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しおりを挟む翌日、麻由は蒼白な顔色で出勤した。バッグをかけた右肩が異様に重く感じる。そこに入っているまがまがしい札束が気持ちを沈めていた。
隼人は気にするなといっていたが、そんなわけにもいかない。
やっと素直になって隼人と気持ちを通じ合わせることができたというのに、その家族には反対されている。そう考えるだけでさらに体が重くなるようだった。
(それに、気にするなっていってもこんな大金、気にしないわけには……)
そうですか、と三〇〇万円をもらって知らんぷりできるような度胸は麻由にはない。一体どうやってこのお金を返したらいいのだろうか。
緩慢な動きで制服に着替えると、首から提げたPHSが鳴った。
「塚原です」
『ああ、塚原さん。今度の催事について、今から緊急会議だって。会議室に集合』
「わかりました。すぐ行きます」
かけてきたのは企画営業部の山野だった。
緊急会議とはなんだろう。麻由は首をひねりながら会議室へ向かう。
定例の報告会は最近やったばかりだし、計画通りうまくいっているはずだ。それがなぜ責任者の麻由を通さないで会議が開かれることが決まっているのだろう。
胸の中にいやな予感を抱えながら会議室へ入った。
集まっているのはおなじみの企画営業部の面々、そして営業部長。それから東京店の店長。
普段なら現場に出てこないであろう人物たちを見つけて、麻由は背中にいやな汗が伝わるのを感じた。
席に着く人の中には隼人の姿もある。隼人と一瞬目が合うが、硬い表情を崩さず、それはすぐにそらされてしまった。
部屋の中はなんだか物々しい雰囲気に包まれている。
全員が席に着くと、店長が前に出て、こめかみに流れる汗を拭きながら話し始める。
「えー、君たちに集まってもらったのは、今回の催事について親会社のほうから忠告があったためです」
一気にざわめきが広がった。本部を通り越してなぜ親会社のほうが干渉してくるのか誰もが不思議がっている。
「率直に言いますと、催事の責任者を変えるようにと」
その一言で麻由の目の前が真っ暗になる。そして、治美の顔が浮かんだ。
このタイミングだ。治美が関わっているとしか思えなかった。
「このままでは催事の開催を容認できないとのお達しがあり……」
恰幅のいい店長は止まらない汗を何度もハンカチで拭っている。
親会社から直接物言いがあるなんて、よほどのことだ。店長自身、戸惑いを隠しきれないようだった。
「それは空閑グループのトップから直々に話があったんですか」
ざわめきの中で口を開いたのは隼人だった。
「いや、僕も親会社からとしか……」
「本当に? 例えば社長夫人が口を出してきたということは?」
店長は意図を図りかねて首をひねっている。
(隼人さんも治美さんが関係あるって思ってるんだ……)
だとしたらきっとひどく反発するのだろう。昨日の態度を見てもそれは明らかだった。
(ってことは、私を責任者からおろすっていうのはもちろん反対するってことだよね)
治美がどう思うかを考えると恐ろしかったが、どこか安堵している自分もいた。
責任者の仕事を、この土壇場になっておろされたくない。最後までやり遂げたいという気持ちが強かった。
だったら、どんなに反対されてもその気持ちを大事にしたい。きっと隼人なら一緒に戦ってくれる。いつも隼人だけは麻由の味方だったのだから。
隼人は立ち上がると店長の横に並んだ。
会議室の全員の視線が隼人に注がれている。誰もこのイレギュラーな事態に対応する能力は持ち合わせていないのだ。決断を下せるのは社長一族である隼人だけだと、すがるような目を向けていた。
「塚原さんを責任者から下ろします」
いたって冷静な口調で隼人が言う。麻由は一瞬なにを言っているのかわからなかった。
隼人が親会社――おそらく治美からの案を通したのだ。
会議室にはほっとしてゆるんだような空気が漂う。
隼人が、自分を切り捨てた。その事実をだんだんと頭が受け入れて、血の気が引いていった。
「あのー、でも催事まであと数日ですよ? 今更責任者交代って……」
山野が遠慮がちに発言するが、隼人は顔色一つ変えない。
「かわりに私が責任者になります。企画の内容はすべて見てきた。内容が変更になっても対応はできますよ」
さらりと言ってのけられ、頭を殴られたような気分だった。
麻由の企画をいいといってくれたのは隼人だった。採用を決めてくれたのも、責任者を任せるよう取り計らってくれたのも。
企画の内容を変えてしまっては意味がないと、自分と同じくらい理解してくれていると思っていたのに。あっさりと内容を変えるという発言が出たことに、ショックを隠しきれない。
「じゃ、じゃあまあ、空閑くんが引き継ぐなら問題ないでしょう」
店長の安堵した声で会議は終わった。
部屋から次々に人が出て行くなか、麻由はその場から立ち上がることができなかった。
「大丈夫か?」
隼人にひょいと顔をのぞき込まれて思わずきっとにらみつける。
「どういうこと!? 私は責任者をおろされるなんて納得できない」
「親会社からいわれてるんだ。そうしないと催事自体が開けなくなる」
「で、でもっ、昨日は気にするなっていってくれた。そんなの関係ないって」
「麻由」
隼人がにこりと笑う。またあの笑顔だった。口だけはきれいに孤を描いているのに、目の奥は冷ややかな。
「これが最善なんだ。俺は君を守るよ。だからわざわざ矢面に出て君が傷つくことない」
「そういう話をしてるんじゃ……」
「すまない、もう行かないと。大丈夫だ、君のキャリアにも傷がつかないようにするから」
隼人はそれだけ言うとさっさと部屋を出て行った。
そんな話がしたいんじゃなかった。麻由は一人部屋に取り残される。
昨日から隼人がとても遠くに感じる。
自分の言葉が上滑りしてちっとも届いていないような、そんな気分になる。
(このままじゃなんの解決にもならないのに。隼人さんにこのくらいのことわからないはずないでしょう?)
治美に反発するのは怖い。もしこれ以上機嫌を損ねることがあったらと思うとぞっとしてしまう。
けれど向き合わないと解決することができない。そのことをなぜわかってくれないのだろう。
麻由の大切なものを取り上げて、麻由のためだという。
それが意味するところがさっぱり理解出来ない。
もともと考えの読めない人だと思っていた。そのせいで随分翻弄された。けれど、今の彼は余裕たっぷりの隼人とも、麻由の知らないことまですべてお見通しの隼人とも違っていた。
人気のなくなった会議室で、麻由は一人途方に暮れてうなだれた。
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