あのときのわたしへ

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あのときのわたしへ

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ひと呼吸おいて、
わたしは、便箋の言葉に目を落とした。

文字は、
どこか不器用で、すこし斜めに傾いていて、
まるで、話しかけるように並んでいた。

 あのときのわたしへ

いま、どこにいるのか分からないけれど、
これを見つけたあなたは、
きっと、わたしのことを忘れていると思う。

最初の一行で、
胸の奥が、きゅう、と音を立てた気がした。

わたしって、誰――?

それを問いかける前に、
文字は、すこしずつ語り始める。

忘れたくて、忘れたわけじゃない。
だけど、思い出すには、
痛すぎることが多すぎた。

その言葉が、
紙からじんわりと滲み出して、
手のひらにまで沁みこんでくる。

わたしのなかの“なにか”が、
そっと動いた気がした。

まだ名もない、でも、確かにいた“わたし”。

きっと、笑うことに疲れていたね。
ひとに優しくしながら、
優しくされると、苦しくなってた。

その一文を読んだとき、
喉の奥がつまった。

誰にも言えなかったこと。
自分でも気づかないふりをしてきたこと。

それを、
わたしが知っていたなんて。

 わたしは、ずっとここにいたよ。
 置き去りにされても、
 ちゃんと、あなたのこと、見てたよ。

言葉が、目に刺さる。
だけど、それは痛みじゃなかった。

それは、
ひさしぶりに、
「あなた」と呼ばれた気がしたからかもしれない。

わたしのなかの、もうひとりの「わたし」が、
手をのばしてくる。

 もう、だいじょうぶ。
 わたしがいるから、
 これからのあなたは、
 すこしずつ、わたしを取りもどしていけばいい。

最後の一行は、
まるで、歌うような筆跡で、
やわらかく結ばれていた。

 それじゃあ、またね。
 いつか、会えるそのときまで。

便箋をそっと折りたたんで、
胸のあたりに置く。

あたたかさが、そこに残った。

わたしは、まだ、
すこし震えていたけれど――

声にならない「ありがとう」が、
くちびるの内側で、ほどけた。
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