腹黒御曹司との交際前交渉からはじまるエトセトラ

真波トウカ

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第5章 1

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 ずらりとベッドの並ぶ広々としたひらけた売り場を、麻由は商品棚の影からこっそりとうかがい見る。
 福丸屋東京店七階にある寝具部門は、客の出入りが穏やかで、落ち着いた雰囲気だ。その静かな空気も今は恐ろしいものに感じられた。
 物陰から偵察している怪しさはともかく、きゅっと唇を結んで前を見据えれば、きっといつも通りの冷静な表情になっているはずだ。麻由は自分に言い聞かせる。
 だから、ここの部門長とも対等に渡り合えると。
 催事でベッドを使わせてもらいたいと直接打診に来るつもりだったが、ずいぶん機会を逃してしまっていた。
 時間がなかったということもあるが、ここに来るのはなかなか勇気のいる行動だったのだ。
 隼人から聞いた話によると寝具部門の責任者はセクハラとパワハラ三昧の恐ろしい人物らしい。
(でも、私も部門長だし、立場は一緒のはず。だから毅然とした態度で……あ、でも二人きりになるのは避けた方がいいよね)
 対応の仕方に考えを巡らせながら、視線は売り場をさまよう。
 ひらけた売り場なので、従業員の顔はよく見えるのだが、目当ての人物はいないようだ。
「なにかご用で?」
 安堵していたところに後ろから声をかけられて、麻由はびくりと肩をはねさせる。
 振り向くと、五〇代くらいの痩身の男性が立っていた。腕には部門長の証である腕章をつけている。名札には小金井とあった。
 目的の人物が急に現れた動揺をなんとか外に出さないようにして、麻由は居住まいを正した。
「お忙しいところすみません。販売部、フルール部門長の塚原です」
「ああ、あなたが」
 金子は分厚いめがねの奥でニコニコと笑っている。
「今度の催事、あなたの企画なんでしょう。すごいですねえ、販売部からそんな人が出るなんて」
 嫌みを言われるのだろうかと身構えたが、小金井の言葉にそういう意図は感じられなかった。
(今のところただのいい人に見えるけど……)
 だが、隼人が気をつけろと注意してくる人物だ。気を抜いたら向こうのペースに持って行かれるかもしれない。
 とにかく、本題を話してさっさとここを離れるのが賢いやり方だろう。
「ご報告が遅れて申し訳ありません。こちらを見ていただけますか」
 麻由は用意してきた催事の実行計画書を小金井に渡した。
「ご覧の通り、今回の催事にはベッドを置くスペースを設けたいのです。そのために寝具部門さんの手をお借りしたくて」
 反発がくるのはわかっている。
 この催事で売り上げたところで寝具部門の売り上げになるわけじゃない。それなのに商品と人員を貸し出してくれ、なんて普通に考えても嫌がられるはずだ。
 どんな反論をされるか内心ビクビクしながら、書類に目を落とす小金井をうかがい見る。
「ああ、いいですよ」
「え?」
 小金井があっさりとそういうものだから、麻由のほうが拍子抜けして気の抜けた声を出してしまった。
「い、いいんですか?」
「ええ。うちがメインの催事も終わって今は落ち着いている時期ですし。ベッドの搬入はモノが大きい分手順にコツがいりますから、うちの人間がいたほうがスムーズでしょう。ただし――」
 やはり、すんなり交渉成立とはいかないのか。一体どんな条件を出してくるかと、麻由はごくりとつばを飲み込む。
「ただし、販売員に売り上げの期待をされても困るなあ。なんたってうちの部門は平均年齢が高めですから。若い方向けの催事なんて緊張しちゃうなあ、ははは」
「は、はあ……」
 朗らかに笑う小金井はどこからどう見てもとても協力的な人物だった。
 思い描いていたものと正反対の対応をされて、頭が混乱してくる。
「ああ、若い子も一人ならいますけどね。彼なんですけど」
 小金井が売り場に目を向けたのにならって麻由もそちらを向く。
 ベッドとベッドの間に姿勢良く立っているのは、以前鮎川コットンの商品を隠したことで隼人に叱られていた彼だった。
「彼ね、最近大きなミスしちゃって。落ち込んでいるから挽回させてあげたいなあ」
 部下のミスは僕のミスでもあるから、と小金井は申し訳なさそうに苦笑した。
(なんか、前評判と全然違う。噂は完全に嘘だったんだ)
 セクハラパワハラどころか、他部門に協力的で部下も大事にするとてもいい人ではないか。一体誰がそんな適当な噂を、と麻由は憤慨する。今度そんな噂を信じている人がいたら即刻訂正しないといけない。
「あの、いろいろとこちらに気を配っていただいてありがとうございます。今度の催事ではよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
「ではこちらに確認の印をいただけますか?」
 麻由は稟議書を差し出した。ベッドの貸し出しや人員を割くことについて了承したことを意味する書類だ。これに印をもらえれば、正式に寝具部門の協力が決定する。
「ああ、すみませんがこれは押せませんよ」
「え……」
「このフロアの催事責任者の印がほしいんでしょう? それなら僕じゃなくフロア長の印でないと」
 麻由の担当売り場がある三階にも、部門の責任者である部門長と、その階全体の部門を統括するフロア長がいる。
 確かに書類を見れば必要なのは寝具部門長の印ではなく、七階フロア長の印だった。
 直接関係するのは寝具部門だったので、勘違いしていたのだ。
「し、失礼しました。ええと、こちらのフロア長は……」
 そういえば四月の人事異動でこの階のフロア長は以前と変わっていたはずだ。
 大きな店舗で従業員の数も馬鹿にならないものだから、基本的には皆自分の担当フロアのことしか覚えていない。
「人事ってなかなか覚えられないですよねえ。僕もこの年になるとなかなか人の名前が覚えられなくて。今のうちのフロア長は――」


 
「隼人さんっ」
 長い足で悠然とバックヤードを闊歩する後ろ姿を、麻由は尖った口調で呼び止めた。
「だましましたねっ」
 振り向いた隼人は一瞬きょとんとしたあと、ケラケラと笑い出す。
「なんだ? 前にもこんなことを言われた気がするが。珍しいな、君がそんなにぷりぷり怒った顔を職場で見せるなんて」
「茶化さないでください」
「悪いが、本当に思い当たる節がないんだ。どうした?」
「寝具部門の責任者のことですっ」
 元々、責任者はパワハラとセクハラ三昧の恐ろしい人物だと麻由に吹き込んだのはこの男だ。そのことになぜもっと早く気がつかなかったのだろうと麻由は歯噛みする。
 寝具部門の催事責任者は、隼人本人だった。
 隼人は東京店に赴任してきた四月からマーチャンダイザーと七階のフロア長を兼任していたのだ。目新しい肩書きばかりが目立っているが、四月の社内報を確認すると確かにそう書いてあった。
 考えてみれば寝具部門に所属している社員を隼人が直接叱りつけている時点で気づくべきだった。
 あれは企画営業部としてではなく、フロア長としての説教だったのだ。でないと、さすがに部門を超えて直接注意はしないだろう。
(つまり、また、からかわれた!)
 麻由がそんな事情を知らないだろうと思って、わざとおどすようなことを言ったのだ。


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