦パンに、農園採れたての果実、湯立った豆たっぷりのシチューが並べられた食卓がシエナの円らな瞳に映った。食欲をそそる匂いが充満した湯気の向こう側には、夫婦揃って穏やかに微笑む父と亡き母の姿がある。
『おはよう。シエナ』
『はは。まだ顔が眠たそうだな。朝食が冷めてしまうよ、早く食べなさい』
まるで、何事もなかったかのように二人は幸せそうに笑っている。
(お母様、生きていたのね。お父様、無事だったのね)
何の変哲もないように見える異様な状況をシエナはすんなりと受け入れ、安堵と幸せな一時に浸かった。安心したせいか、空腹が身に沁みる。シエナは満面の笑みを浮かべ、食欲に促されるまま一段と大きなパンを手に取った。
『いただきま──』
「おい、勝手に食うな」
香ばしい匂いを漂わすパンを咥えた瞬間、ゾッとするほど低い声がシエナの耳に流れ込んだ。それでも空腹に耐え兼ねているシエナは焼き立てのパンを離さなかったが──何だか、変に弾力があって噛み切れない。味も塩気があって美味しくない。
シエナが声に抗ってパンをむにむにと噛み続けていると、額に小さな衝撃が駆け抜けた。
「いたっ」
シエナは勢いのまま唇を離し、我に返る。
目の前にいるのは、明らかに不機嫌そうな表情を浮かべたアラン。食卓を囲っていた父と母の姿はない。
ついでにシエナが口にしていたはずのパンもどこにもなく、歯型の跡がくっきりとついたアランの腕があった。
「あれ?」
「人の腕を食いやがって……どれだけ食い意地張っているんですか。貴女は」
「いたっ!」
額を指で弾かれ、シエナは勢い余って寝台から転がり落ちた。近年稀に見る酷い扱い方。昔の義母の指導を彷彿とさせる。
昨夜、ずっと自分を抱き締めてくれていた優しい護衛の姿はどこにもいないらしい。寝台から床に倒れた自分を見るアランの目つきは、奴隷を見るように冷たかった。
今になって、昨夜のアランから滲み出ていた殺気を思い出してしまう。
「あっ、わ、わたし、お父様のところに行かなくては……! アラン、昨日はありがとう! 私、貴方のことは一生忘れないわ!」
ちゃっかりその場から逃げようとしたシエナだったが、そう物事が順調に進むわけもない。シエナが扉の取手に触れようとした瞬間──
ドンッッッ!!!
と、背後から二つの大きな手が扉に宛てがわれ、昨夜の壁大破事件を想起させるように外枠から亀裂が生じた。長い両腕に挟まれたシエナは戦慄し、微動だにできなくなる。
無論、両腕の主の顔を見るなんてできるはずもない。
「……シエナ嬢。私が昨日言ったことをもう忘れてしまったのですか?」
「ひっ」
耳朶に淡い吐息と掠れた声が触れる。
石像のように固まったシエナだったが、アランはいとも簡単に彼女の身体をひっくり返す。両腕に閉じ込められたシエナはまるで、魔獣に捕らえられた子兎のようだった。
「貴女に逃げ場所はないと。そう言ったはずですが」
顎を指先で持ち上げられ、鋭い眼差しに捉えられる。
もしかして。いや、やはり。
アランは怒っている。
数年前のことも含め、昨夜食い逃げしたことを根に持っているのだ。
「あ、あとで代わりに美味しい料理をご馳走するから許して……」
「は?」
アランは怪訝な表情を浮かべ、じっとシエナを凝視する。どうやら見当違いだったらしい。
食い入るように睨まれ、シエナの蚤の心臓は限界を迎えそうだったが、アランが深過ぎる溜め息を付いたところで解放された。
「何を勘違いしているか知りませんが、これに目を通してみたらどうですか」
「え?」
アランはすぐ側の机の天板を引き出し、蓋を開いて一枚の紙を取り出す。
そのまま突き付けるように掲げられた新聞の切れ端のような紙を、シエナはまじまじと見つめ──気の抜けた声を漏らした。
「え……え? え?」
シエナは見出しの文を何度も読み返したが、理解が何一つできない。しまいにはアランから切れ端を奪い取り、顔がくっつくほどの近さで文字を読み上げたが、書いている内容は変わらない。変わるはずがない。
疑いたくなるような、嘘だと言いたくなるようなその記事を、シエナは震える声でゆっくりと読み上げた。
「ウィアックス伯爵家……領地経営に失敗し没落。帝国は逃亡を図ったシエナ・ルロワを借金の担保として捕らえ……ることをラストナス国内全土に……公表?」
20
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
旦那様の愛が重い
おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。
毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。
他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。
甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。
本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
離宮に隠されるお妃様
agapē【アガペー】
恋愛
私の妃にならないか?
侯爵令嬢であるローゼリアには、婚約者がいた。第一王子のライモンド。ある日、呼び出しを受け向かった先には、女性を膝に乗せ、仲睦まじい様子のライモンドがいた。
「何故呼ばれたか・・・わかるな?」
「何故・・・理由は存じませんが」
「毎日勉強ばかりしているのに頭が悪いのだな」
ローゼリアはライモンドから婚約破棄を言い渡される。
『私の妃にならないか?妻としての役割は求めない。少しばかり政務を手伝ってくれると助かるが、後は離宮でゆっくり過ごしてくれればいい』
愛し愛される関係。そんな幸せは夢物語と諦め、ローゼリアは離宮に隠されるお妃様となった。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる