【R18】黒豹と花嫁

みちょこ

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12話

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 ほんの小さな物音に、意識がわずかに揺らいだ。
 眉を顰めるローベルト様から目を逸らし、視線を床へと落とす。そこにあったのは、小さな花飾りが施された髪留め。今朝、折り畳まれたドレスの上に置いてあったものだった。

「何の音だ、煩わしい……」

 行為が阻まれたことを不快に思ったのか、ローベルト様は苛立ったように顔を歪め、床を覗き込む。爪の尖った彼の指先が髪留めに触れそうになった瞬間、忘れかけていた匂いが鼻腔から脳の奥まで広がった。

 懐かしい、あの人の匂いが。

「う……っ!?」

 気付いたら、ローベルト様の脇腹に膝を思い切り押し込んでいた。顔を歪めて苦しそうに唸るローベルト様の隙をつき、髪留めを守るように抱え込む。

 どうしよう。どうしよう、この後はどうすれば。

 一瞬の躊躇いは、ローベルト様のおぞましい表情に吹き飛ばされていった。

「ハル……貴様、何をしているか分かっているんだろうな……」

「……っ!」

 防衛反応に促されるまま獣化していた身体。全身の毛が逆立ち、恐怖で背中が震え上がる。夢から醒めてしまったかのように、ローベルト様の顔が醜悪に感じられる。
 迫り来る大きな手から逃れようと身を翻し、髪留めを口に咥えたまま扉から外へと飛び出した。

娘が逃げた! 半殺しにしてでも捕えろ!」

 背後から聞こえる狼の咆哮。後ろを振り返ると、リオンを含めた従者達が狼に姿形を変えていた。こちらを睨んだと同時に、猛烈な速度で追い掛けてくる。皆、私よりも遥かに身体が大きい。このままでは追い付かれてしまう。

「はっ、はっ……」

 岩肌の地面を踏み、慣れない四足歩行で必死に前へと進む。人どころか自分達以外の生き物すら見当たらないこの場所は、酷く不気味だ。道を進めば進むほど森が深くなり、周囲が暗闇に包まれていく。

 それでも逃げるしかない。
 獣の唸り声と荒々しい呼吸は容赦なく迫る。

 怖い、怖い、助けて。

 名前どころか姿形すら思い出せなくなってしまったあの人に、心の中で必死に助けを求めた。

「──娘一匹捕らえるのにどれだけ時間を掛けているのだ! 役立たずめが!」

 背後から聞こえたけたたましい叫び声に、前足がつるんと滑る。見事にぺしゃりと地面に腹打ちし、自ら振り返る前に視線が空を向いた。

「っ……!」

 目の前にあったのは、恐ろしいほど大きな狼だった。全身を覆う銀の体毛は毒の滴る針のように逆立ち、鋭い牙が剥き出しになった口からは飢えを凌ぐ獣のように唾液がだらだらと流れている。

 逃げたくても、爪が胸に喰い込んで逃れることができない。

 完全に逃げ道を塞ごうとしているのか、狼となった獣人達が周囲を囲んでいた。その中の一匹、わずかに離れたところからリオンが私を見ている。

「くぅんくぅん」

 情けなくも助けを乞うように鳴いても、誰一人助けには来てくれない。大きな牙が首元に迫る。もう逃げられない。

 口に咥えていた髪飾りが、音も立てずに地面へと転がり落ちていった。

「一度痛い目に遭わなければ、己の立場も弁えられないのか。証すらなければただの狼獣人にすら及ばないと身を以て理解しろ……!」

 喉元に充てがわれた爪がより深く喰い込む。痛みを遥かに凌ぐ畏怖の感情に、瞼をぎゅっと閉じた瞬間──

 ぶわりと泥臭い血の匂いが広がった。







 ✼✼✼✼✼✼✼







 ──おーい、死んでんのか。こいつ。
 ──もう、放っときなよ。黒豹なんて喰っても美味くないさ。
 ──いやいや、物は試しさ。ほいじゃ、いただきまー


 汗臭さと一緒に鼻をつく嗅ぎ慣れた悪臭。ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になり、大きく口を開けて間抜け顔を晒すハイエナの顔が目に飛び込んだ。

「んぶっ!?」

 ほぼ条件反射で隙丸出しの腹を蹴飛ばす。見事に背中から転がったハイエナに仲間達が慌てて駆け寄る中、周囲を警戒しつつ見渡した。

 瓦礫物が積み重なった山に、汚臭を纏ったハイエナ達の匂い。どうやらわざわざこの場所まで捨てられたらしい。
 元いた場所から随分と離れたもんだ。  
 俺がハルの元へ行けないようにと引き離すため、か。

「おーい、スザク。食べようとしたのは冗談だってぇ! どこ行くんだ?」

 後ろから呼び止めようとするハイエナに構わず、腕の痛みに耐えながら道無き道を進む。頭から相当な血が流れたのか、酷く目の前がふらふらしやがる。
 だが、こんなところで寝てる暇はねぇ。最後にハルが何を伝えようとしていたのか、それだけでも聞いてやらなければ。

 ……いや、聞いてやる?

 おかしいだろう。俺はいつまで偉そうに振る舞ってんだよ。二年前にハルを家に置いてやった時だって、一緒に暮らし続けたのだって、あんなことがあっても側にいようとしたのだって、全部、全部全部全部。

「……俺の意思、だ」

 掠れた声で呟き、下唇を血が滲むまで噛み締める。

 ハルの意思は関係ない。
 たとえハルが求めていなくとも、俺はハルを助けに行く。ハルが俺を思い出せなくても、ハルの側にずっといる。一生、一生だ。あいつが嫌がっても絶対に離してやらねぇ。

「っ、う、ぐっ……」

「うぉい! おめー、血ィ吐いてんじゃねぇか!」

 内蔵をやられているのか、胃の奥から消化液に混じえて血が溢れ出す。 
 こんな奴等ハイエナの前で弱ってるところなんて死んでも見せたくはなかったが、身体が全くと言っていいほど言うことを聞かない。だが、伸びている時間もない。一刻も早くハルを助けに──

「ねぇ、あんた。もしかしてあの狼娘の所に行くのかい? だったら悪いことは言わないよ。やめときな」

「……は?」

「ちょいとね、見かけたんだよ。狼娘が乗せられた馬車が山峡に向かうのをね」

 連中の内の一匹のめすハイエナが面倒そうに息を吐く。  
 見かけたならどうして助けてやらない、とも思ったが、こいつらはそもそも味方ではない。反論の言葉に迷う傍ら、雌ハイエナは瓦礫の側に置き捨ててあった何かに視線を移した。

 黒いすすのような跡がこびり付いた白いもの。それはハイエナの頭の形をした剥き出しの頭蓋骨だった。

「あそこは最近、が多発しているんだよ。屈強と謳われていたあたしらの親分でさえ潰されたのさ。あんたみたいなひょろ黒豹が出会したら生きて戻ってこれないよ。狼娘のことは諦めな」






 ✼✼✼✼✼✼✼







 あまりにも突然のことで、悲鳴すら出なかった。

 玩具のように空中へ投げ飛ばされる狼達。胴体ごと噛み砕かれた一匹は、血飛沫を上げて地面へと叩き付けられている。まさに、地獄のような光景。我が身は惜しいと他の従者達が逃げ出す中、突如として現れたその化け物は、大きな目をゆっくりと私達に──いや、私に向けた。


『ジュウジン、ノ、ムスメ、カ』








 
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