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第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い
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朝の巡回時、真琴の顔を見たときから、胸の奥がざわついていた。
「今日はスパイス市があるって、ご近所さんから教えてもらったんです。これから仕入れに行ってきますね」
笑いながら話してくれた瞬間から、背筋に冷たい予感が這い上がるように、ざわめきが広がっていく。いつもなら「気をつけて行け」で済ませるはずだったのに、今日はどうしても口が動かなかった。
「……私も行く」
やっと絞り出したセリフを聞いた真琴は、何度も目を瞬かせた。
「え? リオン様はお忙しいのでは?」
「君だけじゃ、変な商人に絡まれるかもしれない」
強引な理屈だと自分でもわかっている。本当はただ理由なんていらないほど、隣にいたかっただけ。そんな簡単でだからこそ恐ろしく素直な理由を、自分の口から言えるわけがない。
「そ、そうですか。ありがとうございます」
困ったように微笑む真琴の笑顔が、胸に触れたみたいに温かかった。
王都の大通りは、季節祭りの前で人の波ができていた。色とりどりの屋台の上を、いろんな香りが混ざり合っていく。
(――近い)
真琴がふと横に立つたび、袖が触れそうで勝手に一歩下がる。だが、真琴が露店に引かれてふらりと離れると、今度は無意識に距離を詰めてしまった。
どれだけ気を配っても、視線が真琴を追っている。情けないと思うほど、視線の先にいる真琴が愛おしかった。
「わ、これ美味しそう……リオン様も食べますか?」
串焼きを差し出してくる真琴。火照った頬と、湯気の向こうにのぞく無邪気な笑顔が眩しい。
「じゃあ、少しだけ」
本当は全部食べたい。真琴が買ったものを分け合いたい。そんな欲求が喉にこびりついて離れなかった。
串焼きを分け合いながら歩くと、真琴がスープの屋台に目を留めた。熱いカップを手渡され、指先が触れそうになるだけで、心が溶けるように揺らぐ。
飲み終わったカップを見つめ、捨てるべきだとわかっているのに指が動かない。たかが紙カップ。それでも今日、彼が初めて自分に手渡してくれた温度ごと、捨ててしまうなんてできなかった。
(私は馬鹿だ、本当に――)
香辛料商の店に入ると、強くて甘い香りがあふれていた。主人が差し出した小瓶を、真琴が試しに嗅いでみる。
次の瞬間、真琴がぽつりと言った。
「これ……リオン様に似合いそう」
(――私に似合うとは?)
それだけで鼓動が乱れて、息が一瞬止まる。強すぎる反応だとわかっていたが、どうしても抑えられなかった。
「私?」
「はい。落ち着いた香りですし、なんかリオン様っぽいなって」
なんだそれは。けれど、その“なんか”に全身が熱くなる。
「そうか。じゃあ買う」
「えっ、自分用にですか?」
「……深い意味はない」
目を伏せて小さな声で告げる。実際、深い意味しかない。真琴の言葉を持ち帰りたくてたまらないだけなのに。
夕暮れの城壁沿い、二人の影が長く伸びた。
「リオン様、今日はとっても楽しかったです。一緒に来てくれて、ありがとうございました」
とても穏やかで静かな声が耳に残る。その一言が、胸に刺さって抜けない。
「私も……悪くなかった」
本当はもっと言いたいことがある――楽しかった。もっと歩きたかった。もっと君の笑顔が見たかった。でもそんなものを口にしたら、間違いなく引き返せなくなる。
複雑な感情を無きものにしようと真顔を決め込む私を見て、真琴がくすっと笑う。その笑みが心に触れた瞬間、思わず言っていた。
「前を見ろ。つまずく」
「えっ、そんなに危なっかしいですか?」
違う。ただ、その笑顔を直視すると心が壊れそうなだけだ。
工房に戻ると、真琴が倉庫の整理に向かった。自分は先に厨房に入る。袋の中から小瓶を取り出して、蓋を開けた。真琴が“似合う”と言った香りが、室内に溶けるように広がる。
胸の奥が静かに疼く――ああ、これは、もう。
「……どうしようもないくらい、彼のことが好きなんだな……私は」
誰にも届いてほしくない声で呟く。認めたくなかった現実を、とうとう言葉にしてしまった。
真琴に出会って言葉を交わし、丹精込めて彼が作ったチョコを口にしながら真琴を見たら、嬉しそうに微笑む笑顔に自然と心が惹かれて――異界からやって来た彼の人柄を知れば知るほど、胸の奥が蕩けるように熱くなった。
「これは今日ふたりきりで出かけた、思い出の一品になる」
小瓶の蓋は閉めず、机の端にそっと置く。今日の香りも、今日の笑顔も、全部ここに残しておきたい。
真琴はまだ気づかない。自分がどれほど心を持っていかれたのか。どれほど名前を呼ばれるたびに、私の胸が揺れるのか。
けれどそれでいい。気づかれたら終わる気がする。それでも、この距離が永遠でないことくらい、わかっていた。今は気づかれないまま、少しだけこの距離を楽しみたい。
夕暮れの残り香の中で、そっと目を閉じた。今日の記憶を、誰にも触れられない場所に仕舞うように。
――真琴の知らないところで、騎士として抑えてきた想いは、もう恋と呼ぶしかない熱になっていた。
朝の巡回時、真琴の顔を見たときから、胸の奥がざわついていた。
「今日はスパイス市があるって、ご近所さんから教えてもらったんです。これから仕入れに行ってきますね」
笑いながら話してくれた瞬間から、背筋に冷たい予感が這い上がるように、ざわめきが広がっていく。いつもなら「気をつけて行け」で済ませるはずだったのに、今日はどうしても口が動かなかった。
「……私も行く」
やっと絞り出したセリフを聞いた真琴は、何度も目を瞬かせた。
「え? リオン様はお忙しいのでは?」
「君だけじゃ、変な商人に絡まれるかもしれない」
強引な理屈だと自分でもわかっている。本当はただ理由なんていらないほど、隣にいたかっただけ。そんな簡単でだからこそ恐ろしく素直な理由を、自分の口から言えるわけがない。
「そ、そうですか。ありがとうございます」
困ったように微笑む真琴の笑顔が、胸に触れたみたいに温かかった。
王都の大通りは、季節祭りの前で人の波ができていた。色とりどりの屋台の上を、いろんな香りが混ざり合っていく。
(――近い)
真琴がふと横に立つたび、袖が触れそうで勝手に一歩下がる。だが、真琴が露店に引かれてふらりと離れると、今度は無意識に距離を詰めてしまった。
どれだけ気を配っても、視線が真琴を追っている。情けないと思うほど、視線の先にいる真琴が愛おしかった。
「わ、これ美味しそう……リオン様も食べますか?」
串焼きを差し出してくる真琴。火照った頬と、湯気の向こうにのぞく無邪気な笑顔が眩しい。
「じゃあ、少しだけ」
本当は全部食べたい。真琴が買ったものを分け合いたい。そんな欲求が喉にこびりついて離れなかった。
串焼きを分け合いながら歩くと、真琴がスープの屋台に目を留めた。熱いカップを手渡され、指先が触れそうになるだけで、心が溶けるように揺らぐ。
飲み終わったカップを見つめ、捨てるべきだとわかっているのに指が動かない。たかが紙カップ。それでも今日、彼が初めて自分に手渡してくれた温度ごと、捨ててしまうなんてできなかった。
(私は馬鹿だ、本当に――)
香辛料商の店に入ると、強くて甘い香りがあふれていた。主人が差し出した小瓶を、真琴が試しに嗅いでみる。
次の瞬間、真琴がぽつりと言った。
「これ……リオン様に似合いそう」
(――私に似合うとは?)
それだけで鼓動が乱れて、息が一瞬止まる。強すぎる反応だとわかっていたが、どうしても抑えられなかった。
「私?」
「はい。落ち着いた香りですし、なんかリオン様っぽいなって」
なんだそれは。けれど、その“なんか”に全身が熱くなる。
「そうか。じゃあ買う」
「えっ、自分用にですか?」
「……深い意味はない」
目を伏せて小さな声で告げる。実際、深い意味しかない。真琴の言葉を持ち帰りたくてたまらないだけなのに。
夕暮れの城壁沿い、二人の影が長く伸びた。
「リオン様、今日はとっても楽しかったです。一緒に来てくれて、ありがとうございました」
とても穏やかで静かな声が耳に残る。その一言が、胸に刺さって抜けない。
「私も……悪くなかった」
本当はもっと言いたいことがある――楽しかった。もっと歩きたかった。もっと君の笑顔が見たかった。でもそんなものを口にしたら、間違いなく引き返せなくなる。
複雑な感情を無きものにしようと真顔を決め込む私を見て、真琴がくすっと笑う。その笑みが心に触れた瞬間、思わず言っていた。
「前を見ろ。つまずく」
「えっ、そんなに危なっかしいですか?」
違う。ただ、その笑顔を直視すると心が壊れそうなだけだ。
工房に戻ると、真琴が倉庫の整理に向かった。自分は先に厨房に入る。袋の中から小瓶を取り出して、蓋を開けた。真琴が“似合う”と言った香りが、室内に溶けるように広がる。
胸の奥が静かに疼く――ああ、これは、もう。
「……どうしようもないくらい、彼のことが好きなんだな……私は」
誰にも届いてほしくない声で呟く。認めたくなかった現実を、とうとう言葉にしてしまった。
真琴に出会って言葉を交わし、丹精込めて彼が作ったチョコを口にしながら真琴を見たら、嬉しそうに微笑む笑顔に自然と心が惹かれて――異界からやって来た彼の人柄を知れば知るほど、胸の奥が蕩けるように熱くなった。
「これは今日ふたりきりで出かけた、思い出の一品になる」
小瓶の蓋は閉めず、机の端にそっと置く。今日の香りも、今日の笑顔も、全部ここに残しておきたい。
真琴はまだ気づかない。自分がどれほど心を持っていかれたのか。どれほど名前を呼ばれるたびに、私の胸が揺れるのか。
けれどそれでいい。気づかれたら終わる気がする。それでも、この距離が永遠でないことくらい、わかっていた。今は気づかれないまま、少しだけこの距離を楽しみたい。
夕暮れの残り香の中で、そっと目を閉じた。今日の記憶を、誰にも触れられない場所に仕舞うように。
――真琴の知らないところで、騎士として抑えてきた想いは、もう恋と呼ぶしかない熱になっていた。
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