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それから、これから

3話

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「明日は弁当は無しだ。お前が作ってこい。いいな」
 そう言って立ち去った無情な恋人の背中を、私は半ば呆然と見送った。

 夕さんにお弁当を作ってもらい始めて一週間が過ぎていた。
 まさかあれから毎日作ってくれるなんて夢にも思ってもいなかったのに、夕さんは次の日もさも当たり前のようにお弁当を差し出してくれたのだ。平伏しながら受け取った私は、きっと多分絶対寸分も悪くない。私は、毎日差し出されるお弁当にガッツリ餌付けされていた。

 幕の内のように色とりどりの日、チキンライスのおにぎりがメインの可愛らしいの日、昨日の夕食の残りだという唐揚げの日。
 私は毎朝夕さんよりも先に夕さんの右手に抱えられているお弁当袋に目が行くようになっていた。今日は何だろう。何を食べさせてくれるんだろう。どんな愛をくれるんだろう。
 押さえきれない興奮が、愛歩の時にも出てしまっていないか心配する余裕もなくなってしまうほど、私はお弁当に夢中だった。

 そんな私に放たれた、彼の去り際の言葉。

 その日一日、あまりにも信じられない言葉に何度仕事の手が止まったかわからない。とぼとぼと帰り着いた家でも、ぼんやりと過ごした。何も考えられない中、わかったこと。それは―――

 明日は、あのごはんが食べられない。

 私は冷たいフローリングにべたりと倒れ込んだ。もう今日はお風呂にも入りたくない。ふき取りシートでざっと化粧を落とすだけで―――いいわけがない。私は今、夕さんとお付き合いしているのだ。最大限の努力を持って、夕さんの前に立たなければいけない。それはわかっているのに、まさかの言葉に、どうしてもやる気が出なかった。

 ごはんが、おべんとうが。ゆうさんの、あいが。

 ナメクジが這う方がよほど早いようなスピードで台所に辿り着いた私は、冷蔵庫を開けて一気にビールを流し込む。二本三本と適当なつまみで流し込んだビールは体にやさしく麻痺をくれる。そして絶望のまま欲望に従ってゆるやかに目を閉じた。今はもう、何も考えたくない。



 ―――そしてあまりの寒さに目が覚めたのは、体がカチンコチンに凍りきってしまった夜中の二時のことだった。
 慌てて暖房をつけてお風呂場に駆け込み、シャワーを高温で流しながら蒸気で浴室を温める。かじかむ手で苦戦しながらもストッキングを脱ぎ終わると、少しだけ湯の溜まった浴室に飛び込んだ。寒かった。氷漬けになるかと思った。ゆったりと体を温めてシャワーから出ると、温かくなったリビングで私は逃避していた現実に捕まった。

 明日、お弁当を作らなくちゃいけない。

 慌てて時計を見る。時刻は既に、三時をまわっていた。この時間ではスーパーは開いていない。近所のコンビニに売っているお弁当の具を、弁当箱に詰め込むだけではお弁当を作ったといってはいけないだろう。
 夕さんが、毎朝丹精込めて作ってくれていたお弁当を、私がそんな形で裏切るわけにはいかなかった。
 冷蔵庫の中を見る。いつもあるはずの卵も納豆もキャベツも、ものの見事に何もなかった。そうだ今日、帰りがけに買ってこようと思ってて…あまりのことに手で顔を覆った。

 冷凍庫の中にあるのは、前にノリで作った時に大量に包みすぎて余っていた、餃子が数個。

 私は、腹をくくった。



***



「おはよう」
「おはよう…ございます…」
 私はお弁当袋を抱え込みながら、朝いつものように夕さんに挨拶をした。
 いつものようにというには少しばかり、いや多大に元気がなかったかもしれない。そんな私を見て、夕さんは呆れかえった顔をしている。
 私が抱きかかえているのは、一人暮らしを始めてすぐに買ったまま放置してあったお弁当袋だ。
 最初の数回のみ面白半分でやってみたが、毎日お弁当を作っていくなんて、やっぱりこんなズボラ代表の私には到底無理なことで…。
 この餃子だって、テレビであんまり美味しそうにグッティ裕三が作っているから真似しただけというお粗末なものであった。
 そしてお弁当の中身は、ご飯の上に餃子。餃子を詰め込んだだけの、餃子弁当であった。格好良く言うなら、ギョウザオンザライスだ。別に格好良くなかった。
 配色も栄養バランスも何も考慮されていない、まさに最低次元の弁当だと言えよう。更に言うなら、酢醤油すらかけていない。あんに塩コショウを入れ過ぎたのだ。

 正直なことを言おう。私はこの弁当が、変なことを知っている。やらかしているのだ。入社すぐに。
 お母さんが昔作ってくれていた、色とりどりのお弁当。
 あれは主婦生活20年も費やした猛者だからこそのクオリティだと信じて疑っていなかった。
 つまり一人暮らし一年生のお弁当初心者の私は、例えお弁当の具が、昨日の夕飯の残りの鯖の味噌煮オンリーでも許されるのだと。私はなんの根拠もないくせにそう信じ込んでいたのだ。

 そしてやらかした。
 私は盛大に、やらかした。

 当時必死に職場に慣れようとしていた私は、お昼休憩に誘いに来てくれた同期の女の子に連れられて給湯室の隣にある休憩室でお昼を取ることになっていた。

 皆コンビニ弁当やパンの袋を取り出す中、お弁当袋をぶら下げた私は大層目立った。いつの間にか集まっていた男の子たちも『へぇ、井上料理できるんだ意外だな』なんて言いつつ、品定めするような目で私とお弁当を交互に見比べていた。
 『大したことないよー』なんて、今ならどの口が言った?!えぇ?!どの口が!この口か!とひょっとこにでもしたいレベルである。
 その後、何の気構えもなく弁当の蓋を開けた私の身に何が起こったか―――あえて私は記憶を閉ざした。その後の飲み会での私のポジションを思い出せば、早々に答えに辿り着くはずである。

 それ以来封印していたお弁当袋の中身を夕さんの透視能力で見破られぬよう、私は必死に抱え込んでいた。その私を、レッサーパンダが逆立ちしながらマネキュアを塗っているのを見るような目で夕さんが見つめている。

「作ってきたんだな」
 私の全身を見て、何が面白いのか表情を緩めて笑う。ちくしょう、そんなピンク笑顔向けられたって、わたしゃあ、わたしゃあ…!負けたりしないんですからねぇ!!

「一応作ってきましたけどぉ…」
「見せてくれないのか?」
「無理です。」
 間髪入れない否定の言葉に、夕さんが片眉を上げた。

「品性を疑われます!」
「品性を疑われるような弁当…?」

 夕さんは心底理解できないのか、珍しく引き気味に私の弁当を見つめた。弁当袋を抱えて一歩も譲らぬ私に、夕さんは奥の手とばかりに自分の鞄から何かを取り出す。

「愛歩」
 その声に、ハッと顔を上げる。夕さんの手に持っている物体を見つめ、戦慄く口を押えた。

「そ、それは…」
「ここに、弁当がある」

 なんて、なんて卑怯な!こんな、子供を人質に取る悪役並にひどい人間を現代日本で見たことがない!私は今すぐにでも電車の床に両手を打ち付けて泣き崩れたい衝動と必死に戦った。ここはゲームの世界でもないし、ましてや夕さんの目前だ。そんなことできるはずがない。
 私は悲鳴を飲み込んで、少し上にある夕さんの顔を睨み付ける。

「ゆうさんの、いけずぅ…」
「わかったから。ほら。」
 そう言って手を差し出す夕さんに、昨日のお弁当箱と合わせて自分のお弁当袋も差し出した。本当にいやなのに、とずっと呟いている私の横で、なぜかいつもより機嫌がいい夕さんが電車に揺られていた。



***


 その日の夜。いつも通りネットゲームを付けようとした時に携帯が鳴った。ディスプレイには見慣れた文字が並んでいて、慌てて私は通話ボタンを押した。

「もしもし」
『今平気だったか?』
「はい、お疲れ様です。今帰り道ですか?」
 夕さんの声の後ろからかすかに聞こえるクラクションに、そう問えば肯定の返事をもらう。

『弁当、ありがとうな』
 半ば無理やり奪っていったというのに、このセリフ。ひどい男だ。まるで私が夕さんの為にあんなお粗末なお弁当をこしらえたようではないか。

「やめてください…!本当にお粗末なものを目に入れてしまって、そして食べさせてしまって…!」
『独創的だった』
「それ一番最悪な料理の褒め言葉じゃないですか!」
『まさか餃子一色とは思ってなかった。』
「わぁあ…」
 携帯を手にしたまま、最近覚えた顔文字のorzのように床に蹲る。そんな私に、夕さんが携帯の向こう側で笑う。

『お前らしかったよ』
 そんな言葉一つで、コロッと騙される。私は夕さんが恐ろしくて堪らない。

『餃子は手作りだったろ?』
「随分前に、冷凍したのを。朝焼いただけです…」
『美味かったよ』
 あぁ今すぐ会いたいな。そんなことを思っても、私からそんな生意気なこと言い出せるはずがない。私は胸が詰まって、言葉が出なくて、少しだけ沈黙する。

『…行きたいところ、決まったか?』
 夕さんの唐突な言葉に首を傾げそうになって、止める。前に言っていた、デートの話だ。
 私と夕さんがデートなんて、何をとち狂ってるんだなんていまだに思えてしまうけれど、私たちはそうだお付き合いしているんだったと思い出す。そしてこの数日間色々考えても決まらなかったのに、ふと今思いついたプランを恐る恐る切り出した。

「あの、夕さんの部屋がいいです」
『いつもと同じだけどいいのか?』
「えっと、あの。もしお手数でなければ…」
 そこで言葉を切った私に、夕さんは不審げに声をかけてくる。
「どうした?」
「お、お弁当のおかず…を、教えてもらいたいなぁ…って…。満足してもらうのは無理でも、そのー…ちょこっとでも、腹の足しになれば…みたいな…?!」
 黙りこくってしまった夕さんに、慌てて付け足す。

「も、もちろん教えてもらうばかりじゃなくって自分でも調べたり、練習したり」

『愛歩』
「ひゃ、ひゃい」
『なにがいい?なんでも教えてやる』

 やめて。夕さんの卵焼き程とろける声で、言わないで。

 なぜか急に甘い声になった夕さんにドギマギして仕方ない。
 じんと熱を持った体を誤魔化すように、私は必死に頭を回転させた。

「ひ、ひじきの煮物が、美味しかったです」
『そうか』
「に、にたまご、も」
『あぁ』
「あとは、えっと、えっとですね」

 あぁ、と耳に伝わる夕さんの声に、私はほぼ半泣き状態のまま夕さんに作ってもらったご飯を延々と告げていた。



***



 次のデートは今週の土曜日になった。
 稀に、仕事帰りに時間が合えばご飯に出かけることもあるが、基本的には週末にしかデートをしないので当然の成り行きだった。
 付き合い始めとは思えないほど淡泊に思えるのは、今までの男達の寄生度が激しかったからかもしれない。友達の紹介やメール友達から昇格した恋人たちは、基本的に付き合うと同時に同棲と言うか勝手に住み着き始めた。気付けばいつの間にか部屋に彼のものが溢れかえっていて、別れる度にほんの数か月の付き合いだというのにゴミ袋いっぱいに詰め込まなければいけないほどの大荷物になっていることもしばしばだった。

 スケジュール帳を見つめながら、コロンとベッドの上に転がる。土曜日の位置に描いてあるハートマークを指で辿る。

 私と夕さんは、未だ清い仲であった。
 お付き合いを初めて約三週間。手は繋いだ。ほぼ毎日会っている。お弁当も作り合った。キスもした。だけどまだ、私は夕さんに何の奉仕もさせてもらえていない。

 真面目で誠実な夕さんと付き合っていくにつれ、自分の感覚に自信がなくなってきたので親友に相談を持ち掛けた。
 私の今までの性生活を掻い摘んで話したら、そもそもあまり表情に乏しくない親友は常よりも一層真顔になった。
 『とりあえず、ビッチ野郎繋がりは消せ。今すぐメモリから消せ。記憶からも消せ。』と三重のダメ出しまで食らう始末。『せっかくできた友達が減っちゃう!』と嘆く私に『んなの友達って言うな馬鹿者!』といつもよりだいぶ本気で耳を引っ張られた。

 今まで自分の交友関係に疑問を持っていなかったのだが、私は最近、なんとなくわかりだした。すぐに呆れられて、上手くいかなかった交友関係。だから手あたり次第に手を伸ばした。受け入れてくれる人は、誰でもしがみ付いた。だけど、それじゃいけなかったんだ。きっと。

 それは、私がいつも、軽んじられる関係でしかなかったのだ。

 もう連絡を取っていなかった人も含めて、親友に見守られながら潔く消していった。およそ1/4になったメモリは薄っぺらくて、だけど全員私を嗤ったりしない人たちが残った。

 こうして自分を大事にしてくれている人たちと接していくとやっぱりああいう関係は不自然だったんだなと気付かされた。
 夕さんに始まり、親友や椋さん、ニケさん、お猫様に蘭さん。彼らは皆、私を対等として扱ってくれる。根本から、物のように、便利な道具のように扱ったりしない。

 付き合ったその日にキスにエッチがセットでついてきて、モックセットより安く私の上と下の口は美味しくいただかれた。お店に行ってこんにゃくマシーンを買ってくるよりも簡単で、掃除もメンテナンスも必要ない便利な存在。我ながら、畜生以下みたいな恋愛をしてきた。だけどしょうがない、それが私のレベルなのだ。身の丈なのだ。今がだいぶ、おかしいだけ。

 カレンダーの余白を見る。3月まであるスケジュール帳の今後は、仕事以外の予定はほぼ真っ白だった。夕さんとは毎日会っているから、先の話まで、わざわざ予定を詰めない。
 その真っ白さが、二人の今後を安直にさしているような気がして笑いがこぼれる。

 彼はどう見ても、こんな私には上等すぎる。

 付き合って三週間。ともすれば、今までの恋人たちであれば別れを切り出されているような期間である。そんなにも長い期間、体を求められなかったことは今までの過去4回にのぼるお付き合いの中で、ただの一度すらなかった。

 夕さんの優しさだとは知りながら、そういう関係になれない事に私は日々危機感を募らせていた。
 夕さんは、逃げ出さなくなるまで待ってくれると言っていた。だけど私は、逃げているつもりはない。夕さんとは真正面から向き合っているつもりだし、好かれるように努力もしているつもりだ。そういう雰囲気になった時に、私から迫ることだってある。それほど追いかけていて、食指が伸びないのなら。それはもう、私じゃダメだったということなんじゃ、ないだろうか。

 夕さんは私に情けをくれたけれど。
 それはもしかして、弟分に向ける愛情を履き違えただけなんじゃないかなんて。

 もしかしたらもう、私の馬鹿さ加減に心底呆れ返っているから、深い関係になるのを避けているんじゃないかって。別れるときに、面倒なことになるからって。

 夕さんが大切にしてくれているって、わかっているのに。ふとした時に乾いた心に入り込む隙間風のように、私を苛む。
 愛情はまだ、そこにあるはず。
 向けてくれる笑顔から、かけられる言葉から、支えられる体温から。滲むそれを思い出し、私は布団の上でぎゅうと体を丸めた。

 付き合っているはずなのに。誠意をもらったはずなのに。大切にされているはずなのに。
 どうしてこんなに、自信が持てないんだろう。

 大丈夫。まだ、まだ私と彼は、恋人だ。






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