欠け神の宵契り

種田遠雷

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2、名前のない客

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 旅籠が一番忙しいのは夜だ。
 帳場係のヨウエンが変わりないと答える日々が続いた夜、異変を知らせにパタパタと走って現れたのは、これまでになく給仕のシュカだった。
「レニさん、レニさん」
 夕の膳を下げ終わって厨房を手伝っていたレニと、調理番のハイウもつられて振り返る。
「あの、ヨウエンさんがレニさん呼んでほしいって」
「おっと」
 すぐ行くよ、と、前掛けを放り出して廊下を早足に進んでいく。
 他の持ち場は、見えない者でも本人が納得さえしてくれれば働いてもらえるが、客の出入りを受け付ける帳場係だけはそうはいかない。
 幼い頃からというヨウエンは大抵の客に動じることはなく、落ち着いていて、この難題を任せておける頼もしい男だ。
 それがシュカをやってまでレニを呼ぶとは。
 おっと、と。呼びに来たシュカに応じたのと同じ言葉を、レニは腹の内に留めた。
 帳場台に屈み込むようにしている、巨大な影。かと、一瞬は思ったほど。
 身の丈が七尺くらいはあり、およそ平均的な身長のレニが見上げる位置に肩があった。
 うねって乱れた長い黒髪が背を覆い、薄暗い着物姿。顔や腕、覗いている胸にも汚れた包帯のようなものを巻いている。
「何かございましたか?」
 ひどく暗い、その上険しい顔をして男が振り返り、その奥ではヨウエンがすまなそうに目配せしている。
 無礼にならないよう、というまでもなく、見上げて苦しくない距離まで近付いて笑顔を向けた。
「……ここに用がある」
「かしこまりました。ご宿泊でよろしいですか?」
「……ここに用がある」
 妖気どころか、怒気すら感じる。怪訝を顔には出さずに、もう一度頷いてみせた。
「こちらは旅籠でして、ご滞在の方にはお代をいただいてお部屋とお食事をお出ししております」
「それは聞いた」
 聞いたんかい。と、口から出掛けたのを飲み込んだ。
「ご宿泊でございますか?」
「……ここに用がある」
「ご滞在になりたい方には、お客様としておいでいただいております」
 男がようやく少し黙る。
 さて、押し問答が続くならどうして去ってもらおうかと腹の内で計り始めるあたりで、男は息をついた。
 かすかに焦げ臭い。
 スゥと腹の底が冷える感じがしたところで、わかった、と重い声が答えた。
「ありがとうございます。ご滞在のお客様には宿帳にお名前をお願いしております」
 こちらです、と、引き受けるヨウエンが開いている宿帳に目を落とした途端、男が怒気を帯びたように感じる。
 なんだ、という疑問の答えは、すぐに解けた。
「……名を、失くした」
 思わずヨウエンと顔を見合わせてしまう、その目線の脇に、柱の陰からハラハラと見守っているシュカとハイウに気がついた。
 あちら側の客に間違いないが、いいのか悪いのか、人の目に映るほどらしい。
 食い逃げの可能性は減るか、と自分を慰め、頷いてみせた。
「名の代わりになるものはいかがですか? お役目、ご商売、お生まれ、どのようにお呼びすればよろしいでしょう」
 うんうんと相槌を打っているヨウエンにもレニにも目をやらず、男はじっと押し黙る。
「……何も、無い」
 声を出して唸りそうになった。
 気を取り直す代わりにつきたい息すらこらえて、レニはしばし思案し。
「ホムラ様ではいかがでしょう」
「嫌だ」
 即答で返され、ンッ、という声が抑えきれずに少し漏れてしまった。
「炎は好かない。うみにしてくれ」
 ほ、と。ヨウエンの方でも隠しそびれた息に、危うくつられるところだった。
「かしこまりました。海様のご滞在として、宿帳にお名前を頂戴いたします」
 こちらへお願いします、と、ヨウエンが丁寧に筆を渡しているのを見守り、腹の内でようやく息を抜いた。
 普通の客であっても当然だが、奇妙な客が来たら必ず記名をもらうように、というのも先代の教えだ。
 この世ならぬものほど、名や契約に縛られるという。
 効果がどれほどかは判らないが、少なくとも、奇妙な客から宿代をもらいそびれたことは一度もなく、踏み倒しや食い逃げがあった失敗はどれも人間だったくらいだ。
「ごっ、ご案内いたします」
 宿泊の手続きを終えたのを見計らってシュカが進み出て、言葉に詰まった失態を笑顔の下に噛み殺したのを見た。
 大丈夫、と声を掛ける代わりに笑顔を向けて、案内していくシュカの背を隠す長身を見送った。

 数日は何事もなく、とは、言いがたい有様となった。
 海と名乗った大男は、昼といわず夜といわず、袖寄屋の中を歩き回り始めた。
 客が出入りする宿泊範囲だけでなく、裏方にまで入り込んで、何やら物探しげにあちこち覗き込んでいる。
 関係者以外の立ち入りを断るのは、金品はもちろん、これまでの客や従業員、袖寄屋そのものの記録、それに場合によっては従業員の寝泊まりもあり、安全と表裏の管理に支障をきたすからだ。
 丁寧に説明して遠慮願いたい場所について話しても、目を離すとやはりあちこちウロウロするようで、仕事の合間を縫ってはレニが後をついて回る羽目になった。
「厄介なやつがいるね」
 そう言って笑ったのは、少し年のいった女に見える、自称“糸売り”の客だ。思いがけず長逗留している。
「お客様にお知り合いがおられましたか?」
 まさか、客を厄介だと言われたのに同意するわけにもいかない。
 が、名前に引っ掛けるわけではないが糸口でもくれるのかと、慎重に応じた。
「いいや、あたしの知り合いじゃないね。糸がついてるのは、レニさんと袖寄屋さ」
 意外な言葉に声を出しそうになって、けれど一旦飲み込んだ。
「糸ですか」
「縁さね」
 笑う糸売りに、縁ですかあと相槌を打った。
 考えてみれば、海は最初から“ここに用がある”と言い張って居座っているのだ。この袖寄屋に何か思うところがあるのは意外ではないし、レニは一応その持ち主というわけだ。
 あるかないかといえば、縁はあるだろう。
「腐れ縁でなけりゃいいけどね」
 膳を下げて廊下に出てから、レニはやれやれと独りごちた。

「お客様、こちらは裏方ですから、お通りでしたら表廊下へおいでいただけますか」
 暗い顔をした大男、海が振り返り、物陰と包帯で隠された目がじっとりとレニを睨めつけた。
「見られたくないものでも、あるようだ」
 一瞬、何を言われたのか解らず、それからすぐに、そりゃそうだろと喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 もう一言ふたこと言ってやりたいところだが、今抱えている夕の膳が優先だ。
 この後で水差しをお取り替えに上がりますからね、と釘を刺しておいて、客室へと急いだ。
 シュカと手分けして全ての部屋に膳を届けると、約束通り大きな水差しを持って海が滞在している部屋へと運ぶ。
 目を閉じても歩ける廊下を歩きながら、不可解さが胸に宿った。
 帳場に現れた時から海がはらんでいた怒りの気配。あれは、こちらに向いていたのだろうかと思いつけば、あまり良い気分ではない。
「お客様、水差しをお持ちいたしました」
 ああ、と、重い声が返って戸を開け。他の部屋と変わりないよう辞儀をとって上がった。
 空になった水差しと新しい水差しを取り替え、お注ぎしますかと声を掛けてみる。
 いると言うので、こちらも取り替えたグラスに冷たくした水を注いだ。
 海は食事を摂らない。ここに居着き始めてから水しか求めず、何か一口でもと勧めた菓子ですら手つかずで返された。
「お部屋はいかがですか。不都合がおありでしたら、声を掛けてください」
「ない」
「建物は分かりにくくありませんか。不案内でおられましたら、いつでもご案内いたします」
「……」
 黙り込んでしまう海とのこのやりとりも、もう何度か繰り返したものだ。聞き飽きたというところか、と、レニもそれ以上は言わずに腰を上げた。
「またお食事の頃には取り替えに参ります。足りなければおっしゃってください」
「……ここに、盗まれたものがあるはずだ」
 戸にやりかけていた手が、止まる。
 しっかりと身体ごと振り返って、胡座をかき背を丸めたままこちらを睨んでいる海を見返した。
「お客様、今、何とおっしゃいましたか?」
「ここには、盗人が持ち込んだものがあるはずだ。それは私のものだ。返せ」
 はあ、と、隠すのも忘れて溜息をついて、水差しの乗った盆を出入口にそのまま置いた。
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