26 / 48
第5章 1
しおりを挟むずらりとベッドの並ぶ広々としたひらけた売り場を、麻由は商品棚の影からこっそりとうかがい見る。
福丸屋東京店七階にある寝具部門は、客の出入りが穏やかで、落ち着いた雰囲気だ。その静かな空気も今は恐ろしいものに感じられた。
物陰から偵察している怪しさはともかく、きゅっと唇を結んで前を見据えれば、きっといつも通りの冷静な表情になっているはずだ。麻由は自分に言い聞かせる。
だから、ここの部門長とも対等に渡り合えると。
催事でベッドを使わせてもらいたいと直接打診に来るつもりだったが、ずいぶん機会を逃してしまっていた。
時間がなかったということもあるが、ここに来るのはなかなか勇気のいる行動だったのだ。
隼人から聞いた話によると寝具部門の責任者はセクハラとパワハラ三昧の恐ろしい人物らしい。
(でも、私も部門長だし、立場は一緒のはず。だから毅然とした態度で……あ、でも二人きりになるのは避けた方がいいよね)
対応の仕方に考えを巡らせながら、視線は売り場をさまよう。
ひらけた売り場なので、従業員の顔はよく見えるのだが、目当ての人物はいないようだ。
「なにかご用で?」
安堵していたところに後ろから声をかけられて、麻由はびくりと肩をはねさせる。
振り向くと、五〇代くらいの痩身の男性が立っていた。腕には部門長の証である腕章をつけている。名札には小金井とあった。
目的の人物が急に現れた動揺をなんとか外に出さないようにして、麻由は居住まいを正した。
「お忙しいところすみません。販売部、フルール部門長の塚原です」
「ああ、あなたが」
金子は分厚いめがねの奥でニコニコと笑っている。
「今度の催事、あなたの企画なんでしょう。すごいですねえ、販売部からそんな人が出るなんて」
嫌みを言われるのだろうかと身構えたが、小金井の言葉にそういう意図は感じられなかった。
(今のところただのいい人に見えるけど……)
だが、隼人が気をつけろと注意してくる人物だ。気を抜いたら向こうのペースに持って行かれるかもしれない。
とにかく、本題を話してさっさとここを離れるのが賢いやり方だろう。
「ご報告が遅れて申し訳ありません。こちらを見ていただけますか」
麻由は用意してきた催事の実行計画書を小金井に渡した。
「ご覧の通り、今回の催事にはベッドを置くスペースを設けたいのです。そのために寝具部門さんの手をお借りしたくて」
反発がくるのはわかっている。
この催事で売り上げたところで寝具部門の売り上げになるわけじゃない。それなのに商品と人員を貸し出してくれ、なんて普通に考えても嫌がられるはずだ。
どんな反論をされるか内心ビクビクしながら、書類に目を落とす小金井をうかがい見る。
「ああ、いいですよ」
「え?」
小金井があっさりとそういうものだから、麻由のほうが拍子抜けして気の抜けた声を出してしまった。
「い、いいんですか?」
「ええ。うちがメインの催事も終わって今は落ち着いている時期ですし。ベッドの搬入はモノが大きい分手順にコツがいりますから、うちの人間がいたほうがスムーズでしょう。ただし――」
やはり、すんなり交渉成立とはいかないのか。一体どんな条件を出してくるかと、麻由はごくりとつばを飲み込む。
「ただし、販売員に売り上げの期待をされても困るなあ。なんたってうちの部門は平均年齢が高めですから。若い方向けの催事なんて緊張しちゃうなあ、ははは」
「は、はあ……」
朗らかに笑う小金井はどこからどう見てもとても協力的な人物だった。
思い描いていたものと正反対の対応をされて、頭が混乱してくる。
「ああ、若い子も一人ならいますけどね。彼なんですけど」
小金井が売り場に目を向けたのにならって麻由もそちらを向く。
ベッドとベッドの間に姿勢良く立っているのは、以前鮎川コットンの商品を隠したことで隼人に叱られていた彼だった。
「彼ね、最近大きなミスしちゃって。落ち込んでいるから挽回させてあげたいなあ」
部下のミスは僕のミスでもあるから、と小金井は申し訳なさそうに苦笑した。
(なんか、前評判と全然違う。噂は完全に嘘だったんだ)
セクハラパワハラどころか、他部門に協力的で部下も大事にするとてもいい人ではないか。一体誰がそんな適当な噂を、と麻由は憤慨する。今度そんな噂を信じている人がいたら即刻訂正しないといけない。
「あの、いろいろとこちらに気を配っていただいてありがとうございます。今度の催事ではよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
「ではこちらに確認の印をいただけますか?」
麻由は稟議書を差し出した。ベッドの貸し出しや人員を割くことについて了承したことを意味する書類だ。これに印をもらえれば、正式に寝具部門の協力が決定する。
「ああ、すみませんがこれは押せませんよ」
「え……」
「このフロアの催事責任者の印がほしいんでしょう? それなら僕じゃなくフロア長の印でないと」
麻由の担当売り場がある三階にも、部門の責任者である部門長と、その階全体の部門を統括するフロア長がいる。
確かに書類を見れば必要なのは寝具部門長の印ではなく、七階フロア長の印だった。
直接関係するのは寝具部門だったので、勘違いしていたのだ。
「し、失礼しました。ええと、こちらのフロア長は……」
そういえば四月の人事異動でこの階のフロア長は以前と変わっていたはずだ。
大きな店舗で従業員の数も馬鹿にならないものだから、基本的には皆自分の担当フロアのことしか覚えていない。
「人事ってなかなか覚えられないですよねえ。僕もこの年になるとなかなか人の名前が覚えられなくて。今のうちのフロア長は――」
「隼人さんっ」
長い足で悠然とバックヤードを闊歩する後ろ姿を、麻由は尖った口調で呼び止めた。
「だましましたねっ」
振り向いた隼人は一瞬きょとんとしたあと、ケラケラと笑い出す。
「なんだ? 前にもこんなことを言われた気がするが。珍しいな、君がそんなにぷりぷり怒った顔を職場で見せるなんて」
「茶化さないでください」
「悪いが、本当に思い当たる節がないんだ。どうした?」
「寝具部門の責任者のことですっ」
元々、責任者はパワハラとセクハラ三昧の恐ろしい人物だと麻由に吹き込んだのはこの男だ。そのことになぜもっと早く気がつかなかったのだろうと麻由は歯噛みする。
寝具部門の催事責任者は、隼人本人だった。
隼人は東京店に赴任してきた四月からマーチャンダイザーと七階のフロア長を兼任していたのだ。目新しい肩書きばかりが目立っているが、四月の社内報を確認すると確かにそう書いてあった。
考えてみれば寝具部門に所属している社員を隼人が直接叱りつけている時点で気づくべきだった。
あれは企画営業部としてではなく、フロア長としての説教だったのだ。でないと、さすがに部門を超えて直接注意はしないだろう。
(つまり、また、からかわれた!)
麻由がそんな事情を知らないだろうと思って、わざとおどすようなことを言ったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
溺愛のフリから2年後は。
橘しづき
恋愛
岡部愛理は、ぱっと見クールビューティーな女性だが、中身はビールと漫画、ゲームが大好き。恋愛は昔に何度か失敗してから、もうするつもりはない。
そんな愛理には幼馴染がいる。羽柴湊斗は小学校に上がる前から仲がよく、いまだに二人で飲んだりする仲だ。実は2年前から、湊斗と愛理は付き合っていることになっている。親からの圧力などに耐えられず、酔った勢いでついた嘘だった。
でも2年も経てば、今度は結婚を促される。さて、そろそろ偽装恋人も終わりにしなければ、と愛理は思っているのだが……?
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
財閥御曹司は左遷された彼女を秘めた愛で取り戻す
花里 美佐
恋愛
榊原財閥に勤める香月菜々は日傘専務の秘書をしていた。
専務は御曹司の元上司。
その専務が社内政争に巻き込まれ退任。
菜々は同じ秘書の彼氏にもフラれてしまう。
居場所がなくなった彼女は退職を希望したが
支社への転勤(左遷)を命じられてしまう。
ところが、ようやく落ち着いた彼女の元に
海外にいたはずの御曹司が現れて?!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる