転生ショコラティエは白銀の騎士にとろける恋を捧げる

相沢蒼依

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プロローグ

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 バレンタイン前夜のホテルの厨房は、いつだって戦場だった。

 テンパリングされたチョコの香ばしい甘さ、焦げた砂糖の匂い、金属の音。だけどその喧騒の中に、もう僕の居場所はなかった。

「ショコラティエ・清水真琴として、この厨房に立つのも……今日で最後か」

 静かに息を吐き、最後のボンボン・ショコラを丁寧に並べ終える。白衣の袖で額の汗をぬぐった瞬間、わずかに指が震えた。

 職を失うのは初めてじゃない。今回は、自分の好きを貫いて高級食材にこだわったせい――それで原価が跳ね上がり、オーナーと経営方針でぶつかった。理想の味を追うことが、誰かの迷惑になるなんて――そんな現実を、心はまだ飲み込めずにいる。

 ふと、前の職場でのクリスマスの夜がよみがえる。あの時も、オーナーが「安いカカオで十分だ、コストを抑えろ」と言い張った。

 厨房の灯りを落とした後、こっそり忍び込んで独断で高級カカオビーンズをすり潰し、大量のチョコ生地に混ぜ込んだ。

 翌朝、イベントの客たちが「この深みのある風味、忘れられない!」と大騒ぎ。オーナーにバレて大目玉を食らったけど、あの群衆の中の一人――有名パティシエの老人が、僕の肩を叩いて「君のチョコは魂が入ってる」と囁いた。

 告げられたセリフが、せめてもの救いだったのに……結局、そこも長くは続かなかった。

 並べたボンボンのひとつを手に取り、天井のライトにかざす。艶やかな表面に映るのは、疲れ切った自分の顔。

「あーあ。これが僕の最高傑作、なのにな……」

 指先に残るぬくもりが、やけに切なかった。

「食べてくれる人は、もういないんだな」

 その言葉が空気を震わせた瞬間、胸の奥で何かがひび割れる。それでも心のどこかでまだ信じていた。もう一度、誰かを幸せにしたいと。

「僕が作ったこれを食べて……それでも誰も幸せになれないなら、せめて理由を知りたかった」

 祈るように呟いたら、ふわりと甘い風が頬を撫でた。厨房の熱気とも、外の冷気とも違う。それは、どこにも属さない温度の風だった。

 チョコの香りが揺れ、空気がきらりと金色に滲む。

 ――え?

 手のひらのボンボン・ショコラが、かすかに脈打った。ほんのり暖かく光を吸い込み、そして内側から薄く発光しはじめる。表面の艶が波紋のように広がっていき、瞬く間に光が膨らむ。

 次の瞬間――全ての音が消えた。厨房の喧騒や外の車音、自分の呼吸音さえも消え失せて、世界がひっくり返ったように静まり返る。

 視界の端がほどけるようにゆらぎ、金色の粒子が空間を裂くように舞い上がった。

「――っ」

 床の感触が消える。重力も体温も輪郭さえ曖昧になっていく。目を閉じる間もなく、眩いばかりの光に吸い込まれた。

 あまりの眩しさに両目をぎゅっと閉じて体を強ばらせたら、冷たい風が頬に当たった。草の香りと、どこか懐かしい甘い匂いが混ざり合うのを鼻が感知する。

 恐るおそるゆっくりと目を開けると、そこは見知らぬ草原だった。夜空には二つの月がぽっかり浮かび、遠くの丘の上には金色の塔がかすかに輝いている。

 目の前の状況に、胸がどくんと跳ねた。

(――ここは……どこ?)

 呆然と立ち尽くす僕の前に、淡い光の粒が集まっていく。やがて手のひらほどの大きさで、ひとりの姿を形づくった。

 長い白金髪にうさ耳のような飾りをつけ、背中につけた大きなリボンを羽ばたかせて空中を飛んでいる。

 その小さな存在は、まるで香りそのものが形になったみたいだ。

「ようこそ、アルセリアの地へ。あなたの“甘さ”を、この世界が必要としたのですぅ」

 鈴の音のような声が、胸の奥に響く。

「え……あなたは?」
「わたしはフェリシュ。恋と幸福を司る精霊。あなたを呼んだのは、わたしなのですぅ」

 フェリシュはふわりと宙を舞い、僕の胸に小さな手を当てた。その瞬間、体の奥で光が生まれ、やわらかな熱がじわりと広がる。

「あなたの作る甘味には、人の心を癒す“可能性”があるのだわぁ。ただし――それは、相手の心と向き合えたときだけ」

 光の波が全身を包み込み、頭の中に文字が浮かぶ――《スイートセンス》香りと甘さを読み取り、心の“甘さ”を感じ取る祝福。ただしそれは作り手自身が迷っているうちは、決して完全には働かない。

 目を瞬かせて驚く僕を見たフェリシュは嬉しそうに微笑み、くるりと回る。

「あなたの作るチョコは、幸福の香気をまとうのですぅ。きっと、たくさんの人を救うのだわぁ」

 その声が消えると同時に、光も静かに薄れていった。

 草原に夜風が流れ、二つの月が僕を照らす。遠くには、街の灯が優しく揺れていた。

 ――失ったと思っていた場所の代わりに、もしかしたらここで“誰かを幸せにできる”かもしれない。

 そっと息を吸い込み、僕は歩き出した。手の中には、最後に作ったボンボン・ショコラ。その温もりは、まだ確かに残っていた。
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