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第7章 1
しおりを挟む「塚原先輩、あれ、あれ!」
会計を終えた客をお辞儀で見送っていると、エリナがシャツの袖をくいくいと引っ張ってくる。
指さすほうに視線を向けると、そこには海老茶色の小紋に身を包んだ治美がいた。隣のショップの棚を面白くもなさそうに眺める様子に、麻由の体はこわばる。
「この前絡んできた、空閑グループ社長夫人って人ですよね。また見張りに来てるのかなあ。こわっ」
エリナは大げさに体を震わせるジェスチャーをしている。
戸籍上では隼人の母だが、血は繋がっていない。典子の店で聞いた話を頭の中で反芻する。
そう思って見ると、顔立ちに似たところは確かに見受けられなかった。
手切れ金を渡されたときは、頭が真っ白になりながらもどこかで納得もしていた。大企業の御曹司である隼人と田舎から出てきた平凡な自分。確かに端から見れば全く釣り合わない。だから、別れろという要求に素直にうなずくことはできないけれど、そう言われること自体はどこか受け入れていたのだ。
けれど、今は違う。
治美が隼人と自分を別れさせたい理由が、隼人が幸せになるのを阻止したいだなんてことならそんなのは認められない。
「ちょっと、売り場任せるね」
「え、塚原先輩?」
麻由は毅然とした足取りで治美に近づいていった。
「いらっしゃいませ」
「あら、先日の手紙は読んでいただけまして?」
小柄なはずなのに治美の発するオーラは威圧的で、自分より体格がいいような気すらしてくる。
ひるみそうになるのを麻由はぐっとこらえた。
「そ、そのことも含めてお話したいのですが」
治美は無言でうなずいた。
デパートの近くの喫茶店に場所を移し、二人は向かいあって座る。
麻由はバッグから風呂敷包みを取り出して、治美の前に置いた。
あの日からずっと入れて持ち歩いていた三〇〇万円だ。いつ返すときがくるかわからないからと、毎日ひやひやしながら持ち歩いていた。
「これ、お返しします」
治美は突っ返された包みを、つまらなそうに眺めている。決してそれに触れようとはしなかった。
「手紙の内容を理解してくださらなかったのかしら」
「わ、私は隼人さんと……別れたくありません」
「あなた、ご自身が空閑の家柄にふさわしいと?」
「そうは思いません……でも、隼人さんの邪魔をしたいだけで別れさせたいなら、応じることはできません」
「なんですって?」
こちらを見下すように悠然と構えていた治美が初めて怒りをあらわにした。
「私が隼人さんのやることにケチをつけたくてやっていることだと? 失礼極まりない話だわ」
「え……」
「今回の企画、若者向けの催事だそうだけど、あなたの案なんですってね」
「そ、そうですが」
隼人の話をしていたはずなのに、なぜ急に仕事の話になるのだろう。麻由は先の見えない会話に不安になりながら答える。
「あの人はわかっていないのよ。伝統を守ることの大切さを。新しいことを発信するだけが仕事ですか」
「で、ですが、隼人さんの提案した若者向けのフロアは実際に売り上げを上げていて……」
「だから余計に危険視しているのです。若者が珍しがって来店するのは最初だけだわ。他に新しいものがあればすぐそっちへいくのだから」
治美は息つく間もなく話し続ける。
「元々のお客様はどうなります。昔からいらしていた年配のお客様をないがしろにして、周りのファッションビルと同じようなことをすることが正しいとは思えません。年代を限定した催事では今までのお客様はなにを楽しみに福丸屋へ来ればいいのですか」
まくし立てられて口を挟む暇もなかったが、治美の言うことは筋が通っていた。『フルール』は今は調子がいいが、確かに同じことをしていて飽きられないという保証はない。
それに麻由の考えた催事は、確かにターゲットとする年代以外の客にはつまらないだろう。
少なくとも治美は本気で福丸屋の今後について考えているようだった。
「今までなんの実績も持たないあなたが急に催事の責任者だなんて。まさか隼人さんに取り入ったんじゃ」
「それは違います」
急に気持ちが落ち着いて、はっきりと否定の言葉を言うことができた。
最初、自分にそういう思惑がなかったと言えば嘘になる。付き合う代わりに、体を許す代わりにやりたかった仕事をもらえるのだと。
けれど隼人はそんなことで仕事を判断するような人間ではない。そのことが今ははっきりとわかる。
自分が恋人だろうがそうじゃなかろうが、企画が良ければ採用するし、そうじゃなければボツだ。隼人ならそうするに決まっている。
「まあ同じことですよ。隼人さんは結果を出そうとするあまり、新しいものを取り入れる傾向にありますからね。もっと伝統を重んじる気持ちを持った、家柄のいいお嬢さんとの縁談を考えています」
「な、なんでそんな……隼人さんの気持ちはどうなるんですか」
「仕方ないでしょう。それがあの人にとって一番幸せなのです。なにも与えられてこなかった人だわ。そのくらいこちらで考えて差し上げないと……」
「え?」
治美の声にどこか切羽詰まったものが混じる。憮然としていた表情は陰りを帯び、なにか許しを請うている人のようにも見えた。
少なくとも隼人に嫌がらせをしようと企む人の態度ではない。麻由は戸惑った。
「かわいそうな子なんです……私のせいで。だからせめてこのくらいは」
「そ、それってどういう……」
「あの子が得るはずだったものをすべて私が奪ったんだわ……」
それは麻由に向けられた言葉というより、独り言のように思えた。
口の中でぶつぶつと発された言葉に麻由は耳をこらす。
うつむいた治美の顔は落ちくぼんだまぶたに黒い影がかかり、げっそりとやつれて見えた。
軽々しく隼人に嫌がらせをするななどと言った自分を悔いた。そのくらい治美の表情は憔悴していた。
治美ははっと我に返ると、顔を上げて麻由をにらみつける。そうするとさっきまでの威圧的なオーラを取り戻したようだった。
「とにかくあなたも隼人さんのことを思うなら身を引いてくださいな。今度の企画は集客が見込めず失敗に終わりますよ。そうしたら隼人さんを早々に本部へ戻すのは難しくなるでしょうね」
その言葉は胸を直接抉るようだった。隼人が本部で仕事をしたがっているのは麻由だってよく知っている。
治美のいうことはもっともなのかもしれない。隼人の邪魔になるなら、自分は一度身を引くという選択肢もあるのかもしれない。
治美への反発心だけだった胸中にそんな考えが生まれた。
「なにをしているんですか」
鋭い調子の言葉に顔を上げると、険しい顔の隼人が立っている。
隼人が嫌悪感をあらわにした顔で治美をにらむと、治美はなにも言わずにうつむいた。そうするとやはり疲れ果てた女性に見えた。
「困りますね。勝手に従業員を連れ出されちゃ」
「ちがっ、これは私のほうから」
立ち上がりかけると隼人に手で制された。
「まったく、どれほど俺の邪魔をすれば気が済むんだ……」
治美は一言も言葉を発さない。ただ隼人の非難の言葉を浴びるばかりだ。
その様子に小さな老婦人が気の毒になってくる。
治美は嫌がらせをしたいんじゃないと言った。なにかに悔いてもいるようだった。
自分が考えていたような安直な理由で邪魔をしているわけではないのではないだろうか。
「は、隼人さんこの機会にちゃんと話しましょう。なにか誤解があるのかも」
「麻由、おいで」
隼人は答えることなく、麻由の腕を無理矢理引っ張るとそのまま店を後にした。
振り返ると、窓からまだうつむいたままの治美の姿が見える。消え入りそうなその姿になんだか泣きたくなった。
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