泣き虫ポチ シリーズ番外編置き場

六つ花えいこ

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番外編

二人の始まりの物語



「じゃあ!今度お部屋にお邪魔したら襲ってくれますか!」
 時と場所を憚らない酔っぱらいの大声で、夜の町はどよよとざわめいた。

 いつも見ていた背中に向かって手を伸ばし、夕さんのスーツをぎゅっと掴みながら私は叫んだ。せっかく気持ちが届いたと思ったのに、こんな時間に、こんな気持ちのまま、さようならをしようとする薄情な飼い主に噛み付くためだった。

 もっと一緒にいたいのだと、傍にいさせてほしいのだと伝える私に、夕さんは頑なに首を縦に振ってくれなかった。尻軽で直球な私と違い、誠実で優しさに溢れる夕さんは、こんな酔っ払いでもお持ち帰りしてくれない。私はそれが嫌だと伝える為に背中にしがみ付いて額をぐりぐりと押し付けた。

「あのなぁ…順序は大事だろ」
「そんな!?もしかして、婚前交渉は無しとかおっしゃるんですか?!」
 再びざわめく人の波に気付いた夕さんは、額を抑えて大きなため息を一つ吐いた。真っ白に染まる溜息はクリスマスの為に飾り付けられたネオンにキラキラと光って溶けた。
 背中に私をへばりつかせたまま、夕さんは大きなコンパスで進んでいく。しがみついたまま離れない私も、駆け足でそれについていった。道の端に寄り人の邪魔にならない場所に来ると、夕さんはしがみついていた私の腕を持ち上げてくるりと反転した。随分と高い場所にある夕さんの顔が見えるように背伸びする私のために、夕さんは少し屈んで私と目線を合わせた。

「…瀬田 貴臣(せた たかおみ)だ。」
 唐突な自己紹介に、酔いが回った頭できょとんと首を捻る。

「知ってますよう」
 私の言葉に驚いたように目を見開いた夕さんに、私はふふんと胸を張った。自分で名刺を渡しておきながら忘れているなど、夕さんにしては珍しいことである。よほどあの時夕さんも余裕がなかったのだろうと窺えた。

「すとーかーですからね!」
 自信満々に言って、この件では随分傷ついたことを思い出して頬を膨らませる。酔っ払っているせいか、寄せられる気持ちを教えてもらったおかげか、浴びせられた辛い言葉も、否定してくれなかった夕さんにも落ち込むことはなかった。夕さんの愛情が私に向いていると分かった今、私に怖いものなんて何もない。

「あぁ、そうだったな」
「肯定?!」
「お前はそれでいいんだ。忠犬が飼い主の後ろをついてくるのは、当たり前だろ?」
 ストーカーを肯定されてしまい、釈然としない気持ちのまま頷く。そうだけどーそうなんですけどーと唇を尖らせる私に、私ほどではないにしろ酔いを湛えた熱い瞳が細く弧を描く。

「まぁ、これからは、ここだ。横」
 そう言って、向き合っていた姿勢から一歩移動して、夕さんが私の隣に立った。夕さんの腕と、私の肩が触れ合うほど近い。素肌のまま触れてしまった指先が、何の躊躇もなく私の手の平を辿り、貝合わせにピッタリと重なった。

 呆気にとられて声も出ない私に、夕さんが眉尻に皺を寄せたまま優しい声で聞いてくる。

「どうした?」
 その声にすらくらくらする。私は酔いの為か色気に中てられてか、ふらつく両足でぐっと踏ん張った。

 私は、夕さんの背中に恋をしたのだろう。
 引っ張ってくれる背中、守ってくれる背中、抱き着くと広かった背中、私を絶対に拒絶しなかった背中。
 絶対的に安心感を感じた頼りがいのある背中。大好きだった。大好きだったけど、その背中よりも、ずっと見たかったものがあった。

 貴方の横顔を、隣に立って見てみたかった。


「な、なんですか、なんなんですか。不器用なのにそういうスキルはたんまり積んであるんですか。あれですか。自分で攻め落とす必要が今までなかったから攻めのスキルは低くても、恋人としてのスキルならカンストしてるとかおっしゃるんですかおっしゃっちゃうんですかやだもうやめてくださいよやきもち妬くよりも手が幸せすぎて溶けちゃいそうじゃないですかぁ…」

「はぁ?」

 何言ってるんだお前。という顔を隠しもしない夕さんは、呆れたような顔を見せてもその目にはたっぷりの愛情が映っていた。あぁ、この人はきっと、私がこんな風にありのままの姿で居ても、呆れはしても拒絶しないでいてくれるんだろう。私を理解することを、諦めないでいてくれるんだろう。私の“変”な部分を、切り捨てないでくれるんだろう。全部ひっくるめて、愛を注いでくれるんだろう。
 そう思うと、どうしようもなく嬉しくて、滲んでくる涙をぐっと堪えた。

「それで、お前の名前は?」
「あっ!失礼しました!井戸の上と書いて井上。愛に歩くとかいてあゆみです。」
 敬礼でもしそうな勢いで言う私に、夕さんは何かを考えているような神妙な顔をした。

「愛に歩く…そのまんまだな。」
「え?そ、そうですか?」
「勢いよすぎて突っ込んでるような気もするが」
「で、ですよね…」
 その勢いと酔いに任せてで、夕さんの背中にどーん!と再び抱きついちゃだめだろうか。いや、ここはこのとんでもない特等席の胸に飛び込んでもいいはずだ。だって私は、夕さんの、恋人になったんだから。

 にやーとにやけきった顔で妄想しまくっていた私の耳に、いつもより1オクターブ低い落ち着いた声が響いた。

「ようやく一歩だな。」
「え?」

 妄想していたせいで緩んでしまっていた顔のまま夕さんを見上げる。隣に立って、繋いだ手から体温を分けてくれている夕さんが、湖の時のようなお色気マックスな状態でとろりと微笑んでいた。

「あゆみ」

「ひゃ、ひゃい」

 こんな裏返った声でも、返事が出来ただけ褒めてほしいところである。今の私は尻尾を振るのもお座りするのも忘れて、目の前で私に微笑みかけてくれる光り輝く大好物に、よろけずにしっかりと見つめ返すだけで精いっぱいだったからだ。

 夕さんの美しい顔がゆっくりと近づいてきた。寸分も動けない私は微動だに出来ずに固まっていた。


「今度は、二人でゆっくり歩いて行こう。お前が逃げなくなったら、大切に抱くから。」

 冬の寒さに冷え切った私の耳朶に、夕さんの熱い吐息が触れた。

 掠れた小声は、色気が漏れ出しているんじゃないだろうかと思うほどで、私はついに立っていられずに崩れ落ちそうになった。そんな私を、夕さんが驚きつつも支えてくれる。しっかりと繋いでいた手を引き、夕さんが腰に手をまわして立たせてくれてた。
 余りの色気に、酔っぱらいのバカな駄犬の思考回路はついていかなかった。どさくさに紛れて凭れ掛かっている夕さんの胸の匂いを嗅ぎながら、私はぐるぐるぐるぐると考え事に必死だった。


 本当は、不安だった。

 こんな私を本当に好きになってくれているのか。本当は面倒くさいって思ってるんじゃないのか。今思ってなくても、今まで付き合っていた人たちのようにきっとすぐ飽きられるんじゃないか。嫌われるんじゃないか。そんな不安から出た言葉を、夕さんはしっかりとわかってくれていたのだろうか。

 心配だから形に残したい、体ででもいいから繋ぎとめておきたいと思っていたことが、ばれていたのだろうか。

 今までの男たちは、えっちしてる間だけは私のことを求めてくれた。面倒くさがられても、えっちだけは喜んでくれた。だから、手っ取り早く夕さんを喜ばせたかった。好きでいてほしかった。こんな何も持っていない私が、夕さんに出来る事なんてたかが知れてるから、最初から全力でしがみついていたかった。

 だけど夕さんは、ゆっくりでいいと、言ってくれた。
 体からじゃなくていいって。逃げた私に、逃げるなと、言ってくれた。
 大切にしてくれると。

 溢れる涙に気付いた夕さんが、大きな手で頭を撫でてくれた。しがみついている夕さんのYシャツは皺と涙と鼻水だらけになってしまうかもしれない。あぁ、最初にお兄さんBに会った時も、スカーフを駄目にしたんだっけ。あの頃から、夕さんは私の体も、心も、ずっと守ろうとしてくれていた。

「夕さん、夕さん夕さん夕さん、だぁいすき。」
「わかったから。」

 砕けた腰は未だ戻りそうにない。それをいいことに、私はしばらくの間夕さんの温もりと匂いを満喫していた。



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