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11話
しおりを挟む綺麗だ。思わずそう口にしてしまいそうになるほど、純白のドレスを纏ったハルは美しかった。風にそよぐレースは鏤められた宝石を輝かせ、ハルが歩くたびに穏やかに揺れている。
ハルは陽の光に煌めく藍色の瞳を細め、ゆっくりと一歩ずつ踏み出す。ベールに包まれた黒く艶めいた髪が花の香りを残して、そのまま俺の前を通り過ぎていった。
「……ローベルトさま」
ローベルトの前で歩みを止めたハルは、躊躇わずその名を呼ぶ。俺の姿には目もくれない。
再び吹いた風が近いようで遠いハルとの距離を誇張するように、強く吹き付ける。
──ハルの中に、俺の記憶はもうないのか。
「待ち侘びていたぞ、ハル。さぁ、共に行こう」
「……はい」
笑顔の仮面を被ったローベルトの言葉に、ハルは静かに頷く。派手な外衣を纏ったローベルトの腕に肩を抱かれ、馬車へと向かう。途中、一瞬だけその場に足を止めたように見えたものの、馬車の前に暗い面持ちで立っていたリオンにハルは腕を引かれてしまった。
結局、顔もまともに見れないままハルはリオンと共に馬車の中へ。ローベルトは監視するように馬車に乗り込む二人の姿を見送ると、前方に待機していた馬へと飛び乗った。
「……ふっ、いい馬だろう。北国の一部地域にしか生息していない上質な馬だ。貴様のような雑種とは訳が違う」
「……あ?」
ローベルトが俺を見下ろしながらほくそ笑んでいる。
俺に話しかけていたのか。
なんで獣人が馬に乗ってんだよ。自分の足で走れやくらいにしか思ってねぇわ。
「……さっさと行け。人の家の前で長居すんな」
「哀れな黒豹め。お前にはもうその小汚い家しか残っていない」
ローベルトはふっ、と鼻で笑い、顔を背ける。女のように長ったらしい髪を靡かせ、街の方面へと馬を走らせる。ハル達を乗せた二頭立ての馬車も後に続く。
馬車後方の小窓から見えるハルの横顔が、小さくなっていく。ハルは振り返らない。これで、二度と顔は見れない。
「……呆気ないな」
これが、さようならか。
落ち込む必要はない。ハルは帰るべき場所に、仲間達の元へ帰っただけだ。遅かれ早かれこうなることは決まっていたんだ。嘆く理由は一切ない。
ハルを守りきれず、最後は傷つけることしかできなかった俺に、喚く権利はない。
馬車の姿が見えなくなる前に踵を返そうとしたそのとき、遠くから悲鳴に交えて馬の鳴き声が聞こえた。
「ハル! どこに行くんだ!」
振り向いた先に見えたのは、ドレスの裾を掴みながら懸命に走り寄ってくるハルの姿。後から馬車を降りたリオンが続き、足を縺れさせながらもハルを追い掛けてくる。
叫び声に異変を察したのだろう。その奥にいたローベルトが鬼の形相で振り返った。
「……っ、あっ、あっ……!」
何かを言いたそうにしながら、ハルは半泣き状態でひたすら走っている。慣れない靴で走って、捕まらずにここまで来れるわけがない。
間髪入れずに地面を踏み、今にもリオンに捕らえられそうだったハルを抱き寄せようと腕を伸ばした。
「──ハル。勝手な行動をするな」
怒気を含んだ低い声が、ハルの全身を大きく痙攣させる。
涙が溢れ出る瞳はあのときのように色を喪い、純白の花嫁衣装に包まれた小さな身体は地面へと崩れ落ちる。すぐさまハルに手を差し出そうとしたが、後頭部が鈍器で殴り付けられたような衝撃に見舞われた。
「んっ……ぐっ……!」
目の前を白い光が瞬き、ぼやけた視界が横転する。すぐそこにハルが倒れているのに、身体が思うように動かない。手を伸ばすことすら叶わない。
「ハル。今日、お前は私の花嫁となる。身勝手な行動はこれで最後にしろ」
ローベルトの声が、聞こえる。
ぐったりと地面にうつ伏せで倒れたハルの身体は、声の主であろうローベルトの両腕に掬われ、視界から消え去っていく。ハルの姿はもう見えない。声も聞こえない。
最後に瞼の裏に映ったのは、ハルの泣き顔だった。
✼✼✼✼✼✼✼
町の大通りを抜け、舗装されていない道を進んでいく馬車。足場が悪いのか、馬に引き摺られるたびにガタンゴトンと大きく身体が揺さぶられている。
気を失っている間に、随分と時間が経ったみたい。
知らない景色に、知らない場所、知らない匂い。
どこを見回しても、あの人の姿はもうなかった。
「……っ、はっ、ぁっ」
馬車の小窓から、いないはずのあの人を探す。
──ハルに出会わなければよかった。
──この家から出ていけ。
昨日、黒い耳のあの人が口にしていた言葉だけがぐるぐると頭を回っていた。
私は嫌われていたんだ、あの人に。
その事実だけが、どうしても苦しかった。
どうしてあの人と暮らしていたのか、どんな出会いをしたのか、なぜそれを思い出すことができないのか、あの人を見ているだけでどうしてこんなにも息が苦しくなるのか、私には分からない。考えれば考えるほど、あの人の記憶が消えかけていく。
きっと今まで迷惑をたくさん掛けてしまったのだろう。嫌な思いをたくさんさせてしまったのだろう。さっきもそう。最後に話をしたくて馬車から降り立ったとき、困った顔をしていたもの。
『ハル。俺の名前は──だ』
名前を思い出せず泣くことしかできなかった私に、あの人は何度も自分の名前を言ってくれた。とても、とても悲しそうな顔で。
やっぱり、最後に一度でも謝ってから別れを告げたかった。今からでも、もう一度戻れば間に合──
「ハル。何を考えている」
無意識に扉へと伸びた手が、氷のような冷たさに覆われる。あの人とは違う声に誘われ、自ずと顔を上げると、いつの間にか扉の奥からローベルト様が姿を現していた。
精悍な表情からは怒りが滲み出しているようにも感じられる。怖ろしさで身体の奥がぞっと震えた。
「ろ、ローベルト様、あの」
「良からぬことを考えていたな。番の力はまだ完全ではない、か」
「あっ」
私より遥かに大きな手が手首へと滑り落ち、強い力で掴まれる。
ローベルト様は険しい表情のまま、その奥にいるリオンを一瞥した。ここから出ていけ、と脅迫するように。
「に、兄さん。儀式が終わるまではハルに……」
「私に命ずるのか。薄汚い愛人の子が」
有無を言わせない圧力に、リオンの顔が歪む。一瞬、何かを言いたげにしていたように見えたけれど、黙って外へと出ていってしまった。
馬車の中にはローベルト様と二人きり。全身を蝕む重苦しい空気に、呼吸さえ儘ならなくなる。
「あの、ローベルト様」
「ハル。お前の身体には我が種族の中でも類稀なる優秀な一族の血が残されている。お前のその燦然と輝く黄金の毛に覆われた片耳がそうだ」
「え? な、なに、が……」
「薄汚い男に穢されないかと心配したが、まだお前の身体は純潔を散らされていないようだ。早い段階ではあるが、お前の身体に私の証を刻んでおこう」
「えっ、あっ!」
大きな手が首筋を滑り、両肩を撫でるように掴まれる。そのまま椅子に押し倒され、身動き一つ取れない状態に。
動揺したのも束の間、目の前にあるローベルト様の顔が私により近づいた。
「や、いや……っ」
鋭い牙を覗かせた口が自分の唇へと近づく。生暖かい吐息が唇に触れた瞬間、反射的に首を背けていた。
「……ハル。なぜ拒む」
恐ろしく低い声で、問い掛けられる。
怖くてローベルト様の顔が見れない。頭の先から尻尾まで酷く震え、心臓はドクドクと大きく波打っていた。声がうまく出せない。ここから、逃げ出したい。
迫る恐怖に堪え忍ぶように、瞼をぎゅっときつく閉じた。
「……そうか。無理強いして悪かった。初めては、皆怖いものだ」
しばらくして聞こえたのは、先程とは一変して穏やかで優しい声。恐る恐る視線を戻すと、目と鼻のすぐ先にローベルト様の顔があった。変わらず無表情だけれど、心做しか物柔らかに感じられる。
「ろ、べる、と、さま」
「ハル。私を愛しているか」
「あ、あ、い、あいし……」
「無理に言葉にする必要はない。お前の気持ちの赴くがまま、受け入れればいいのだ」
心まで溶かすような、温かい両手が頬を包み込む。
硝子のように透き通った美しい瞳に、吸い込まれてしまいそうになる。
ああ、心優しいローベルト様。
愛しい、いとしい、ローベルトさま。
たった一人の番として、どうかわたしを。
「……ローベルトさ、ま。おしたいして、おりま、す」
「それでいい。ハル」
ローベルト様の長く美しい前髪がはらりと額に触れる。形の良い唇が近づき、自ずと視界を狭める。もう、何も考えることができない。頭のどこかで何かが必死に訴えているような気がするのに、靄にかき消されてしまう。
今はただただ、誰よりも愛しいローベルト様に触れてほしい。
そう。私がアいするのはローベルトさま。ただひトり。
「ローベルトさマ。愛しテいま、す……」
降りそそぐであろう口づけを受け入れようと瞼を閉じ、広い背中に腕を回そうとしたそのとき。カラン、と小さな物音を立てて、椅子から床へ何かが落ちていった。
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