13 / 19
13話
しおりを挟む『ムス、メ、ムスメ……』
今にもこぼれ落ちてしまいそうな目が不気味に動く。焦点は定まっていないけれど、確実に私の姿を捉えている。狼となったローベルト様と私を丸ごと呑み込んでしまえそうな大きな口。
気のせいだろうか、冷たい息が吐き出される喉の奥から無数の断末魔のような叫び声が聞こえたように思えた。
「くっ、面倒だ」
ふと、首元が鋭い痛みと苦しさから解放される。私に覆い被さっていた銀の体毛の狼が、逃げるようにリオンの側へと潜り抜けていた。
結果、私と化け物の間を遮るものは何もない。
何も、なくなってしまった。
「兄さん! どうしてハルを置いてけぼりにする!」
「私が死ねばあれは死ぬが、あれが死んでも私が死ぬことはない。まだ儀式は完全に終わっていないからな。せっかく見つけた生き残りを見殺しにするのは惜しいが、次を見つけることにしよう」
「そんな……!」
言葉を交わすリオン達を他所に、化け物は呼吸を荒げながら顔を近づける。
すぐには食べようとしていないのかもしれない。匂いを嗅ぐ素振りを見せては鼻先で私の顎を軽く突き、腹周りを舌で擽る。それまで石のように動けなかった身体が、化け物の牙が剥き出しになったのと同時に金縛りから解放された。
「っ、はっ……!」
足を震わせながらも勇み立ち、化け物の側を走り抜ける。化け物は先ほどと変わって気が立っている様子もない。逃げゆく私をゆっくりと視線で追い、のそりのそりと後をついてくる。
わざと私に歩幅を合わせるかのように。
「はっ……は……っ……」
いつ頃だっただろうか。
遠い昔、まだ私が幼かった頃。こんな風に誰かに追いかけられたことがあったような気がする。あの時の私は一人ぼっちになったばかりで、大きな化け物ではなく、ヒトのようなものにたくさん追い掛けられた。
なけなしの体力で必死に逃げたけれど、最後は追い詰められて。
「きゃんっ」
足がつるっと滑り、地面をころころと転がり落ちていく。長い坂を半ば強制的に下っていき、木の根に思い切りぶつかった直後に大きな影にすっぽりと覆われた。
『探シタ、サガ、シタ……サガシテ……』
怨念が込められているのではないかと、そう思い込んでしまうような重低音の利いた声が身体の芯をぞっと震わせる。全身を駆け抜ける痛みに耐えながら顔を上げると、すぐ目の前に化け物の顔があった。私の頭よりも大きい牙が二つ、カチカチと薄気味悪い音を立てている。
恐怖が限界を通り越してしまったのか、身体がヒトの姿へと呆気なく戻ってしまった。
『イト、シ……モドッ……テ』
「い、やっ……!」
にじり寄るように距離を詰めていく化け物。忘れかけていたあの日の記憶が再び鮮明に浮かび、銃を構えたヒト達の姿が蘇った。
頭を大きな黒い布で隠した彼等が「最後の生き残りだ」と叫んで、銃口を向けて、そして。
もう駄目かと思った瞬間、あのヒトが現れたんだ。
黒い耳と尻尾の、私とは違う獣の匂いがする彼が。
突風みたいに現れたかと思えば、「面倒くせぇな」と言ってあっという間に敵を薙ぎ倒し、一度も振り返らずに去っていってしまったあの人。
どうしてももう一度会いたくて、わずかに残された匂いを頼りにずっとずっと探し続けて、辿り着いた裏市場で残飯を漁っているときにあの匂いがふと通り過ぎたんだ。探し続けてきた彼の匂いが。
慌ててゴミ箱から出ようとしたらそのまま転がり落ちてしまったけれど、あのヒトは私を拾い上げてくれた。
あの人の、あのヒトの名前は、確か。
『ア……アァ……コッチ、コッチニ……』
「いや、助け……助けて……」
化け物の冷たい息を頬に浴びながら、くしゃくしゃになった泥塗れの花嫁衣装の裾を握り締める。
いつも面倒そうにしながらも私の話を聞いてくれたあの人。ほんのたまに笑ってくれた心の根は優しいあの人。誰よりも大切な、あのヒトの名前は。
「……す、ざ……」
巨大な口に吸い込まれそうになりながら、心の奥に潜んだあのヒトの名前を呟きかけたそのときだった。
『ン、ンヴァァァァァ』
突如として鼓膜を揺さぶった鋭く突き刺すような叫び声に、瞑りかけていた瞼を開く。天を仰ぎながら慟哭にも近い声を上げている化け物と、喉元に喰らいつく黒い影。突然現れた正体をまともに捉えることができないまま二つの影は大きく傾き、そして。
「あっ!」
端に聳えた崖から二体諸とも落下していった。
手を伸ばしても、届くはずもない。遠ざかっていくその影は、黒く丸い耳と尻尾の生えた獣で。私を化け物から助けてくれたのが黒豹だと気づくのに時間は掛からなかった。
「まっ、待って、待って……」
泣きたくなるような気持ちを堪えながら、足場を辿って崖を降りていく。この高さから落ちたら助かるわけがない。そうは思っていても、立ち止まってはいられなかった。
込み上げる涙を拭い、焦る気持ちを抑えて崖の先へと向かう。長い時間を掛けて、汗ばむ手で必死に尖った岩を掴んでは離し、息も絶え絶えになった頃に片足がやっと地に着いた。
どうか、どうか無事でいて。
岩肌の壁から手を離して振り返った瞬間、願いにも近い想いは一瞬にして打ち砕かれた。
「あっ……あ……っ……!」
地面に広がる血の海。
その中央には、息絶えた化け物が四肢を広げて倒れていた。
まさか、あの巨体の下敷きになってしまったのだろうか。考えるより先に化け物に駆け寄り、なんとか大きな身体を持ち上げようとした──が、ビクともしない。自分の無力さに涙がぼろぼろと溢れ出し、やり場のない悲しみと苦しさで力が更に抜けていく。
「死んじゃ、だめ、だめ、死なないで、おねがい」
下唇を噛み締めてもう一度化け物を持ち上げようとしたそのとき、手首が触れたことのある温もりに掴まれた。突然の感触に驚いたのも一瞬、すぐに身体を翻される。
「っ……!」
視線の先にいたのは一人の青年。
黒く丸い耳に、同じ色の長い尻尾を携えた黒豹の獣人。
あのとき、私を助けてくれたヒトと同じヒト。
心に描いたあのヒトの姿が、目の前に。
「す、ざっ、あっ」
涙で視界が滲む中、苦しそうに顔を歪めたそのヒトは、性急に私を抱き寄せた。身体が軋めくほどの力で背中に腕を回され、大きな手で後頭部を鷲掴みにされる。息ができないくらい苦しく感じるのに、ずっとこうしてほしいと思ってしまう。
「ハル。お前を連れ戻しに来た」
「あっ、あ、わたし」
「嫌だと言っても帰さない。二度と離したりはしない。ずっと、側にいてくれ。お前のことを愛している」
彼は震える声でそう言った。
声だけじゃない。腕も、胸も、手も、足も、彼の身体のすべてが震えている。この温もりを一生手放したくない。どうしようもなく愛おしく感じてしまう。そうだ、私はこのヒトのことが。このヒトのことをずっと、ずっとずっと。
「わ、わたしも、好き……あなたのことが、スザクのことが……」
頬を一粒の温もりが伝った。
やっと思い出せたスザクの名前と記憶を噛み締めるように、彼の背中に腕を回す。想いを伝えるようにきつく抱き締め返す。
忍び寄る音と獣の匂いは、幸せの余韻にかき消されていた。
1
あなたにおすすめの小説
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」
結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。
出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。
愛を期待されないのなら、失望させることもない。
契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。
ただ「役に立ちたい」という一心だった。
――その瞬間。
冷酷騎士の情緒が崩壊した。
「君は、自分の価値を分かっていない」
開始一分で愛さない宣言は撤回。
無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。
以後、
寝室は強制統合
常時抱っこ移動
一秒ごとに更新される溺愛
妻を傷つける者には容赦なし宣言
甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。
さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――?
自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。
溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
冷たい王妃の生活
柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。
三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。
王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。
孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。
「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。
自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。
やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。
嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
村娘あがりの娼婦ですが、身請けされて幸せです
春月もも
恋愛
村を飛び出して王都に来たリリアは、いまは高級娼婦として生きている。
ここは通過点のはずだった。
誰かに選ばれて終わる物語なんて、わたしには関係ないと思っていたのに。
触れない客。
身体ではなく、わたしの話を聞きに来るだけの商人。
「君と話す時間を、金で買うのが嫌になった」
突然の身請け話。
値札のついた自分と向き合う三日間。
選ばれるのではなく選ぶと決めたとき、
通過点は終わりになる。
これは救いではなく対等な恋の話。
【完結】番(つがい)でした ~美しき竜人の王様の元を去った番の私が、再び彼に囚われるまでのお話~
tea
恋愛
かつて私を妻として番として乞い願ってくれたのは、宝石の様に美しい青い目をし冒険者に扮した、美しき竜人の王様でした。
番に選ばれたものの、一度は辛くて彼の元を去ったレーアが、番であるエーヴェルトラーシュと再び結ばれるまでのお話です。
ヒーローは普段穏やかですが、スイッチ入るとややドS。
そして安定のヤンデレさん☆
ちょっぴり切ない、でもちょっとした剣と魔法の冒険ありの(私とヒロイン的には)ハッピーエンド(執着心むき出しのヒーローに囚われてしまったので、見ようによってはメリバ?)のお話です。
別サイトに公開済の小説を編集し直して掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる