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しおりを挟む隼人の部屋は高層マンションの最上階に位置する。そこからの眺めは絶景で、けれどどこかさみしい感じがするのはどうしてだろう。
部屋のインテリアがシンプルで飾り気が少ないからだろうか。それとも一人暮らしにはあまりに大きすぎる家だから?
人の生活する証である家々の明かりとここが離れていることがありありとわかってしまうからだろうか。麻由は窓から夜景を見下ろした。
「ん……」
ベッドで寝ていた隼人が身じろぎし、目をしばたかせた。
傍らにいる麻由に焦点が合うと驚いて起き上がる。
「気がつきましたか。良かった」
「なんで麻由がここに」
「ご、ごめんなさい。住所わからなかったので、勝手に免許証見ました」
「君が運んでくれたのか」
「あ、安心してください。部屋にはコンシェルジュの人と一緒に入りました。お部屋の中とかどこも触ってないですから」
ホテルで従業員たちに手伝ってもらって隼人をタクシーに乗せたあと、マンションまでたどり着いたのはいいものの、ここからどうしようかと頭を悩ませていた麻由に救いの手を差し伸べてくれたのがコンシェルジュの男性だった。
マンションのロビーですぐに隼人だと気づいてくれ、部屋まで一緒に運んでくれたのだった。
「帰ったほうがいいのかなって思ったんですけど、容態が急に悪くなるかもって……。ごめんなさい、長居してしまって」
「いや、助かった。ありがとう」
麻由は隼人の顔色がだいぶ良くなっているのを見てほっと安心する。
「良かった。具合良くなってきたみたいで。ホテルのお医者様は疲労と睡眠不足だろうって言ってたんですけど、もっと別の病気だったらどうしようかと思いました」
「世話をかけたな」
「いえ、そんな……あ、おかゆ作ったんですけど食べますか? 風邪じゃないならもっと精のつくものにしたほうが良かったかな……」
「おかゆ?」
「あっ、ごめんなさい。お部屋勝手に触ってないって言いましたけど、台所だけ借りちゃったんです」
台所はあまり使っていないのかきれいなままで、汚してしまうことに気が引けたが、それでも起きたときになにか食べた方がいいだろうと思ったのだった。
「麻由の手料理か。嬉しいな」
「た、たいしたものでは……」
卵の入ったおかゆを用意すると、隼人は冷ましながら食べ始める。
食欲はありそうだと、ほっと胸をなで下ろした。
「麻由、なにか話してくれないか? 静かな中で食べるのが苦手なんだ」
「は、話ですか? 面白いことなんて言えませんけど……」
「デパートに就職しようと思ったのは東京に出てきてからか? 君の出身地にはデパートがないだろう。こっちに来たのは大学からだったか」
「なっ……履歴書見ましたか!?」
隼人がにやりと笑う。それを肯定だと受け取った。
「職権濫用です!」
「麻由のことならなんでも知りたかったんだよ」
「調子のいいことを……」
じとりとにらんで見せるが、本気でいやな訳ではなかった。
ただただ恥ずかしいのだ。あの、思いの丈をぶつけた履歴書が。
「逆、ですよ。福丸屋で働きたかったから東京に出てきたんです。小さいときに連れて行ってもらったデパートはキラキラしていて遊園地なんかよりずっと楽しかった」
「へえ」
「私、あんまり地元の子と価値観合わなくて……って、別に面白くないですねこんな話」
「いや、聞きたい。価値観ってなんだ? 将来の話か?」
「じゃなくて、恋愛観というか」
ちらりと隼人の顔を見るとなにやら険しい顔をしている。
「あの、やっぱりやめます? この話」
「ん?」
「すごくつまらなそうなので、申し訳なく……」
「ああ、いや。自分にとってどんな不愉快な話が出てきても甘んじて受け入れようという顔だ。続けてくれ」
「は、はあ」
隼人の難しい顔につられてなんとなく座り直した。厳しい視線がざくざくと突き刺さって、なんだか面接みたいだなと思う。
「地元は本当に周りを田んぼに囲まれたようなところで。他に娯楽がないこともあってか、周りはみんな恋愛一色でした。私にも告白してくれる人はいたんですが、なんというかその……ちゃらいといいますか」
麻由の話を隼人は黙って聞いている。
相づちはないが、視線だけは相変わらず自分に注がれていて、つまらない話だろうがそれなりに集中して聞いてくれているのだなあと麻由は思った。
「でも友達が言うんです。お試しで付き合ってみればいいじゃんって。でも私はいやで。どこかに、心の底から好きな人と結ばれる素敵な恋愛があるんじゃないかって。と、言っているうちに恋愛のれの字もないままここまで来てしまい……」
だんだん言っていてむなしくなってくる。
恋愛観の話と言っておいて、全く恋愛の話をしていないじゃないかと自分に突っ込みたかった。
「それでおかしな行動を取ったのは隼人さんもご存じだと思いますが」
捨て鉢になってそう言うと、不意を突かれたのか隼人が吹き出した。
「そうだった。いや、すまない。でも、そうか。くくっ」
「笑いすぎです! そんなに人の恋愛経験のなさがおかしいですか!?」
「いや、嬉しくて」
不意に伸びてきた手が優しく髪をなでてドキリとする。
「まさか付き合ってたやつもいなかったとはな。地元には君のお眼鏡にかなうやつがいなくて良かったよ。麻由のどんな過去も受け入れようと思っていたけれど、過去の男を憎まない保障はできないから」
「それって……」
「嫉妬深い男は嫌いか?」
「し、知りませんっ」
まっすぐに見つめられて、思わず目を思い切りそらした。
そのまま見つめられていたら、深い闇色の瞳に飲み込まれて、身動きがとれなくなるような、そんな気がした。
「そ、それより、隼人さんのことも話してくださいよ。どんな子供だった、とか」
「俺の話なんてつまらないさ」
「あ、ずるいです! 自分だけ」
「君みたいなかわいらしい話じゃないんだ。きっと聞いたら幻滅する」
隼人の表情は陰りを帯びる。食事を再開する横顔からは触れてほしくないというオーラがでていた。
(幻滅なんか、しないのに)
それでも踏み込めない。自分にその権利がないことはわかっているつもりだ。
おかゆは口に合っていたようで、器はすぐに空になった。
温かいものを食べたからか、隼人の額にはうっすらと汗がにじんでいる。
麻由は自分のハンカチでそっとそれを拭った。
「お水、もっといりますか?」
隼人は答えず、麻由の手に自分の手を重ねる。
「麻由にこうして介抱されるのは二度目だな」
「え?」
「あのときから、ずっと君が欲しかった」
熱はないはずなのに、隼人の瞳は少し潤んで麻由を見つめていた。
「あのときって……」
「覚えてないか。半年くらい前、貧血を起こした俺を気遣ってくれた。――薄い氷の膜に包まれたような君の表情が少しだけ笑顔になったとき、もっと見てみたいと思った。笑った顔も怒った顔も恥ずかしがる顔も、全部」
大きな手がそっと頬に添えられる。
「麻由――」
近づいてきた隼人から顔を背けることはしなかった。
唇に柔らかなものが触れるのを、目を閉じて受け入れた。
角度を変え、何度も優しい口づけが落とされる。
ちゅ、とリップ音を立てて唇が離れ、さみしさを感じていると、次に触れられたときには薄く開かれたところから隼人の舌が入ってきた。
「んぅ……」
くちゅくちゅと水音を立てながら舌を絡め取られる。上顎をじっとりと舐め上げられると頭の中が真っ白でなにも考えられなくなった。
柔らかいものをこすり合わせているうちに二人の境界がなくなって、溶け合っていくようだった。
麻由は自分の咥内を隅々まで味わい尽くそうとする舌の動きに必死についていこうとする。
キスに集中していると、腿を下からなでられる感覚に体がぴくりと震えた。
スカートの布越しに触れられたところが燃えるように熱を帯びていく。その手は少しずつ、シルクの上を麻由の中心に向けて這っていった。その度、頼りなげな薄い生地も一緒にずり上げられていく。
だが、隼人の手も唇もそれきり離れていってしまう。
つながっていた透明な糸がぷつりと切れると、麻由の体の奥で灯りかけていた火がゆるやかに収まっていった。
隼人は乱れていたスカートの裾を手早く直す。
「ここまでにしておこうか。あとは俺が麻由の、結ばれるに値する素敵な人物だと認めてくれるまで待つさ」
「あ……」
心の中にすきま風が吹いたようなさみしさを感じて、麻由は慌てて隼人から視線をそらす。
(私、なに期待なんかして……)
いつのまにかこの先のことも受け入れようとした自分に気づいてしまった。
大嫌いだった空閑MD。それがいつの間にか尊敬に値する人物だとわかって、それから――
一体自分は今、隼人をどう思っているのだろう。
麻由は自分の気持ちの変化についていけず戸惑うばかりだった。
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