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 昨日の出来事は夢だったんじゃないだろうか。
 婚活パーティーの夜にあった、めまぐるしい出来事を反芻しながら、麻由はいつも通り福丸屋に出勤してきた。
 気を引き締めて仕事をしなければと思うのに、気を抜くとすぐに昨夜の出来事に思いをはせてしまう。
 お腹の奥はまだ重いような鈍い痛みが微かにあったが、それすらも幸せの証のように感じられた。
「塚原先輩、なんだか今日はいつにも増して真面目な顔をしてますね」
「え、そ、そう?」
 話しかけてきたエリナが麻由の手元のパソコン画面を指さす。
「さっきからずっと売り上げ見てますもん。分析してたんですよね?」
 キラキラと目を輝かせ、期待のまなざしで見られてしまい、居心地が悪くなって曖昧に笑った。
(なんだかだましているみたい)
 自分が、表情に内面が出ないことは理解している。内心焦ったり、落ち込んでいたりしてもそうと気づかれないことがほとんどだ。
 ポーカーフェイスと生まれ持った派手な顔立ちで、クールな印象を持たれることも多かった。
 デパートで仕事をし、特に部門長という責任のある仕事を任されるようになってからは、冷静で頼りがいがある風に見られるので便利だと思っていたが、女性としてはかわいげのなさにつながるのだろうと気にしてもいた。
(でも、隼人さんは昨日かわいいって)
 興奮しうわずった声でそう言われたことを思い出すと、もうコンプレックスなんてどこかに行ってしまいそうだった。
 あんな素敵な人とまさかお付き合いすることになるなんて。数字の並ぶ画面に視線を落としながら、頭の中はすぐにそのことで一杯になってしまう。
 けれど少しくらい浮かれたってしょうがないと言い訳してみる。企画書はボツになるし、恋人はできないし、停滞気味だった生活にやっと明るい出来事が訪れたのだ。
「あ、営業部の人だ。うわ、めっちゃイケメン。――お疲れ様でーす」
 エリナの声にはっとして顔を上げた。挨拶しているのは売り場に入ってきた人影に対してだ。
 それが誰か確認する前に、麻由もつられて挨拶する。
「お疲れ様です」
「やあ」
 まっすぐこちらへ向かってきたのは隼人だった。明らかに麻由を訪ねてきたことを察してエリナがさっと離れて売り場の陳列を整えに行ってくれたのがありがたかった。
 ポーカーフェイスの自覚がある麻由でも、目の前に恋人が現れてはさすがに頬がゆるみそうになる。それを自覚して慌てて唇を引き結んだ。これできっといつも通りの冷静な表情を保てているはずだ。
(でも、そっか。同じ店内で働いているんだもん。こういう風に会ったりすることもできるんだよね)
 内心嬉しい気持ちで満たされていくものの、他の人にはしゃぐ姿を見られるわけにもいかない。
「どうも……」
 昨夜のことにどれだけ踏み込んで話していいのかわからず、結局口から出たのは愛想のない挨拶だけだった。
 我ながらかわいくない、と自己嫌悪に陥っていると隼人がおかしそうに肩を揺らした。
「ずいぶん素っ気ないな。迷惑だったか?」
「ちが……!」
「冗談だ」
 自然な動きで隼人が耳元に口を寄せる。
「かわいい顔をするのは二人きりの時だけでいい」
 ささやかれた言葉に、麻由の白い頬は一気に赤みを帯びる。
「他のやつには見せるのがもったいないからな」
 からりと明るい調子で言われると、きっともし周りの人に聞こえていたとしても、これが甘い睦言だとは気付かれないだろう。
(なんかずっと翻弄されてる……!)
 熱い頬を押さえながら麻由は思う。隼人のペースに飲まれているのに、でもそれがいやじゃない。
「あ、あの、なにかご用で……?」
「いや、仕事中に悪いな。至極私的な用事なんだが」
 そこまで言うと隼人はまた声の調子を落とした。
「今日の夜、食事にでも行かないか」
 予期していなかったお誘いに、麻由はここが職場であることを一瞬忘れて顔を輝かせた。
「ぜ、是非っ」
「塚原くーん、入荷する商品の品番なんだが……」
 麻由が有頂天になっていると、フロア長が書類を手にバックヤードから出てくる。三階にはフルールの他にも女性向けのアパレルブランドやアクセサリーブランドが入っている。その全体を管理するのがフロア長の役目だ。五〇代半ばの男性フロア長は聞きなじみのない横文字ブランドがずらりと印刷された書類を老眼鏡越しに気難しい顔で見ている。
 手元から麻由の方に視線を上げたフロア長は驚いた顔で姿勢を正した。
「やっ、これは……お疲れ様です。空閑MD」
 麻由の頭には疑問符が浮かぶ。自分の憎き空閑MDの名がどうして今出てくるんだろう。なぜフロア長は隼人にそんなことを言うのだろうか。
 店頭に出ていたエリナがフロア長の言葉を聞きつけて「MD!?」と素っ頓狂な声を上げると一目散にこちらへ駆け寄ってくる。
「あなただったんですねっ! はじめまして、空閑マーチャンダイザー!」
 勢い込んで現れたエリナに隼人は困ったように笑った。
「練習したのか? MDでいい。すみませんね、本部の意向で覚えにくい肩書きを」
 エリナだけでなくフロア長にも断りを入れる隼人に、エリナは「やさしーい」とぽーっとして見つめていた。
 麻由は頭の中が真っ白になる。
(MDって、空閑って、それは私の企画書をボツにしたひどい人で)
 理解したくないのに、脳の中ではパズルのピースがはまっていってしまう。
(隼人さんは昨日出会った人で、福丸屋の企画営業部の人で、私はこの人と付き合うことになって)
 では隼人の名字は? 
 見るな、と思う前に目に入ってしまった。隼人の胸にある名札が。福丸屋のロゴが入ったプラスチックのプレートには、企画営業部の証である金色のライン。そして書かれている名前は――空閑。
 つまり目の前にいるのは空閑隼人。目の敵にしていたMDと、自分が抱かれ、付き合うことになったのは同じ人物だった。
 麻由はその場に倒れ込みそうになって、慌ててレジカウンターにつかまる。
「では塚原さん、約束の件、たのみますね」
 ビジネスライクな調子で言い、麻由にだけわかるようににやりと笑うと隼人は売り場を去って行った。
 

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