腹黒御曹司との交際前交渉からはじまるエトセトラ

真波トウカ

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「割烹 てん」の清潔な白いのれんをくぐる。カウンターの客と話していた典子がこちらに気づいて、ぱっと笑顔になった。
「麻由さん、お久しぶり」
「お久しぶりです」
 早速催事責任者の仕事が回ってきたのか、日中の隼人は忙しそうで話す時間がちっともとれなかった。
 ここにならいるんじゃないかと思って、麻由は「てん」に足を運んだのだった。
 相変わらず出汁のいい匂いが漂う店内にさっと目を走らせるが、いるのはサラリーマンと老夫婦の客だけで隼人の姿はない。
「隼人さんと約束を?」
「い、いえ……ただ、会えるかなって」
 取り繕うような笑顔を作る麻由に、典子は申し訳なさそうに顔をしかめた。
「ごめんなさいねえ。隼人さん、今日は来てないの。この時間に来ないってことは、今日はもう……」
「い、いいんです」
「良かったら、なにか食べていってくださいね」
 カウンターを案内されて、麻由は内心がっかりしながらも席につく。
 以前来たときには個室に通されたからカウンターはなんだか新鮮な感じがした。
 目の前の大皿につまれた惣菜が食欲をそそる。
(隼人さんがいないのは残念だけど、せっかく来たんだし、おいしいものを食べさせてもらおう)
 典子におすすめの料理を頼むと、快く小鉢に惣菜をのせてくれた。
「お酒はどうしましょう?」
「……飲みます」
 一人の食事で飲むことはあまりないが、今日はアルコールでもないとやってられないような気持ちだった。
 料理に合わせてこちらもおすすめの日本酒を出してもらう。
 がんもどきの甘酢あんかけを肴にちび、と日本酒を流し込んだ。
 熱いものが喉を流れていって、胃に沁みる。少しだけ体がほぐれていくような気がした。
「典子さんは隼人さんと長いんですか?」
 麻由の質問に典子は困ったような顔をする。
「そうですねえ。二〇年近い付き合いになるかしら」
「そんなに」
 想像以上の月日の長さに驚いてしまう。どうりで打ち解けた感じがするはずだった。
「このお店って隼人さんが小さいときから通ってたんですね」
「いえいえ、私と隼人さんが出会ったのは……もっと別の場所で」
 聞いてないかしら? と、典子は困ったように顔を曇らせた。
(聞いてない。なにも……)
 自分は隼人のことをなにも知らない。改めてそう気付いて、胸がチクリと痛む。
「隼人さんはなにも話してくれないから……」
 言葉にするとさらに惨めな気持ちになって、涙がにじむ。
「隼人さんがなに考えてるのか全然わからなくなっちゃって……。私は隼人さんと本音を言い合える関係にはなれないのかな……」
「麻由さん、そんなことはないと思うのよ」
「でもなにも知らないんです。隼人さんがどうして家族と不仲なのか、とか。私は知りたい。ちゃんと話して欲しい……向き合いたいんです」
「家族、ね……」
 典子の声が陰りを帯びる。
「私は以前、空閑家の使用人をしていたんです。隼人坊ちゃんとはそれで知り合いました」
 意外な事実に麻由は目を丸くする。
「そうだったんですか」
「坊ちゃんが空閑家に来たのは十三歳の時でした」
「来た?」
「坊ちゃんのお母様が亡くなって引き取られたんです」
「え……それじゃあ治美さんって」
「本当のお母様ではないんですよ」
 典子は慎重に言葉をひとつひとつ選びながら隼人の過去について話し始めた。
「坊ちゃんと旦那様は血が繋がっておいでですが……空閑家に来てから坊ちゃんは奥様と顔を合わせることも多く、肩身の狭い思いをされていました」
 麻由は言葉をなくす。そんなことは、全然知らなかった。てっきり治美は隼人の本当の母親なのだと信じきっていた。
「坊ちゃんが静かな環境でご飯が食べられないのも、子供の頃の体験が影響しているんです」
「それってどういう……」
「忙しかった旦那様は坊ちゃんの起きている時間に帰ってくることはほとんどありませんでした。ですから奥様と二人きりでお食事されることがほとんどで。……お話が盛り上がるはずもなく、気詰まりのする時間だったことと思います」
 本妻と愛人の子。その二人が無言で食事をする。それは十三歳の男の子にとってどれほど苦痛の時間だっただろう。
 治美の凍てつくような視線を思い出して麻由は泣きたくなった。大人になった自分でも怖いのだ。それを子供だった隼人は一身に浴びていたことになる。
 無言でにらみつけられながら食べる食事はどんなに味気なかったことだろう。
「坊ちゃんは境遇のせいで学校でも随分つらい思いをされていました。愛人の子、なんて心ない言葉をかけられることもあったようです」
「そんな……」
「だから、言わなかったのは麻由さんを大事に思っていないから、なんて理由ではないんです。坊ちゃんにとっても勇気のいる話なんだと思うんですよ。麻由さんのことが好きならなおさら」
「私がそのことで偏見を持つかもってことですか」
「もちろん麻由さんはそんな方じゃないと思います。けれど坊ちゃんにとっては触れるだけでまだ胸が痛むような……そういう出来事なのだと」
 典子はにこりと笑って続ける。
「ここに坊ちゃんが誰かを連れてきたのははじめてなんですよ。だから麻由さん、どうか落ち込まないで」
 そして、隼人を支えてあげてほしい。典子の言葉は麻由の心にじんと沁みていった。
(でも、そっか。だから空閑社長と会ったときもあんな……)
 隼人の父親に会ったとき、向こうはやけに隼人に対して気を遣っているような、遠慮しているような態度を取ると思った。そして隼人は柄にもなく苛立った様子を隠すそぶりもなかった。
 あのときはこんな事情を知らないから、隼人に対してはいささか子供っぽい態度だと感じたものだが、今だとなんとなく納得できる。
 隼人の父は隼人に恋人ができることに安心していたのかもしれない。
 つらい境遇においてしまったことを後悔しているなら、麻由と隼人の関係を見せつけられてほっとしたような顔をしていたこともうなずけた。
(だったら、治美さんの行動は隼人さんへの嫌がらせ?)
 愛人の子が幸せになることが許せなくて、こうして邪魔するようなことをしているのだろうか。
 麻由の胸中にちりっ、と怒りの炎が芽吹く。
(だったら、このまま引き下がるなんていや……!)
 隼人を邪魔しようとする人間に、いいようにされたくない。
 幼少期の隼人にそんなトラウマを与えておいて、今もなおそれを続けるなら、屈したくはなかった。
(でも、だったら隼人さんの口から聞きたかった)
 隼人が自分に頼るところはとても想像できなかったが、それでもどんな小さなことでもいいから頼って欲しい。そしたら自分は喜んで助けるのに。そう思ってしまうのはおこがましいだろうか。
 ふと、隼人が言っていた見返したい奴とは治美なのではないかと思った。考えれば考えるほどそんな気がしてくる。
 麻由は猪口に残っていた日本酒をぐっとあおった。
 

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