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第8章 1

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 福丸屋東京店の売り場最上階となる八階では催事に向けて最終確認作業が行われていた。
 この企画に関わるすべての人間が集まり、売り場の設営やスケジュールの詳しい流れについて小さな輪を作って会議をしている。
 それぞれに任された仕事は様々で、そんな者たちが一堂に会するものだから現場はざわめき、人の出入りも激しい。
 隼人はそんな会場の傍らで喧噪を眺めていた。
 責任者を肩代わりした隼人こそ皆の中心に入って動くべきなのだが、目の前の出来事など正直なところどうでもいいとすら思っていた。気持ちは重く沈み込んでいく。
 考えるのは麻由のことだけだった。
(今どうしているだろう。食事はちゃんととっているだろうか)
 ひどいことをしてしまった。その自覚はある。いや、だんだんとわいてきたと言ったほうが正しいだろうか。
 無理矢理抱いて、気を失わせた。独占欲のままに辱め、その体をむさぼった。
 行為の後、麻由の目尻に浮かぶ涙を見て、血の気がひいた。
(大事に……大事にしようと思っていたのに……)
 麻由が自分から離れる。その言葉を聞いただけで、なにも考えられなくなった。
 まるで水中へ放り込まれたように音が遠のいていった。
 麻由がなにを言ってもその水の膜が邪魔して耳に入らない。気付けば麻由を組み敷いていた。
「空閑MD、大丈夫ですか?」
 企画営業部の山野に声をかけられる。
「あ、ああ。大丈夫だ」
「疲れたまってるんじゃないですか。顔色悪いです」
「いや……」
 自分はよほどひどい顔をしているのだろう。山野の心配は社交辞令だとは思えなかった。
 気絶した麻由を自分のベッドに寝かせた後、仕事に戻り、その晩はホテルに泊まった。
 麻由にどんな顔で会えばいいのかわからなかったからだ。
 頭を冷やすつもりだったが、後悔がつのるばかりでまともに眠れていない。ひどい顔色は寝不足のせいもあるだろうか。
(俺は寝不足が顔に出やすいみたいだからな)
 過労で倒れたとき、麻由が看病をしてくれた。考えてみれば倒れる前からずっと麻由は隼人の体調が悪いのではと気にしてくれていた。その優しさを思って、また罪悪感に胸が痛んだ。
 けれど、麻由を解放しようとはどうしても思えなかった。
 自由にすればまた自分のそばから離れるなどと言うのではないだろうか。
 エゴだとはわかっている。だが、麻由を傷つけておいてなお、失うことがとてつもなく恐ろしい。
「社長の奥さん、やっぱり来てますね」
 山野の視線をたどると、そこには治美がいた。隼人と同じように忙しく仕事をする従業員たちを遠巻きに見つめている。その姿を見ているとふつふつと怒りがわき上がってくる。
 企画は今日で最終決定する。納得いかないことには容赦なく口を出すつもりなのだろう。
 最終決定の日には細かい調整を残すぐらいで、大枠ができているのが普通だ。この日になって企画の変更など本来はあり得ない。だが、治美が言えば聞かないわけにはいかないだろう。
 冷ややかな眼孔でまっすぐに立つ治美はいつも通りの威圧的なオーラを放っている。年齢を重ね、着物に身を包むようになってからそれはやっと威厳という言葉で形容できるようになった気がする。
 本質的は昔からなにも変わらないのにと隼人は歯噛みする。
 治美が生来持ち合わせているものは威厳などではない。他者への侮蔑だけだ。
 幼いときから女手一つで育ててくれた母を亡くし、それを不憫に思った父だという人に引き取られた。
 そのとき自分ははじめて、たまに三人で食事をした見知らぬ男性が父だったということに気づいたのだった。
 そして、自分をいじめてきた同級生のお決まりの罵倒であった「愛人の子」というのが本当だったことも。
(だが、母さんが愛人の立場に甘んじていたのはあの女のせいで……っ)
 引き取られた日から隼人の心の中にある怒りの炎は、治美の姿を見るたびにその勢いを強くしていった。
 今までのことを悔いる父は後悔という穴を埋めるようにたくさんの本や服、新しい学校などの環境を与えてくれた。だが、仕事が忙しくほとんど顔を合わせることのない日が続いた。それならそれでよかった。今さら顔見知り程度の人間を父だと思える自信がなかったからだ。
 そっとしておいて欲しいと思う隼人の気持ちと反対に、家では治美とよく顔を合わせることになった。
 治美はきっと自分を憎んでいる。
 本妻と愛人の子だ。自分の立場を自覚した隼人がそう勘づくまでに時間はかからなかったが、だからはじめは無視をされるものと思っていた。お互いにそれが一番いいだろうとも。
 隼人の思惑とは違って、治美は隼人に食事をかならず同席するように言った。
「安心なさい、ここにいればなんでも与えられます」
 はじめて一緒に食事をした日、二人だけの空間でそう言われた。その時の屈辱は誰にいってもきっとわかってはもらえないだろう。治美は優しい人じゃないかとすら言われるかもしれない。
 だが、隼人はあのときの目を忘れていない。人を見下し、蔑むような冷たい目を。それは優しさなどではなく、乞食にものを与えるようなそんな視線だった。
 同情、というよりもっと馬鹿にされたような言葉だと子供ながらに強く感じて、隼人の幼い自尊心は切り裂かれた。それが隼人の怒りに火がついた瞬間だった。さらにその炎は治美と父の結婚の経緯を知って大きく燃えさかっていく。
 治美は二人で食事をといった割になにを話すでもなく、二人はただ無言で食事をした。
 自分を放っておく父にはさして嫌悪を抱かないのに、治美に対しては日に日に苛立ちが大きくなっていく。
 大学在学中には空閑グループの関連企業への入社が決まっていた。それは父の計らいだったらしい。
 はじめはそんなもの必要ないと拒否するつもりだった。しかし、空閑の会社に入れば自分だってそこそこの地位に就くことは約束されている。だったらそれを使ってめちゃくちゃにしてやろう。いつしかそう考えるようになった。
 従順に組織に従い、有能であると言うことを見せてさっさと出世してやろう。そのとき中から会社をめちゃくちゃにしたら治美はどんな顔をして悔しがるだろうか。そう思うことが隼人の原動力になっていった。
 だが、いざ治美を目の前にすると体は一歩も動かない。
 視線だけはにらみ続けているのに、数メートル先の小柄な老人に一言言って帰させる勇気がわいてこなかった。
 治美を前にすると、幼い日の、侮辱にただただ無言で唇をかみ続けた弱い自分が乗り移るようだった。
 麻由は何度も話し合おうと、そうすればなにか変わると言っていたことを思い出す。麻由の必死の訴えが自分をすり抜けていたことに初めて気付いた。それは最初から不可能だと思っていたからだ。
 治美を見ると恐れや怒りに感情が乗っ取られて、とてもまともな話し合いをできる気がしなかった。だから遠ざけるのが一番いいと思った。
 麻由のことだって、責任者を下ろしたのは彼女を思えばこそだ。あの冷酷で侮蔑を含んだ視線に麻由がさらされると思ったら耐えられなかった。
「催事のほうどうします? これから内容を大幅に変えるのなんて無理ですよ」
「とりあえず、予定通りの陳列にしよう。ポスターの類いはまだ貼らないでくれ」
 治美のことだ。伝統を重んじるなどとそれらしいことを言っているが、本当は若者のための企画というのが気にくわないだけなのだろう。しかし商品に関してはもう取りそろえてあるものを並べるしかない。
 せめて「若者向け」ということを大々的にアピールしてあるポスター類は目に触れないようにしようと隼人は考える。
「これで納得してくれますかねえ」
「させるしかないさ」
 山野がなにか言いたげな視線をこちらへ送ってきたことには気づかないふりをした。自分でもわかっている。こんな付け焼き刃では治美は納得しないだろうと言うことを。企画の変更はできない今、治美に直談判して引き取り願うことでしか事態が収束しないということも。――それが身内である自分にしかできない芸当だと売り場の皆が思っていることも、だ。

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