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第1章 冴えない夫
3話
しおりを挟む次の日、いつもであれば寝室の扉の前で待ってくれているエイヴァの姿はなかった。アルフィーはちょっぴり腫れた瞼を擦り、使用人が用意した服を着つつ、重い足取りで部屋を後にする。
廊下を見渡しても、階段を降りた先にも、大広間にもエイヴァはいない。昨夜の件でまだ怒っているのかだろうか。取り返しのつかないことをしてしまった。
「ちょっと、旦那様」
「わっ」
玄関先へ赴こうとしたアルフィーの前に突如として立ち塞がったのは、一人の侍女だった。侍女は顔を顰めつつ、警戒するアルフィーに耳打ちする。
「……旦那様。お二人のことに口出しをするつもりはありませんが、奥様に何かあったのでしょうか?」
「え?」
「今朝、二階の廊下から奥様の部屋にかけて血が滴っていたのです。それはもうぼたぼたと。奥様は病気じゃないから心配しないでと仰っていましたが、まさか……あっ」
自ら顔を近づけてきたにもかかわらず、さささっとアルフィーから数歩距離を取る侍女。
最初こそ理解できず阿呆丸出しで口を開けていたアルフィーだったが、明らかに引いた様子の侍女を前に、一気に血の気が引いた。
「待て待て待てっ! 俺は暴力はふるっていない!」
「……当事者はそう言いますよね。あぁ、怖い」
「あっ、こら、逃げるな!」
侍女はアルフィーの手をさっと避け、控え室へと逃げていく。
人間ブリザードの妻の次は、妻に暴力を振るう野蛮な夫。また侍女達の間であらぬ噂を立てられると、アルフィーは深い溜め息を吐く。
「……出血、大丈夫なのか?」
この際、自分が何と呼ばれようとどうでもいい。エイヴァのことが心配だ。まさか、病気であることを隠しているのだろうか。
一度、仕事に行く前に顔を出して──
「旦那様」
「ひっ!」
振り返った先に立っていたのは人間ブリザード、ではなくエイヴァだった。不意打ちの登場にアルフィーは腰を抜かしそうになったが、彼女が不格好に鼻の穴に何かを詰めていることに気がついた。
「……鼻、どうしたの」
「昨夜壁に顔面をぶつけてしまっただけです。血が止まらないので応急処置を」
「昨日から時間大分経ってるよな? 大丈夫……」
鼻血の状態を確認しようとしただけなのだが、さっ、とこれまた俊敏な動きで避けられるアルフィー。昨日の件といいかなり堪えたが、心の中で哀しむだけに止めた。
「も、もし何かあったらすぐに医者に診て貰って」
「私のことはどうでもいいですから。早くしないと遅刻しますよ」
微妙な距離を保ちつつ、エイヴァは玄関先へと目を向ける。
さっさと行けと促されているようで、アルフィーは哀しげに眉尻を下げる。当のエイヴァは眉根一つ動かさず、綺麗な佇まいで立ち尽くしている。鼻に紙屑を詰めたままではあるが。
「……それじゃあ、行ってきま……」
ガチャリ、と扉の閉まる音がアルフィーのか細い声を遮った。
振り返れば、すでに見送る人間は誰一人としていない。初冬を迎えたばかりの冷たい風が、棘のようにアルフィーの肌を突き刺した。
***
「嫁さんに嫌われているだって?」
王都の西部巡回を終えたアルフィーは、偶然通り掛かった同期に昨夜の事の顛末を打ち明けていた。眉根を寄せる同期を前に、アルフィーは「違う」と首を大きく横に振る。
「べ、別に、嫌われているわけじゃ……」
「いやいや。夜のあれそれを断られるって、いくらそれまで他人に近い関係だったからって有り得ないだろう。後継にも関わる問題だろうが」
同期の言葉に、アルフィーは苦々しく表情を歪める。
自分と同じ時期に王都騎士団に入団し、現在進行形で下っ端のままの自分を差し置いて、上級騎士として見習い達を率いる立場にまで上り詰めたこの男。最近、王都でも随一の美人と評判である書記官の娘を妻として迎えたらしい。気が利くし綺麗だし、笑顔が最高に可愛いと惚気を何度も聞かされている。
エイヴァだって気が利くし、アルフィーからすれば誰よりも綺麗だ。笑顔は見たことはないけれど、人間ブリザードだって笑えば可愛いに違いない。きっと、多分、恐らく。
「お前のところの奥さん、綺麗だけどこ……キツい感じしたもんな。年も上だったか?」
「……三つ」
「二十一か。結婚する年齢にしては遅いな。アンドリュース家の令嬢、況してやあれだけの美人ならすぐに相手が見つかってもおかしくはな……」
「エイヴァは俺の婚約者だったからな。時期が遅れたのも仕方がないんだ」
アルフィーと同期、二人の会話に紛れ込む異質な声。反射的にアルフィーか振り返ると、そこにはにっこりと白い歯を見せて笑うジョセフ副騎士団長の姿があった。
「副騎士団長、お疲れさまで……」
「あぁ、いい。堅苦しい挨拶はいらないよ」
ジョセフ副騎士団長は遠慮の欠片もなく間に割り込み、混乱状態に陥るアルフィーに対して顔の良さを鼻にかけるような笑顔を向ける。
この国の王都騎士団の二番手として、副騎士団長の座に就任したばかりのこの男。アルフィーより後に入団したにもかかわらず、あっという間に上へ上へと上り詰めてしまった公爵家の次男だ。
国を守る立場であるにもかかわらず、とても鍛え上げたとは思えない長身ひょろひょろの痩躯体型。だったら強靭な鋼の精神を持っているのかと思いきや、騎士団に属する使用人の若い女達に声ばかりかけて鍛錬は怠ることも珍しくはない。騎士と呼ぶには貧相な身体と精神で、どうしてこの男は出世できたのだろうか。生まれながらの家柄、地位に物を言わせているとしか思えない。それとも顔か、顔なのかと、アルフィーは常々卑屈に考えていた。
「アルフィー。エイヴァの話、聞きたいか?」
「え? あの、いや、えっ?」
「聞きたいだろう?」
ジョセフ副騎士団長は視線を巡らせるアルフィーの肩を掴み、顔を近づける。口元は笑ってはいるように見えるが、目元が笑っていない。首を横に振れば、貴族社会から抹消される。そんな気がしてならない。
「エイヴァのことを知りたければ酒に付き合え。最後までとことんな」
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