腹黒御曹司との交際前交渉からはじまるエトセトラ

真波トウカ

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「いいんです。逆にやる気が出ました。営業部の人に納得いかないと思われたまま責任者になったって、うまくいくわけないですから」
「頼もしいな」
 隼人は笑うと、麻由の隣の椅子に腰掛けた。
 言った言葉は強がりなんかじゃない。それに、なにを作ればいいのかわからないまま新しい企画書を作ろうとして残業していた時と違って、今は明確な目標がある。前向きな気持ちで取り組める分、やりがいがあった。
 画面と資料を交互に見て文字を打ち込んでいると、隼人の視線を感じる。
「あの……帰らないんですか?」
「ここ、文章をもっと短くしたほうがいいな。言いたいことは話す原稿に入れ込んで、スライドの文は簡潔に」
「あ、はい」
「あとこっちは表をいれたほうがいい」
「表……ですか」
「前年度の数字を持ってくれば簡単に作れる。ほら」
 隼人が画面を操作すると、簡単に表が埋め込まれ、スライドが見栄えするようになった。
「営業会議に君を引っ張り出した責任を多少感じていたんだが……邪魔だったか?」
「いえ、そんな」
 隼人のアドバイスは的確だった。正直、本を読んで進めるよりよほど助かる。
「隼人さん……なんであのとき私に責任者を任せるって言ってくれたんですか。正直、営業部の人の言うこともわかります。私、企画の方面は素人ですから。なにも知らない人に任せるのって不安じゃないんですか?」
「仕事なんてやる気のあるやつがやったほうがいいに決まってる」
「そりゃあ、まあ……」
「麻由はこのデパートが好きだろう」
「それは、もちろんです」
 麻由が仕事について誇れることがあるとしたら真っ先に思い浮かべるのが、自分は福丸屋がとても好きだということだった。
 けれどそんなのは従業員なら当たり前のことではないかと思う。
「隼人さんだってそうですよね」
 常識として聞いたつもりだったが、隼人は曖昧に笑うだけだった。
 その表情にまさか隼人は福丸屋が嫌いなのだろうかと思う。
 本部で新しい部門を立ち上げて売り上げを伸ばしているような人物が、その仕事を嫌っているなんて。麻由にはとうてい信じられないが、いつも余裕たっぷりの隼人の表情が少し曇ったのが気になった。
 それは深く聞いてもいいことなのだろうか。
 自分たちは恋人同士だが、心がつながっている訳じゃない。隼人だってそのことはわかっているはずだ。それなのに深い話をしてもいいのか、麻由にはわからなかった。
「ここで人材を育てることは、自分の本部行きにつながるからな。期待してるよ」
 隼人は本部からこの東京店に来たばかりだが、どうやらそれは本意の人事ではなかったらしい。
(もう戻りたいんだな、隼人さん)
 確かに本部の業務の方が経営に直接関われる。MBAを取得したという隼人なら、本来やりたかったのはそちらの仕事なのかもしれない。けれど、現場の仕事だって楽しいことがあるはずだ。やりがいだって。
(東京店のこと、好きになってくれたらいいのに)
 ほんの少しだけ、さみしいという感情が麻由の心にわき上がった。


 
 麻由の企画が今度の催事で採用されるらしいとの噂は一気に広まった。
 エリナだけでなく、他の後輩や同期もそれを応援してくれて、こそばゆいと感じながらも嬉しかった。
 同期の星、だなんて言われていたことも、以前はプレッシャーに感じていたが、今はちょっとだけ素直に喜べるようになっていた。
 麻由が売り場に立たなくても、成り立つように仕事をカバーしてくれているのも助かっている。
 プレゼンで使う資料も隼人のアドバイスのおかげでいいものになってきた。
 バックヤードで資料を見直しながら、麻由はこれならいけると大きくうなずいた。
 そのとき、胸ポケットに入れていたPHSが震えた。社内用の、内線のかわりに持っているものだ。番号を見ると、麻由の担当する部門である『フルール』の番号だった。
「はい、塚原です」
『先輩、助けてください~』
 出てみると、半べそのエリナの声が聞こえる。ただならない様子に慌ててPHSを握りしめた。
「どうしたの!?」
『それが……あっ、お客様困ります~』
 そのまま通話はぶつりと切れた。
 エリナの様子にただならないものを感じて、麻由の心の中はざわりと波立つ。
 とにかく早く売り場に戻らないといけない。
 麻由は慌てて、表へ通じる扉を開けた。
 いつも通りの明るいBGMが控えめにかかっているが、パステルカラーの売り場にはぴりっと張り詰めた空気が漂っていた。
「あの、お客様、困るんです。商品を返していただけますか」
「ああっ!? 俺は客だぞ!」
 トラブルの元はすぐにわかった。客たちの視線がそちらへ集中しているからだ。大きな声を出す男性客を若い女性たちが遠巻きに眺めていた。
 声の主はこの売り場には珍しい五〇代くらい男性だ。ふらついた足取りで、顔が真っ赤だった。どう見ても泥酔している。
 その隣に、なだめようと必死なエリナがいた。男が持っているのは猫の形をしたポーチで、どう見ても購入する様子ではなく、いたずらに宙へ放ってもてあそんでいる。
 エリナがたしなめるほどに、男性は増長して、今度は売り場のタオルハンカチを床に投げ捨て始めた。
 麻由は深呼吸すると、トラブルの源に近づいていった。
「お客様、よろしいですか?」
「ああっ、なんだあ!?」
 近距離での大声にびくりとなりかけるが、なんとかひるんだところを表に出さないように自分を叱りつけた。
 エリナには下がっているよう目で合図を送る。
「失礼ですが、お体の具合がよろしくないのでは? よろしければ裏で休んでいかれませんか?」
 理由はなんでもいいが、とにかくこの客を表の売り場からどいてもらわないといけない。そうしないと他の客が落ち着いて買い物することができないからだ。
 なるべく下手に出たつもりだったが、それがまずかったのか男はさらにつけあがる。
「なんだあ、俺がいちゃあ迷惑だってか!」
「いえ、そういうわけでは……」
「いい気になりやがってよお」
 ぐいっ、と強い力で二の腕をひかれ、男がポーチを持っていた手を振り上げる。
 殴られる。直感して、体が恐怖に硬直する。
 肩をすくめて目をつぶっているが、いつまでたっても予測した衝撃を受けることはなかった。
 恐る恐る目を開けると、麻由の眼前には高級な背広に包まれた背中がある。
「お客様、当店の従業員が失礼いたしました。なにをお探しですか? よければわたくしがお伺いいたします」
「いでででで」
 男と麻由の間に立ちはだかったのは隼人だった。
 優雅な口調とは裏腹に、振り上げられた男の拳をつかむ隼人の手には相当な力が込められている。
「お客様のお召し物でしたら上のフロアですね。ご案内いたします」
 隼人は周りをさっと見回すと、客に紛れて遠巻きにこちらを見ていたフロア長に目配せした。
「ご案内をたのみます」
「は、はいっ」
 フロア長に男を引き渡すと、他の男性社員も協力して男をバックヤードへと連れて行った。
「失礼いたしました」
 物々しい雰囲気にこわごわとこちらを眺めていた女性客たちへと隼人が笑って一礼する。
 その優雅な所作に、さっきまで顔をこわばらせていた女性たちがきゃあっと色めき立った。それを合図に、売り場にいつもの明るいざわめきが戻ってくる。
 麻由はその一連の出来事を呆然と眺めていた。

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