欠け神の宵契り

種田遠雷

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4、網針

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「アバリ……?」
「時計の針など外さない。これは、あの年に思いがけず手に入った稀に見る良いアバリで、どれほど自分たちが使いたかったか……だが、こんな良いものは滅多に手に入らないからと、私に捧げられた」
「……へ」
 わからない、ない、とそればかりだった海が突然話し始めた、筋の通りそうな、だが意味の解らない話に、レニとしてはただただ呆気に取られる他ない。
「あの時計の針じゃないんですか」
「違う」
 即答にレニは眉を寄せた。
 今ここでは確かめようがない。だが、確かめれば判ることであり、困った迷惑な客ではあったが、レニは海が嘘を言っていると思ったこともなかった。
「……アバリってなんですか」
あみを編むための針だ」
「網? ずいぶん大きな針を使うんですね」
「大きな網を編む。魚を獲るための網だ」
「魚を獲る網、を、編む針なのか……」
 不思議な形の針をどう使うと網ができるのか想像がつかない。まじまじと、レニは大きな手に乗せられた大きな針を見つめる。
「海さん、それを探してたんですか。じゃあ、何か分かったんですか」
 ぽたり、と、見えない顔からまた雫が落ちた。
「わからない……」
 振り出しに戻ったような聞き飽きの台詞に、脱力しそうな身を、だがレニは堪えた。
「とはいえ、そのためにうちの時計を壊したでしょう」
 ハッと、海が初めて顔を上げ、目を剥いてレニを見つめる。
 こんな、濃い青い目だったのか、と、レニは場違いに驚いた。濁った濃い灰色のような、黒い瞳に見えていたのに。
「そうかもしれない……すまなかった」
 陰鬱を通り越して鬱蒼とした大男に涙目で謝られ、レニは額を押さえる。
「……できれば、わかることだけで構いませんから、ご事情をお話しいただけませんか。正直、こちらへ来てからの海さんのあれこれ、しまいにはこれだ。俺は、もう当然出てってもらおうと思ってるんです、」
「……ここに用がある」
「ご事情を何もお話しいただけないのであれば」
 聞き飽きた言葉にすかさず遮られた続きを、それでも引き込めず押し返した。
 また項垂れた頭に手を伸ばし、髪を退けて包帯に隠れた横顔を確かめる。また泣いているのだろうかと。
「包帯、ずいぶんくたびれていますよ。お取り替えいたしましょうか」
 傷がよくならないのか、と考えてもいたが、古傷でも隠しているのかもしれない。
 何の傷を負ってこんな風になったのか、と、初めて確かに考えた気がした。
「必要ない……」
 そうですか、と、手を引いて。レニが腰を下ろしたところで、海はゆっくりと口を開いた。
「私は、海辺の国の神だった」
 ああ、と。その一言で突然色々なことが腑に落ちて、レニは黙って長い息を吐き出した。

 海は、ある海辺の国の神だったという。
 漁業を主な糧として、他には農地も商売もあるが、どれもささやかな小さな国だったそうだ。
 波は穏やかな時もあれば荒れることもあったが、恵みはいつも国の民を飢えさせなかった。彼らがまつる神が、海からの糧を守っていたからだ。
 民はこの神を大切にし、約束した祭を欠かさず、一番いいものは迷わず神に捧げて、充分な残りを分け合った。
 時には民の間で諍いもあり、神と民の間で祭の間違いがある時もあり、だが必ず和解してきた。
 長い長い間、そうだった。

「今はもう、あの国は無い」
 そこで括られ、終わってしまった海の言葉に、レニは、自分まで項垂れそうな頭を支えるように額を押さえた。
「……何があったんですか?」
「わからない……焼けたはずだ、何もかも」
 そうか、と、声にならずにレニは頷く。
「どうして、その話を、……いえ、そこまで打ち明けろとは言いませんが、何も話してくださらなかったんですか?」
 答えはなんとなく、予想がついた。
「わからなかった、からだ。網針アバリを見つけて、手にして、ようやくそれを取り戻した」
 やはりそうか、と、腹に落ちる。
 それが正確にはどういう筋なのか知りようもないが、海は記憶を奪われているのだ。単に失ったのかも知れず、偶然かもしれないが、それは確かに袖寄屋にあった。
 海の記憶にまつわる品が。
 それは知らなければ時計の針と見るようなもので、実際時計に紛れていた。
 そう、偶然かもしれないが、まるで。
 うらないから、背に掛けられた言葉が頭に過る。
「隠されている」
 呟くようなレニの声に、海の目がスゥと細くなった。
「……宿屋、私はそれを探している」
 やれやれと吐く息混じりに頷いて、お水どうぞとグラスを勧めた。
「そうですね、まず。この旅籠は袖寄屋そでよりやという名前で、俺はレニです」
 ゴクゴクと喉を鳴らしながら目で頷く海に、片眉を上げる。
「次に、失せ物探しは俺といる時以外は許可しません」
「……いつもいないが」
「いや、いつもいますよ、誰より。忙しいんで、俺の手が空いてる時だけにしてもらいます」
「わかった」
「包帯やお着物、よければ洗濯しますよ。見た目が恐ろしいんで」
「必要ない。私の姿は人間と同じ理屈ではない」
 わかりました、と、今度はレニの方が承知した。
「お腹がお空きになれば、おっしゃってください。うちの調理番はここいらでもそういない腕なんですよ」
「……水以外は、口にすることができない」
 残念そうにも、何ともないようにも聞こえて。次の「わかりました」には、少し間が空いてしまった。
「海さん。俺の国も、焼けて無くなりました。もうずいぶん前に。だからと言っては野暮ですが、……何かあれば、声を掛けてください。遠慮なく」
 少し長い間を置いて、海が「遠慮はしていない」と静かに答え、それはそうだとレニは声を立てて笑った。

 片付けを終えて、残っている従業員たち一人ひとりにかいつまんで事情を伝え、私室に戻った。
 思いがけないことで、思い出したくないことを、思い出した。
 湯を浴びてますます肌の白い顔を姿見に映し、鏡像の冷たい頬に指で触れる。
 三十を前にして、若く見えるが中年男に違いない。
 レニの探す面影は、もうずいぶん前から薄れ、今や微かな気配しかない。
 夜着の襟元にも触れてみるが、もちろん、身体を見てみようとは思わない。そんなことをしたのは、本当に子供の頃だけだ。
 記憶と共に失われてゆく彼女の面影を惜しむよう、レニは声に出さず唇の動きだけで名を呟いた。


 あ、と。朝の挨拶に回るレニを迎え、珍しくヨウエンが声を上げた。
「レニさん……すみません、あの」
「おはよう、ヨウエンさん。どうかした?」
「申し訳ありません。贋金にせがねを掴まされたかもしれません」
「あちゃー、それは悔しいね」
 見せて、とレニに要請されて、これです、とヨウエンが帳場台に包みを乗せた。
 その瞬間、確かに違和感を感じたのに、掴みきれない妙な感覚を覚えて、レニは眉を寄せる。
 人相書きを作ってもらって、治安官に知らせて、と次を巡らせる頭が、その包みが開かれると止まってしまった。
「……そんなことあるか」
 たっぷりの銀貨が本物なら、ヨウエンが宿帳を指差す客の滞在費としては多いくらいだが。
 指で一枚つまみ上げ、山の上に銀貨を落とすと、違和感は確信に変わった。
 銀貨を落とした時も、落ちた一枚を受けた銀貨の山も音がしない。包みを帳場台に上げた時も、包みが開かれて山が崩れた時も、少しも音がしなかったのだ。
 だが、見たところ銀貨自体におかしなところはない。古いものだが、この国の通貨として造られている硬貨だ。
 仮に贋金だったとして、どんな素材で作っても何かの音はするだろう。
「ええ~……売ることもできないんじゃないか、これえ」
「すみません、受け取った時、どこがおかしいか咄嗟に気が付かなくて」
 しゅんとするヨウエンに、ああ、と、レニは顔の前で手をひらりと揺らして笑った。
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